両槻会(ふたつきかい)定例会は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来ます。 飛鳥検定(ネット版)・講演会・ウォーキングなど企画満載です。参加者募集中♪


第六回定例会


西飛鳥古墳めぐりと男綱勧請綱掛神事


第六回両槻会定例会レポート

 1月14日成人の日に第六回両槻会定例会を行いました。今回のテーマは「祈り」ウソです...これは笑いネコが勝手に付けたテーマでございます。(^_^;)
 今回の本当のテーマは「西飛鳥古墳めぐりと男綱勧請綱掛神事」です。

 古墳というと、「仁徳天皇陵」と言われている巨大な前方後円墳を思い浮かべる方が多いと思います。大和にも「佐紀盾列古墳群」「山の辺の道沿いに点在する古墳群」など大きな前方後円墳の集中した地域があります。しかし飛鳥では、大きな前方後円墳は「見瀬丸山古墳」「梅山古墳(伝欽明天皇陵)」「
鳥屋ミサンザイ古墳(伝宣化天皇陵)」くらいです。これは古墳の造られた時代と関係があります。今回訪ねた西飛鳥は、前方後円墳より時代が下る終末期古墳が中心なので、天皇や首長の大型の古墳でも方墳か円墳、あるいは上方下方墳や上円下方墳や上多角形下方墳になるのです。飛鳥西部から西南部一帯は、今回訪ねた古墳の他にも「マルコ山古墳」「束明神古墳」「キトラ古墳」「高松塚古墳」「カヅマヤマ古墳」「中尾山古墳」などがあり、広域の古墳地帯とも言える地域です。これに「見瀬丸山古墳」「梅山古墳」「菖蒲塚古墳」「植山古墳」「天武・持統陵」「石舞台古墳」「都塚古墳」「塚本古墳」と並べていくと、飛鳥京の南側は非常に広範囲の古墳群といえなくもないのです。
 この時代に、死者を祀るというのはどういうことだったのでしょうね。

 今回のルートは、
小谷古墳−益田岩船−真弓鑵子塚古墳−牽牛子塚古墳−岩屋山古墳−飛鳥駅
バスで石舞台に移動の後、都塚古墳−祝戸荘:ここで昼食と懇親会 祝戸荘−塚本古墳−稲渕:男綱−飛鳥庵:大字飛鳥の「とんど」(オプション)

 真弓鑵子塚古墳は、前日の事務局長下見の結果ルート変更になって追加されたもので、その結果最初の予定に入っていた、沼山古墳がカットになりました。
クリックで別窓に拡大します。

 9時32分集合という早い設定にもかかわらず、参加者28名は遠方からの1名を除いて全員遅刻もなく集合しました。新年の最初ですから、先ずは会長から短めのご挨拶♪で、予定通り最初の小谷古墳に向かいました。


 橿原ニュータウンの団地を西へ入ると、山裾に巨大な石室が露出しているのが見えます。小谷古墳です。墳丘は見る影もありませんが、石室の横手まで登ると、正面に見瀬丸山古墳が見え、その向こうに甘樫丘が見えます。絶景です♪
 こんな立地の所に、こんな巨石の立派な石室を作れた被葬者は、かなりの地位の人に違いありませんね。南の真弓丘陵にある「マルコ山古墳」と負けないほどの良い場所です。しかも、小谷古墳の石棺は播磨の竜山石、「石の宝殿」と呼ばれ「益田岩船」と列ぶ謎の巨石のある場所の石で出来ているのです。

小谷古墳現地案内用資料

 小谷古墳は、一辺35m前後の方墳ではないかと推定されています。貝吹山から派生する尾根の支脈の南斜面をカットして平坦面を造り、そこに古墳を築いているようです。このような造成方法は、終末期の古墳ではよく用いられています。
 墳丘は、盛土がほとんど失われ、石室入口付近では巨石が剥き出しになっており、現状からは墳形を見定めることは困難な状況になっています。

