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両槻会主催講演会 


海獣葡萄鏡について

− その種類と使用の一端を覗く −




飛鳥資料館展示 高松塚古墳出土 『海獣葡萄鏡』
写真提供元 : 奈良文化財研究所   (無断転載禁止)
奈良文化財研究所より写真をお借りし、特別に許可を受けた上で掲載しています。転載は固く禁止します。



両槻会第三回定例会 両槻会主催講演会
2007年 7月 14日
講師 : 飛鳥資料館学芸室・展示企画室長 杉山 洋 先生
於 : 飛鳥資料館講堂

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講演会レポート


 7月14日台風接近中の悪天候の中、両槻会第三回定例会が行われました。 今回は、飛鳥資料館学芸室・展示企画室長の杉山洋先生に講師をお願いして「海獣葡萄鏡について −その種類と使用の一端を覗く−」と題したお話を伺いました。

 海獣葡萄鏡は、中国の隋代から唐代にかけて隆盛した鏡の紋様の一つであり、古代日本には7世紀頃に伝わったとされています。 どのような経緯で伝えられたのかについては不明な点も多いそうですが、高松塚鏡は704年帰国の遣唐使が持ち帰ったという説もあるそうです。 高松塚古墳から出土したことも含めて、飛鳥時代を代表する鏡と言うことが出来ます。

 杉山先生のお話を軸にして、レポートを作成してみます。


 それぞれの部分は、内側から「鈕・内区・界圏・外区・外縁」と言います。
 鏡背全体に葡萄唐草紋を敷き詰め、内区には神獣や天馬・龍・鳳凰などが、外区には禽獣・昆虫などが配置されます。
 内区にある獣系の紋様が、海獣葡萄鏡と呼ばれる由縁になっているようですが、これは実在する海の獣(オットセイやトドなど)ではなく、想像上の神聖な生物をさします。中国の古い本に海獣と出ている事が発端となって名前が付いたそうです。

 「海獣」とは海の向こうの獣という意味が有るのだそうですが、当時の中国では砂漠の向こう側を示していたようです。砂の海ということなのでしょうか。
 また、この海獣は龍生九子の中の「さん猊(げい)」ともいわれ、獅子に似た姿を示しているとされ、龍の一部の能力を受け継いだ子供だとされます。

 葡萄唐草紋は、西域が起源となる植物紋の一種で、沢山の実と房をつけることから「豊穣」と「多産」を表します。中国には南北朝以後に伝来し、隋代に隆盛しました。
 これらの文様が盛んに用いられたのは、外国との交易が盛んであった唐ならではの国際性が反映しているのかも知れません。


 海獣葡萄鏡は、その直径から大型・中型・小型の三種類に分けることができ、サイズごとにその使用目的も分かれていたと考えられるそうです。


 大型鏡は、直径約30p弱・重さ2000〜5000gの鏡で、全体に葡萄唐草紋を敷き詰め、内区には8体前後の海獣、外区にも獅子や鳳凰を置き、外縁に葉や唐草が置かれています。
 有名なところでは、春日大社鏡・香取神宮鏡 (香取神宮HP)・正倉院南倉第9号鏡などがあげられます。 このうち、香取神宮鏡と正倉院南倉第9号鏡は、紋様と大きさなどから同型とされているようです。サイズは、どちらも奈良時代の一尺に相当するとされています。
 この他に、大山祇神社(瀬戸内海の大三島)や山宮神社(鹿児島県大隅半島)や都萬神社(宮崎県西都市)、法隆寺献納宝物鏡なども大型鏡に属するようです。

 大山祇神社にある海獣葡萄鏡は、国宝に指定されています。神社では、禽獣葡萄鏡という名前で呼ばれているようですが、斉明天皇が奉納された物であるとされ、白村江の戦いの戦勝を祈願するものであったともされているようです。 この戦役の主力部隊となったのが、大山祇神社祭祀者である三島水軍だと言われるようです。

 直径30p近くの2kgを越える銅の塊である大型鏡は、移動させるなどという事は、当然想定外のようですし、現存する鏡も神社所蔵品がほとんどです。
 つまりは、海獣葡萄鏡の大型鏡は「ご神体」と考えてよいようです。



