両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第31回定例会
飛鳥展望散歩2

Vol.125(12.1.20.発行)~Vol.128(12.3.2.発行)に掲載





【1】 (12.1.20.発行 Vol.125に掲載)

 今号から、第31回定例会の咲読を始めます。第31回は、定例会としては久しぶりにウォーキング中心の定例会になります。咲読1回目の今号では、コースの概要をお話ししたいと思います。

 飛鳥展望散歩と名付けているのは、コース上に奈良盆地を見下ろすことが出来るビューポイントが数ヶ所あるからです。一般的には、まだまだ知られていない御破裂山頂や万葉展望台 藤本山を訪ね、北は京都愛宕山、西は六甲の山並みまで見える展望を楽しんでいただければと思っています。もちろん、眼下の飛鳥盆地を見ることも出来ます。藤本山からは、飛鳥寺跡、川原寺跡、橘寺、石舞台古墳、飛鳥京跡も見えます。稲渕の棚田も綺麗に見えますし、佐田・真弓の丘陵の連なりや貝吹山、そして大和三山を見下ろすことも出来ます。目の良い方なら、甘樫丘の展望台に登っている観光客の姿さえ見えるのではないでしょうか。

御破裂山 藤原鎌足公墓所裏展望所より
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万葉展望台 藤本山展望所より
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 昨年12月に行いました下見の日は、空気の澄んだ冬晴れとなりましたので、大阪湾や阪神地域の街並みを確認することが出来ました。肉眼では難しいと思いますが、カメラのズームを利かせれば大阪都心部のビル群や大きなクレーンが建ちならぶ南港辺りも見えていました。是非、皆さんにもこの素晴らしいパノラマを堪能していただきたいと思っています。

御破裂山からのズーム写真
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藤本山からの展望パノラマ
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 両槻会定例会で、このコースを歩くのは2度目になります。第4回定例会(2007/9/16)として実施したのですが、4年を経て、両槻会を新たに知っていただいた方も増えてきましたので、前回参加いただけなかった方にも、是非この展望ビューを楽しんでいただきたいと思い企画しました。前回は、下ってから稲渕の棚田を周回したのですが、31回では展望により拘って甘樫丘にも登ることにしました。甘樫丘からは西側の景色を楽しむと共に、ルート前半の展望所を見上げてみたいと思っています。

  ルートマップをご覧ください。

より大きな地図で 飛鳥展望散歩2 を表示

 コースの総距離は、地図上での計測では8.7kmになっていますが、歩数計では約12kmになります。コース上には階段状の所や坂道があり、歩幅が短くなっているための誤差だと思いますが、平地の8.7kmではありませんので参加の時には、ご注意をお願いします。予定ページでも、やや健脚向きと書かせていただいたのは、このためです。

 コース上の最高地点は、御破裂山で607.4mになります。ただし、麓から歩いて登りませんのでご安心ください。(笑)談山神社(約500m)までは、バスで登ります。権殿裏から山道に入り、御相談所を経て山頂を目指します。山頂には、藤原鎌足公の御廟所が在り、その裏(北側)が展望所になっています。当日は、ここで時間をゆっくり取り、展望を楽しむと共に登りの疲れを癒しましょう。以後のコースは、おおむね下りになります。(念誦崛不動尊・念誦崛・甘樫丘に登りがあります。)最終地点の甘樫丘バス停が最も低い地点になり、標高約100mですので、標高差500mを長い距離をかけて下って行くことになります。普段歩きなれない方には、ややきついかも知れません。

 当日は、展望所で長めの休憩を予定しており、出来るだけゆっくりしたペースで歩く予定です。お昼は、飛鳥盆地を見下ろしながら昼食のお弁当を広げたいと思っています。両槻会としては長めの40分の休憩にしました。また、長い下りの続いた後に、飛鳥京跡で20分の休憩を予定しています。

 ただし、これは晴れて寒波が来なかったことを前提にしたスケジュールですので、天候によっては、コース自体も変更する可能性があります。ご了承ください。

 トイレは、談山神社を出ると明日香村中心部に下りてくるまで有りませんので、特に女性の方にはお断りをしておきます。この間、約4時間30分です。ハイキングですので、これは致し方が有りません。

