両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第50回定例会
蘇我氏の奥津城
―蘇我四代の墓を考える―


Vol.212(15.4.3.発行)~Vol.215(15.5.15.発行)に掲載





【1】 (15.4.3.発行 Vol.212に掲載)     風人

 今号から、第50回(5月)定例会の咲読を開始します。両槻会は、飛鳥を愛する非会員制サークルとして年6回の定例会とメルマガ「飛鳥遊訪マガジン」の隔週発行を軸に活動を続けてきました。お気づきのように、次回定例会はいよいよ区切りの50回目を迎えます。

 「いよいよ」と書きましたが、「やっと」「もう?」「どうにか」「気が付けば」、色々な思いが含まれています。長かったのか、短かったのか、私には「どうにか」が一番近い心持のように思えます。

 ど素人の集団が、何のコネもなく作ったサークルです。頑張って1年続けられるだろうか、誰しもが思っていたのです。だって、講演会を主催するなんて全く経験もなく、お金もなく、全部手探りで始めたのです。よく継続できたものだと思いますし、奇跡が起こったのかも知れません。 両槻会のスタッフは、よほど幸運に恵まれているのだと思います。

 定例会の延べ参加人数は1,457名になりました。また、ご愛読いただいている飛鳥遊訪マガジンは、発行部数が504部になり、多数の読者が居てくださいます。ご支援いただいている先生方、参加してくださる皆さんに、50回目の定例会を迎えるに際し改めて感謝を表したいと思います。ありがとうございます。そして、今後ともよろしくお願いいたします。

 さて、その50回目の定例会は、昨年行いました「薫風そよぐ宮都・飛鳥」と題した帝塚山大学考古学研究所との合同企画の第2弾になります。今回も、両槻会が大変お世話になっています清水昭博所長のゼミ生の皆さんと一緒に、春爛漫の飛鳥路を歩くことにしました。

 定例会タイトルを「蘇我氏の奥津城―蘇我四代の墓を考える―」としましたが、昨年夏よりマスコミに大きく取り上げられました都塚古墳・小山田遺跡を含めまして、被葬者が蘇我氏に所縁するとされる古墳を中心に訪ねます。コース概要などは、お知らせのコーナーをご覧ください。

 各ポイントでは、若い学生さんや両槻会事務局スタッフ(もも・よっぱ・らいち・風人)が説明に立ちます。とりわけ、一般の人たちの前で初めて話をする学生さんたちは、緊張で上手く話せないかもしれません。どうぞ、寛容な気持ちで聞いてあげてください。私から、お願いをいたします。

 昨年は、学生さんが頑張ってくれました。上手に話せたかというと、全員がそうだったとは言えないのですが、しかし、その頑張る姿は参加の皆さんに通じました。親心でしょうか?(笑) 温かい視線や自然と起こる拍手が、きっと若い学生さんの励みになったことだと思います。こうした経験が若い皆さんの自信となり、大きく成長する一つの糧となってくれることを、このシリーズ企画の目的の一つとしたいと考えています。参加の皆さんにも、将来の考古学者のデビューに立ち会っていただき、エールを送って下さればと思います。

 もちろん、清水先生がしっかりフォローしてくださいますので、解説として不安に思われる事は全くありません。

 今回のウォーキングでは、途中で金カメバスを利用します。一番の理由は、ウォーキングでは距離が延びてしまう塚本古墳を見てもらいたいからです。整備され半ば公園化された有名な古墳との比較をしていただきながら、自由に様々な事を感じ、考えてもらう機会に出来ればと思っています。

 参加の皆さんには、揚げ雲雀鳴く長閑な飛鳥路を楽しんでいただけるように、事務局と清水ゼミの皆さんで検討・下見を重ねる予定です。どうぞ、ご期待ください。申し込みをお待ちしています。

 来週からは、コースの順番に従って、古墳を見てゆくことにしましょう。





【2】 (15.4.17.発行 Vol.213に掲載)   風人

 今回の定例会は、「蘇我氏の奥津城」というタイトルウォークになりますので、個別の古墳を見る前に蘇我氏に触れておこうと思います。

 以前は、蘇我氏渡来人説なども有りましたが、現在は橿原市曽我町一帯を地盤にして勢力を拡大していった氏族だとする考えが有力です。

 近鉄大和八木駅から大阪線を西に一駅の所に、真菅(ますが)駅があります。現在の曽我町は、駅から南東方向に広がり、大和川支流の曽我川中流域を占める一帯です。南部には、横大路が東西に通っており、古来より水陸交通の便に恵まれた地域になっています。曽我川は、曽我町南部で高取川と合流しており、曽我町は西部を流れる曽我川と飛鳥川とに挟まれた地域ですので、稲作に適した土地柄であったことでしょう。


