両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



両槻会4周年・飛鳥遊訪マガジン100号記念特別寄稿


 ある日の明日香

奈良県立民俗博物館 学芸課長 鹿谷勲先生
 
(11.2.18.発行 Vol.101に掲載)


 今から21年前の1月13日、土曜日の午後に明日香を訪れたことがある。年末に診てもらいに行った明日香の整体師のもとへ、再び行くためだった。歩くと左のかかとが痛く、歩行がぎこちないのが苦になっていた。指示されたとおり、八木のK医院で腰部と頸部のレントゲン写真を撮ってもらった。写真を入れた大きな紙袋を抱えて、橿原神宮に向かい、明日香行きのバスに乗る。昔懐かしいボンネットバスだった。車掌も同乗していて懐かしかったが、内装は古びたままで、みすぼらしかった。

 停留所を間違えて、飛鳥で降りてしまう。八釣まで歩かなければならない。仕方なく歩いていると、子ども3人に出会う。一人は一輪車を押していて、中には注連縄がいくつか入っていた。一番年長の小学校5、6年生の女の子は、紙切れを見ながら「次は○○さんのとこ」などと話している。トンドの材料集めだろう。子どもたちが頼もしく見える。東に少し歩くと、三叉路の真ん中に藁と注連縄と松が積んである。ここでトンドをするのだろうかと写真を撮る。さらに何軒か東の家には、玄関先に注連縄・門松・藁・豆ガラが置いてある。子どもたちのために玄関に燃やすものを出しているのだった。カメラを向けると近くの家から婦人が顔を出して、怪訝そうに私を見たので、こちらから声を掛ける。明日14日夕方、集落南の田でトンドがあるという。トンド場を見ようと細道を南へ行くと、飛鳥寺の参道にも大きく藁などが積んである。様子を見て引き返そうとすると、作業着姿の男が近づいてくる。あとから藁や注連飾りを積んだトラックがやってきて、藁の近くに止まるとすぐに積み始めた。トラックの荷台には子どもが3人乗っている。夕方6時からトンドをするのだという。2枚ほど写真を撮ってその場を離れると、数人の女の子を中心とした集団が、ある家の玄関先を覗いている。カメラのシャッター音に子どもたちはハッとしている。さっきトラックで集めているのを見たと話す。この子どもたちは注連縄だけでなく、お金も集めていたのかもしれない。飛鳥の集落で、あちこちでトンドのために動き回る子どもたちの姿を見て、少し楽しい気分になる。

大字飛鳥のトンド(2007.1.13.風人撮影)
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大字飛鳥のトンド(2007.1.14.風人撮影)
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 飛鳥坐神社の傍らを通り過ぎて、奥山から八釣に向かう。途中、山手側に大字飛鳥の墓がある。墓石に供えた花々で、墓地全体が美しく輝いている。冬の田と枯葉とどんよりした景色の中で、墓所だけが際立っている。上って見ると、松竹梅だけ供えているものや菊やスイセンやシキビを添えているのもある。あとで聞くと大字東山の一部の人の墓もあるという。八釣橋から東に上り、集落に入る。整体師の家は普通の農家だ。大戸を開けて中に入るのが、ためらわれるような雰囲気だ。レントゲン写真を手渡し、金属製の台に横になり、骨格の矯正をしてもらう。「ダ、ダン」と力一杯上から体を押さえ込まれる。衝撃を動く台が吸収するが、冷や汗が出る。何度かこの「打ち込み」を受けているうちに、見てきた村の光景について問う気力は喪失している。しかし、ようやく気を取り直して、まだうっすらと童顔が残るY氏から話を聞く。

 八釣やそのほかのムラでも、年末には墓の掃除をし、元日には夜中または朝に、墓や大字内の神仏や氏神に参り、それぞれに鏡餅にミカンや干柿と花を供えるという。確かにY家に至る小道の登り口の道標を兼ねた石仏と庚申碑には、松竹梅や南天が飾られていた。Y氏は2月の飛鳥坐神社のオンダの牛役をもう何年も務めているという。オンダの所役は特定の決めはなく神主と親しい人々が務めているらしい。退出するときに、内ニワの大きな木の臼が目に付いた。

