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 甘樫丘東麓遺跡の調査

奈良文化財研究所 都城発掘調査部 研究員 豊島直博先生
(08.4.14発行 Vol.17に掲載)



 奈良県明日香村にある甘樫丘は飛鳥地域や藤原京を一望できる丘陵です。現在は国営飛鳥歴史公園として整備され、多くの観光客が訪れる観光名所となっています。

 2005年に丘陵東側の谷を整備する計画が持ち上がりました。事前に発掘調査を実施し、7世紀の掘立柱建物跡を6棟見つけました。『日本書紀』には蘇我蝦夷・入鹿が甘樫丘に邸宅を構えたと記されており、建物群との関係が注目を集めました。

 2006年からは本格的な発掘調査が始まり、谷を埋め立てる大規模な盛り土、多くの掘立柱建物跡、石垣などが確認されました。しかし、谷は全体で6,000㎡と広く、蘇我氏との関連の有無を確かめるためにも、さらなる発掘調査が必要です。今回の調査は2006年の調査区と隣接し、約950㎡の範囲を調査しました。2007年11月から調査を開始し、4月中旬まで調査が続きます。

 今回の調査では、遺跡の中心となる大型建物は見つかりませんでしたが、建物群の変遷を解明するという堅実な成果を得られました。2005年の調査では掘立柱建物を6棟見つけたものの、それらの年代は「7世紀」までしかわかりませんでした。新聞には「蘇我入鹿邸跡か?」と確定的に書かれ、大いに戸惑ったものです。今回は調査区内にある8棟のうち、3棟が7世紀中頃に壊されていることが判明しました。蘇我氏の邸宅は645年の大化の改新の時に壊されたと考えられるので、これらの3棟が蘇我氏邸宅の候補です。

 年代の手がかりは、調査区の隅で見つけた長さ4mほどのゴミ捨て穴です。穴は建物の柱穴を壊して掘られています。穴からは7世紀中頃の土器が多量に出土しており、その頃に建物が壊されていることが確実です。発掘調査で建物の壊された年代を明らかにすることは至難の業ですから、きわめて幸運なケースといえるでしょう。年代を押さえたことによって、建物と蘇我氏との関連性を具体的に推測することが可能になりました。

 しかし、課題も山積みです。まず、蘇我氏の邸宅にふさわしい大型建物が見つかっていません。7世紀中頃に廃絶する建物は8×5mほどの倉庫が2棟、その管理施設らしき建物が1棟です。蘇我氏の邸宅ならば、屋根の両側に庇が付くような大規模建物があるはずです。それは2006年の調査で見つかった石垣の内側にあるのかもしれませんが、まだ発掘が及んでいません。また、7世紀中頃に建物群が廃絶した後、再び地ならしをして建物群が建てられます。誰が何のために建てたのか、新たな疑問が生じました。

 3月29日に実施した現地見学会には2,100名もの見学者が来られました。「これからの調査にも期待しています。」「この遺跡は飛鳥でも特にロマンがあって、今後が楽しみです。」などの励ましをいただきました。甘樫丘東麓遺跡はほんとうに蘇我氏の邸宅なのか…。秋から冬にかけて、さらに調査を進める予定です。ご期待ください。





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