両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪




 花粉の舞う季節ということで

さつき先生
(15.5.1.発行 Vol.214に掲載)


●はじめに
 この度はじめて投稿させて頂きました、さつきと申します。私は以前、両槻会の第48回定例会で、一度ミニ講演をさせて頂いています。恥ずかしながら、それまで私には講演の経験がなかったため、当日はがちがちに緊張してしまいました。聴講して下さった方々にもその緊張はしっかりと伝わっていたのではないかと思います。その講演が終わった後、しばらくしてももさんから今回の投稿の機会を頂きました。まさか働き始めてまだ間もない半人前の私がこの場に書かせて頂くことになるとは、露とも思いませんでした。

 さて今回は、飛鳥に直接関わる内容ではありませんが、私が学生時代に研究していました花粉についてお話させて頂きたいと思います。

●花粉分析とは?
 皆さんは、「花粉分析」とは何かご存知でしょうか。時々見聞きすることはあっても、花粉分析がどういうものか、また花粉から何がわかるのか、なかなか知る機会が少なくてとっつきにくい分野だと感じておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 花粉分析とは、地中に含まれている化石となった花粉を調べる分析方法です。過去にどのような植物がその地に生えていたのか、またどのような環境が周囲に広がり、時代とともにどう移り変わっていったのか、あるいは人々の活動が自然にどのような影響を与えていたのか、などについて明らかにすることを目的として用いられます。

 花粉分析は発掘調査と併せて行われることも多く、しばしば発掘調査報告書の中でも花粉分析の結果が報告されています。

 花粉は風に飛ばされ、虫に運ばれ、あるいは川の流れに乗って移動し、湖や海の底に辿り着きます。水を多く含む地中では花粉が良好に残っていることが多く、湖底や湿地といった水域、またかつて水域であった場所は、花粉分析を行うのに適した場所といえます。

 分析の大まかな流れとしては、まずそうした花粉の残りが比較的良いと思われる場所を選び、土ごと花粉を採取します。そして薬品処理やふるい掛けなどによって試料から花粉だけを取り出し、顕微鏡で観察していきま
 す。

 ではここで、化石となった花粉がどのような姿をしているのかについて、少しだけご紹介しましょう。左から順に、クリの花粉、サワグルミの花粉、そして花粉症でお馴染みのスギの花粉です。いずれも光学顕微鏡を使って400倍に拡大したものを撮影しました。


花粉の化石

 比べてみますと、それぞれ大きさも形も異なる様子が見て取れます。こうした花粉の姿を見分けることで、どのような種類の花粉が一試料の中にどのくらい含まれているのかを明らかにしていくのです。

●花粉分析の事例
 花粉分析の有名な例を一つ挙げますと、藤ノ木古墳の石棺の中の土からは、花粉分析によって大量のベニバナの花粉が見つかりました(1993,金原・金原)。ベニバナの花は、しばしば染料として用いられたほか、生薬などの薬用として使用されることもあったそうです。しかし、あまりに多くのベニバナの花粉が集中的に見つかったことなどから、今でいう菊の花をお供えするように、供花としてベニバナの花が納められた可能性が高いとされています。

 この他にも、地中に眠っている花粉からは、過去の植生はもちろん、気候や地理的な環境の移り変わり、そして、土地の開発や栽培、水田耕作などの人の営み・・・過去の様々な情報を得ることができるのです。

●おわりに
 今の季節、花粉症で苦しんでおられる方々にまるで追い打ちをかけるかのような花粉の話をしてしまいましたが、お付き合い下さりありがとうございました。これを機に、花粉からわかる自然と人との関わりに少しでも関心を抱いて頂けましたら幸いです。









 花粉からみえる人の営み

さつき先生
(15.10.2.発行 Vol.225に掲載)


●はじめに
 以前も一度こちらに投稿させて頂きました、さつきと申します。以前は、花粉とは何か?というところから、花粉分析についてお話しさせていただきました。今回は、私が学生時代におこなった花粉分析の紹介を通して、花粉分析でどんなことがあきらかになるのか、その一端をお伝えできればと思います。

●研究の目的
 私が花粉分析をおこなったのは、淀江平野と呼ばれる、鳥取県西部の日本海に面した平野です。淀江平野は、縄文海進期までは海水で満たされていました。つまり、内湾が形成されていたのです。長い年月を経て、内湾の入り口は徐々に砂州に塞がれていき、海水と淡水が入り混じった汽水の潟湖、淀江潟が形成されました。そしてその後、淀江潟は沼地を経て、そして現在のような平野になったのです。

 そんな淀江平野の周囲には、主に縄文時代から古代までの遺跡が集中して存在しています。淀江平野の遺跡から見つかった遺物には、北九州や大陸文化の影響がみられるものが多く存在しており、淀江潟を天然の港として、他地域との交流が活発に行われていたことがうかがえます。

●淀江平野における古環境と人の営みの移り変わり
 さて、その淀江平野において、自然と人の営みはどのように関わり合いながら移り変わっていったのでしょうか。花粉分析からあきらかになった古植生の変遷を中心に、過去の地形や周辺に広がる遺跡も踏まえながらみていきましょう。

 縄文海進期以降、淀江平野にはガマが生える淀江潟が広がり、その縁辺にはヨシが生育していたと考えられます。周辺には、カシを中心とする照葉樹林やナラ、シデの落葉広葉樹林などが広がっていました。
 当時周辺には、平野部の低湿地を中心として縄文時代早期末から前期前葉の遺跡が存在しました。その一つであります渡り上り遺跡からは、漁具を中心とする木製品が多数見つかっており、潟湖で漁を行っていたことがわかります。また、縄文人が食用のためにクリ林を保護したため、この頃からクリ林が広がり始めます。

 その後、潟湖の周辺に生えていたヨシやガマが減る一方で、湿地に生えるエノキやハンノキが増えることから、周辺が沼地になっていったことがうかがえます。淀江潟の砂州がさらに発達していくにともない、潟湖は徐々に淡水の環境へと移り変わったのです。

 弥生時代に入りますと、淀江潟周辺には遺跡が増え、スギやクロマツなど様々な樹種で構成された森林を利用した生活が営まれました。一方で、森林の減少や、イネの急増、そして、カヤツリグサなど水田に生える雑草が増えるといった変化が同時期にみられます。これは、淀江平野東部の縁辺で、森林が伐採されて水田が開発されたためと考えられます。

 奈良時代の白鳳期には、全国各地に多く寺院が建立されるようになりますが、淀江平野周辺でも、国内最古級の仏教壁画がみつかった上淀廃寺をはじめとする寺院が建立されるようになり、それにともなって森林が伐採されます。また、湿地に生えるハンノキを伐採し、水田をさらに広げていきました。

 そして荘園化期以降、陸化した淀江平野とその周辺では、条里制にともなう開発が盛んにおこなわれました。照葉樹林や落葉広葉樹林は伐採され、代わってスギやアカマツなど、継続的に人の手で管理された林が広がり、淀江平野周辺の里山化が進みます。

 このような変遷を経て、淀江平野は豊かな田園風景が広がる現在の姿になったのです。

●最後に
 今回は、花粉分析からわかることの一例をご紹介させていただきました。過去の人々の暮らしぶりやそれを取り巻く自然が、小さな花粉からあきらかになっていく面白さを、何となく感じていただけましたでしょうか。



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