両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第19回定例会資料集


竜在峠から入谷へ


―大丹穂山の桙削寺を訪ねる―


ルートマップ タイムテーブル 雨天用タイムテーブル 冬野 冬野城 良助法親王冬野墓
竜在峠 桙削寺 女淵 加夜奈留美命神社 女綱 レポート

この色の文字はリンクしています。
2010年 3月 13日  

 第19回定例会ルートマップ



山道の部分に関しては、正確ではありません。概要図ですのでご注意ください。



 タイムテーブル

第19回定例会ウォーキングタイムテーブル

10時45分 桜井駅バス停出発   (バス料金480円、小銭等をご用意ください)
11時09分 談山神社バス停着   (トイレ・出発式)
11時25分 ウォーキング開始
12時00分 冬野集落到着
昼食休憩  25分
12時25分 冬野出発
13時05分 細峠分岐
13時15分 竜在峠
13時50分 入谷道広場
14時20分 入谷大仁保神社到着
休憩     15分
14時35分 大仁保神社出発
15時05分 女淵到着
15時35分 加夜奈留美命神社到着
トイレ休憩  10分           
15時45分 加夜奈留美命神社出発
16時45分 石舞台公園到着     (アンケート記入・解散式)

アンダーラインの時間を厳守します。

帰りのバス
石舞台バス停 16時56分発 橿原神宮駅行
石舞台バス停 17時07分発 飛鳥駅行
石舞台バス停 16時48分発 桜井駅行




 雨天用タイムテーブル

前日降雨・当日小雨の場合のタイムスケジュール

10時30分 桜井駅南口集合   
10時37分 JR桜井駅発 → 三輪駅 (140円・会費に含 む)
10時40分 三輪駅 → 三輪恵比寿神社 → 三輪の茶屋跡 → 綱越神社 → 
        桜井市埋蔵文化財センター
11時00分 埋蔵文化財センター見学 (入館料金200円:会費に含む)
11時45分 埋蔵文化財センター → 大神神社 → 無料休憩所(昼食・弁当持参)
12時40分 昼食後出発 → 狭井神社 → 大美和の杜(柿山展望台) → 久延彦神社
        → 若宮社 → 平等寺 → 崇神天皇磯城瑞籬宮伝承地 →  金屋石仏
        → 海石榴市観音 → 仏教伝来地碑 → 馬井出橋 → 桜井駅 
15時00分 桜井駅1次解散
        希望者は、橿原考古学研究所付属博物館へ移動。
        橿考研博物館入館料金各自負担・400円

15時09分 桜井駅 → 畝傍御陵前  15時24分着 
15時40分 橿考研付属博物館特別陳列
        「平城京発掘 −ここまでわかった奈良の都−」見学。
        橿考研付属博物館主任学芸員:大西貴夫先生・山田隆文先生によるギャラリ
        ートーク。

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当日の降雨が激しい場合

10時30分 桜井駅南口集合   
10時37分 近鉄桜井駅発 → 畝傍御陵前駅 (250円・会費に含む)
10時48分 畝傍御陵前駅着 → 11時00分 橿考研付属博物館着 
        入館料金各自負担(400円)
12時30分 橿考研博物館 → 昼食 (近隣のファミレスなど)
13時37分 橿原神宮前発 奈良交通バス乗車 
14時01分 岡天理教会前下車 (310円・各自負担)
14時15分 懇親会・晴天時予定のチェックポイントの説明など
16時01分 岡天理教会前バス停乗車
16時23分 橿原神宮駅下車




 冬野

 いわゆる冬野越として、明治末期までは大和盆地東南部から吉野へのルートとして知られていたようです。大峰山に向かう参詣人や修験者の往還が絶えず、4軒の旅籠と伊勢屋という屋号の茶屋があったそうですが、現在は定住されている方はいらっしゃらないと聞きました。寂しくなりました。

 江戸時代の明和9(1772)年、本居宣長は吉野・飛鳥を旅しており、その見聞を「菅笠日記」に記録しています。宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下ります。
 『吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの國中見えわたる所也。』 
 (たむけ=神仏、あるいは死者の前に物を供えること。また、その物。特に、道祖神の場合についていうことが多い。また、手向けの神のあるところ。特に、山道の登りつめた所である峠をいう。)