 石室は、両袖式の横穴式石室で、非常に精巧に作られています。岩屋山古墳と同形式の石室といえます。石室の規模は、全長11.6m、玄室の長さ5.08m、幅2.82m、羨道の長さ6.52m、幅1.94mであるようです。石材は、付近で産出する花崗岩の切石で、表面を精巧に加工調整しています。

 玄室は、各壁とも2段積みで、東西の壁は下段3石、上段2石に積み上げられています。上段は、岩屋山古墳の石室のように若干内傾して積まれています。羨道は1段に積まれており、基本的に3石で構成されています。
 玄室上の天井石は一枚の巨石で、石舞台の物を凌駕するとも言われます。

 同形の石室を持つ天理市にある峯塚古墳とは、同じ工人が造った同一設計の古墳であるとも言われ、岩屋山古墳や桜井市にあるムネサカ1号墳等とも共通する特徴があります。

 玄室には、蓋が開いた状態の刳抜式の家形石棺が残されています。写真などで見ますと、石室にはさらに空間があり、もう一つあるいは二つの石棺が置かれていても不思議ではないようにも思えます。
橿原市公式HP参照

 この古墳は、江戸時代には斉明天皇の陵墓に比定されていたこともあったようです。その真偽は別にしても、被葬者は、皇族や時代の中心で活躍した豪族クラスの人物が考えられます。

 小谷古墳の南西横に直径20m前後の円墳と思われる古墳があります。小谷南古墳です。小谷古墳とは、同じ傾斜面を整形した平坦面に在り、双墓とする説もあるようです。



 小谷古墳を後に、益田岩船に向かいました。ここの登りは、短いのですがロープに掴まって登るような急な所があります。で、今回笑いネコはズルして道の横の落ち葉の溜まった溝のような所を歩きました。これだと、最後に段になった所をよじ登るだけで良いので楽です...お薦めルート♪...但し、雨が降ったら多分通れないでしょうね。

 益田岩船は、小谷古墳に比べると有名です。  有名にした功労者は、作家の松本清張氏。ゾロアスター教の祭壇だというご意見で...個人的には祭壇ではなく横口式石槨だと思いますが。竹藪の丘に登って巨石の上の部分を見ると、その特徴的な彫り込みが良く分かります。分からないのは、何故岩の上部を彫ったのか?横を彫った方が楽だったのではないかと思うのですが。


益田岩船現地案内用資料

 益田岩船は、貝吹山から派生した東の尾根を少し下った所にあります。現在は竹薮が視界を奪っていますが、近年まで東・北東方向を遥かに見渡すことが出来ました。
 石の規模は、東西11m、南北8m、高さ5mを測り、推定の重量は160tとも言われています。

 その巨石の上面には、1.6m角で、深さ1.3mの方形の穴が二ヶ所穿たれています。また表面には、格子状の溝があり、石を加工するときの矢跡(ノミ跡)だと思われます。石は、付近にある岩船横穴墓でも利用されている花崗岩を露出させて加工した物ではないかとする説が有力です。

 (岩船横穴墓群は、その名称が示すように益田岩船が立地する山の南東斜面に造られた墓です。現在、三基(五基)確認されていますが、実数はこれ以上であると考えられます。横穴墓は、花崗岩を刳り抜いて造られています。平面的には両袖式石室と共通しているのでが、ドーム状の穴になっています。出土土器から7世紀中頃前後に造られたと考えられます。)

 この巨大な石造物が何であるのか、古くから色々な説がありました。益田池の碑文、星占台、物見台、火葬墓、拝火教の祭壇、鳥葬台、漏刻台、横口式石槨などと諸説入り乱れて論じられます。近年では、岩船を90度倒した姿の横口式石槨説が有力なようですが、未だ決定的な説は無いようです。

 岩船の謎を解くために、一つのヒントになるかも知れない事実があります。それは、岩船の石にはひびが入っているということです。上部の四角く穿たれた穴には、いつも雨水が溜まっているのですが、そこからある水位に達すると漏水を起こしています。岩船をよく観察すると、岩の中央部を横に一周するように亀裂が入り、水が漏れていることを確かめることが出来ます。このことは、岩が割れてしまったために、石造物として完成することなく、打ち捨てられた可能性を示しているようにも思えます。

