両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第26回定例会レポート



西飛鳥古墳巡り2と紀路を歩く



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2011年5月14日


竹林を行く

5月14日に行われた第26回の定例会は、『西飛鳥古墳巡り2と紀路を歩く』と題しまして、第6回の『西飛鳥古墳めぐりと男綱勧請綱掛神事』の時に巡り残した西飛鳥を、これでもかという程歩き回って来ました。
いつもは事務局長が説明を担当していますが、今回は飛鳥応援大使をされ、以前、発掘作業に従事した経験をお持ちの“さきもりさん”がお越し下さり、ご説明頂けるというラッキーなウォーキングとなりました。

五月晴れの下、4名の初参加の方をお迎えし総勢23名の参加者はご挨拶の後、各自軽い運動をしてから出発しました。今回は前半にアップダウンを繰り返す約11kmのコースとなります。


岩屋山古墳

先ず訪れる「岩屋山古墳」は、飛鳥駅のすぐ西側にあります。
石室の中にも入れますので、表面が非常にキレイに仕上げられているのが良く分かります。工具で丁寧にたたいた後、多分砥石で磨いたのではないかという事でした。玄室の天井石が一枚なので、よりスッキリと美しく見えます。

石組みを組み立てる時の印なのではないか、という表面にある窪みが入口辺りに見られました。また、3本ある尾根の真ん中の南斜面に古墳を造るのは風水の影響によるものなので、そこからも制作年代が分かるそうです。
(巡りました場所が多い為、古墳や遺跡などの詳しい説明は資料編をご覧下さい。)

次に向かいましたのは、去年の調査で八角形墳と判明し、キレイな犬走り状の石敷きが見つかった「牽牛子塚古墳」(資料参照)です。


牽牛子塚古墳 遠望

石槨と外部石の間に詰められた漆喰には礫が混ざっていますが、強度を増す為のものだろうとの事です。


越塚御門古墳(埋め戻し)

その南東約20mの場所にある「越塚御門古墳」(資料参照)は、すでに埋めもどされています。
去年のこれらの現地説明会には、とても長い時間並んだよというお話が参加者の間に上がっていました。(私もその一人でした。)

 
真弓鑵子塚古墳

渡来系の氏族の墳墓であろうという「真弓鑵子塚古墳」(資料参照)を眺めながら、説明を短めに次の目的地を目指しました。

時折トラックも走る舗装道路を、皆一列になって進みます。高取に入って暫く行くと、右手に「?」と思ってしまう異様な小さい禿げ山が見えて来ました。これが次の目的地の「カンジョ古墳」(資料参照)です。


カンジョ古墳

ちょっとあぶなっかしい階段を上ると、4月の始めの下見時に比べ崩れ落ちた土砂が多くなっています。どうしてこんな痛々しい姿でさらされる事になったのでしょうか… 横の道を曲がると後ろ姿も見えるのですが、もはや古墳には見えません。とても悲しく思いました。


カンジョ古墳 後ろ姿(北面)

その道のず~っと向こうに、「与楽鑵子塚古墳」(資料参照)がブルーシートをペタリと貼られたように見えて来ました。こちらも墳丘上の木が切られています。


与楽鑵子塚古墳へと向かう

その横を過ぎると、キレイな竹林の中へ入って行きます。どんどん上って行き新しく設置された木の階段を上がると「寺崎白壁塚古墳」(資料参照)が目の前に現れました。埋葬施設入口の上には屋根が付けられ、見学の為の丈夫そうな手すり付き階段も設置されています。(先程の古墳とのあまりの違いは何?!)


寺崎白壁塚古墳 西側から

尾根の南側斜面をカットして段状にし、下部を方形に造る事で下から見上げた時の圧倒感を効果的に造りだしているのだそうです。

木陰をさがしてお昼を頂く事にします。
休憩を利用し、見て来た古墳内部の写真や、まだ木が生えている頃のカンジョ古墳、次に行くスズミ2号墳で出土した歯牙の写真などを皆で回し見ました。


空中のスズミ古墳群を望む?
休憩後、来た道を引き返し「スズミ古墳群」(資料参照)に向かいましたが、新しい道を付ける為に残念ながら無くなってしまったようで、推定される場所である上空を見上げるなどして説明を受けました。先程の休憩中に見た写真の「スズミ2号墳」で出土した1本の歯牙は、20代の女性の前歯だと鑑定され、なんと復顔も試みられているのだそうです。

新しく造られた坂道を上って行き、振り返ると貝吹山がよく見えていました。せっかく上りましたが、すぐに下り坂となりました。

民家の間を進んで行くと、左手奥に芝生がキレイな「マルコ山古墳」(資料参照)が現れました。


マルコ山古墳(下見時撮影)

円墳のように整備されていますが、珍しい六角形墳であることから被葬者候補は皇子なのではないかとも考えられるそうです。
埋葬施設が似ている為、高松塚のように壁画が期待されました。しかし、全面に漆喰が塗られていましたが壁画が描かれた様子はなかったのだそうです。



マルコ山古墳 墳丘上から南東

眺めの良い墳丘からは、南東方向に高取国際高校がよく見えました。この学校の建設に先駆けて発掘調査がされた結果、いくつかの遺跡が発見されました。それらを総称して、「佐田遺跡群」(資料参照)と呼ぶそうです。また、佐田村の伝承や、横口式石槨の説明などもありました。