 定例会と同じルートを、多武峰西門から冬野にやって来ます。なお、現在は植林された樹木のために、ほとんど遠望は利きません。
 冬野集落の一番高い所に、波多神社という延喜式内社が鎮座しています。祭神は事代主命、あるいは波多祝の祖「神皇産霊神」、または波多臣の祖「八多八代宿禰」との伝えもあるようですが、詳細は分かりません。西方の畑集落の名からも、波多・秦氏との関連に興味深いものがあります。高取町にも波多庄があり、現在も大字羽内に波多ミカ井神社があります。
冬野には、この他に第90代亀山天皇(1259年即位)の皇子である良助法親王の冬野墓や法親王に所縁ある多武峰寺別院冬野寺、また冬野城があったことが記録されています。



 冬野城

 冬野城は、波多神社の境内地を副郭とする造りの城砦で、多武峰の南を守り、吉野への連絡を確保する目的で建造された城砦だと思われます。多武峰は、増賀上人や良助法親王(共に天台宗の僧侶)との関係から比叡山延暦寺との関連が深く、大和に大きな勢力を持つ興福寺の支配下に入らなかったため、平安時代末から度々興福寺の討伐や焼討にあっています。冬野城がいつ建設されたのかは分かりませんが、このような戦乱の中で造られて行ったのでしょう。確実な記録としては、吉野金峰山と多武峰との争いがあり、金峰山の衆徒が橘寺方面から多武峰に侵入して多武峰の堂宇や僧房を焼き払い、冬野城も陥落したと記しています。(「猪隈関白記」承元2(1208)年。)その後の永正3(1506)年にも、大和に侵入した勢力(赤沢朝経)に抵抗する越智氏などの大和の地勢力が多武峰に拠り、冬野城を再築したものと思われます。今に残る冬野城の痕跡は、この時のものだと考えられるようです。



 良助法親王冬野墓

 鎌倉時代の第90代亀山天皇の第七皇子(続明日香村史による・第八皇子または第四皇子とする説も多い)である良助法親王(1268〜1318)の冬野墓があります。     
 良助法親王は、幼少から仏門に入り京都青蓮院尊助法親王の弟子となった後、天台宗延暦寺第百世の座主になった方です。後に多武峰清浄院に住まわれ、文保2年 (1318)親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられています。
 墓域には、五輪塔が残されており、様式から親王没後の南北朝末期に作られたものだとされています。

  参考 
 「増賀上人」
 増賀上人(917〜1003)は、比叡山の高僧良源の弟子で、法華経に通じていたそうです。奇行も多く 『本朝法華験記』、『今昔物語集』、『撰集抄』、『発心集』など、多くの説話集に語られているようですが、世俗的な生き方を捨てて、多武峰に隠棲したと伝えられます。 
 増賀上人の紫蓋寺(シガイジ)は、御破裂山の8〜9合目南西斜面(明日香村方向) にあったとされ、多武峰寺(妙楽寺)の奥の院とも言われていました。念誦掘(ネヅキ)は、増賀上人が入滅されたところと言われ、石を積み上げた円墳状のお墓になっています。



 竜在峠

 『なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのの山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつかづみつけたる。いとうれし。』
「菅笠日記」の冬野から竜在峠下の雲井茶屋付近までの描写です。現在、竜在峠も深い森の中で、眺望はありません。 

 「菅笠日記」
 菅笠日記は、本居宣長が43歳の時に、大和を旅した記録です。明和9 (1772) 年3月5日松阪(三重県松阪市)を出立し、3月14日に帰着する10日間の旅を綴っています。その3日目(3月7日)に、多武峰から竜在峠を越えています。この日の行程は萩原の宿(宇陀市榛原区付近)出発→西峠→角柄→吉隠→化粧坂→喜天神→長谷寺→ 出雲→黒崎→脇本→慈恩寺→忍坂→倉橋→崇峻天皇陵→多武峰→竜在峠→滝畑→千股宿となっています。西峠・竜在峠を越える約27kmの行程ですので、現在人からみるとかなりの健脚に思えます。


 松尾芭蕉も「笈の小文」の旅の中で、多武峰から細峠をへて竜門滝へと向かいますが、芭蕉が通った細峠は、この竜在峠の東約700mに位置します。
 「雲雀より空にやすらふ峠かな」