 岩船の後で訪れる牽牛子塚古墳の石槨と見比べて見るのも楽しいと思います。ここから先は妄想になりますが、横口式石槨を作ろうとして失敗し、代わりに造られたのが牽牛子塚古墳であるのかも知れません・・・。


 このあと、予定のルートを変更して竹藪の中へ...事務局員にはお馴染みの獣道♪しばらく竹藪を行くと、竹と杉が混在した林の中の山道になります。そして、ぱっと視界が開けて、畑のある場所へ出たのです。ちょうど、目の前に真弓鑵子塚が見えています。真弓鑵子塚は、現在発掘調査中で入れなかったのですが、以前に入ったことがあります。通り抜け出来る珍しい古墳です。小谷古墳のような巨石ではなく、普通サイズの石(?)が持ち送りドーム状に積まれているという、全く違うタイプの古墳です。


真弓鑵子塚古墳現地案内用資料

 真弓鑵子塚古墳は、越岡丘陵の尾根の一つに築かれた古墳です。正確な規模はわかりませんが、約30m程度の円墳だろうとされています。
 玄室は片袖式で、北に2.25m、南に2.0mの袖部を持ちます。長さ6.33m、高さ4.8m。
羨道は南北に二つあり、北側の羨道は長さ3.90m、幅1.9m、高さ2.35m。南側の羨道は、幅2.26m、高さ2.28m、長さは側石が崩れてい る為に全長は不明ですが5m以上だとされています。両側壁自然石を6〜7段、前後壁は3段積みにした急な持ち送りで、天井石は三枚の巨石で構成されていま す。

 真弓鑵子塚古墳のように、玄室南北に二つの羨道部を持つ古墳は、他に例がありません。市尾墓山古墳のように、羨道のどちらか一方が奥室であった可能性も考えられるそうですが、北側には閉塞石として利用された割り石が確認されていますし、南側も前方に続くと推定されていています。
 市尾墓山古墳の場合は、石棺の蓋を石室に入れるための通路と考えられ、蓋の搬入後に閉塞されているようです。真弓鑵子塚古墳の場合も同じようにも考えられるのですが、確証はないようです。
 現在、明日香村埋蔵文化財課が発掘調査を行っており、石室内の見学は出来ないのが残念です。成果の発表を待ちたいと思います。

 石室内からは、凝灰岩の破片が採集されており、石棺が安置されていたようですが、大半の副葬品とともに失われています。出土した遺物には、表面獣面の金銅製装飾金具、金銅製馬具、須恵器蓋付杯、高杯破片などがあります。

石室空間の規模は大きく、見瀬丸山古墳・石舞台古墳・赤坂天王山古墳・牧野古墳に続く大きさになります。背の高い穹窿式(ドーム式)の石室を持つ古墳は、この地域には多く存在しており、出土遺物などからも渡来系氏族の墳墓である可能性が高いと指摘されています。
 築造時期は、飛鳥に初めて宮が置かれ始めた6世紀後半から末頃にかけての時期と考えられます。


 鑵子塚古墳を右手に見ながら、牽牛子塚古墳へと向かいました。フカフカの落ち葉の道は歩いていて気持ちが良いのですが、坂道は滑るので要注意です。

 牽牛子塚古墳は、先ほど見た益田岩船の巨石はこれを造ろうとしていたのではないかと思えるような形をした石槨を持った古墳です。墳丘の形をアサガオに喩えて牽牛子塚という名前が付いたのだそうですが、やはりここも墳丘の形は崩れてはっきりしません。


牽牛子塚古墳現地案内用資料

 牽牛子塚古墳は、飛鳥中心部の南西方向、真弓の丘と呼ばれる丘陵の上部に位置しています。南から東にかけ、栗原・檜前・平田・野口辺りを眺望することが出来ます。

 7世紀の後半に二段に築成された多角形(八角形)の古墳である可能性が指摘されています。墳丘の一部には直線的な部分が有るとされ、八角墳とした場合の墳丘の規模は、対辺長18.5m、高さ約4mとなるようです。 また、貼石と思われる石が露出している部分もあります。天武・持統陵に似た造りになっていたのかも知れません。

