両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



  祝戸・阪田の遺跡

 稲渕宮殿遺跡

稲渕宮殿跡は、1977年の発掘調査で4棟のコの字型の建物跡と、それに囲まれた石敷きの広場が確認されています。 前後(南北)に並ぶ2棟の主殿を中心にして、東西に棟を揃えた2棟の脇殿を配置しています。

正殿は4面に庇を持っており、推定規模で正面24.6m 奥行き10.2mになります。中庭には大型の敷石を敷きつめるなど、一般の施設ではない様相を示しています。
7世紀中頃から後半のものと思われる土器と硯が出土しており、飛鳥河辺行宮跡とする説が有力なようです。

また、南方にも広大な石敷遺構が発見されており、関連施設が南に広がる可能性もあります。 瓦が出土しなかったことや建物の規模や様式からも、宮殿遺構であることが推測されます。

日本書紀の孝徳天皇 白雉4年の条には、「大化改新の後、難波長柄豊碕宮に遷都した孝徳天皇に対して、皇太子中大兄皇子が「倭の京」に移りたいと奏上したが許されず、皇祖母尊(皇極天皇)や皇后(間人皇女)、そして、皇弟(大海人皇子)らと共に、倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかわらのかりみや)に入った。・・・・・公卿大夫や百官の人々も太子に従って倭に移った。」とあります。

行宮は仮の宮であって、皇極天皇が斉明天皇として、飛鳥板蓋宮で重祚するまでの1年余の間存在したものと思われます。
飛鳥河辺行宮の比定地は、他にも飛鳥寺の南や川原寺の付近など、数ヶ所の候補地があるようです。

 坂田寺

坂田寺は、飛鳥寺の丈六仏を作った鞍作氏の氏寺で、寺号を金剛寺といい坂田尼寺とも呼ばれます。渡来人の建てた最も古い寺だとされています。
坂田寺は『扶桑略記』によると、継体16年 (522年)に渡来した司馬達止が造った高市郡坂田原の草堂に由来します。司馬達止の子の嶋は敏達13年 (584年)、出家して善信尼と称し、我が国初の尼僧となり、仏教興隆の大きな力となりました。
また『日本書紀』の用明天皇2年(587年)の条に、鞍作多須奈が天皇の為に発願した丈六仏と寺が坂田寺であるとする説や、推古天皇14年(606年)年に鞍作鳥(止利仏師)が、飛鳥寺に丈六の仏像を安置した褒美として与えられた近江国坂田郡の水田20町をもって建てたのが坂田寺であるとする説があります。 どちらにしても、坂田寺は鞍作氏の寺として建立された最古級の寺院と考えられています。

『日本書紀』朱鳥元年(686年)には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。
また、奈良時代には坂田寺の信勝尼が、経典を内裏に進上したことや東大寺大仏殿の東脇侍を献納したことも記録されています。 伽藍は、10世紀後半に土砂崩れにあい、崩壊していますが、承安2年(1172年)に多武峰の末寺になっていることが分かっています。

 発掘により検出された遺構のほとんどが、奈良時代の坂田寺のもので、創建時の遺構は確認されていません。

 奈良時代の遺構としては、金堂または講堂と思われる仏堂と、それに取り付く回廊、その内側に二棟の基壇建物があり、西面回廊の外側に大規模な掘立柱建物が検出されています。

 仏堂には、須弥壇が残っており、また埋納土坑より鎮壇具が出土しています。また、珍しい手彫の軒平瓦が出土したことでも知られています。



 飛鳥の謎の石造物の一つに数えられるマラ石は、坂田寺の推定寺域内にあります。立石と呼ばれる他の石と同じように、寺域の結界を示す物なのかも知れません。


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