 第31回定例会は、素晴らしい大パノラマを皆さんと共に堪能したいと思い企画しました。早春の飛鳥路を楽しく歩きましょう♪ 皆さんのご参加をお待ちしています。(第31回定例会は、終了しています。)



【2】 (12.2.3.発行 Vol.126に掲載)

 第31回定例会に向けての2回目の咲読です。よろしく、お付き合いください。第31回定例会はウォーキングですから、当日は景色の説明程度にしようと思っているのですが、キーワードになりそうなものだけは咲読にて紹介しておきたいと思っています。多武峰、御破裂山、増賀上人、念誦崛、両槻宮などをコースに合わせて紹介出来ればと思っています。

 談山神社へは、桜井駅南口からバスで向かいます。春の桜、秋の紅葉、蹴鞠などで有名ですから、もう説明の必要もない神社ですね。スタッフ下見の折には、拝観料金の要る神社は全国でも他に無いのでは?というようなことを話題にしていました。宝物殿などには見学料金が必要な所は多くありますけれど、そういう意味では特異な存在と言えるかもしれませんね。神社と言っても元はお寺ですから、そのようになっているのでしょうか。廃仏毀釈で神社となったのですが、以前は「多武峰寺」あるいは単に「多武峰」、また「多武峰妙楽寺」と呼ばれていました。ただ、早くから鎌足の神像が置かれたこともあり、神道的な要素も強く有ったようです。

 遠方から参加していただく方も多い両槻会ですから、今回はその神仏混淆の談山神社をゆっくりと拝観していただく時間を設けました。境内では、40分の自由時間を予定しています。

 談山神社は『多武峯略記』(鎌倉時代)によれば、天武天皇7(678)年に、藤原鎌足の長子である定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威からこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥だとしています。また、天武天皇9(680)年に講堂(拝殿)が創建され、そこを妙楽寺とし、大宝元(701)年に十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(本殿)が建立され、聖霊院としたと書かれています。

 定恵は、白雉4(653)年5月、10歳にして唐に渡るのですが、長安の神泰法師に師事し、内経外典に通じたとされます。しかし、活躍の間も無いまま、帰国の3ヶ月後に大原(明日香村小原)で亡くなったとされています。

 定恵が摂津安威の墓所から鎌足の遺骸の一部を移し祀ったのが、御破裂山頂の御廟であるとされます。しかし、『延喜式諸陵寮』には「多武峯墓贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣。在大和国十市郡」と書かれています。一般的には、淡海公は不比等のことだとされますが、『延喜式』は平安時代中期に編纂されたものですので、まさに藤原氏の世だと思うのですが、この混乱はどうしたことなのでしょうか。鎌足は近江朝の重臣であったことから、鎌足も淡海公と呼ばれても不思議ではないとする考えもあるようですが、どうなのでしょうか。

 定例会では、談山神社権殿横から山頂に向かいます。この登りが、今回の定例会で唯一と言ってよい急な登りになります。ほぼ階段状の登りが10分ばかり続くのですが、疲れが出てくる頃に「御相談所」(談所ヶ森)があり、一息つくことができます。もちろん、鎌足と中大兄皇子が、蘇我本宗家討滅の談合を行った場所とされる伝承の地です。伝承の地ですから、深く考察するのは止めましょう。(笑)

 『多武峰略記』によると鎌足は摂津国安威山に埋葬されたとされ、それが高槻市と茨木市の境にある阿武山古墳だとするのが有力です。この阿武山古墳は、盛土が無く、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの墓域を区画しています。中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きタイルを組み上げ、内側を漆喰で塗った墓室があり、夾紵棺が安置されていました。棺内には、銀線で青と緑のガラス玉を連ねた玉枕があり、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体がありました。発掘当時撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽が添えられていたことがわかっています。これらのことから、阿武山古墳は、鎌足の墓であるとされています。

 確か記憶では、右腕にテニス肘のような症状があったとも聞いた記憶があります。弓のためではないかと推測されていましたし、肋骨の骨折は狩りの落馬によるものではないかという話も出ていたように思います。意外に逞しい武人だったのかも知れませんね。

