両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥を氷月の目で見れば


氷月



飛鳥素人の理系人間・氷月が、あえて飛鳥を見てみたらこうなりました。
ちょっと違う視点から発信する、飛鳥よもやま話です。


飛鳥と日食 1
飛鳥と日食 2




【1】 「飛鳥の日食 1」 (09.7.4.発行 Vol.56に掲載)

 皆さん初めまして。両槻会スタッフの氷月(ひづき)と申します。中学時代に大津皇子に関する小説を読んで以来飛鳥が好きで、時折飛鳥を訪れては遊んだり、(少しだけ)学んだりしています。ただそれだけの、他のスタッフに比べて明らかに『飛鳥素人』な私ですが、今回初めてメールマガジンの記事を書くことになりました。真面目な記事では先輩方に負けてしまいますので、少し毛色の変わったお話を2号連続でさせて頂こうと思います。
 それはずばり、日食の話! ――というのは、来たる7月22日に、日本で皆既日食が起きるから、です。このタイムリーな天文ショーにかこつけて飛鳥の日食について語ろうというのが、今回の記事の趣旨です。

 <2009年7月22日に起きる日食>

 7月22日の皆既日食。皆さんの中にはご存じの方もいらっしゃると思います。最近ではニュースでも取り上げられるようになりました。日食とは、太陽の全部や一部が月によって隠される現象で、その特異性から、古代より注目されてきた天文現象です。
 今回は『皆既日食』――つまり、太陽が月によって完全に隠されるタイプの日食です。ただし、完全に太陽が隠されるのは日本でもごく一部、トカラ列島や硫黄島など日本の南の島々だけ。本州では、太陽が一部だけ隠される、部分日食となります。

 この日、明日香村では9時47分から太陽が欠け始め、11時6分頃に食の最大を迎えます。日食の終わりは12時26分。最大食分0.825といいますから、最大で太陽の8割程度が月によって隠されます。ちなみに、飛鳥以外の地域では、福岡で食の最大10時56分(最大食分0.898)、東京で食の最大11時13分(最大食分0.749)と、東に行くほど太陽の欠ける割合が少なくなっています。
 この日食は梅雨明け前後の天候が安定しない時期に起きますので、観測できるほど晴れるかどうか分からないところです…。が、晴れたら是非観察してみたいものです。辺りが暗くなったり、動植物に変化があったりするそうですよ。

 ちなみに、次に日本で日食を見ることができるのは、2012年5月。3年近くも待たねばなりません。

 <日本最古の日食記事、その内容>

 日本で最古の日食記事は、『日本書紀』の推古天皇36年3月2日(西暦628年4月10日)の記事とされています。古事記や日本書紀に出てくる、天照大御神の天の岩屋神話が日食を示していのではないか、という説もありますが、古天文学(天文年代学)の計算できちんと確認されているのは、この『日本書紀』の推古天皇36年3月の記事です。

 記事の内容は『三月丁未朔戊申 日有蝕盡之』(3月2日、日食で太陽が全く見えなくなった)という一文のみ。かなり簡潔です。
 この時の日食について、古天文学の分野で諸先生方が多くの論文を出されていますが、いずれもこの日に実際日食が起きたことが検証されています。斉藤国治先生の著書(『飛鳥時代の天文学』)によれば、当日の飛鳥地方の日食の様子は次の通り――

 日食の初め:8時18分
 食の最大:9時26分(最大食分0.92)
 日食の終わり:10時38分

 2009年7月22日の日食より太陽が大きく欠けたようですね。太陽が全く見えない、は誇張表現でしょうが、二日月くらいに見えたのではないか、ということです。

 さて、この推古天皇36年3月の日食ですが、その前後の事件がとても印象深いのです。日本書紀では、以下のように記事が書かれています。

 2月27日、推古天皇が病臥された。
 3月2日、日食。
 3月6日、推古天皇の病が重くなり、なす術も無かった。田村皇子と山背大
 兄をお召しになり、教え諭された。
 3月7日、推古天皇崩御。享年75歳。
 4月10日、雹が降った。
 4月11日、再び雹が降った。
 春から夏に至るまで日照りが続いた。

 日食の5日後に亡くなる推古天皇。その後にも続く天変。まるで日食が暗い影を落としているかのような気がしてなりません。推古天皇は、臣下は、日食を見て何を考えたのでしょうか。少しの記事しか残っていない今となっては、本当の事は分かりませんけど…。

 次号では、彼女らの心境を推測すべく、日食に対する当時の飛鳥人の考え方を探ってみます。また、当時の天文学の事情についてもお話しできれば、と思います。



【2】 「飛鳥の日食 2」  (09.7.17.発行 Vol.57に掲載)

 前回は、2009年7月22日の皆既日食の紹介と、日本最古の日食記事、推古天皇36年3月2日(西暦628年4月10日)の紹介をしました。今回は、飛鳥時代の天文学について紹介したいと思います。

 <飛鳥時代の天文学の流れ>

 すべての天文記事の中で日本最古のものは垂仁天皇12年8月の流星の記録ですが、天文学の知識に基づく記事が書かれるようになったのは飛鳥時代以降です。以下に、日本天文史上で重要な出来事を並べてみます。