 石室は、巨大な一石で造り出されています。巨石は、高さは3m、幅4.5m、奥行3mを測り、その石を刳り抜いて南に開口する石槨を造っています。石材は、二上山で産する凝灰岩を用いており、この巨石を運搬して来たことが分かります。



 石室内は、中央に幅40cmの壁を挟み、二室を造っています。それぞれの大きさは、長さ1.9m、幅1.2m、高さ1.25mで、天井は丸みを持たせて仕上げています。また、床には側壁側に棺台を造り出しています。

 出土遺物には、夾紵棺(漆と麻布を何度も塗り重ねて作った棺)の破片、金銅製八花文飾金具、七宝製亀甲形飾金具、ガラス玉類と、人骨と歯が一本発見されています。出土品は、飛鳥資料館にて展示されていますので、いつでも見ることが出来ます。

 墳形が八角形である可能性が高い点や遺物の質が高いことなど、高貴な身分の被葬者が考えられます。斉明天皇と間人皇女の合葬墓であるという説が最も有力であるように思えます。初めから二人を葬るために二室を造り出している点などからも、健皇子との合葬を願った斉明天皇の陵墓であると指摘する説も肯けます。
 河上先生は、八角形墳だとする説に疑問を投げかけられ、川島皇子説を主張されています。また浅香王とする説もあるそうです。

 検出された出土遺物の中に歯が含まれているのですが、鑑定によると小臼歯で年齢は30〜40歳代と推定されました。この推定年齢は、間人皇女の没年齢とも合致するように思います。

 牽牛子塚古墳の所在地は、明日香村大字越字御前塚と言うようです。古くから、高貴な人を葬ったお墓であるとの伝承があったのでしょうか。アサガオ塚という名前は、女性をイメージさせるのですが・・・。(牽牛子とはアサガオのことです。)


牽牛子塚古墳出土「七宝製亀甲形飾金具」 (飛鳥資料館展示品)
明日香村教育委員会および奈良文化財研究所の許可を得て掲載しています。
転載不可

 牽牛子塚古墳の出土遺物の中で、ひときわ注目されるのが七宝飾金具です。この金具は、六角形の亀甲形に作られており、中央に釘穴が開けられています。釘穴の周囲には、六花文をかたどり七宝の手法を用いた文様が施されています。
  七宝(焼)とは、銅・銀などの金属の表面にガラス質の釉薬(うわぐすり)を焼き付ける工芸技法のことですが、この飾金具には臙脂色と緑色のガラスを使った物がありました。
 一個の大きさは、4.6cm 〜 4.7cmの長辺と2.9cm 〜 3.3cmの短辺からなり、厚さは3mm 〜 4mmになります。

金銅製八花文座金具 鉄製鋲

飛鳥資料館展示品
明日香村教育委員会および奈良文化財研究所の許可を得て掲載しています。
転載不可

 「牽牛子」は、アサガオの漢名で、種子を乾燥して作る生薬名でもあります。日本固有種ではなく、原産地はアジアで、遣唐使が薬用として持ち帰ったという説もあります。薬効は峻下薬、利尿、駆虫。但し、有毒なので素人療法は禁物です。江戸時代には観賞用として様々な交配種が作られ、大人気でした。そういったところから、古墳の命名がされたのでしょうか?形からだけなら、元々日本にある「ヒルガオ」でも良かったはずです。「鼓子花古墳」になってしまいますが。(笑いネコの脱線植物講座でした。(^_^;))

 急な坂道を下って越の集落に向かいました。日陰の道は、寒い!(x。x)゚゚゚
ちょっと、勧請綱掛神事が思いやられます。例年寒いのです!

