
講演会補遺─菅原道真の龍門寺に遊ぶ詩─
奈良大学文学部准教授 滝川幸司先生
(09.3.20発行 Vol.46に掲載)
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両槻会では、二度講演をいたしました。熱心に聞いていただいて、私も、楽しくお話しすることができました。
一度目は、昌泰元年宇多上皇の吉野御幸について、二度目は、治安三年藤原道長の金剛峯寺参詣についてお話ししました。前者には、菅原道真の「宮滝御幸記(略)」という資料があり、後者に『扶桑略記』所引の参詣記がありました。
この二度の講演で共通して出てきたのが、龍門寺でした。その様子は、道真の「宮滝御幸記(略)」によれば、「松蘿水石、塵外に出づるが如し」と、俗世間から離れた様子が讃えられていました。宇多上皇の御幸に際しては、「上皇仏門に安坐して、痛く飛泉に感じ、勅して歌を献ぜしむ」とあって、宇多上皇が龍門の滝に感動して和歌を詠ませた記録があります。このことは、『扶桑略記』所引参詣記にも「昔宇多法皇卅一字を仙室に詠じ…」と触れられています。ところで、この参詣記には、この後の文章に「菅丞相・都良香の真跡、両扉に書す」とあって、龍門寺の扉に菅丞相=菅原道真と都良香の真跡が記されていたとあります。道真はもちろん、良香も当時著明な漢詩人です。ここは当然、道真と良香の漢詩が、本人の手によって書かれていたと考えるべきでしょう。
道真が龍門寺に行ったことは、本人の「宮滝御幸記(略)」が存在しますので明らかですが、そこでは、和歌が詠まれたとは書かれていますが、漢詩が詠まれたとは記されていません。では、藤原道長一行が見た道真の漢詩とは何を指すのでしょうか。
道真の作品集『菅家文草』『菅家後集』を眺めてみますと、次の詩が見つかります。
遊龍門寺
隨分香花意未曾 隨分の香花 意(おも)へども未だ曾(か)つてせざりき
緑蘿松下白眉僧 緑蘿の松下 白眉の僧
人如鳥路穿雲出 人は鳥路の雲を穿ちて出づるが如く
地是龍門趁水登 地は是れ龍門水を趁(お)ひて登る
橋老往還誰鶴駕 橋は老いて往還す 誰か鶴の駕
閣寒生滅幾風燈 閣は寒(ひやや)かにして生滅す 幾ばくの風燈
樵翁莫笑歸家客 樵翁笑ふこと莫かれ 家に歸る客を
王事營々罷不能 王事營々として 罷(や)むこと能はず
この詩は、寛平年間に作られたと推測されますが、寛平年間とは宇多天皇の在位中です。つまり、昌泰元年の宮滝御幸以前に、道真は龍門を訪ねていたことになります。
思うがままの香花を、いままで供えることができなかった。
しかし初めてやってくると、緑のかづらが垂れ下がった松のもとで、真っ白な眉の僧が出迎えてくれる。
人が龍門の山を登る様子は、鳥が雲を破って空を渡るようだし、
山は龍門というだけあって、魚が川を上って龍となるように、人は龍門の滝の水を追いかけて登る。
橋はすっかり古くなっていて、往還するのは、いったい誰が乗っていた鶴であろう。
寺の楼閣は寒々としていて、無数の灯が風にゆれている。
きこりの老人よ笑わないで欲しい、俗世間の家に帰る旅人=この私を。
宮仕えはいそがしくて辞めることができないのだ。
四句目は、みなさんもご存知の登竜門の故事を踏まえています。また、五句目の「鶴駕」とは、仙人の乗り物のことで、鶴に乗って遊んだという王子喬という仙人の故事に基づきます。
雲の上にある龍門寺は、俗世間から離れた地であり、仙人が行き来するような場所なのです。事実、龍門は、大伴仙、安曇仙、久米仙が住んでいたとされています。「宮滝御幸記(略)」には「古仙の旧庵」が残っていたことが記されていますし、『扶桑略記』所引参詣記にも「岫下に方丈の室有り。これを仙房と謂ふ<大伴・安曇両仙の処なり。各其の碑有り>」とあり、大伴、安曇の二仙の仙房が残っており、それぞれ碑もあったようです。
しかし、仕事にあくせくとしなければならない道真は、この神仙境には長く留まることができず、帰らなければならないのです。最後の二句は、私たちにもよく分かる心境です。やはり、すまじきものは宮仕え、ということなのでしょう。
この詩が、現存する作品の中で、道真が詠んだ唯一の龍門寺の詩です。果たしてこの詩が、龍門寺の扉に書かれたのか否か証明することは困難ですが、俗世間から離れた神仙境を描くこの詩は、いかにも龍門寺の扉に記されるのにふさわしいともいえます。
宮仕えのために長く留まることができなかった道真は、この後、宇多上皇の宮滝御幸に供奉して、再び龍門寺を訪れることになります。そして、それから二年三ヶ月後の昌泰四年正月に大宰権帥に左遷されます。もはや「王事」に「營々」とする必要もなくなってしまうのです。
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