 竜在峠に関しては、このように本居宣長などが引き合いに出されることが多いのですが、源義経が通ったかも知れないと書いた物を見たことがありません。ですので、書いてみようかと思います。(^^ゞ

 吾妻鏡に、以下の記述があります。
 文治元 (1185)年、源義経、兄頼朝に追われて多武峰に逃れる。
 「予州、吉野山の深雪を凌ぎ、潜かに多武峰に向かふ」(11月22日条)
 吉野山を後にした義経が、次に向かったのは多武峰でした。十字坊という名の僧を頼ったのですが、「この寺は広くもなく、僧侶の数も少ないので隠れ場所としては適当ではない」と、十字坊は、数日の内に、義経に十津川へ隠れることを勧めます。
 さて、吉野山から多武峰に至るには、竜在峠を越えるのが便利です。細峠・鹿路・多武峰も考えられますが、竜在峠を越えたと考えるのも面白いかもしれませんね。吉野山から喜佐谷を下り、吉野川を渡って滝畑から竜在峠を冬野・多武峰と越えてみてはどうでしょうか。兄の軍勢に追われ、愛妾静と別れた傷心の義経を思い描いてみるのも興味深いものがあります。




 大丹穂山の桙削寺

 「大丹穂山の桙削寺」と聞いて、直ぐにピンと来る方は相当な歴史マニアですが、桙削寺というのは、現存していません。どこに在ったのかも分かっていません。そのようなお寺なのですが、創建者の名前を聞くと興味が湧いてこられる方もいらっしゃるかも知れませんね。創健者は、蘇我蝦夷です。

 日本書紀の長い引用になるのですが、興味深い記述ですので、読んでみてください。

 皇極3(644)年冬11月、『蘇我蝦夷と入鹿は、家を甘檮岡(甘樫丘)に並べて建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼んだ。また、その男女を王子(みこ)とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。・・・・・・』 

 『冬十一月 蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣 雙起家於甘檮岡 呼大臣家曰上宮門 入鹿家曰谷宮門【谷 此云波佐麻】 呼男女曰王子 家外作城柵 門傍作兵庫 毎門置盛水舟一 木鉤數十 以備火災 恒使力人持兵守家 大臣使長直於大丹穗山 造桙削寺 更起家於畝傍山東 穿池爲城 起庫儲箭 恒將五十兵士 繞身出入』

 前半は、飛鳥でも注目される遺跡の一つ、甘樫丘東麓遺跡関連のニュースや文章によく引用されている一節です。それに畝傍の家の建設や武装化の記事があり、それらに挟まれるように、件の「桙削寺」が登場します。
 何やらきな臭い雰囲気の中に、突如としてお寺の名前が出てくることに、とても不思議な気がしています。ただ、事象を順番に書いた偶然なのかも知れませんが、このお寺が、蘇我氏の武装化と関連しているような印象を受けます。皆さんはどのように思われるでしょうか。桙削寺は、この記事の中にだけ登場します。
桙削寺の所在地を考える時、ヒントとなるのは、まず「大丹穂山」という山の名前です。それを探さないといけないでしょう。しかしながら、現在、大丹穂山と呼ばれる山は、飛鳥近郊にはありません。そこで気になるのが、同じ読み名の「大仁保神社」です。実は、大仁保神社と呼ばれる神社は、飛鳥近郊に二つあります。どちらも似たような地名に所在しており、どちらがどちらとも言えない存在となっています。

 一つは、今回訪れます明日香村入谷の大仁保神社です。祭神は、仁徳天皇とされています。古くから大丹穂山の候補地とされているようで、堂屋敷と呼ばれる所には礎石が残るとも伝えられますが、確実な話ではありません。古瓦の存在などもどうなのでしょうか。ここに桙削寺が存在していたとするなら、そこにはどのような意味合いがあったのでしょう。万が一の時に逃げ込む場所と考えれば良いのでしょうか、飛鳥の後背を守る拠点なのでしょうか。都から離れた高所に、わざわざ寺院を建設した意味を説明するのは、難しいように思います。明日香村入谷説は、現状では推測の域を出るものではなさそうです。