曽我町周辺マップ

 真菅駅付近には、宗我坐宗我都比古神社があり、蘇我馬子が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿祢夫妻を祀ったことを起源としています。この神社は、『延喜式神名帳』では大社に列しており、古くから崇敬されてきたことがわかります。

 また、東方の橿原市地黄町には、蘇我入鹿を主祭神とする入鹿神社があります。この入鹿神社には、「明治時代の皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだ」(引用:Wikipedia)という話があるそうです。

 それはともかく、橿原市の中西部一帯を蘇我氏は勢力圏としていたのでしょう。彼らは、そこから畝傍山を越え、飛鳥へと進出して行くことになります。

 そこには、雄略天皇の頃に居住地を与えられた渡来系氏族が先住しており、蘇我氏は彼らとの繋がりを密接なものとして行ったのでしょう。新しい技術、知識を取り入れた蘇我氏は大きな力を持つことになり、大臣の座をも手中に収めて行きます。

 『日本書紀』には、稲目の邸宅と考えられる記述があります。
  • 欽明13年(552)10月、稲目は小墾田の家に仏像を置き、向原の家を喜捨して寺とした。
  • 欽明23年(562)8月、二人の女を召し、妻として軽の曲殿に住まわせた。
 橿原神宮前駅の南東方向には橿原市大軽町が在り、向原は明日香村豊浦、小墾田は明日香村大字飛鳥の北方と考えられますので、稲目の時代にいわゆる飛鳥地域の北方と軽地域に勢力を伸ばしていたことが伺えます。
 また
  • 敏達13年(584)2月、馬子宿祢は、また石川の邸宅に仏殿を造った。
  • 敏達14年(585)2月、塔を大野丘の北に建てて大会の設斎をした。
  • 用明2年(587)4月、大伴比羅夫連は弓箭と皮楯を手に取り槻曲の家に駆け付けた。」
  • 推古32年(624)5月、大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稲目宿祢の子で・・・・飛鳥川のほとりに家をつくり、庭に小さな池を開き、小島を池の中に築いた。そこで人々は、嶋大臣と呼んだ。
 とあり、馬子は、石川(橿原市石川町)、大野の丘の北(橿原市和田町付近か?)、槻曲(橿原市久米町付近か?)、島庄(明日香村島庄)付近に地盤を持っていたことがわかります。島庄は、飛鳥盆地の南を抑える重要な地ですので、この時期になって、飛鳥全域にわたってその勢力を拡大させたのかも知れません。
  蝦夷・入鹿の邸宅も見ておきましょう。
  • 舒明6年(634)7月、大派王が、豊浦大臣に朝廷への出仕を怠けていると指摘し、鐘をならせて時刻を知らせ、規則を守らせようと言ったが、大臣は従わなかった。
  • 皇極元年(642)4月、蘇我大臣(蝦夷)は畝傍の家に百済の大使 翹岐(ぎょうき)らをよび、親しく対談し、良馬と鉄を賜った。
  • 皇極3年(644)11月、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘樫丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ。
 とあります。この頃になると、蘇我氏の横暴で傍若無人な振る舞いを示す記事が増えてくるのですが、ついには飛鳥全土を見下ろす甘樫丘に邸宅を築くことになりました。


蘇我一族の領有地(古地名参照図)

 さて、字数制限が来てしまいました。次号では、このように飛鳥全土を掌中にした蘇我氏の墳墓がどのように推定されるのかを見てゆくことにしましょう。





【3】 (15.5.1.発行 Vol.214に掲載)   風人

 第50回定例会の咲読も、3回目になりました。時期的に定例会準備と重なってきて、大変です! (笑) さて、3回目はいよいよ古墳の話をしたいと思います。まずは、蘇我四代の墓について、現在考えられている説を見ておきましょう。

  稲目 : 五条野丸山古墳・都塚古墳
  馬子 : 石舞台古墳
  蝦夷 : 小山田遺跡・五条野宮ケ原1号墳(破壊)
        水泥古墳あるいは水泥塚穴古墳
  入鹿 : 菖蒲池古墳・五条野宮ケ原2号墳(破壊)
        水泥古墳あるいは水泥塚穴古墳

 これらが、蘇我本宋家四代の墓ではないかとの説がある古墳です。しかし、今尚、石舞台古墳を含めて被葬者を確定できる古墳は無く、どの説も推測の域を出るものはありません。

