講演会がある時、事務局員&サブは会場班と散策班に分かれ、それぞれ役割が課せられています。今回も私は会場班と言う事で散策は途中までとなり、後は会場である飛鳥資料館のホールで、机や椅子の配置、配布資料の用意、会場の受付等をさせて頂きました。梅雨明け直前と言う事で、朝から茹だる様な暑さの中、散策班は遺跡めぐりをされていて、涼しい会場の中で過ごせているのがとても申し訳ない気分に浸りつつ、極楽を経験させて頂きました。(笑)
暑さで顔を真っ赤にして散策班がご到着、また、散策されずに直接会場入りされた方もおられ会場は大賑わいになりました。名前とお顔を確認しながら私は<参加証>と<講演資料>を手渡しました。この参加証、毎回絵柄が違っています。毎回お題に副った絵を風人さんが描いてくれています。これを頂くこともまた参加する楽しみのひとつとなっています。
いよいよ市先生のお話。一言も聞き逃さないぞと、会場はさっきの賑やかさとは真反対にシーンと静まり返っていた中、市先生のご登場。思っていたよりずっと若くて素敵な先生でした。先生の開口一番は「みなさん、木簡を実際にご覧になられた事のある方いらっしゃいますか?」で、さすが歴史好きさんが多い会場は、沢山の手が上がり、その数に先生は少し驚いておられました。本当の木簡は、たった一度しか目にする事がないからです。その唯一の機会は遺跡の発掘調査の現地説明会だから、そんなに現地説明会に足を運んでいるのかと驚かれたようです。私は悲しいかな歴史にはあまり触れない人間なので、現地説明会は数えるくらいしか行ってませんので勿論本物を目にしたことは一度もありません。
飛鳥池遺跡を、飛鳥寺関連の木簡が出土した北地区と富本銭など工房関連の木簡が出土した南地区と分け、私が興味を持ったのは南地区でした。頂いた資料の中の図面を眺めつつ、高所から低所にかけて段々畑のように作られた水溜りは<ゴミ箱>の役目も果たしていて、上澄みが次の水溜りを作り、またその上澄みが次の水溜りを作るように設計されているのだと市先生の説明があり、昔の人の知恵は凄い!って思いました。もうその頃にはそんな技術や知恵があったのですね。その沈殿したゴミの中に多数の木簡も捨てられていたようです。その南地区で発見された木簡の327点の内、142点は木簡を削った削りクズだったそうで、その削りクズにも様々な文字が残されていて、そこから断片的に見えてくる当時の暮らしや人間の思いみたいなのが感じられて面白くて、先生の話にますます引き込まれました。木簡は文字を記すだけではなく、見本(様:ためし)として様々な姿をしているのを初めて知りました。釘を注文する時は釘の型に、お米を注文(納品)した時は俵型にしていたようで、写真などが無かった当時ですが、こんな手法で一目で判別出来る仕組みになっていたのですね。
両槻会の講演会で一番良いところは、先生との距離がとても狭いこと。手を出せば先生が・・・ではありませんが、質問がとてもしやすい事です。今回も歴史を知らないと言うことを前提に先生へ初歩的な質問をさせて頂きました。
Q1.本や資料でみる木簡の文字は判別出来ないが、先生はどうやって判別されていますか?
A1.出土したばかりの時は本や資料よりも鮮明ですが、判読不明な部分も多いのは確かで、そんな場合は赤外線で文字を読みます。シミや陰、凹みなども反応してしまうので、必ず人間の目で確かめながら判読しています。どうしてもわからない部分は、過去の木簡などと照らし合わせて、同じ文字の使い方をしていないか調べています。木簡の文字には法則のようなものが存在している事が多いので、ある程度判読出来ます。
Q2.出土した木簡は、その後どんな保存をされていますか?
A2.水分を含んだ粘土質に埋まっていた木簡を、空気に触れさせると一瞬にして老朽が進み朽ち果ててしまうので、ホウ酸と砂を混ぜた水(ホウ酸ホウ砂)で保存しています。一年に一度、最近は夏休みに学生がアルバイトで水を替えています。これが大変な作業なのです。40年以上も大切に保存されている木簡もありますよ。
木簡と言うのは、古代の人が木に書いた物を言うのだろうと思っていましたが、先生は「木簡は特別な物だと思われがちですが、現代の人が木に文字を書いて埋めた物が掘り起こされたとしても、木簡と言うんですよ。例えば、自宅の表札(木に墨で書いた苗字)を土に埋めたとして、それを誰かが掘り起こせば、それは木簡なのですよ。」私にとって遠い存在だった<木簡>がグンと身近に感じられた一瞬です。歴史・・・決して遠い存在の難しいものじゃなく、もっと身近で面白く感じられるものなのかも知れないと、また少し歴史に一歩足を踏み入れるキッカケを下さった市先生に感謝申し上げます。楽しい講演をありがとうございました。
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