尼寺・坂田寺を考える
大和の麒麟さん
(12.1.20発行 Vol.125に掲載)
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はじめに
風人さんから何か書くように言われました。飛鳥について、と。ま、それはそうですね。飛鳥の古代寺院の中でも坂田寺について書こうと考えました。1月14日に田辺征夫先生が坂田寺についてご講演され、現地説明を風人さんがされると知り慌て者の私は参加を申し込んでから予定が入っていることに気付き、再度慌ててキャンセル。
わが国に僧寺と尼寺がありますが、古代の尼寺の役割に興味を持っております。外国の修道院のように、修道院という聖地と俗界とを区分けする為の世界、中でも男性と女性という区分けの為の僧寺と尼寺なのでしょうか。日本の場合、その意味合いは若干異なっているように考えます。日本の尼寺には、尼寺に何か担わせた役割が存在しているのではないでしょうか。飛鳥の古代寺院の中で尼寺と判明している寺に豊浦寺、坂田寺、橘寺の3ヶ寺があります。
仏教公伝の証
『日本書紀』(以下『書紀』)では欽明天皇13年とし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下『元興寺縁起』)や『上宮聖徳法王帝説』とでは伝来の年が異なっています。限られた紙面の中でその理由を詳らかにすることは控えますが、今日、西暦538年が定説となっております。年代の違いはありますが、その内容はほぼ同じでありましょう。
百済の聖明王が使者を遣わし金銅釈迦像、経論などを朝廷に献上したと記されています。時に欽明天皇の様子を「歓喜し踊躍(ほとばしる)」と表現しています。しかし、舎利は未だ伝えられておりません。わが国に仏教が仏像、経論を証として最初に伝えられ、本格的な寺造りが行われる時には、まず金堂から造営工事が始まりますのも仏教受容の経緯を示すものでしょうか。
尼寺と国分尼寺
天平13年(741)聖武天皇の勅願によって国毎に国分寺、国分尼寺が建てられます。ただし、国分寺も国分尼寺も造営に関する細かい指示はありませんでした。寺院造営は決して簡単なものではなく、国司などの苦労も大きかったことが造営の遅延で分かります。造営工事が遅れている国司達は天皇から叱責を受けています。
国分寺と国分尼寺の違いは施入される土地などの規模や僧数も異なりますが、発掘調査で国分尼寺には塔が存在していないことが明らかになっています。なぜ国分尼寺には塔を造らなかったのかは不明です。しかし、国分尼寺以外の尼寺には塔があります。古代飛鳥の尼寺である豊浦寺にも橘寺にも塔が存在していたのです。坂田寺の塔の存在は不明ですが、あったであろうことが推測できます。
尼僧・尼寺の役割
わが国に最初に仏像と経論が入ってきたことはすでに記しました。わが国最初の僧は尼僧で、司馬達等の娘善信尼と2人の弟子です。なぜ僧ではなく、尼僧だったのでしょうか。百済で修業を終え帰国した尼僧達は桜井寺に入ります。つまり豊浦寺だと考えられています。豊浦寺は蘇我氏が建立した尼寺ですが、推古天皇が豊浦宮から小懇田宮に遷られた際、宮の後を寺とされたとする説があります。これも『元興寺縁起』と『書紀』では年代のずれがありますが、推古天皇の「尼」としての心供養と考えることができるのではないでしょうか。奈良時代のように戒を受け僧になる段階では未だありません。
『書紀』朱鳥元年(686)、持統天皇は天武天皇の為に無遮大会を開かれます。無遮大会は身分上下の区別なく来集した全ての人に財と法を施す供養です。飛鳥の5ヶ寺で行われますが、豊浦寺、坂田寺といった私寺の立場をとる尼寺も入っています。これは持統天皇の「尼」としての心供養でありましょう。「尼」、「尼寺」とはどういうあり方の寺でありましょうか。心の中、外に現れない供養、しかし大きく全てを支える絶対心、母の愛というべき慈悲心に満ちた供養を本分とするのではないかと考えます。
尼寺・坂田寺
坂田寺の縁起を記す紙面はなくなりました。特筆したいのは他の寺が平城に移って遥か8世紀後半に、坂田寺では大がかりな造営が行われ金堂が建立されました。造営者は奈良時代を代表する坂田寺の信勝尼と考えられています。居所は「信勝尼御所」と呼ばれ、東大寺の脇侍である観世音菩薩を完成させた人物として知られています。
平成2年の調査で谷を埋める大規模な土木工事が行われたことが確認されています。信勝尼が坂田寺の尼僧であったことに大きな意味を感じます。坂田寺には掘立柱柵が検出されています。初期の尼寺は鎮護国家の内面を支える役割を担ったのではないかと考えますが、坂田寺の地理的位置、政治的位置を考えますと坂田寺の建立そのものに何か強い意思を感じます。坂田寺は彼の地に在って、その持つべき意義があったのではないでしょうか。
中世において、尼寺は古代とはまた違った形で発展してまいります。門跡寺院をはじめ尼寺に残された遺物は、尼僧達が命をかけて念じた国家、皇族、貴族、武将達を支えた壮絶なものがあります。古代の尼僧、中世以降の尼僧の根底にあるのは外からは見えない他者を護り通す信念なのかも知れません。
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