両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪





 飛鳥寺西をめぐる諸問題
-第42回定例会に向けて-


明日香村教育委員会 文化財課 調整員
相原嘉之先生
 
(13.11.15発行 Vol.174に掲載)


 明日香村教育委員会は、飛鳥寺の西方地域の発掘調査を継続しています。その結果、この地域は石敷で覆われた広場であったことが解明されてきました。この「飛鳥寺の西」の地域は、『日本書紀』の中でも、幾度となく記載されています。この場所は、乙巳の変の発端となった中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場でした。さらに斉明朝には須彌山のもとで蝦夷の饗宴が行われ、壬申の乱においては近江軍の駐屯地となり、天武朝には槻樹の下で夷狄への饗宴が行われています。このように飛鳥寺西地域は、飛鳥時代の歴史のエポックに必ず現れる重要な地域で、史料からは蝦夷や隼人などの夷狄に対する饗宴の場であったことが推測されています。

 この「飛鳥寺西」の地域を考える時、飛鳥寺西方遺跡だけでなく、その北にある水落遺跡。そして、石神遺跡の調査成果も整理する必要があります。水落遺跡といえば、水時計台の遺跡。石神遺跡は迎賓館であることが注目されています。しかし、両遺跡とも斉明朝以前の施設、以降の施設もあり、これらを時系列で整理すると、必ずしも水時計・迎賓館だけではない性格も見え隠れしてきました。

 これまで、飛鳥寺北方地域を検討してきた中で、小墾田兵庫や小墾田宮の可能性が、推定できるようになってきました。これらを含めて、飛鳥寺西の地域にある遺跡の歴史的な変遷とその性格を考えてみたいと思います。

 この地域の主たる性格は、夷狄の饗宴に関わる遺跡であることは、史料と遺跡の両面からわかります。しかし、この他にも、時期によっては、王宮や行宮、武器庫や駐屯地であった時期があることもわかりました。これらは、あくまでも副次的な性格ですが、これまであまり注目されていなかった点です。いずれにしても、この地域が夷狄の饗宴の場であり、それは天皇の支配が及ぶ世界の中心を示す場所であったことがわかります。その象徴として須彌山や漏刻が斉明朝に造られたのです。そして、槻樹の下で儀礼を行い、この儀礼に伴う迎賓館があったのです。天皇と群臣との君臣統合の場であった槻樹、外交使節団をもてなす迎賓館、この両者が統合されて、夷狄の饗給の空間に変化して、ここが「天下の中心」に位置付けられたのです。

 今回はまず、史料からみた飛鳥寺西について整理します。そして、この地域の遺跡を時期的に整理し、それぞれの時期における遺跡の性格を検討します。その中から、ここが飛鳥の中心であることを考えてみたいと思います。

























 嶋宮をめぐる諸問題
- 第27回定例会に向けて -


明日香村教育委員会 文化財課 調整員
相原嘉之先生
 
(11.6.10発行 Vol.109に掲載)


 飛鳥地域において嶋宮は、飛鳥宮や小墾田宮と並んで、天皇家の離宮として重要な存在でした。その嶋宮は蘇我馬子の邸宅にはじまり、草壁皇子の嶋宮につながることはよく知られています。これまでにも歴史上に度々登場しており、その時々に重要な位置づけがなされてきました。その候補地である島庄遺跡には、方形池や石舞台古墳が存在することから、所在地についての有力な証明材料とされています。

 近年、島庄遺跡の発掘調査が著しく進んできました。その結果、遺跡の変遷や空間利用状況が解明されてきました。それによると、島庄遺跡は7世紀を大きく4時期に区分できます。Ⅰ期は推古朝の方形池や建物群が建てられた時期、石舞台古墳もこの時期の後半に作られました。Ⅱ期は舒明・皇極朝で人工の河川や建物、Ⅲ期は斉明・天智朝に該当します。これらの施設はいずれも地形に合わせた方位をもつものでしたが、Ⅳ期の天武・持統朝になると正方位の施設が建ち並ぶようになります。つまり全体に造成し直し、計画的・大規模な規格変更があったことがわかります。このような遺跡の変遷と、史料にみる嶋家・嶋宮の居住者を対比してみると、Ⅰ期は蘇我馬子、Ⅱ期は嶋皇祖母命(舒明の母)と吉備嶋皇祖母命(皇極の母)、Ⅲ期は嶋皇祖母命(舒明の母)、そしてⅣ期が草壁皇子の時代に対応することは注目できます。

 さらに遺跡内部の利用形態を整理すると、北部地区は方形池や苑池を中心とした空間、南部地区は邸宅や離宮などの居住空間、東部地区が古墳などの墓域空間、西部地区が水田などの経済基盤を支える空間と整理することができます。大きくみて、遺跡の内部をこのように区分し、それぞれの性格の違いを指摘できます。

 これら島庄遺跡の変遷や地区区分の検討過程において、いくつかの派生する問題があります。例えば、苑池については、方形池が庭園の池であるのか?石舞台古墳は蘇我馬子の墓なのか?東橘遺跡は嶋宮の一部なのか?などなど多岐にわたります。今回は、嶋宮の解明にも大きく関わるこれらの課題についても検討することにします。飛鳥時代の苑池は、構造によっていくつかの性格に分かれます。その検討の中では、島庄遺跡の方形池は貯水池的機能が強い池と考えられました。また、石舞台古墳は馬子の墓と考えてよく、古墳の変遷からみると、岩屋山古墳や鬼の俎、さらには牽牛子塚古墳の年代にも及びます。また、蘇我馬子の嶋家の近くにあったとされる中大兄皇子宮も近くに推定でき、これに関わって、皇族の宮々についても検討を加えることにします。

 今回は嶋宮そのものの検討と、そこから派生する課題について、「嶋宮をめぐる諸問題」と題して、みなさんと考えてみたいと思います。





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