 岩屋山古墳の手前に大きな道標があります。前に通ったとき、どうしても読めない所がありました。あとで「明日香風」にタイムリーにその石碑の話題が載っていた事を教えてもらい、書かれている地名は分かったのですが、どうしてそう読むのかが良く分かりませんでした。今回は両槻会平安時代担当の伏見さんが一緒だったので、あっさり解決。悩みの種は、「ちわら(茅原)」と書いてあるという部分でした。真ん中の「わ」のはずの所が「里」に見えたので、何故「わ」と読むのか不思議だったのですが、「王」という字だそうです。そう言えば「王仁(わに)」ですよね!


 岩屋山古墳は、見事な切石で作られた石室を持っています。うっかりすると、復元石室?と思ってしまいそうなほど、表面の加工は素晴らしい出来です。ここも、墳丘は原形をとどめていませんが、やはりこれほどの大きくて加工の見事な切石を使った古墳は、地位の高い被葬者のものと考えられますね。今でこそ、周辺は家が建て混んで見晴らしがイマイチになってしまっていますが、築造当時は素晴らしい飛鳥の風景が広がっていたはずです。


岩屋山古墳現地案内用資料

 岩屋山古墳は、精巧に築かれた石室を持つ終末期の古墳です(七世紀前半)。墳形は、西側半分ほどが大きく削られているため、規模と共に明確にすることは難しいようですが、概ね二段築成の方墳であったと考えられるようです。一辺は、約40m(45mとする説あり)、高さ約12mとされています。
 下段は、方墳とする見方が大勢ですが、上方は八角形とする考え方もあるようです。

 石室は、南に開口する両袖式の横穴式石室です。全長17.7m、玄室長4.8m、幅2.8m、高さ2.96m〜3.1m、羨道長12.9m、幅2.3m、高さ1.75m〜2.18mを測ります。

 壁面は、玄室が2石積みで奥壁上下各1石、下段3石、側石上段2石で、羨道部分は玄門側(奥)が1石積みで羨門側(入口側)が2石積みとなっています。天井石は、玄室1石、羨道5石で構成されています。
 このような構造をした石室は、岩屋山式と呼ばれています。小谷古墳や峯塚古墳(天理市)等でも確認され、特にムネサカ一号墳(桜井市)は、小谷古墳の項でも書きましたが、同じ設計基準をもとに築造されたと考えられており、両者の関係が注目されています。

 石室を構成する切石は、飛鳥石(石英閃緑岩)が用いられており、表面を小叩き技法という方法によって平らに加工しています。切石の隙間は、丁寧に漆喰が塗り込められ、非常に精緻な印象を与えます。また、羨道と玄室は奥へ行くほど広がリ、長く見えるように工夫されているようです。

 羨門部の天井石には一本の溝が彫られており、外から天井石に伝わった水が石室内に入ることがないように溝の部分で遮るように工夫されています。また、玄室内の水は、敷き詰められた礫を伝い、羨道の暗渠排水溝を通って石室外に排水される構造になっています。

 玄室に棺は現存しませんが、同形式の小谷古墳で刳抜式家形石棺が使用されており、ムネサカ1号墳でも凝灰岩の破片が多く出土していることから、岩屋山古墳でも凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されています。

 被葬者については、規模や精緻な石室から、斉明天皇や吉備姫王などが有力視されています。上方の墳形が八角形ならば、斉明天皇の陵墓である可能性は高くなるかもしれませんが、同形石室がたくさんある点に疑問が残りそうです。


 さて、一行は飛鳥駅に出て、バスで石舞台へと向かいます。順調に歩けたので、バスの時間には余裕がありました。で...バスは両槻会貸切状態!石舞台に着いた所で、事務局長から「都塚古墳に寄ろう」という提案があって、行ったことのない参加者もあったことから、都塚古墳経由で昼食場所の祝戸荘へ向かうことになりました。けど...朝が早かったからお腹空いた!(^_^;)

 都塚古墳は、石舞台の北側にあり石室の開口方向や墳丘の形が、石舞台古墳と同じなので、石舞台古墳を蘇我馬子、都塚古墳を蘇我蝦夷と入鹿という説もあるようですが、実際は都塚古墳の方が古いらしいので、これはあり得ませんね。