 前号で見たように、馬子の邸宅は、石川・槻曲・嶋に在りました。墓は、石舞台古墳の可能性が高いとされています。嶋の邸宅(島庄遺跡)は池を造るほどの大規模なものですので、これを主邸宅とすると、お墓との距離は極めて近いことになります。

 稲目の邸宅は、軽・向原・小墾田に在りました。向原や小墾田は、お寺になったり宮になったりと変遷がありますので、軽が拠点となっている感じがします。馬子と同様に邸宅と墓が近距離である場合、五条野丸山古墳が稲目の墓として有力ではないかと考えられます。都塚古墳説が昨年から注目を浴びるのですが、前号で見たように島庄にまで進出するのは馬子の時代であり、稲目の時代には飛鳥北部に限定されるのではないかとσ(^^)は思います。都塚古墳の位置は、その島庄からも冬野川を越えた地点となり、稲目の時代にここに墓を築くだろうかという疑問が消えません。稲目の墓は、やはり拠点の近くに在るのではないでしょうか。

 そのように考えると、蝦夷・入鹿の墓も邸宅の近くに墓があるのではないかと考えられます。蝦夷・入鹿の墓は、『日本書紀』には、次のように書かれています。

 「皇極元年(642)蝦夷は、全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼び、入鹿の墓を小陵と呼んだ。」とあります。蝦夷・入鹿の邸宅は、甘樫丘に在りましたので、今来の双墓を小山田遺跡・菖蒲池古墳と考えると、とても好都合になります。しかし、好都合というだけではいけません。ごく近くには、五条野宮ケ原1・2号墳も在り、以前より蝦夷・入鹿の墓の可能性が指摘されていました。真相や如何に! 

 個々の古墳に関しては、定例会本番に担当者から発表をしてもらいます。様々な説が飛び交えば楽しいのですが、皆さんはどのように考えられるでしょうか。

 第50回の定例会で訪れる古墳は、10基を数えます。内6基を帝塚山大学の清水ゼミの学生さんが担当します。様々な事情で下見(リハーサル)がまだ出来ておらず、事務局スタッフも落ち着かないのですが、どのような説明を準備してくれるか、私たちも楽しみにしているところです。

 両槻会からは、私がカナヅカ古墳、ももが都塚古墳、よっぱが小山田遺跡・菖蒲池古墳、らいちが塚本古墳を担当することが決定しています。こちらも、各自、鋭意資料作成に時間を費やしています。どうぞ、楽しみにお待ちください。

 では、少しだけですが、各古墳について触れておきましょう。
 当日、最初に訪れるのは、岩屋山古墳です。二段築成の方墳だとされていますが、上方は多角形(八角形)であるとの指摘があります。石室は、岩屋山式と呼ばれるもので、切石を精緻に積重ねた構造をしています。切石の表面加工の精度に違いがありますが、岩屋山式の石室を持つ古墳は複数あることが確認されています。桜井市ムネサカ第1号墳(同形同大)、また橿原市の小谷古墳、天理市の峯塚古墳は、石室の規格を一部縮小したものであるとされます。

 2番目に訪ねるのは、高松塚古墳です。有名な古墳ですので、学生さんには難しい古墳になるかもしれません。限られた時間内で、どのようにこの古墳をまとめるか私も楽しみにしています。基本を押さえて、私なら何を話すだろうかと考えてみました。たぶん、保存や復元の問題に触るかも知れないと思うと同時に、やっぱ副葬品かな。被葬者は誰とでも言えるので(笑)、難しいですね。

 中途半端な形になりましたが、字数制限を過ぎてしまいました。続きは次号です。





【4】 (15.5.15.発行 Vol.215に掲載)   風人

 第50回定例会に向けての咲読も、今号までとなりました。いよいよ明日は定例会です。事務局の準備も整い、明日を待つばかりになっています。

 5月5日に、今回説明役になってくれる学生さんたちのリハーサルを実施しました。思った以上にと書くと学生さんには失礼なのですが、資料も上手くまとまっていましたし、一生懸命説明する姿は、とても好印象でした。リハーサルでは、お天気が良すぎて暑かったのですが、ほぼ順調に予定を終了することが出来ました。本番もこのように順調に進行できますように、スタッフも一段と頑張りたいと思っています。ご参加の皆さんも、ご協力をよろしくお願いします。

