両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第八回定例会

新緑の奥飛鳥探訪

− 奥飛鳥の神秘女淵を訪ね皇極天皇雨乞いの謎に迫る −

2008年5月10日

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両槻会第8回定例会「新緑の奥飛鳥探訪」レポート

 5月10日飛鳥駅に10時35分、無断欠席、遅刻もなく27名全員が集合しました。しかし「皇極天皇の雨乞いの謎に迫る」などと銘打ったせいでしょうか、生憎の雨模様でした。前日から天気予報は雨、各人それぞれ雨支度をしてきています。全身カッパで身を覆い傘などささない強者もいれば、傘だけの軽装備の者や慣れた装備で何時でも掛かってこい形式の者様々です。傘の色も赤白黄色と派手やかです。全員の点呼を確認してバスに乗り込みました。ワイワイガヤガヤ何とも賑やかな車内です。まあ小学校の遠足気分です。健康福祉センターで「金かめバス」に乗り換えて終点「栢森」までこの調子です。

 「栢森」に到着。ここでやっと「あっ、やっぱり雨が降っているんだ」と再認識した次第です。先ずは腹ごしらえと一行は栢森の集落を通り「加夜奈留美命神社」の拝殿を借り昼食を取りました。「加夜奈留美(かやなるみ)」とは余り聞かない名前ですが、唯一「出雲国造神賀詞」という時の天皇を褒め称える神賀詞の中に出てくる神様です。この神様が何処から来たのか明確な検証はされていませんが音から「加夜」=「カヤ」=「伽耶」即ち韓国系の神様ではないかとも言われています。
 昼食後、風人さんからこの神社に係わる説明があり参加者一同「ああ、そう言うところだったんだ」と納得しました。詳細については風人さんの用意してくれた「第8回定例会資料」(以下「資料」と略)をご参照下さい。

 当日配布参考資料 加夜奈留美命神社



 「加夜奈留美命神社」を後にし今回の本来のスタート地「女淵」へと向かいました。栢森の家並を抜けると集落を見下ろせる高台に出ます。そこから栢森の集落を見渡すと小雨に煙る中、大きな二本の鯉のぼりが棚引いているのが目を引き、改めて「五月なんだなあ」と思わされました。一行はそこから川沿いの女淵への遊歩道のような道を進み10分ほどで女淵に到着します。
 女淵は滝となっておりその滝壺には龍神が住むと言われているある種神聖な場所でもあります。日本書紀に見える皇極天皇が雨乞いの儀式をしたのもこの辺りかも知れません。当日は雨のためか水が少々濁っていましたが普段は綺麗な清流の滝を見ることが出来ます。この場所の詳細も「資料」をご参照下さい。今回の定例会には埼玉県から3名の方々が参加されていましたが、その方々が「こんな所まで一人じゃ怖くて来れないものね」と話されていましたが、確かに考えてみれば初めての方にはそう思えても可笑しくない奥山な訳です。楽しんで頂けたことと思います。

 当日配布参考資料 女淵


 女淵からは下りです。バスで上ってきた道を下ります。栢森の集落を後に少し歩くと飛鳥川に「女綱」が架かっているところに出ます。一年間の無病息災、五穀豊穣を祈願して毎年正月に行われる神事です。川下の「男綱」と対称に架けられている訳ですが何故か男綱の神事は神主が取り仕切りますが、女綱の方はお寺のお坊さんが行います。女綱の真下、道路脇に小さな磐座があります。福石と呼ばれているもので、やはり龍神信仰の表れだと思われます。女綱の詳細に関しても「資料」をご参照下さい。

 当日配布参考資料 女綱


 女綱を暫く下ると右手道路脇にやはり福石と同じ様な石像物や祠が見られます。いかに水に対する信仰が篤かったかが伺われます。もう少し下った所の右手に長い階段が見えてきます。「飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社」です。ご神体は三輪山と同じく後ろに控える「宮山」となっています。階段は190段ほどあります。 雨の中、有志15人程が境内まで登りました。この宇須多伎比賣命神社は雨乞いの神社としても有名で「なもで踊り」が明治頃まであったと言われています。またこの宇須多伎は付近を流れる飛鳥川が急流で滝のような様相を呈しているところから「渦」+「滝」=ウスタキと呼ばれるようになったとも言われています。 詳しくは「資料」をご参照下さい。宇須多伎比賣命神社を後に暫く下ると稲淵の集落が見えてきます。ここで一寸右手奥に南淵請安の墓に寄りました。