 欽明天皇14年(西暦553年):朝廷が百済に対して卜書(うらのふみ)、暦本(こよみのためし)を送るよう要請。これをうけて暦博士、易博士、医博士が来日。
 推古天皇10年(西暦602年):百済僧の観勒が来日。暦本、天文地理書、遁甲方術の書が献上され、学生がそれらを学び始めた。
 舒明天皇4年(西暦632年):留学していた僧旻が唐より帰る。以降、彼が天文に関する助言を行った様子が日本書紀中に見られるようになる。
 天武天皇4年(西暦676年):占星台を興す。天文観測や暦作成を専門とする組織『陰陽寮』の名が、日本書紀中に見られるようになる。

 日本の天文史はまず、天文学と関わりの深い、占いと暦学に関する知識の輸入から始まります。その後、推古天皇の時代に天文地理書が入り、それを学ぶ者や、唐の天文知識を持ち帰って助言する留学僧が現れ、日本書紀中の天文記事の量が増えていきます。そして天武天皇の時代になると、天文の専門家が国で定められ、天文観測が定期的に行われるようになるのです。
 こうやって日本天文学の黎明を見てみると、他の知識や技術と同様、天文学も百済経由で中国の知識を輸入したのが始まりであることが分かります。

 <飛鳥時代の天文学の位置付け>

 飛鳥時代に始まりを持つ日本の天文学ですが、当時の天文学の位置付けはどんなものだったのでしょうか。それは天武天皇の時代に明確になります。彼は国家事業として観測を行う占星台を作り、天文異変を報告させていました。これは、当時の中国の天文に対するスタンスを引き継いだものです。

 当時の中国の天文に関する考え方はこうです――天子や国家の運命には天の意思が関わっており、その意思は天文現象にあらわれる。もし天子の死、反逆、兵乱などの政治的な異変があれば、その前触れとして天文異変が起こる。――天武天皇はこの考えに基づいて天文を公の事業として整備し、個人の為ではなく、国家の命運を占う目的で天文観測を行ったのです。もともと彼は天文に興味を持っており、天文異変を元に自ら国の行く末を占った事もあるそうですから、いち早く天文の重要性に気付き、整備したのかもしれません。

 <当時の日食に対する考え方>

 次に、日食が、飛鳥時代の人々にとってどのような意味を持っていたか、それを探ってみます。直接的に知ることのできる史料は残されていませんが、推測する手がかりが残されています。

 中国で西暦648年に編纂された『晋書』の天文志は、当時の中国や日本の天文知識の拠り所とされていたものであり、陰陽寮の学生が学ばなければならない天文書でした。その中には『日食時に国家行事が行われば君主に咎めがある』と書かれてあるそうです。
 また、時代は少々下りますが、天平宝字元年(西暦757年)に施行された養老律令では次のように定められています――『日食については、陰陽寮が予測して前もって報告すること。日食当日は、天皇は政務を行わない。臣下はそれぞれの本司を守ること。事務を行わずに時を過ごし、日食が終わったら退出すること』。

 すなわち、日食は国の一大事。息を殺して日食をやり過ごさなければ君主に災いがふりかかる、というわけです。

 <記録の中の日食記事の多さとその原因>

 数ある天文現象の中でも、日食は重大な現象だったのでしょう。飛鳥時代の天文記事の半分以上が日食記事になっています。しかし、その記事のうちの大半で、実際に日食が起こっていないのです。これは一体どういうことでしょう?

 古天文学の研究によると、持統天皇4年(西暦690年)以降に日食予報が始まったとされています。規則通りに当日政務を行わない為には、あらかじめ日食の日を知っておく必要があり、その為に陰陽寮が計算し、予報を行ったのです。ただし、その予報の仕方は少々大雑把でした。当時の方針として、多少外れてもいいから…ということで、日食の可能性のある日を多めに予測しています。そうすることで、予想外の日に日食が起こる可能性を減らせるわけです。
 そして、記録の中に出てくる日食の多くが実際に起こっていない理由――実は、記事に出てくる持統天皇4年(西暦690年)以降の飛鳥時代の日食記事は、すべて出された予報をそのまま書いただけなのです。

 そんな適当な記事でも、細かく見てみると面白いことが分かります。持統天皇4年(西暦690年)から和銅3年(西暦710年)までに20回もの日食予報が出されていますが、そのうち飛鳥で実際日食が起こったのはたったの4回。しかし、広い目で見て、地球上のどこでもいいから実際に日食が起こった回数にすると19回(飛鳥での日食も含む)。的中率がぐんと上がるのです。
 どうやらこの時代、日食が起きる日にち自体はおおよそ予測できていたらしいです。ただ、日食が起こる場所まではうまく特定できず、結果、飛鳥の地で予測通りに日食が起きる日が少なかったのです。
 天文学の先生方は、この飛鳥時代の日食予測的中率を散々だったと書いています。が、日食が起きる日自体は精度よく計算できていたわけで、素人の私から見れば、それだけで当時の天文学の知識の高さをそれなりに感じるのですが…はてさて、どうでしょうか。

 <推古天皇36年の日食>

 話はこの辺りにして、最後に、推古天皇36年の日食に戻ってみましょう。当時の天文学の実情を知った上で想像すると、また違った想像ができそうな気がしませんか?

 推古天皇の死の床に突然現れた日食。5日後に亡くなる天皇。その後にも続く天変。
 あるいは、飛鳥時代の天文学に思いを馳せてみるのはどうでしょう? 

 そうして眺める7月22日の日食は、一味違った思い出になるかもしれません。





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