 御破裂山の名は、古来、天下に事変が起ころうとするとき、神像が破裂し山上から鳴動が起こるという伝承によるものです。山の東から鳴動する時は、朝廷に異変が起こり、南から鳴動する時は幕府に、北からすれば藤原氏一門に、西からすれば万民に、山の中央が鳴動すれば多武峰寺に異変が起こるとされます。
 『多武峯大織冠尊像御破裂目録』という記録には、平安時代から江戸時代にかけて35回の鳴動があったことが記録されているそうです。この鳴動を聞く場所も決まっていました。「立ち聞きの芝」と呼ばれるそうですが、桜井市の3箇所に伝承が残っているようです。一つは桜井市針道、そして同市北山、もう一つは同市粟殿に在ったとされるようです。御破裂山が鳴動すると朝廷に仔細が急報され、朝廷からは使者が遣わされ神事が執り行われたそうです。

 「立ち聞きの芝」がどのような場所であったのか具体的には調べられなかったのですが、出来れば定例会までに一度現地を訪ねてみたいと思っています。何かわかりましたら、また報告したいと思います。

 次回は、念誦崛と増賀上人の話を予定しています。



【3】 (12.2.17.発行 Vol.127に掲載)

 第31回定例会に向けて、3回目の咲読です。今回は、増賀上人や念誦崛について書いてみようと思いますが、前回の「立ち聞きの芝」に関して情報を得ることが出来ましたので、そのことから書き始めます。

 「立ち聞きの芝」は、御破裂山の鳴動が最もよく聞ける地点だとされます。針道・北山・粟殿の3地点を挙げておきましたが、明日香村にも在るようです。それは前回の定例会にも関連する地点で、明日香村大字阪田に在るとされるようです。合計4地点となり、御破裂山の南を除く3方向に存することになります。阪田から御破裂山頂上が見えるかどうか確認は出来ていませんが、阪田の地域内にはかなり高所もあるので、現集落よりも上方なら見えるのかも知れません。

 参考地図 (大字内の位置は正確ではありません。)

より大きな地図で 立ち聞きの芝 を表示

 「飛鳥の民俗」という書籍によりますが、知らせを受けた朝廷から告文使(こうもん=神に対して申し上げる)が立ち、幣帛科が供えられたと書かれています。

 さて、今回のテーマに進みましょう。御破裂山から南西に下ってくると、西口の3軒ばかりの集落に出ます。私たちは、ここから北西の方向に山を周回するように歩いて行きます。しばらく行くと石垣や井戸などがあり、念誦崛不動尊への標識を過ぎると念誦崛に到着します。山頂からは、途中の見学を含めて1時間ばかりで到着する予定です。

 今号咲読の主人公である増賀上人ですが、奇行で名高い方として知る人も居られるのではないでしょうか。『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』、『撰集抄』、『発心集』などの多くの書物にそのエピソードが語られています。増賀上人は、延喜17(917)年、参議橘恒平の子として誕生しました。10歳で出家して比叡山中興の祖と言われる慈恵僧正良源の弟子となり、早くから先には名僧になると噂される存在であったそうです。

 ここで、鎌倉時代末期に書かれた『徒然草』を引用します。

 「法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖の言いけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。」 

 現代語訳すると、「最も羨ましくないのが僧侶である。清少納言が『人から木っ端のように思われる』と書いたのも、本当に最もである。勢力を増して僧侶としてのし上がっても、凄いようには見えない。増賀上人が言ったように、名声欲は仏教の教義に背いているのだ。本当の世捨人であれば、望ましい部分もあるかもしれないが。」
 このように、増賀上人は、名利を捨てた僧として後の世にも広く知られていたことが分かります。

 では、その奇行の様子を少しですが紹介します。
  • 比叡山で修業を過ごした増賀上人は、常に破れ笠を被りボロボロの服を着て住居も定めずに生きるようになります。それを聞いた冷泉上皇は勅使を発して、増賀上人を招いて供養しようとしましたが、狂ったふりをして逃げ出しました。
  • 東三条院詮子も増賀上人を宮中に招き、戒師を勤めさせようとしましたが、上人は南殿の高欄に上ると、居並ぶ女官に向かって尻を見せ、放屁して「どこの誰が、この増賀をしてロウアイ(中国 秦の国の家臣・長信侯=巨大な性器を持つとして有名)に仕立てようというのか?」と後宮に向かって言い、左右を睨み付けるように出て行きました。
 これでも、表現を柔らかくするためにアレンジが施されていますが、実際には、もっと露骨な表現で書かれているようです。

 談山神社 増賀上人行業記絵巻 (上巻・下巻)(奈良女子大学附属図書館)

