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うちわのはなし

橿原考古学研究所 主任研究員 鈴木裕明先生
(09.10.2.発行 Vol.63に掲載)


  高松塚古墳の壁画から話をはじめたいと思います。壁画には、青龍・白虎・玄武、男子・女子群像、星宿図などが描かれていますが、そのうち男子・女子群像の持ち物として、大型のうちわ、蓋(きぬがさ)、如意(にょい、孫手のようなもの)、杖、払子(ほっす)、袋におさめられた刀などが表現されています。このような道具立ては、『延喜式』大舎人寮の元正の条にみえる元日の朝議において天皇の前に立てられた大型のうちわ、蓋(きぬがさ)、弓、大刀、鉾、杖、如意、払子、挂甲などの「威儀物(いぎもの)」に共通します。古代の天皇クラスが行った儀式に用いられた服飾具と武器・武具が、高松塚古墳壁画に表現されているということができます。ここで注目するのは西壁の女子群像の一番手前にいる女子がもつ長い柄のうちわです。この大型のうちわは、扇部分は円形で、黒い縁取りがあり、そのなかは紫に彩色されています。さらに柄の上端部分で扇が挟まれ、長い柄がついています。この壁画に描かれている人物は、墓主人に対する従者を表現したものとみられます。したがってこの大型のうちわも、描かれた女子自身に使用したものではなく、主人に対してかざしたものでありましょう。

 高松塚古墳にみられるような大型のうちわは、現代にも伝わっております。たとえば伊勢神宮において20年おきにおこなわれる式年遷宮の際、ご神体を新宮に遷し祭る行列に、ご神体を中心としてその前後をほかの威儀具とともに大型のうちわがたてられます。伊勢神宮ではこのような大型のうちわを、扇に使用した材料から羅紫翳(らむらさきのさしば、薄絹で扇を製作)、菅翳(すげのさしば、菅で扇を製作)と呼んでいます。大型のうちわは考古学では、伊勢神宮での呼び方と同じく、翳と表記することが多いです。翳という字は翳(かざ)すとも読めますから、文字通り従者が主人に対してさしかけたものであるといえるでしょう。また羅紫翳は紫色の薄絹を扇としておりますが、高松塚古墳壁画の翳の扇部分の色彩表現はまさに羅紫であったとみられます。古代の翳の実物は正倉院宝物のなかに伝わっておりますし、法隆寺宝物のなかには近世に製作されたものと思われますが、高松塚古墳壁画にそっくりな翳があります。古代以降貴人あるいは僧侶の威儀具として翳が伝えられてきたことがうかがえます。

 一方で高松塚古墳壁画を遡る飛鳥時代以前の翳は存在しているのでしょうか。考古学者の共通理解となっているとは言い難いのですが、私は存在していると考えています。私事ですが、1993年奈良県に奉職した1年目に天理市乙木・佐保庄遺跡という古墳時代前期の集落遺跡を発掘しました。そのなかで大きな溝を掘っていると大量の土師器とともに沢山の木製品が出土しました。調査の最終段階になって、その溝に設けた土層観察用の畦をはずしていたところ、一木から長い柄とその上端に角状に二股に分かれた突起とさらにその上部に二枚板を作り出した非常に精巧なヒノキ製の木製品が出土しました。出土した段階では、これが一体何なのかわかりませんでしたが、その精巧さゆえにほかの出土遺物よりも非常に丁寧に扱ったことを覚えています。その後研究所内で、何人かの方と検討し、共通の意見として高松塚古墳壁画の翳との関連性が指摘されました。もし実物の翳だとするとこの木製品は、発掘資料としてはほとんど例がなくかつ現状では最古のものとなり、その位置付けが非常に重要になります。ここからこの木製品が翳か否か、現在まで続く試行錯誤がはじまりました。まず考古学の常道として、同じような木製品の類例を集めることから開始したのですが、結論から言うと同じ形態の木製品は今でもみつかっておりません。ただ、柄は短いのですが同じ構造をもつ団扇(うちわ)形木製品が、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて存在することがわかりました。さらに1999年にはそのほぼ完全なものが桜井市勝山古墳の周濠から出土しました。その比較からどうも乙木・佐保庄遺跡の翳形木製品はこのような団扇形木製品の柄を長くしたものではないかと考えるようになりました。

 その後、詳細は省きますが、中国・朝鮮半島の資料との比較などから、団扇形木製品は中国後漢の終わりごろ(2世紀以降)から、さかんに古墳壁画に表現される扇部となる獣毛を柄に挟んだ団扇である麈尾(しゅび、元々は大鹿の尾を扇としたもの)であろうと考え、そして同じく獣毛を挟んだ長い柄の翳も古墳壁画、石窟などに確認でき、乙木・佐保庄遺跡の翳形木製品も獣毛のような遺存しにくいものを扇として長い柄にはさんだまさに翳であったのだろうと考えました。乙木・佐保庄遺跡例とは形が異なりますが、翳の実物の資料は5世紀代の古墳時代中期にも存在していることも確認でき、少しずつですがその変遷がたどれるようになっています。また最近の研究で、古墳時代前期の巨大前方後円墳である桜井茶臼山古墳から出土している玉杖(ぎょくじょう)とよばれる石製品が、乙木・佐保庄遺跡の翳をモデルに製作されたものである可能性が高いことが判明しました。巨大古墳に葬られる王の持ち物のモデルとなった木製品であるとするならば、おのずと翳はその出現段階から高松塚古墳壁画にみられるように高位の人物に用いられていた器物であったと考えることができます。

 このような種類の木製品研究はまだ端緒についたばかりではありますが、翳については中国・朝鮮半島の影響を受けながら、巨大古墳を営むような王の誕生のころに出現し、形態や扇の材質(獣毛から絹へ)が変化しつつも、点々とではありますが飛鳥時代終末期古墳の高松塚古墳までつながっていることが、上記の事例から読み取れるのではないかと考えています。





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