「大丹穂山の桙削寺」と聞いて、直ぐにピンと来る方は相当な歴史マニアですが、桙削寺というのは、現存していません。どこに在ったのかも分かっていません。そのようなお寺なのですが、創建者の名前を聞くと興味が湧いてこられる方もいらっしゃるかも知れませんね。創健者は、蘇我蝦夷です。
日本書紀の長い引用になるのですが、興味深い記述ですので、読んでみてください。
皇極3(644)年冬11月、『蘇我蝦夷と入鹿は、家を甘檮岡(甘樫丘)に並べて建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼んだ。また、その男女を王子(みこ)とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。・・・・・・』
『冬十一月 蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣 雙起家於甘檮岡 呼大臣家曰上宮門 入鹿家曰谷宮門【谷 此云波佐麻】 呼男女曰王子 家外作城柵 門傍作兵庫 毎門置盛水舟一 木鉤數十 以備火災 恒使力人持兵守家 大臣使長直於大丹穗山 造桙削寺 更起家於畝傍山東 穿池爲城 起庫儲箭 恒將五十兵士 繞身出入』
前半は、飛鳥でも注目される遺跡の一つ、甘樫丘東麓遺跡関連のニュースや文章によく引用されている一節です。それに畝傍の家の建設や武装化の記事があり、それらに挟まれるように、件の「桙削寺」が登場します。
何やらきな臭い雰囲気の中に、突如としてお寺の名前が出てくることに、とても不思議な気がしています。ただ、事象を順番に書いた偶然なのかも知れませんが、このお寺が、蘇我氏の武装化と関連しているような印象を受けます。皆さんはどのように思われるでしょうか。桙削寺は、この記事の中にだけ登場します。
桙削寺の所在地を考える時、ヒントとなるのは、まず「大丹穂山」という山の名前です。それを探さないといけないでしょう。しかしながら、現在、大丹穂山と呼ばれる山は、飛鳥近郊にはありません。そこで気になるのが、同じ読み名の「大仁保神社」です。実は、大仁保神社と呼ばれる神社は、飛鳥近郊に二つあります。どちらも似たような地名に所在しており、どちらがどちらとも言えない存在となっています。
一つは、今回訪れます明日香村入谷の大仁保神社です。祭神は、仁徳天皇とされています。古くから大丹穂山の候補地とされているようで、堂屋敷と呼ばれる所には礎石が残るとも伝えられますが、確実な話ではありません。古瓦の存在などもどうなのでしょうか。ここに桙削寺が存在していたとするなら、そこにはどのような意味合いがあったのでしょう。万が一の時に逃げ込む場所と考えれば良いのでしょうか、飛鳥の後背を守る拠点なのでしょうか。都から離れた高所に、わざわざ寺院を建設した意味を説明するのは、難しいように思います。明日香村入谷説は、現状では推測の域を出るものではなさそうです。
もう一つは、高取町丹生谷にある大仁保神社です。こちらの祭神は、罔象女神(ミズハノメノカミ)という水神がお祭りされているようです。曽我川の右岸に位置し、巨勢谷の北の入口とも言える場所にあります。詳しくは分かりませんが、近辺の小字には、「桙の木」・「大入」などという地名も存在しているとのことです。地理的には、飛鳥の南の入口を押さえる位置とも言えますので、蘇我氏が飛鳥の守りを固める拠点として寺院を造ったとすれば、明日香村入谷よりも肯ける場所であるのかも知れませんね。ただ、少し離れすぎているようにも思いますし、この辺りだと巨勢氏の領域になるのではないかとも思います。
現存する大仁保神社以外の視点から、もう一つ候補地があります。詳細は分からないのですが、高取町子島寺の創建時代の位置に所在すると言われる観音院(高取町上子島)が、日本霊異記に書かれる「法器山寺」であるとし、その法器山寺が桙削寺のことであるとする説があるようです。その根拠は、観音院の所在地が「法華谷」と呼ばれますが、「ほふき・はふき」の訛ったものとすることによるそうです。また、鎌倉時代に書かれた「清水寺縁起」には、清水寺氏社の一つに高市郡「大仁富神」という神名があるそうです。子島寺は坂上田村麻呂との関連から「元清水寺」と呼ばれることもあります。これらの事から、桙削寺は子島寺の前身とも言われることがあり、清水寺縁起に関連する名を留めているのかも知れません。
このように考えてみると桙削寺の所在地候補の一つとして、高取町上子島や勧覚寺を上げることが出来るかも知れません。地理的には、最も頷ける場所であると思います。蘇我氏と東漢氏との関連を考えると、古代檜隈の地に蘇我氏の寺院があっても不思議ではないように思います。
『 日本霊異記 「廿六 持戒比丘修淨行而得現奇驗力縁」
大皇后天皇之代,持統朝.有百濟禪師,名曰-多羅常.住高市郡部内法器山寺.勤修淨行,看病第一.應死之人, 蒙驗更蘇.毎咒病者,而有奇異.取楊枝上枝時,立錫杖於錫杖, 而互用二物,物不仆,如鑿而樹之.天皇尊重而常供養,ゥ人歸依而恆恭敬. 斯乃修行之功,遠流芳名,慈悲之コ,長存美譽也. 』
『 大皇后の天皇の代(持統天皇)、百済禅師有り。名を多羅常と日ふ。高市の郡の部内法器山寺に住む。勤修し、看病第一なり。死ぬべき人も験を蒙りて更に蘇り、病者を呪する毎に奇異有り。・・・。 』
桙削寺の所在候補地を見てきましたが、どれも伝承の域を出るものではありませんでした。今後の調査や研究を待たなければなりませんが、皆さんも、明日香村入谷の大仁保神社からの絶景をご覧になりながら、桙削寺の所在地を考えてみるのは如何でしょうか。
桙削寺が書かれる日本書紀の記事中に登場する「長直(ながのあたい)」とは、どのような人なのでしょうか。蘇我蝦夷が命令を下していますので、東漢氏に属する者だと推測は出来るのですが、もう少し具体的に探ってみることにしました。
日本書紀斉明5(659)年7月に、坂合部連石布と津守連吉祥を大使・副使とする遣唐使を派遣しているのですが、その一連の記事の注に「伊吉連博徳の書によれば、津守連吉祥の船は無事唐に到着したが、坂合部連石布の船は難破し、南海の爾加委嶋に漂着するが、その嶋で石布は殺され、東漢長直阿利麻、坂合部連稲積等5人が脱出して唐に到着し、皇帝と謁見した」とあります。この東漢長直阿利麻が、件の長直なのでしょうか。
桙削寺の記載が644年ですから、その15年後の事件になります。探してみましたが、「長直」に関しては、これ以上の手掛かりは発見できませんでした。 |