両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪





 さらば飛鳥

近江俊秀先生
 
(14.6.13発行 Vol.190に掲載)


 1988年に発掘された長屋王邸跡は、奈良時代の高級貴族の暮らしぶりや当時の社会を知る第一級の成果として、日本考古学史上、燦然と輝いています。大量に出土した木簡からは、長屋王の生活や経済基盤、家政運営のあり方などが判明し、今までは『続日本紀』に、その多くを頼っていた奈良時代前半の研究が飛躍的に進みました。

 しかし、歴史研究の常として新たなことが分かるということは、新たな疑問が生まれるということにもなります。長屋王邸の発掘により、今までの定説を見直し、あるいは検証しなければならなくなった点には、私が考える限り以下のものがあります。

 1)平城遷都直前に従三位に昇進したばかりなのに、なぜ宮前面の一等地に宅地を与えられたのか。
 2)長屋王邸は、『万葉集』から佐保にもあったことが分かっており、一人の人物が複数の宅地をもっていたことになるが、それはなぜか。
 3)長屋王邸は長屋王事件後、皇后宮になることが分かったが、皇后宮は『続日本紀』から旧不比等邸、つまり法華寺にあったことが知られている。皇后宮は二つあったのか。
 4)長屋王邸跡が皇后宮になった後、その北には藤原麻呂が住んでいたことが確認されたが、麻呂の死後、その宅地は梨原宮になったことが分かった。麻呂の家は、なぜ、その子、浜成に相続されなかったのか。
 5)出土木簡から長屋王邸周辺には、山形王、竹野王ら女性王族の邸宅があったらしいが、彼女らは経済的に長屋王に依存していた可能性がある。そうした人物が宮周辺の一等地に住んだ理由はなにか。

 この他にも、細かい話まで含めると、疑問はつきません。今回の話は、平城京の宅地と居住者についての問題から、奈良時代前半の社会について考えていこうというものです。特に、飛鳥、藤原の地から都が平城京に遷ったことにより、どういった社会的変化があり、逆に古い制度や体制がどの程度、奈良時代に受け継がれたのかということを、発掘調査成果と史料から述べてみたいと思います。

 平城京では、位階の高い者から宮に近い一等地を与えられたというのが一般的な理解であり、それは概ね、了解できることです。また、一度与えられた宅地は、基本的には子孫に相続されていたということも、史料から読み取ることができます。しかし、『正倉院文書』によると、宮に近い場所でも位階の低い人物が住んでいる事例が少なからずあり、また、発掘調査でもさほど大規模とは言えない宅地があることも確認されています。

 また、相続の話についても先に紹介した麻呂邸のように、相続されていない事例もいくつか認められるなど、すべての宅地を一律に捉えることはできません。こうしたイレギュラーとも言える事例を細かく調べていった結果、私は平城京の宅地班給は日本の伝統的な氏族社会に一定程度の配慮がなされている可能性があること、そして、宅地の中には個人の財産として与えられたものと、職掌に応じて貸与されたものがある可能性を指摘できるのではないかと考えています。

 詳しい話は、当日までとっておきますが、平城京の宅地を詳しく調べることにより、これまで培われてきた伝統的な社会が、律令制にふさわしい新しい社会へと変化していく様が浮かび上がるのです。

 当日は、平城京の宅地班給に関するこれまでの考え方、奈良時代の相続の話、そして発掘調査や史料によって明らかになった宅地と居住者についてお話するとともに、藤原氏と大伴氏を例に挙げながら、平城京の宅地から当時の社会を読み取っていきたいと思います。

 『万葉集』巻一 七八
 和銅三年庚戌の春二月藤原宮より寧樂宮(ならのみや)に遷りましし時に、御輿(みこし)を長屋の原に停(とど)めてはるかに古郷を望みて作れる歌(一書に云く、太上(おほき)天皇(すめらみこと)の御製(おほみうた)といへり)

  飛鳥の明日香の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ

 この歌は、平城遷都を行った元明天皇によるもので、遷都を決定したその人が、後ろ髪を引かれるような思いで新たな都へと向かったことが分かります。このような断ちがたい気持ちを抑えてまでも行われた平城遷都。それは、思い出深い土地を去るだけではなく、古き時代への決別ということも意味していたのです。





 遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る