 もちろん、増賀上人は、それだけの方でありません。法華経に通じ、平安時代には聖の理想像とされていたようです。応和3(963)年7月、藤原高光(如覚)の勧めにより多武峰に入り草庵一乗房を結んで籠居しました。正暦元(990)年には不動経を修して自ら不動形を現したとされますが、念誦崛不動尊との関連もあるのでしょうか。また、法華経読誦を怠らず、観音・文殊を感得するという神秘を示したとされます。

 その増賀上人のお墓は、念誦崛と呼ばれています。念誦崛は、「ねずき」と読みます。両槻宮に由来すると考える方も居られるようで、「ふたつき」が「ねずき」に転訛したと考えるようなのですが、どうなのでしょう。「念」は念仏、「誦」は経文などを唱えるとことで、「崛」は盛り上がっていることを表しますので、増賀上人のお墓の形状を示していると思われます。念仏三昧の増賀上人にはふさわしい命名だと思いますが如何でしょうか。

 長保5(1003)年6月9日、増賀上人は87歳で亡くなりますが、法華経を誦し金剛印を結んで入滅されたそうです。「三年後墓穴を開きて之を見よ」と遺言し、弟子たちが大桶を作って寺の後ろに埋葬、3年11ヶ月して墓穴を開くと全身壊れずに趺坐したままの姿であったとされます。『扶桑略記』には「長保5年6月9日辰時、増賀聖人が大和国十市郡倉橋山の多武峰南房に於いて入滅す。西方を向き金剛合唱し、居ながら遷化す。よって棺に入れず、輿を作って葬送す」とあります。

 念誦崛付近には、紫蓋寺と呼ばれるお寺がありました。多武峰の奥の院とも言われていますが、盛時には増賀上人の霊堂一宇、坊中六宇、往古十三坊を数えたようです。現在も所々に石垣が散見されますが、それらの堂宇にかかわるものだとされています。西国名所図会という書物には、この紫蓋寺が書かれており、嘉永6(1853)年まで存在していたことが分かります。
 また中世には、多武峰の西の守りとして念誦崛付近に念誦崛城砦が造られたようで、念誦崛の在る尾根伝いに連郭式と呼ぶ砦群が想定されています。奈良県遺跡情報地図には「多武峰城塞跡念誦崛地区」と記されています。

 次号では、両槻会の命名にも関連する両槻宮について考えてみましょう。



【4】 (12.3.2.発行 Vol.128に掲載)

 第31回定例会が、いよいよ明日になりました。参加の皆さんは、詳細案内をもう一度お確かめ下さいね。

 咲読も最終回になりました。今回は、両槻宮についてお話をしたいと思っています。ところで、両槻会の命名由来をご存知の方は、どのくらい居られるでしょうか。何か両槻宮と関連するのではないかと思われる方は多いと思うのですが、実はあまり関連が有りません。(^^ゞ 本来は「二月会」なのですが、飛鳥に関連する字を借りようってくらいの意味しかないのです。すみません。(笑) 設立が2月だったこともあるのですけど、2ヶ月に1回の定例会を実施することからの命名でした。

 さて、本題に戻って、『日本書紀』斉明天皇2(656)年の条を見てみましょう。「於田身嶺、冠以周垣。(田身山名。此云大務。)復於嶺上両槻樹辺起観。号為両槻宮。亦曰天宮。」(田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。また、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮(あまつみや)と曰ふ。)と書かれているのですが、両槻宮の造営に関する記述は、これだけしかありません。
他の記録を見てみると、持統7(693)年9月5日「多武嶺に幸す。」、その翌日に「宮(飛鳥浄御原宮)におもどりになった。」と書かれており、持統天皇が両槻宮に宿泊したことが伺えます。また、持統10(696)年3月3日「二槻宮に幸す。」とあり、持統天皇が二度の行幸をされたことが分かります。『続日本紀』大宝2(702)年3月17日条には、「大倭国に命じて、二槻離宮を修理させた。」とあります。
 これらのことから、両槻宮は天皇が宿泊できるほどの規模と施設を備えており、少なくとも文武天皇の時代までは維持管理が行われていたことが分かります。