 中型鏡は、直径10〜20pで、全体に葡萄唐草紋を敷き詰めるのは大型鏡と同じですが、内区の海獣は4〜6体前後、外区に小鳥や昆虫などの小動物を配置します。

 今回の講演の主テーマでもある高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡(以下、高松塚鏡)は、同型とされるものが国内に7面、中国に3面あります。
 うち西安市東郊独孤思貞墓出土の海獣葡萄鏡が、神巧二年(698年)の墓誌を伴っていたことから、高松塚古墳の被葬者論などに争点を投げかけることとなりました。

 中国で出土した高松塚鏡の同型鏡が、7世紀末に鋳造されたものと考えると、日本に持ち込まれたのは704年に帰国した遣唐使によると考えることも出来、そうすると被葬者は8世紀初頭までは生きていたことになります。必然的に被葬者候補は減ることになり、この説を採用すると高松塚の被葬者は、忍壁皇子が有力となるようです。 
 この遣唐使(702年発)が送られるまでの天武朝期は、約30年間にわたって遣唐使派遣が中断した形になっており、この説を補強する要因になっています。 しかし天武朝期には、遣新羅使や遣渤海使の行き来が頻繁でありました。また非公式な交流や民間での交易・交流を考えると、海獣葡萄鏡を持ち込んだのが遣唐使だけだと断定出来るものでもないようです。 
 被葬者を特定出来るものではないのでしょうが、高松塚古墳の被葬者が海獣葡萄鏡を副葬品として持っていたことは、重要なことであると思われます。 権威の象徴や呪術的な目的ではなく、被葬者が日常的に大事にしていた物として一緒に埋葬された可能性をお聞きしました。


 東大寺法華堂天蓋鏡(以下東大寺鏡)は、副葬品としてではなく仏具として使用された例になります。

 中型鏡の代表格であるこれら2面の鏡は、それぞれに成分分析がされ、銅・鉛・錫を主成分とする高松塚鏡は、正倉院御物の中国製鏡とほぼ同成分であることから中国製。 銅・鉛に砒素を含み錫を含まない(砒素を含むこの種は、砒素青銅と言われ、この時代の青銅の特徴とされるようです。)東大寺鏡は、石上神宮など国内伝世品と同成分であることから国内産だという結果がでています。 

 この成分分析には、蛍光]線分析と言う方法で、鏡面に]線を照射して、その跳ね返りの蛍光で成分を割り出す技術が使われたのだそうです。
 この方法は、遺物を損壊することなく成分を導き出せますが、表面上の組成しか判明しません。 表面は経年変化を受ける為、内部と完全に同じだとは言い切れないそうですが、国宝級の遺物を検査する現代技術での限界ということになるようです。

 ‐ 高松塚鏡と東大寺法華堂鏡の成分比較 ‐
  砒素
高松塚鏡 71% 22〜24% 3〜4%
東大寺鏡 85〜89% 6.2〜6.7% 4.8〜5.7%

 錫の入っていない鏡は幾ら磨いても光沢を持たず、鏡としての本来の機能は果たせないだろうということです。この東大寺鏡と同型が、クレタカ山火葬墓(天理市)と森月一号墳(愛知県豊川市)からも出土しています。どちらも奈良時代のものであるとされ、この3面の鏡は、同じ工房で兄弟鏡のように製作された可能性があるそうです。
 東大寺鏡は、本来は銅と錫の合金であるはずの青銅に砒素が沢山含まれています。砒素は精錬時の副産物として発生する物ですから、当時の製錬技術を現してることになるのかもしれません。 また、鏡としての機能を期待されない物に錫を加えないのも鋳造性をあげつつ、原材料の調達を安易にする為の知恵の一つだったのかもしれません。

 本来の鏡としての機能は、高松塚鏡辺り、飛鳥・奈良時代ぐらいから普及し始めたのではないかと考えられるそうです。 銅鏡の画像の映り具合は、やや灰色がかった鈍い像ではあったが、見るにはいいのではないかというお話でした。
 それ以前の古代鏡は、太陽光を反射する「ヨリシロ」として神聖視されてはいただろうけれど、その殆どが凸面鏡で正確に物を映さない事や一つの古墳に副葬される枚数の多さから、呪具や権威付けなどが主な目的で、今日のように日常的に使用されていたとは考え難いそうです。 
 現在と同様のガラス面の鏡の登場は、江戸中期頃からになるそうです。 また、9世紀頃から11世紀頃の間は、銅鏡の生産自体がかなり落ち込んでいる事も分かっているのだそうです。(絵巻に見る平安期の鏡などの図柄は、絵巻が描かれた時代の様相ではないかと言うお話でした。