 もう一つは、高取町丹生谷にある大仁保神社です。こちらの祭神は、罔象女神(ミズハノメノカミ)という水神がお祭りされているようです。曽我川の右岸に位置し、巨勢谷の北の入口とも言える場所にあります。詳しくは分かりませんが、近辺の小字には、「桙の木」・「大入」などという地名も存在しているとのことです。地理的には、飛鳥の南の入口を押さえる位置とも言えますので、蘇我氏が飛鳥の守りを固める拠点として寺院を造ったとすれば、明日香村入谷よりも肯ける場所であるのかも知れませんね。ただ、少し離れすぎているようにも思いますし、この辺りだと巨勢氏の領域になるのではないかとも思います。

 現存する大仁保神社以外の視点から、もう一つ候補地があります。詳細は分からないのですが、高取町子島寺の創建時代の位置に所在すると言われる観音院(高取町上子島)が、日本霊異記に書かれる「法器山寺」であるとし、その法器山寺が桙削寺のことであるとする説があるようです。その根拠は、観音院の所在地が「法華谷」と呼ばれますが、「ほふき・はふき」の訛ったものとすることによるそうです。また、鎌倉時代に書かれた「清水寺縁起」には、清水寺氏社の一つに高市郡「大仁富神」という神名があるそうです。子島寺は坂上田村麻呂との関連から「元清水寺」と呼ばれることもあります。これらの事から、桙削寺は子島寺の前身とも言われることがあり、清水寺縁起に関連する名を留めているのかも知れません。
 このように考えてみると桙削寺の所在地候補の一つとして、高取町上子島や勧覚寺を上げることが出来るかも知れません。地理的には、最も頷ける場所であると思います。蘇我氏と東漢氏との関連を考えると、古代檜隈の地に蘇我氏の寺院があっても不思議ではないように思います。

 『 日本霊異記 「廿六 持戒比丘修淨行而得現奇驗力縁」
大皇后天皇之代,持統朝.有百濟禪師,名曰-多羅常.住高市郡部内法器山寺.勤修淨行,看病第一.應死之人, 蒙驗更蘇.毎咒病者,而有奇異.取楊枝上枝時,立錫杖於錫杖, 而互用二物,物不仆,如鑿而樹之.天皇尊重而常供養,ゥ人歸依而恆恭敬. 斯乃修行之功,遠流芳名,慈悲之コ,長存美譽也. 』

 『 大皇后の天皇の代(持統天皇)、百済禅師有り。名を多羅常と日ふ。高市の郡の部内法器山寺に住む。勤修し、看病第一なり。死ぬべき人も験を蒙りて更に蘇り、病者を呪する毎に奇異有り。・・・。 』

 桙削寺の所在候補地を見てきましたが、どれも伝承の域を出るものではありませんでした。今後の調査や研究を待たなければなりませんが、皆さんも、明日香村入谷の大仁保神社からの絶景をご覧になりながら、桙削寺の所在地を考えてみるのは如何でしょうか。


 桙削寺が書かれる日本書紀の記事中に登場する「長直(ながのあたい)」とは、どのような人なのでしょうか。蘇我蝦夷が命令を下していますので、東漢氏に属する者だと推測は出来るのですが、もう少し具体的に探ってみることにしました。
 日本書紀斉明5(659)年7月に、坂合部連石布と津守連吉祥を大使・副使とする遣唐使を派遣しているのですが、その一連の記事の注に「伊吉連博徳の書によれば、津守連吉祥の船は無事唐に到着したが、坂合部連石布の船は難破し、南海の爾加委嶋に漂着するが、その嶋で石布は殺され、東漢長直阿利麻、坂合部連稲積等5人が脱出して唐に到着し、皇帝と謁見した」とあります。この東漢長直阿利麻が、件の長直なのでしょうか。
 桙削寺の記載が644年ですから、その15年後の事件になります。探してみましたが、「長直」に関しては、これ以上の手掛かりは発見できませんでした。