 さて、前号に引き続いて、定例会で訪ねる古墳をざっと見て行きたいと思います。定例会で訪れる3番目の古墳は、中尾山古墳です。墳丘周辺はもみじが多く、飛鳥で最も紅葉が綺麗な場所なのです。もちろんこの時期、新緑も素晴らしく綺麗ですよ。墳丘が軟らかい緑色に染まっています。ただ残念なのですが、一番大きな木が枯れたのか折れたのか、切り株を残して切られていました。中尾山古墳は、本当の文武天皇陵だと言われる火葬墓です。謎の石造物「沓形」にも説明では触れてくれるようです。

 4番目は、風人が担当するカナヅカ古墳です。観光コース沿いに在るのですが、存在に気付かないで通り過ぎる方も多いのではないでしょうか。創建当時の姿は、大きな二段築成の方墳です。被葬者にも興味が湧くのですが、主体部は宮内庁が管理をしており調査が出来ていません。じれったいですね。今回は、東側の「風の丘(風人命名)」から、この古墳を見下ろしながら説明をしようと思っています。この風の丘からは、東西に続く観光王道コース上に在る古墳の位置関係が良く分かります。また、当日は、ここで昼食の予定をしています。お天気だと良いのですけどね。

 昼食後は、5番目の古墳、鬼の俎・雪隠から始まります。ご存知のように、この飛鳥の謎の石造物の正体は、刳抜式の横口石槨墳です。リハーサルでは、東側に在ったとされる鬼の俎雪隠2号墳の話も出てきました。もう一つはどうなったのでしょうか。誰と誰の墳墓だったのでしょう。地形や所在場所などを含めて、説明が行われる事でしょう。

 次は、天武持統天皇陵です。5段築成の八角形墳です。藤原宮の中心線の南延長線上に在ることが知られています。石室の中の様子も、盗掘の取り調べの中で記録されていることも紹介が有ることでしょう。陵の前面からだけでは分からない墳丘のサイズや様子も、陵の北側から体感出来ればと思っています。

 7番目は、今回のメインの一つになります。菖蒲池古墳と小山田遺跡に向かいます。菖蒲池古墳は、石室を覗いていただく時間も取りたいと思っています。もちろん、小山田遺跡は見学することは出来ませんが、現説時に撮影した画像なども参考に説明が加えられます。ここは、事務局のよっぱが担当します。果たして、被葬者を誰とするのでしょうか。安易な被葬者当てにはならないと思いますが、興味は尽きません。また、両古墳共に墳丘が削平された時期や理由も気になるところです。

 ここ(中央公民館前)から稲渕まで、金カメバスに乗車します。途中の細川谷古墳群の説明もしたいと思っていますが、乗り込む前になりますので時間が取れればよいのですが。

 勧請橋から案山子ロード下の農道を進み、塚本古墳に出ます。こちらは、事務局の らいち が担当します。塚本古墳の現状からは、築造当時の古墳を想像するのは難しいのですが、約40m級の方墳のイメージを掴んでいただけるような説明がなされると思います。周辺では、古墳の話だけではなく、初夏の棚田の風景や時折吹く飛鳥風を感じていただけるのではないかと思っています。

 しばらく棚田歩きを楽しんだ先には、もう一つのメインになると思われる都塚古墳が在ります。下見の時には、躑躅が綺麗でした。発掘調査で少し減ってしまいましたが、それでも遠くから躑躅の小山が目立っています。まだ咲いているでしょうか? 都塚の担当は、ももです。日本にも在ったピラミッド! などと報道され、現説では長蛇の列が出来ましたが、今は静けさが戻っています。蘇我稲目の墓説が有名になりましたが、果たして誰のお墓なのでしょうか。風人自身は、蘇我氏説ではありません。(^^ゞ 

 最後に訪れるのは、石舞台古墳です。ここは、皆さんご存知の通りですが、ここまで見てきた古墳との比較や説明を思い出しながら、巨大な石室まで入ってみることにしましょう。担当は学生さんに戻りますが、リハーサルではきっちりと話してくれていますので、当日も問題なく最後を締めてくれるものと思います。訪れた古墳の内、被葬者が特定できる古墳はあまりありませんが、石舞台古墳は、その中で馬子の墓でほぼ間違いのない古墳だと思われます。

 ウォーキングテーマは「蘇我四代の墓を考える」ですが、何処までそのタイトルに添えるでしょうか。説明役の9人(学生)+4人(両槻会事務局)は、精一杯頑張ります。ご声援を、お願いいたします。とりわけ考古学を学び始めたばかりの学生さんには、その努力にエール送って下さいますようにお願いをして、長い咲読を終えたいと思います。ありがとうございました。






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