 当日配布参考資料 宇須多岐比売命神社


 南淵請安は608年聖徳太子の命により、小野妹子等と隋に向かった第2回遣隋使の一員です。渡来系の人物であったと言われています。彼は隋の国で隋から唐へ国が変わる大変動期を体験して640年に帰国します。彼は帰国後それらの経験を基に塾を開きます。そこに通っていたのが蘇我入鹿であり中臣鎌足であり中大兄皇子であったと言われています。因みにその塾への道すがら中臣鎌足と中大兄皇子は乙巳の変に向けての相談をしたと言われています。詳しくは「資料」をご参照下さい。彼の墓は丘の上にあるのですが「南淵請安の墓」と書かれたすぐ側に神社の祠があるのでこれと間違ってしまいそうですが、そこではなくその裏側に里を見下ろすように建っています。またこの丘は桜の木で囲まれており桜の季節には素晴らしい景勝の地となります。「南淵請安」の墓を降り直ぐ隣に龍福寺というお寺があります。

 当日配布参考資料 南淵請安の墓


 「龍福寺」は何の変哲もない浄土宗のお寺ですが、何とそこに日本最古と言われる「在銘石造層塔」があります。所謂石に文字を刻んだ層塔な訳で、中に751年作であることが分かります。また「竹野王」とあることから「竹野王」に関係した文章であろうと思われますが「竹野王」が誰であったか比定できていません。一 行はこの石を見学し「こんなところにこんなもんがあって良いのかなあ」等と疑問を持ちながらお寺を後にしました。層塔の詳細については「資料」をご参照下 さい。

 当日配布参考資料 竜福寺


 「龍福寺」を下った直ぐ左手の飛鳥川に「飛び石」と呼ばれる川を渡るための平たい石が川面に出ています。普段はこの石を伝って川を渡ることが出来るのですが、当日は雨のため増水しており、石の上を川の水が流れ渡ることは出来ませんでした。石の右手にはちゃんとした橋があり別に敢えて「飛び石」を伝って渡らなくても良いのですが、晴れた日には何故かちゃんとした橋を渡るよりもこの「飛び石」を伝って飛鳥川のせせらぎを聞きながら川を渡りたくなるものです。ここの 詳細も「資料」をご参照下さい。

 当日配布参考資料 飛び石


 さて川を渡り暫く進むと「女綱」と対称になる「男綱」の下に出ます。「男綱」も「女綱」同様、勧請縄架け神事が行われ無病息災、五穀豊穣を祈願するものです。ここの綱架けは毎年成人の日に行われるので一般の人も見学参加出来ます。「女綱」の方は何故か1月11日と決まっていますので、運良く休みでなければ見に行けません。神事の詳細等については「資料」をご参照下さい。

 当日配布参考資料 男綱


 ここから一行は「案山子ロード」を登りました。「彼岸花まつり」のときはこの道の両脇に所狭しと案山子が並ぶ道です。この道を上ったところが「朝風峠」と呼ばれる峠です。ここから西側の景色も雄大なものがあり、遠くは葛城山系を望めます。生憎の雨のため遠くまで見渡せませんでしたが靄の立つ山並みもまた乙なものだったと思います。ここから下界を見下ろした一帯が「檜隈」と呼ばれる地域となります。「檜隈」は蘇我氏が権力を持って繁栄していた頃、東漢と呼ばれる渡来系の人々が集落をなしていたところです。一行は「檜隈」を目指して下りていきました。栗原と言う場所の道端に小さなお地蔵さんが見えます。「右岡寺」と小さく書いてあります。方向的にあっているので出鱈目に置いてある訳でもないのですが、誰が何時置いたかは分かりません。小さな可愛いお地蔵さんなので何かホットする神秘さを抱いています。「檜隈」に関しては「資料」をご参照下さい。
 
 当日配布資料 朝風峠・檜隈野
 参考写真


 栗原のお地蔵さんから「檜隈」に向かい左に行くとキトラ古墳のある道を真っ直ぐに横切ると今回の最終目的地「檜隈寺跡」に至ります。ここは今では於美阿志神社が建てられています。東漢の祖先を祭神としているところです。また当地は宣化天皇の宮跡でもありその地を選んだのが蘇我氏であるともされ、その時代から天皇家と蘇我氏の繋がりがあったことは興味深いものがあります。檜隈寺の造りは土地の形状のためか少し変わったものになっていますが詳細については「資料」をご参照下さい。

 当日配布資料 檜隈寺跡


 雨の中参加された皆さんは多かれ少なかれ濡れてしまいました。でも奥飛鳥を堪能できたものと思っています。風邪など召しませんよう次回の定例会も楽しみにして下さい。

                                         記事担当 TOM
                                         写真担当 河内太古

第八回定例会当日配布資料

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