 女淵

 奥飛鳥の神秘「女淵」です。入谷から下って渓流に出ると、辺りの雰囲気は一変します。静かな瀬音しか聞こえない世界に入って行きます。木々の梢が空を隠す頃からは、足場も川石で作られた沢道となり、その奥まったところに女淵があります。ナゴトの滝が造るこの淵は深く、竜宮に届くとか竜の棲む淵との伝承もあり、雨乞いの儀式も盛んに行われたそうです。壺阪寺の雨乞いにも関係したとの話も聞きますが、詳細は分かりません。また、この女淵に木の葉を入れて、農作物の吉凶を占ったとの伝承もあるようです。先の伝承ともあわせて推測すると、竜=水神信仰=豊作祈願=雨乞という図式が、見えてくるような気がします。
 そこで思い出されるのが日本書紀の皇極天皇の雨乞いの記事です。

 皇極元(642)年7月、「天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。」

 女淵は、この記事に書かれる「南淵の川上」の一つの候補地になるのではないかとも思われます。もちろん確証のある話ではありません。しかし、この淵の佇まいを見ていると、そのような想像が自ずと浮かんできます。この淵は、飛鳥の水源の一つでもある飛鳥川支流細谷川に在ります。石と水の都とも称される飛鳥京の水源は、細々とした川に支えられています。干天が続くと、その影響は深刻であったことでしょう。飛鳥川には、幾つかの雨乞い伝承や淵が存在し、それぞれに相応しい佇まいを見せています。皆さんは、どのような想像をめぐらされるでしょうか。女淵のさらに上流1.5kmには、男淵(トチガ淵)が存在しています。

 「雨乞い」
 明治の末までは明日香村の各所で雨乞いが行われていたそうです。田畑に水が行かなくなると、「ホーラクダブ」、「ハチマンダブ」、「男渕」、「女渕」などにそれぞれの集落で雨乞いの踊り「なもで踊り」を奉納したようです。「タンボレ、タンボレ、雲に雫はないかな、雲に雫はないかな。」と囃すのだそうです。

 日本書紀皇極天皇条 雨乞い(天候)に関連する抜粋記事
 皇極元(642)年
3月  3日 雲がないのに雨が降った。この月に、霖雨(ながあめ)があった。
  4月 この月にも、霖雨があった。
6月 16日 わずかに雨が降った。この月はたいへんな旱であった。
7月  9日 客星(まろうとほし)が月に入った。
7月 25日 群臣が、「村々の祝部(はふりべ)が教えたとおりに、牛や馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(かわのかみ)に祈祷したりしたが、(中国風の雨乞いの行事)さっぱり雨が降らない」と相談すると、蘇我大臣は、「寺々で大乗経典を転読するのがよい。仏の説きたまうとおりに悔過(けか)をし、うやうやしく雨を祈ることとしよう」と答えた。

『戊寅。群臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺転読大乗経典。悔過如仏所訟。敬而祈雨。』
7月 27日 大寺(百済大寺?)の南の広場に、仏菩薩の像と四天王の像を安置し、多くの僧をまねいて「大雲経」(だいうんきょう)などを読ませた。蘇我大臣は手に香鑪をとり、香をたいて発願した。

『庚辰。於大寺南庭、厳仏・菩薩像与四天王像。屈請衆僧。読大雲経等。于時。蘇我大臣手執香鑪。焼香発願。』
7月 28日 わずかに雨が降った。
7月 29日 ついに雨を祈ることが出来ず、経を読むことをやめた。
8月  1日 天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。そこで国中の百姓は、みなともによろこび、「すぐれた徳をおもちの天皇だ」と申し上げた。

『八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拝四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。〈 或本云。五日連雨。九穀登熟。 〉於是。天下百姓倶称万歳曰至徳天皇。』



 飛鳥川上坐加夜奈留美命神社

 この神社のご祭神は、加夜奈留美命とされています。この神様は、古事記にも日本書紀にも登場しない神様です。ところが、出雲国造神賀詞という祝詞に登場します。大穴持命(オオナモチノミコト)が国土を天孫に譲って出雲へ去るのですが、その時、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とします。その中に『賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて』とあり、これがこの神社の始まりとされています。

 出雲国造神賀詞
 「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備尓坐天皇孫命能近守神登貢置天」とあり、「大物主櫛長瓦玉命」、「阿遅須伎高孫根乃命」、事代主とともに天皇家を守護する神として述べられている。