 鏡が日常的に生活の中に入ってきたのは、高松塚古墳の副葬例からも推定されるとのお話もありましたので、同時代の万葉集に鏡を詠んだものが無いかと探してみました。
 万葉集中には、おおよそ50首に「鏡」の文字が書かれた歌が収録されていました。 ほとんどが、「み、見る、思ふ」などに掛かる枕詞になっています。また、「まそ鏡」と書かれるものも、真澄の鏡の意味で、「清き、照る、影、ふた、かく、とぐ、向かふ、面影、見、ただ目」などに掛かる枕詞として使われているようです。
 また、これらのほとんどが海獣葡萄鏡ではないと思いますが、鏡が単に神聖な道具や呪具から日常の生活の中に入ってきた証になるのではないかと思います。

 天智天皇の皇女である明日香皇女は、文武4年(700年)に亡くなりますが、その時に柿本人麻呂が詠んだ挽歌があります。(2−196) 長歌ですので抜粋しますと、『 ・・鏡なす 見れども飽かず ・・・』とあります。 鏡なすは、「見れど」の「見」を呼び出すための枕詞なのでしょうが、「鏡のように見飽きずに」と訳しても良さそうです。 つまり、鏡を飽きずに見ていた生活があった時代であるとも言えそうです。

 また、奈良時代に入るようですが、山上憶良の歌に次のようなものがあります。 我が子への愛情を詠んだ長歌 (5−904) の中に、『・・・白栲の たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ乞ひ祈み・・・』とあります。 真澄の鏡を手にとり持って、天つ神を仰いで願い祈り・・・ 祈りを託す鏡が、身近にある事が分かります。

 そうすると、高松塚鏡も被葬者の身近にあった大切な愛用品であったかも知れないというお話は、いよいよ良く分かってくるように思われます。


 この他、17面近くも同型鏡がある杣之内火葬墓鏡 天理参考館(天理市)など、海獣葡萄鏡のなかでも特に同型鏡が多いのが中型鏡の特徴になるようです。
 数多くの同型鏡は、原型から繰り返し幾つも雌型をとっては鋳造する大量生産で生み出されたのではないかと推定されるそうです。
 上記の杣之内火葬墓鏡には、同型で若干サイズの小さい鏡群があります。これは踏み返し鋳造による鏡の縮小だとされています。
 鋳造の場合、鋳型は完成品を取り出す時点で壊されてしまうため、繰り返して使うことは出来ません。 鋳造では同笵鏡という物は存在しないことになります。そこで、大量に同じ文様の鏡を作るとき、踏み返し鋳造という手法が用いられます。 完成品の鏡を基型として、鋳型を作成するわけです。
 踏返し鋳造は、原型の鏡から取った鋳型を焼きしめる段階で鋳型自体が縮小する為に、踏返しされた後の鏡は、原型の約98.8%程度の大きさになるそうです。 
 
製品を型から取り出す際に粉砕された土は、再び鋳型を作る際に再利用されるそうです。鋳造製品の鋳型が発掘調査によって見つからないのは、このことが原因であるようです。 唯一飛鳥池遺跡から鋳型の一部が出土しています。
  海獣葡萄鏡の鋳型の一部
 (よみがえった飛鳥池の工房 / 飛鳥資料館)

 鏡における「同型」は「紋様形態が同じ」と言う意味合いだと思えばいいようです。

 同型が多いとされる中型鏡ですが、三次元立体計測レーザー光で点の位置を測定し、それを縦横高さのドットで構成し直して鏡背の模様を図式化すると、目視などとは比較にならない精度で笵傷も認識できるのだそうです。 まだまだそれぞれの鏡を個別計測するまでには至っていないそうですが、今後に期待できる新しい技術であることには間違いなしです。(以前、橿原考古学研究所アトリウムで鏡の三次元立体計測の展示が行われた事がありました。この計測機は橿考研のものなのだそうです。^^;)  (海獣葡萄鏡は有りませんが、橿原考古学研究所付属博物館の資料閲覧室において自由にCG画像として見学出来ます。制限はありますが、プリント出力も可能です。)

