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 大和・尾張間の遠隔地における同笵瓦

アダッチさん
(14.4.18.発行 Vol.186に掲載)


 遠隔地における同笵・同系の軒瓦が出土している例が、日本国内で確認されています。その中でも、藤原宮で出土した一種類の軒丸瓦との同笵品や同系品が、遠隔地の尾張国勝川廃寺(現在の愛知県春日井市に所在していた寺院)でも使用されていました。

 尾張国内で藤原宮の6233Ac型式と同笵の物が勝川廃寺・川井薬師堂廃寺・高蔵寺瓦窯から、同系の物が観音寺廃寺と大山廃寺から出土しています。


藤原宮式軒丸瓦6233Ac(奈文研藤原宮資料室 展示品)

 この型式の瓦は、藤原宮と尾張国の間では出土例が確認されていない瓦となり、大和と尾張の二者間で何らかの関係があって伝わったものと考えることができます。
 

参考マップ

 唯一寺院跡以外で藤原宮式6233Ac型式が出土している高蔵寺瓦窯は、藤原宮に瓦の供給を一番近くで行なっていた日高山瓦窯との類似点が多く、日高山瓦窯で使用された6233Ac型式の笵が高蔵寺瓦窯に持ち込まれて勝川廃寺や川井薬師堂廃寺で使用されたと考えられます。

 勝川廃寺では、金堂や講堂跡などの伽藍遺構は確認されておらず、おおよその推定位置が予測されているのみで、詳しいことはわかっていません。しかし、発掘調査によって「寺」の文字を刻んだ瓦や、白鳳奈良時代と考えられる軒丸瓦が出土したことから、寺院跡であるとされています。勝川廃寺では藤原宮式軒丸瓦の他にも川原寺式の瓦が出土しています。川原寺式の瓦は、天智天皇の後継者争いで起こった「壬申の乱」で天武天皇側に立ち、功績を挙げた豪族に寺を建てることが許され、都から工人を招いて当初の新しいデザインだった複弁蓮華文をモチーフにした軒丸瓦を焼かせたとも考えられています。つまり、勝川廃寺の建立も、壬申の乱で功績があった豪族が、都から工人を招いて行われたものであり、藤原宮式軒瓦を使用したと考えられるのです。

 高蔵寺瓦窯は、高座山と東谷山の間をぬって、西流する庄内川が大きく蛇行し、高座山の南面する裾部から川に向かって大きく張り出した河岸の段丘面の南端近くに所在していました。高蔵寺瓦窯は、大和国で藤原宮の瓦生産を行っていた日高山瓦窯との類似点がみられます。例えば、日高山瓦窯では日本で最初に平窯が採用されたのですが、高蔵寺瓦窯でも平窯の形が採用されていた可能性が高いのです。そして、日高山瓦窯で瓦生産に使用されていた6233A型式の瓦当笵が、高蔵寺瓦窯に持ち込まれ使用されていたと考えられます。その日高山瓦窯から持ち込まれた藤原宮式の瓦当笵が、遠く離れた尾張国の高蔵寺瓦窯に持ち込まれ、実際に瓦の生産が行なわれ、寺院に使用されたことを考えると、藤原宮とこの地との間には何かしらの密接な関係があったと考えられます。

 高蔵寺瓦窯は庄内川の上流に位置し、庄内川の水運の便からみて、高蔵寺瓦窯より下流に位置している勝川廃寺への瓦の供給を主目的に築窯されたと考えられるのです。

 勝川廃寺が位置する春日井(現、春日井市周辺)は、有力豪族であった尾張氏の拠点であったと考えられます。尾張氏は壬申の乱では大海人皇子側につき、功績を挙げたため褒賞を与えられたこともあり、大和政権と深い関わりがあったと考えられます。また、川原寺式や藤原宮式の瓦を採用している勝川廃寺や川井薬師堂廃寺も、尾張氏と深い関わりがあったためにこれらの瓦を使用することができたのだと考えられるのです。
 






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