 ここで気になるのは、その所在地ではないかと思います。多武峰と書かれているのですが、具体的には何処を指しているのでしょうか。多武峰が御破裂山を中心にした山塊と捉えた場合、その範囲はかなりの広がりを持つように思われます。それらしい場所や伝承地を挙げれば、多武峰談山神社付近、御破裂山頂、念誦崛、藤本山、酒船石遺跡などが挙げられるように思われます。
 談山神社付近は両槻宮の規模や地形などから考えられたようですが、天武天皇7(678)年に定恵によって十三重塔が創建される妙楽寺の歴史と重なってしまいますので、御破裂山頂と共に可能性は低いのではないかと思います。
 では、念誦崛付近はどうでしょうか。ここには、後世、紫蓋寺(増賀上人の霊堂一宇、坊中六宇、往古十三坊)が建ちますので、離宮が造られる広さとしては可能だったように思えます。「ねずき」「ふたつき」という音の類似により古くから両槻宮伝承地でもあるのですが、中世に城砦や先の紫蓋寺が造られますので、より古い両槻宮の確たる痕跡は見つかりそうも無いように思われます。

 ところで、両槻宮の性格なのですが、「観」の字を持って道教寺院(道観・道教宮観)と考える説と、防衛施設ではないかとの見方が有ります。
 これまで紹介した候補地は、どちらかというと道教施設の可能性が強いと言えるようですが、もう一方の防衛施設としての説に立つと、見方が変わってきます。メジャーな遺跡ではありませんし、万葉文化館の建設や圃場整備で丘陵そのものが消失しているため馴染みが無い方も多いと思うのですが、酒舟丘陵の一つ北の丘(向イ山)にあった向イ山遺跡と八釣の丘陵にある八釣マキト遺跡という興味深い遺跡がありました。


 二つの遺跡の共通点は、その尾根上に大きな塀が検出されている点にあります。緩く「く」の字に曲がっているのですが、直線的に続く塀がありました。この塀は、小さな範囲を囲うような状況ではないようです。両槻会の第五回定例会に講師としてお話をいただいた明日香村教委の相原嘉之先生が興味深い論文を書かれています。その『倭京の”守り” -古代都市 飛鳥の防衛システム構想-』では、飛鳥を取り囲む防衛ラインが想定されており、北部では甘樫丘や古代寺院・石神遺跡などを利用しながら八釣マキト遺跡の塀に接続します。その延長線を尾根伝いに延ばすと藤本山に行き当たり、展望台平坦面付近を最高地点として上居に下ります。
 白村江の敗戦の後、北九州や瀬戸内海沿いに防衛拠点として朝鮮式山城が建設されます。神籠石と呼ばれる石垣もそのようなものなのでしょう。飛鳥の近くでは、高安城が知られています。飛鳥の地形を見てみると、真神原の東に聳える山が見え、これが藤本山です。大和盆地を一望できる展望から物見台としての機能も考えられますが、最終防衛拠点としても適当な位置にあるように思います。藤本山は山城ではなかったのか、そしてそれが両槻宮の正体ではなかったのか。談山神社方向に戻ると、冬野・竜在峠を経て吉野に通じているのも利点ではないでしょうか。ここまで来ると、風人の妄想になってしまいますね。(^^ゞ

 酒船石遺跡は、近年最も注目される両槻宮の候補地、またはその入口の施設として考えられるようになっています。しかし、日本書紀の記述は「宮の東の山」と両槻宮とは分けて書かれていますし、有間皇子の変で失政として赤兄が挙げた三つの要件にも入っていません。また、酒船石遺跡が多武峰の範囲に入るとはとても思えませんので、酒船石遺跡は「宮の東の山」ではあっても両槻宮ではないと思うのですが、皆さんは如何考えられるでしょうか。

 昨年末、飛鳥京苑池遺跡の現地説明会の折に、北池の西岸に立ってみました。藤本山が正面に見え、三角錐の山容を見せています。ここからは、東の護岸が高くなっていますので飛鳥時代にも、山だけが見えていたかもしれません。借景と言えるのかどうかは分かりませんが、意識的に作られているような気がしてなりませんでした。古来、円錐形の山は信仰の対象になっています。そのように考えた時、藤本山に何らかの信仰の場が在っても不思議ではないようにも感じました。


 定例会では、皆さんも様々な思いを持って展望散歩を楽しんでいただき、両槻宮の所在地探しをしてみてはいかがでしょうか。


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