 また、飛鳥池遺跡から出土した海獣葡萄鏡の鋳型の一部 (よみがえった飛鳥池の工房/飛鳥資料館)も、この中型サイズのものだと考えられ、その単純な鋳型構造は海獣葡萄鏡の踏返し鋳造の可能性を裏付けると考えられるようです。 
 
海獣葡萄鏡は、他の古代鏡よりも肉厚で複雑な紋様の為、蝋型鋳造法のみによる製作だと考えられていたそうです。

 古墳の副葬品以外に中型鏡にみられる特異な例に法隆寺塔心礎出土鏡があります。

 法隆寺論争の再建説の根拠の一つとして取り沙汰されたこともあるこの鏡は、外縁がなく、内区に五匹の海獣、外区に五羽の小鳥を配する国内の出土品からの同型鏡は現在のところ見出せないそうです。



 小型鏡は、直径10cm以下の小さなもので、葡萄唐草紋を敷き詰めるのは大型鏡・中型鏡と同じですが、内区に6房の葡萄唐草と4体の獣紋、外区には小鳥を配置します。  (寺家遺跡鏡(いしかわの遺跡=財団法人石川県埋蔵文化財センター
 小型鏡の中には、踏み返しが幾度となく繰り返されたのか紋様の崩れがひどく、判別の付かないものもありますが、内区の獣紋が対角で走獣形と仰臥形の二種類あるのは、このサイズにだけ見える特徴だそうです。

 小型鏡は主に、道や川などの祭祀関連遺跡からの出土が多く、伴出した遺物からおおよそ7世紀中頃から8世紀にかけての藤原宮期に大量使用されたことが推定されています。 アンチモン青銅と呼ばれる藤原京期の独特の合金比率からも推定出来るそうです。

 大量使用に見合う大量生産には、踏返し鋳造とともに連鋳式鋳型と呼ばれる方法も用いられたのではないかと推定できるそうです。 連鋳式と言うのは、飛鳥池遺跡で発見された富本銭の鋳造方法で、小さなものを一度に沢山鋳造するには適しているのかもしれません。

 三重県神島にある八代神社にある六面の海獣葡萄鏡は、類似する紋様と線状の傷を持つ事からこの連鋳式鋳型を使って製作されたのではないかと考える根拠ともなりうるようです。

 小型鏡の中には、直径3p前後の外区を欠いたものも見られます。 これらは、製作過程で破損したものをそのまま転用したり踏み返ししたものだと言われています。

 小型鏡製作の工房は、畿内との推定が妥当とされているようです。 製品の劣悪さから寺院などの私営工房である可能性と、出土が畿内や国家規模での関連遺跡からが多い事から、一括大量生産をする官営工房の姿も捨てきれないとされているようです。


 踏み返しを繰り返して、紋様の判然としない小型の海獣葡萄鏡を使用する意味は、どこにあったのでしょう。 使用する目的と大量生産の出来る小型海獣葡萄鏡とが「鏡」と言う符号で繋がり続けた結果ということになるのでしょうか。

 
                               7月21日    両槻会事務局記


 第三回定例会は、台風の接近という悪条件にも係わらず、たくさんの参加者を得ることが出来ました。活発な質疑応答もあり、充実した主催講演会となりました。 

 両槻会のために貴重なお時間を割いていただきました杉山先生には、厚く御礼を申し上げます。また、講堂をお貸しくださいました飛鳥資料館にも深謝いたします。
 また、第三回定例会にご参加くださいました皆さんに、心よりの感謝を表したいと思います。
 ありがとうございました。       


 レポート作成  両槻会事務局員  もも 「ひとしひとひら」 ・ 風人 「飛鳥三昧」


参考文献
 「海獣葡萄鏡について」 第三回定例会講演資料
      「鏡を作る。海獣葡萄鏡を中心として」 飛鳥資料館図録第34冊
      「唐草文の世界」 橿原考古学研究所特別展図録第27冊
      「春日大社蔵大型海獣葡萄鏡の鋳型製作技法について」 杉山洋/奈良学研究第三号
      「小型海獣葡萄鏡について」 杉山洋/日本文化史研究第三十三号
          ・・・・・・ + 両槻会事務局員の記憶 

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