 集落の上手に小さなモリがあるので見に行く。手拭いを被った婦人が灯籠に火をつけているところだった。八釣の8戸の家を、バンチョウといって1日交代で灯明を献じる役が回ってくるが、ブクがかかる(不幸事が起こること、服喪)と49日抜けるという。この小さなモリには灯籠は3基しかないので、当番が廻ってくると、いつも夕方にはロウソクを3本持ってくるのだというが、運良くちょうどその時間に私が行き合わせたのだ。拝殿両側の灯籠にオヒカリをあげる写真を撮らせてもらいたいというと、婦人は手拭いを取って応じてくれた。近くの庚申さんのことを問うと、正月3日間はお供え物で一杯になるという。カラスや鳥が食べに来て汚くなるので、地蔵講の者がタバッて(お供えものを下げること、賜る)、寺で焼いて食べるという。もとは飛鳥坐神社がタバッて歩いたとも教えてくれた。女の人だけが集まるというので、女の鏡開きのような雰囲気なのだろうか。供え物を集めて女ばかりで、くつろいで賑やかに話に興じている様子を想像する。空気が冷たくなり、立ち話も迷惑かと話を切り上げると、婦人はすぐ近くの家に姿を消した。

 この道をさらに東に上ると桜井市高家に到る。歌人で桜井や明日香の民俗にも詳しいK先生が住む集落であるが、訪問は諦める。その代わりに墓だけでも見ておこうと、小山に通じる道があるので上ると、小祠2つと石碑3つが並んで立っている。自然石の碑は弁財天と金比羅と稲荷だった。それぞれには門松が立てられている。さっきの氏神にもあった。長老の一人が自発的に門松を毎年立てているのだという。砂を盛り、松竹梅を束ね、左側にのみ注連縄を丸く巻き、ウラジロを添えてある。ここからさらに東に上ると小さな山の東面に八釣の墓がある。近づくと香気がする。辺りを窺うとロウバイが数本植えられていた。新設された石段を登ると、右側には土饅頭の上に木の墓標が立ち、反対側には石塔が立ち並ぶ。一区画を二分して埋め墓と詣り墓に分けている。両方が判るように写真を撮る。中央には八釣の集落が見え、さらにその奥には畝傍山の稜線がくっきりと浮かんでいる。

八釣から(2009.1.25.風人撮影)
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 辺りはすでに薄暗い。西の果てには二上山が霞んでいる。バスの時間も確かめないで歩き出したので、暗くならないうちにと急ぐ。いつもの足取りではないが、歩くしかない。飛鳥資料館を過ぎて、西へ歩くと空気が頬に冷たい。道幅は狭く、車は私をよけながら反対方向へ向かう。雷丘を過ぎ、豊浦のバス停まできて時刻を見ると最終バスまであと15分待たねばならないのでまた歩く。右手に、田の中に耕作されずに残った塚があり、葉を落とした木が一本だけ立っている。ノガミかハツオウジのたぐいか。ようやく橿原市和田でバスに乗ることにする。バス停には和田の集会所があり、電気が点いている。中からは女性の声がするが、何の集まりかは判らない。前には小さなお堂が見える。近づくとやはり門松が立てられている。中を見ようとストロボを発光させてみるが、よく判らない。今日の最後はこの小堂かと思い、せめて外観でもとカメラを構えるが、ストロボの充電が終わらぬうちに5分遅れでバスが来る。今度は新しいバスに乗って橿原神宮東口に着く。その日、風呂と酒を禁じられた私は、仕方なくそのまま自宅へ戻った。

 21年前に訪れた明日香はこれだけだ。当時のメモが採訪ノートの間に挟んであったので両槻会の求めに応じて清書してみた。断片的に当時の光景が甦ってくるが、時間が経って人々の表情は思い出せない。しかしどこかに写真は残っているはずだ。トンドのシバを集めていた子ども達も、立派な大人になっているだろう。人のいるこの風景のお陰で、私はこの日初めて明日香という土地と出会うことができた。




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