 さて、問題が出てきました。加夜奈留美命をお祀りしたのは、飛鳥の神奈備です。古代には栢森が飛鳥の神奈備であったのでしょうか。「日本紀略」には天長6年(829)『高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、神の託言によって同郷の鳥形山に移した』という記録があります。鳥形山というのは、飛鳥坐神社の在る小さな山であるとされています。
 では、その元の場所である高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社はどこに在ったのでしょう。今日それを特定することは出来ませんが、岸俊男先生のミハ山説が有力なようです。ミハ山は、祝戸の飛鳥川左岸に在る祝戸公園東展望所やその付近だと思われ、磐座と思しき石などが散見されます。飛鳥の小さな盆地の南端にあるこの山は、まことにそれらしくも思われます。

 そうすると、栢森のこの神社は何だったのでしょう。江戸時代まではこの神社は、葛(九頭)神を祀っていたとされているそうです。(今は末社として祀られている小さな祠が、葛神社だとされているようです。)九頭神は、オカミ神を祭神としており、九頭竜を崇める水神信仰だと考えられるようです。女淵との関連性や飛鳥川源流となる細谷川と寺谷川の合流地点に立地する点などから考えると、栢森に鎮まるこのお社は本来水神信仰の葛(九頭)神をお祀りする神社であったと言えるかも知れません。
 ところが、カヤノモリとカヤナルミの音が似ているため、「大和志」では延喜式神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」をこの社にあて、それ以来、式内社として現社名で呼ばれるようになったようです。また明治時代に入って、富岡鉄斎が当地に来て、土地柄からここが飛鳥の神奈備だとし、加夜奈留美命神社として復興・顕彰したのだそうです。

 ところで、式内社「滝本神社」という神社も、飛鳥川の上流に在ったとされ、さらに複雑な様相を呈してきます。他にも異説はたくさんあるようで、明日香村史も全く不詳の神社であると記しています。



 女綱

 加夜奈留美命神社から広い道路を下って行きますと、道と飛鳥川に掛け渡すように女綱が見えてきます。勧請綱とも呼ばれ、大字稲渕の男綱と対を成すものだと思われます。毎年1月11日に掛替えられ、勧請綱掛と呼ばれています。勧請とは、神仏の来臨を請うこと。また、神仏の分霊を移し祀ることとされます。

 栢森の女綱は、女性の陰物を形作ったものを綱の中央に付けています。
 これらは、栢森の男性が総出して作る事になっているそうです。綱が完成すると、竜福寺の住職を先頭にして、小字カンジョまで運ばれます。そこには、福石と呼ばれる石があり、一旦この石に巻きつけるように綱を掛けます。栢森の綱掛は、仏式の作法で執り行われるのですが、供物を供え、読経が始まります。その後、対岸に綱を渡して勧請綱掛は終わります。

 奈良では、綱掛を行う神事や綱を蛇に見立てる信仰行事を所々で見かけられます。
ノガミ信仰などと呼ばれることもあるようですが、この女綱勧請綱掛けも、同じ根源を持つ民間信仰と考えることも出来そうです。福石に綱を巻きつける点など、蛇と見立てているようにも思われます。
 蛇は、水神の使いなどとも言われますし、龍=蛇=水神という図式がここにも見て取れます。この水神に対して、一年間の豊作と子孫の繁栄を祈願し、併せて、「道切り」などと言われる、集落への疫病や悪霊の侵入を防ぐ意味もあるのでしょう。

 「日本書紀」には、次のような記事があります。天武天皇5年(676)5月の条、『勅して、南淵山・細川山で草や薪をとることを禁じる。・・』。水利や水害対策を意識してのことだと思われますが、これらのことも、水源地を神聖化する意識と無縁ではないようにも思います。


 今回は寄りませんが、この奥飛鳥には、他に宇須多岐比売命神社や南淵請安墓・竜福寺・飛び石・男綱などがあり、歴史の重みを訪れる人々に感じさせてくれます。どうぞ、また別の機会に探訪してみてください。


 この資料は、飛鳥遊訪マガジンの連載しました「第19回定例会用<飛鳥咲読>」を元に、配布用にアレンジし再編集した物です。

ルートマップ タイムテーブル 雨天用タイムテーブル 冬野 冬野城 良助法親王冬野墓
竜在峠 桙削寺 女淵 加夜奈留美命神社 女綱 レポート

ページ作成 両槻会事務局 風人

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