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両槻会4周年・飛鳥遊訪マガジン100号記念特別寄稿


7世紀木簡雑感

奈文研都城発掘調査部 主任研究員 山本崇先生
(11.2.4発行 Vol.100に掲載)


 昨年2010年の秋、飛鳥に「いにしえの文字たち」173点が集いました。平城遷都の710年以前の木簡(あまり正確な語ではありませんが、以下、7世紀木簡と呼びます)が、これだけの規模で一堂に会することは、空前絶後のことで、1300年以上の時を超えて守られてきた実物のパワーに、身震いを感じました。多くの方々から、実物の重みへの感嘆、ほとんど読めない木簡が赤外線機器で映し出されることへの驚きなどをうかがったことも印象に残りました。以下、全国の7世紀木簡に触れ、感じたことを、紹介させていただきたいと思います。

 木簡は、地中から出土した文字の書かれた木製品の総称です。墨や朱で書かれたもの、文字が刻まれたもの(刻書という)があり、材質は日本の場合ほとんどが木ですが、わずかながら竹製のものも報告されています。時代は7世紀半ばから近代まで様々です。現在、全国で38万点以上、そのうち7世紀木簡は4万点ほどだと思われますが、飛鳥地域以外から出土した7世紀木簡は数百点に満たないでしょう。

 7世紀木簡の研究は、荷札を中心に進められてきました。研究史上もっとも著名なのが、大化改新詔にみえる郡字の信憑性をめぐり提起されていた、いわゆる郡評論争に終止符をうった己亥年(文武天皇3年、699)の上総国の荷札です。その後出土する木簡に例外はなく、郡の用字が大宝令によるものであることは確定しました。また、サトの表記も、おおよそ天武天皇10年(681)以前には「五十戸」、天武天皇12年頃に「里」表記がみえはじめるものの「五十戸」と併存し、持統天皇2年(688)以降「里」に統一されると整理されています。荷札は、律令地方行政制度や律令公民制の成立過程を考えるこの上ない資料として、まさに7世紀木簡研究の花形であったといえます。そのことが関係してでしょうか、荷札の特徴から7世紀木簡は奈良時代の木簡に比べて小ぶりであるとか、日本の木簡は荷札からはじまるという意見も出されていました。

 ところが、今年飛鳥に集った木簡をみてみると、こうした「常識」はもろくも潰えました。展示ケースに納まるだろうかと心配した、長さ1mを超える木簡もありましたし、長さ50~60cmを超える立派な大形木簡も何点もありました。滋賀県の湯ノ部遺跡から出土した「丙子年」(天武天皇5年、676)の牒の木簡は、表裏両面と側面に文字が記されており、実物の表面とレプリカの裏面をならべてみると、紙の文書を写した文例という説がすんなりと理解できました。こうした事例をみるまでもなく、7世紀木簡は、初発の段階から内容も豊かで、大きさ、形もさまざまといわざるを得ません。この時代には、用途や機能に応じて、より木を自由に利用していたのではないか、と想像します。

 もう1つ気づいた点は、文字を刻んだ木簡(刻書木簡)が目立つことです。今回展示した木簡では、奈良県の石神遺跡から出土した万葉集と同じ歌の句を記した木簡や、滋賀県の十里遺跡から出土した稲の出挙にかかわると思われる木簡がその例です。奈良文化財研究所が公開している木簡データベースによると、88点の刻書木簡が知られます。その年代は7世紀から近世までにわたりますが、概して古い木簡に多いように思います。なぜ文字を刻むのか、この問題は一筋縄では解けないのですが、その答えの1つとして、筆や墨の普及という問題があるように思われます。7世紀には、もちろん墨や筆、そして紙も使われている訳ですが、その供給の状況が、刻書木簡が多いという事実に影響しているのではないでしょうか。

 飛鳥に集った木簡たちは、昨年末に無事各地へと返却されていきました。その後、今年に入ってからも、少しずつですが全国の7世紀木簡を調査し続けています。この15年ほどの大量出土や、最新の赤外線機器による新たな発見により、7世紀木簡は、格段に情報が集積されてきました。近い将来、各地の木簡の地域的特徴を比較しながら、7世紀木簡の特徴を論じられる段階にいたると、予想します。多様な7世紀木簡のなかからその主役となるのは、文書木簡であろうと私は考えています。





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