都塚古墳

 都塚古墳は、石棺が納められたままの姿を見れる古墳です。築造は6世紀後半とされて、飛鳥時代の直前から初めに掛けての時代に造られた古墳のようです。
 墳丘は原形を留めておらず、規模や墳形は確かな数値は分からないようです。円墳と見なした場合は、直径30mほど、方墳とした場合は、一辺28m程度と推定されています。

 両袖式の横穴式石室は、長さ12.2m、玄室長5.3m、幅2.8m、高さ3.55mを測ります。石室内に納められた石棺は、長さ2.36m、幅1.58m、高さ0.64mの6突起の刳抜式家形のものです。

 出土遺物は、玄室内で刀子、鉄ぞく、小札、須恵器片が出土し、羨道からは留金具、須恵器が出土したそうです。また、玄室入り口付近から鉄釘片や顔料が検出されているようで、木棺が追葬されていた可能性もあるのだそうです。

 都塚古墳は、別名「金鶏塚古墳」と呼ばれます。これは毎年元旦に、この塚の上で金鶏が鳴くという伝承から名付けられたと言います。

 被葬者を考えてみますと、石舞台古墳からあまり離れていない点を重視すれば、蘇我氏に連なる人のお墓とも考えられますが、近くに在る坂田寺を考慮すれば鞍作氏なども候補に挙がるのかも知れません。飛鳥寺の丈六仏など仏師として知られる鞍作止利を排出した一族ですから、蘇我氏との関係も良好だと考えれば・・・。


 祝戸荘での昼食は、御飯とおみそ汁はセルフサービスだったのですが、ここは皆さんの連係プレーで、スムースに配膳が整いました。御飯は古代米入りのと、白米のと2種類用意されていて、お代わり出来るのが好評でした。
 食後に、場所を研修室に移して懇親会を行いました。初めて、ゆっくり時間を取っての自己紹介となりましたが、皆さんよくお話しして下さって、これからの例会に向けて、更にお付き合いが深まるかも、と思えました。

 祝戸荘からこの日最後の古墳、稲渕の塚本古墳へと向かいました。
歩き慣れた稲渕への道...お腹いっぱいになって、もうそんなに寒くも感じません。
塚本古墳は、以前に比べると随分綺麗に手入れされています。初めて塚本古墳に行ったときは、余りの惨状にショックだったのを覚えています。農機具置き場?ゴミ捨て場??でしたから。


塚本古墳 現状

塚本古墳現地案内用資料

 塚本古墳は、飛鳥川の左岸、山頂から南東方向に延びる尾根の先端を切断して築造された古墳です。墳形は、二段以上に築成されていたようで、方墳とみられています。

 古墳の規模は、周辺の発掘調査から、南北39.5m・東西39mの方墳であったと考えられています。
 築造時期は、石室構造からみて七世紀前半であるとされ、石舞台古墳に近い時期と構造を持っていたと考えられています。

 石室は、一部切石を用いた両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口しています。石室の規模は、全長12.5m以上、玄室長は、東側壁で4.35m、西側壁で4.60m、玄室幅は奥壁で2.25m、玄室高は奥壁で2.80mだそうです。

 玄室床面の中央部分には、棺台が設置されていました。棺台の外側、石室の床面には5cm前後の小礫が厚さ15〜20cmに及んで敷かれ、羨道床面は黄褐色粘質土の貼土が全面に施され排水溝が掘削されていたようです。

 安置されていた石棺は、二上山の凝灰岩で作られた六突起の刳抜式家形石棺でしたが、玄門から羨道にかけて蓋のみが放置されていました。これは玄室の棺台から移動させられたもので、棺身は持ち去られたのでしょう。
 副葬品は、盗掘のためか残っていなかったそうです。