トイレ休憩を兼ねたマルコ山古墳を後にし、今回近くまで行く事が出来なかった「カヅマヤマ古墳」(資料参照)を遠くからですが位置の確認をしました。


カヅマヤマ古墳 遠望

飛鳥地域では初めて吉野川の結晶片岩で築かれた磚積石室が発見されています。地震による地滑りの跡がはっきりと見られる事から、古代と現代が確かに繋がっている事を感じました。

やっとこの辺りで行程の半分位来たでしょうか。
次の束明神古墳は、古墳のある春日神社まで100段程の階段を上らねばなりません。(神社境内の大部分は墳丘に重なります。)


束明神古墳で説明に耳を傾ける

この「束明神古墳」(資料参照)は本当の草壁皇子の墓ではないかと言われている古墳です。
幕末の頃、御陵を指定するための調査が行われるというので、佐田の村人達は立ち退きさせられると心配し、石槨の天井部を取り除くなどしました。そして、役人がやって来た時に鉄の棒を古墳頂から突いても石にあたらなかったので指定を免れ、草壁皇子の陵はもう少し南にある現在の「岡宮天皇陵」に指定されたということです。印象が薄いといわれる草壁皇子ですが、舎人たちが皇子を偲んで残した歌は多く残っています。
唐尺(1尺=29.4cm)と、黄金分割の比率(縦と横の比率が1対1.618だそうです。)が使われた石槨は、橿原考古学研究所付属博物館を入って右手の前庭にレプリカが展示されています。とても珍しいので、是非ご覧になってみて下さい。

ほぼ消滅状態の「佐田1・2号墳」(資料参照)はあの辺りで…と説明を受けた後、広い田畑の中の道を出口山古墳へと向かいました。


出口山古墳を臨む

紀路を見降ろす位置にある「出口山古墳」(資料参照)は、測量調査は行われていますが発掘調査は未だ行われていないそうです。ただ山が見えるのみで位置の確認をするだけでしたが、謎の石材が存在していたとかで、ちょっと興味が湧きました。


出口山古墳付近より飛鳥方向

紀路(資料参照)に入り南へ進みますと、右手奥に鉄塔が見えて来ました。ちょうどその辺りが「森カシ谷遺跡」(資料参照)で、調査の結果、7世紀後半に建造された特殊な施設が考えられ、土坑から生木なども出土した事から物見台や烽火台の可能性も指摘されるようです。紀路がよく見渡せそうなので、情報を飛鳥の方へ伝達したのでしょうか。ちょうど鉄塔が建っているので、イメージし易いです。


森カシ谷遺跡 (現況)

道を折れ、高取リベルテホールでトイレをお借りしました。近鉄壺阪駅で帰られる方をお一人見送ってから、再び紀路へと戻ります。


薩摩遺跡付近 紀路(現況)
左:飛鳥方向 右:市尾方向

どんどん行くと「薩摩遺跡」(資料参照)に着きました。新しく出来た広い道があるだけで、なかなか説明を聞いても私には分かり辛かったのですが、現地説明会の時には、出土した立派な木樋なども見る事が出来たようです。

まだまだ紀路を進み、市尾郵便局を少し行った角を右に曲がると、畑が広がる向こうにぽっかりと前方後円墳の「市尾墓山古墳」(資料参照)が見えました。


市尾墓山古墳

見学可能な石室内部

その昔は紀路を行く人々にドドーンと存在感を示していたのでしょうね。ガラス越しに埋葬部が見えるようになっていて、皆さん覗いたり、ガラスにくっ付き写真を撮ったりしました。


市尾墓山古墳 墳丘上からの眺め
左:北   右:南

風が強い墳丘上からは紀路が良く見渡せます。事務局長から、南北と西にもヒブリと呼ばれる山がある事や、この古墳が造られている位置と意味を確認してほしいという話がありました。
被葬者は、巨勢氏の首長とみられ、円筒埴輪や朝顔形埴輪の他、鳥形木製品なども出土しています。

墓山古墳の少し西にある「市尾宮塚古墳」(資料参照)は天満神社の境内の林の中にあり、とても分かりにくいのですがこちらも前方後円墳なんだそうです。


市尾宮塚古墳 全景
クリックで拡大します。

石室内には破片をつないで復元されたという石棺があり、入口から覗く事が出来ました。例が少ない鈴(金銅製)が出土していて、被葬者は墓山古墳の次代を担った巨勢氏の首長とみられるそうです。

天満神社のある丘陵の西側には、最後の目的地「高台・峰寺瓦窯」(資料参照)があります。
これでもかという程古墳を見て来ましたが、最後は普段訪れる事の少ない瓦窯へご案内となります。
道行く人が見れば、道端で何をしているのかと思われたかもしれませんが、かつて藤原宮の大極殿や、朝堂の屋根を飾っていた瓦がここで生産されていたのです。その場所の確認なんですよ~ 


高台瓦窯跡

峰寺瓦窯跡

2つの瓦窯が谷をはさんで100m程しか離れていないので、この辺一帯が1つの生産地だったのでしょうね。

長かったウォーキングは近鉄市尾駅で終了です。お疲れさまでした~!
また、皆さんのお陰で訪れる場所が多かったにもかかわらず、予定通りにウォーキングを進める事が出来ました。初参加の方の中には78歳の方もいらっしゃいましたが、とてもお元気に最後まで一緒に楽しく歩いて下さいました。
皆さん、どうもありがとうございました!!


レポ担当: 若葉




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