両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪





 飛鳥をめぐる山の信仰
-大和の山林寺院を中心に-


橿原考古学研究所 主任研究員 大西貴夫先生
(10.12.24発行 Vol.96に掲載)


 日本の国土の多くは「山」、「山岳」で占められており、平地は少ない。この環境によって、多くの人々が暮らす平地でも、周囲に山々を仰ぎ見ることができる。平地から見る山々は常に崇高な姿をしており、日の出、日の入り、四季の移ろいなど日々の環境の変化も周囲の山を通じて知ることが多かったであろう。そのために山に対する畏敬の念が生まれ、それが信仰に転じるのは必然であったと思われる。

 その一方で人類の最初の頃からそれ自体に分け入り、動物の狩猟や木の実の採集など生活の糧を得る場所としても「山」は利用された。弥生時代の稲作の開始とともに、その水源としても重視されるようになる。古墳時代には、ようやく山に対する信仰を示す具体的な遺跡、遺物が知られるようになる。さらにこのような山を神とする信仰の一方で、仏教伝来以後しばらくして山中に寺院が営まれるようにもなる。

 6世紀末に造営され、日本初の本格的伽藍をもつ寺院である飛鳥寺は飛鳥の盆地の中央に聳え立った。これ以後、寺院は基本的に平地に営まれるが、7世紀後半になると山中に造営される寺院がみられるようになる。近江の崇福寺(滋賀県大津市)は、近江大津宮に関連して7世紀後半段階に明らかに山中に立地し、明確な山寺として最も古くに位置付けられる。仏教本来の意義からは、僧は俗地とは離れた場所で修行することも重要な使命であり、そのような場が当然必要であったであろう。それが、山寺の成立に結びつくと考えられる。

 しかし、まずは山寺とは何かという前提を考えなければならない。それには様々な要素が想定され、当然として立地が山頂や深い山中であることがあげられよう。しかし、これが単純に標高で言えないことも事実である。例えば標高100mを基準にすると奈良盆地の平坦地のほとんどはこれ以下であるが、例外として飛鳥の盆地部や金剛山東麓の緩斜面はそれを越えている。また、俗地との距離を問題とした場合、当時の都城の位置は明らかであるものの、同時代の周辺の官衙、集落は不明である場合が多い。これらとどの程度の距離をもって聖地とするかなど考察すべき資料が全く不足している。さらに、立地等がある程度符合していても、明らかに特定の氏族の私寺と考えられるものは省かざるを得ない。以上のように単純に定義付けられるものではないことから、今回は関連することを含め、可能性が考えられるものを全て何らかの形で取りあげることにしている。そして飛鳥、藤原京や平城京にある平地寺院と山寺の関わりという視点も重視している。また名称に関してであるが、このような山中の寺院はこれまで山岳寺院とか山林寺院、山寺と様々に呼ばれていた。今回扱う寺院は中世以降の本格的な山岳寺院とは性格もやや異なり、文献にも見られる「山寺」が最もイメージにも合うことからこれに統一することとしている。

 今回テーマとする7世紀代に、多くの宮が営まれた飛鳥、藤原京周辺では、その終末段階に明らかな山寺が営まれるようになる。具体的には、東方に位置する岡寺(明日香村)、南方の南法華寺(壺坂寺、高取町)、北東方向の阿部丘陵周辺や長谷寺(桜井市)、宇陀地域の駒帰廃寺(旧菟田野町)、西方の二上山麓の加守廃寺(葛城市)、葛城山、金剛山中の寺院などがあげられる。これらの多くは7世紀の終末から8世紀前半の時期に創建されており、山中の寺院に分布する葡萄唐草文軒平瓦を多くで用いているのも特徴である。このような山寺の特徴について今回は様々な視点から述べてみたいと思う。


飛鳥周辺 山寺分布図














 飛鳥で最も高い建物は?

橿原考古学研究所 主任研究員 大西貴夫先生
(11.5.27.発行 Vol.108に掲載)


 日本の国を象徴するものとして富士山(標高3776m)や東京タワー(333m)を挙げる人は多いでしょう。ともに日本で最も高い山と人工の建造物です。東京タワーは2011年の12月には完成予定の東京スカイツリ-(634m)にその高さは抜かれますが、人々の高いものに対するあこがれを示していると言えましょう。

 そして、古代にもこのような高い塔は存在しました。それは舒明天皇の百済大寺とされる吉備池廃寺や文武朝の大官大寺の九重塔、東大寺の東西の七重塔です。いずれも基礎となる基壇の平面規模はわかるのですが、高さは文献の記録を合わせて考えるしかありません。東大寺の塔に関しては、『東大寺要録』などの記述から約100mとされてきましたが、最近の研究によって70mほどに修正した案も出されています。東大寺西塔の基壇と大官大寺塔の基壇は一辺が約24mとほぼ同じであることから高さも同程度と推測されます。そのため大官大寺の塔の高さは70~100mと考えられるのです。すぐ北側にある香具山の標高が152m、周辺の平地の標高が90m程度ですから、比高差は60mほどです。なんと大官大寺の塔は香具山を超えていたと考えられるのです。このことは、当時の天皇(文武天皇)の権威を示すため、あえて香具山より 高くしたことも想像されましょう。

 一方、舒明天皇の百済大寺と考えられている吉備池廃寺の塔基壇は一辺約32mもあります。平面規模から言うと大官大寺より大きく、高いことが指摘できるのです。このことから吉備池廃寺の塔は、日本の古代の塔の中で最も古く、最も高い可能性が考えられます。どのような姿であったか想像するだけでも楽しめます。同じ頃、新羅の皇龍寺や百済の弥勒寺でも高い塔は造られ、中国にも同様な塔がありました。このような高い塔は現在と同じように国の技術力や権威をみせつける効果があったのでしょう。そのため新羅と争い、中国にあこがれた当時の日本においても高い塔が次々と造られていったのでしょう。





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