 賑やかに喋りながら案山子ロードを下り、稲渕の「男綱勧請綱掛神事」が行われる飛鳥川の橋の所に着いてびっくり!もう、綱にシンボルや御幣、藁の飾など付け終わって、これから飛鳥川の両岸の丘の木に綱を掛け始めようというところだったのです。これで3回目になりますが、今まではこの時間だと、ようやく綱を上の自動車道路の橋に持って上がるところくらいでしたから。遅ればせながら、みんなで綱を運ぶお手伝い♪



 今年は、東岸の綱を架ける木が変わっていたようです。以前はもっと林の奥に入っていたように思うんですが、一番道路よりの木に掛けていました。
神主さんの祝詞が始まり...と、橋の上からゾロゾロ移動を始める一行。
目的地は、橋のたもとの村の売店。豚汁に古代米のお餅、蒟蒻など、地元で取れた材料で地元の方手作りの暖かいご馳走♪...丁度おやつのお時間!

 男綱勧請神事も無事終わり、会長の締めの挨拶の後、ここで一応解散です。あとは、希望者だけオプションで明日香村大字飛鳥の「とんど」を見学することになっています。帰宅される皆さんと、石舞台のバス停で別れ、飛鳥庵へ。
 途中の飛鳥京正殿跡辺りの田圃にも、「とんど」の準備が出来ていましたが...どう見てもゴミ捨て場!!お飾りなどを、持ってきた袋ごと(ゴミ捨て用のポリ袋までありました!)組んだ藁の所に突っ込んでいるのです。もうちょっと伝統行事に対して、デリカシーを持って欲しいなと思いました。もしかしたら、ついでに燃えるゴミを詰めてるんじゃないか、なんて疑ってしまったりして。
 大字飛鳥の「とんど」は、そんなにゴミだらけという感じではありませんでした。紙の手提げ袋は有りましたが、ポリ袋を突っ込むというような無神経なのはありませでしたから。

 点火は6時の予定です。時間有りすぎ!!
兎に角寒いのです。飛鳥庵のおばちゃんに大きなやかん1杯のお湯とお茶のパックをいただいて、温かいお茶を...えー、暖かい「おちゃけ」の方がよろしい方もありまして、やかんのお湯は一部お燗のお湯に。(^_^;)
そして、 待ちに待った点火!!
暖かいのです♪
火って素晴らしいですね!!!



 この「とんど」の火を、提灯に移して家に持ち帰り、神棚の灯明にしたり、小豆がゆを炊くのだそうで、次々に提灯を持って集まり、火をともした提灯を持って家路を急ぐ方達がありました。
「とんど」の火で、心も体も温まり、第六回両槻会定例会はオプション行事まですべて無事終了しました。
 事務局長を中心に、みんなの準備の甲斐あって、一人の迷子もなく(笑)、楽しい1日が終わったのでした。


 急な予定変更によって、見学出来なかった沼山古墳をご紹介します。

沼山古墳

 沼山古墳は、白橿近隣公園として整備された丘の上に在ります。6世紀後半に築かれた円墳とされています。径18m、高さ5.5mで、右片袖式の横穴式石室を持っています。全長9.45m。玄室は長さ4.95m、幅2.95m、高さ5.3m、羨道長4.5m、幅と高さは約1.8mです。
 数値でも分かるように、この古墳の特徴は玄室の高さにあります。玄室は花崗岩の自然石を積み上げており、玄室の床と天上部の面積の比は5対1であるとされ、背の高いドーム状の様相を見せています。(穹窿式石室)
 このような特徴は、近くの乾城古墳、与楽鑵子塚古墳、真弓鑵子塚古墳にも見受けられ、同一の技術集団が築造したと考えられています。

 出土した遺物には、銀製の空玉、ガラス小玉、トンボ玉などの装身具や金銅製の鞍、飾金具、辻金具などの馬具、また釘などの鉄製品、須恵器、土師器などがありました。また玄室中央からは、甕・竈などのミニチュア炊飯具のセットが出土しています。

 沼山古墳のある地域=見瀬(身狭・むさ)は、渡来系の東漢氏が定住したとされる檜前とも近く、渡来系の人の墳墓と考えられているようです。





製作 両槻会事務局  笑いネコ ・ 風人

2008/1/20

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