両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪






酒船石と亀形石造物について現地を見た感想
ひげ田さん

(08.1.4.発行 Vol.5に掲載)



 酒船石については古くから祭祀に使ったとか、酒を造ったとか、油を絞ったとか、色々の説があるが、此れと言った確証は無いと言われている。この酒船石から数十メートル下がった場所から近年亀形石造物が発見された。この亀形石造物の近くから紅花の花粉が2007年10月頃多量に発見されたとの報道が有った。

 話は変るが日本全国で年間数万人の変死者が出ている。特に外傷の無い者は9割迄解剖もせず、検死に立ち会った多くの医者は死因をたいていの場合に当てはまる心不全として処理するケースが多いそうだ。ここで考えるのだが、考古学にも此れとよく似たケースが有るのではなかろうか。
 例えば古い遺跡を発掘していて過去に例の無い意味不明の物が出たとしよう。こう言う場合は多々、祭祀に使われていた物ではなかろうか等と曖昧にしたりはしないだろうか。

 話は戻るが酒船石はそう言うたぐいの物では無く、れっきとした生活に密着した染色用の一器具ではなかったのだろうか。私は直感的に、酒船石は染色用の一器材だと考えます。又亀形石造物は染色液を入れるプールではないか。
(その理由)
 この頃(飛鳥時代)大陸とも活発な交易があり、朝廷や豪族も大陸の色彩的影響はかなり受けていたと思われます、朝廷(推古天皇)は冠位の色を決めた。大化3年には七色十三階制、武官の制服、被服令を発令した。冠位の色を上位順に記すと、黄丹、紫、緋、緑、糸票、黄、黒となる。当時は草木染や泥染め等が主流であった。例えば紅花染めは当時紅花を杵で突きしゃぎその液に浸す。

 酒船石を染色にどのように利用したか。この酒船石は設置当時はほぼ水平に設置し、周囲は盛り土をして殆んど段差は無かったが、地震や風雨等の浸食により現状のように露出し傾いたと考えられる。


酒船石参考図  (文中の記号を描き込んだ画像です)

 例えば緋(赤)染色をする場合B部、長方形の臼の中へ沢山の紅花を入れる。次にA部に灰を入れ水を加え溶きながらB部へ流す、杵で餅をつく様にB部臼の中の紅花を突きしゃぎ液をC部へ流す。C部が一杯になると高低差を付けたD、E1、E2、 F1、F2、G2へと流れ込む。これ等のプールはC部のプールの様に液体を貯めなければならない、当然流れ込む順番により染色液の濃度が変る、色にも濃淡が出る。当時は色彩もあまり多くなかった為冠位も色彩の濃淡で分けた。高貴な朝廷関係者は、この高台の酒船石の各プールで濃淡をつけた染色をし、残った染色液は下部亀形石造物へ流し込み、一般豪族達はこのプールの中へ布を浸し染色したのではなかろうか。
 その当時、染色剤の原料として用いた紅花の花粉が、最下部の亀形石造物周辺に沈殿して残っていたのでは?
 私は2007年11月29日から12月3日にかけてカンボジア(アンコールワット)、ベトナムへ旅をした。この旅行中絹織物工場の見学する機会に恵まれた。この工場はカンボジアの田舎で、桑の木を育て蚕を飼い繭を紡ぎ、おだまきで糸を巻き取り、糸が出来ると染色だ、色んな色の糸を昔ながらの手法で(手動はた織機)気長に織って行く。

 私が注目したのは糸の染色方法だ。基本的には此処も矢張り草木染。草木を熱湯で茹でる方法、花や草木や木の皮等を石臼で突きしゃぎ樹液を抽出する方法。抽出した液は甕などに入れ、その中へ糸や布を浸けて染色する。カラーも赤、青、黄、緑、紫、等十数種類の色が有った。現地人が樹皮を石臼で突きしゃぐしぐさを見て、私の脳裏に酒船石の上で古代人が杵で樹皮を突きしゃいで居る姿が浮かんで消えなかった。


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両槻会第8回定例会 新緑の奥飛鳥探訪
-奥飛鳥の神秘「女淵」を訪ね、皇極天皇雨乞いの謎に迫る-
に参加して

yukaさん
(08.5.16.発行 Vol.21に掲載)


 古代史が好きで、飛鳥通いのきっかけもその舞台を訪ねたいと思ったからでした。飛鳥のどこが好きか、と問われたら「古代の雰囲気が味わえる風景」と答えます。飛鳥からの遠望、逆に遠くから見晴るかす飛鳥、どちらも味わい深いものです。

 第8回の定例会は、そんな私に新たな飛鳥の魅力を教えてくれるものでした。

 冷たい雨の降る中、飛鳥駅前からバスを乗り継ぎ、栢森へ。初めて訪れる奥飛鳥は、新緑に包まれた木漏れ日の中、川のせせらぎを聞きながら爽やかなウォーキング…というわけにはいきませんでしたが、雨に煙る山々と、鯉幟が泳ぐ素朴な山峡の里の光景が本当に幻想的でした。

 稲渕へと歩を進めていく間も、雨は止むことなく降り続きます。途中の女綱・男綱では、しとしととそぼ降る雨が醸す静寂が、神々の世界との結界を感じさせているようでした。


氷雨に煙る栢森集落と鯉のぼり

 「朝風峠越え」は楽しみにしていたコースの一つです。太古さんがメルマガで紹介されていた「栗原のお地蔵さん」にも会うことができました。草の中にひっそりと佇んでいるお地蔵さんは思っていたよりも小さくて、思わず声をかけたくなるというのがわかるような気がしました。

 ただ、ひとつだけ残念だったのが、峠を越えた後に見えるはずの葛城・金剛山、二上山などの山並みが望見できなかったこと。とりわけ二上山は、私にとって飛鳥に来たことを実感させてくれる、一つの標章です。いにしえの昔から変わらないその姿を見ていると、1000年以上も前に生きていた人たちと同じ景色を眺めていることに無条件に嬉しくなってしまうのです。

 山の辺の道から盆地の向こうに見える二上山。
 甘樫丘に登った時の畝傍山越しに聳える雄岳と雌岳。
 桧原神社から真っ直ぐ西に望める太陽の沈む山。
 …こうしたお気に入りの二上山の景観に、ここから望む姿を加えるべく、晴れた日にもう一度訪れようと、楽しみがひとつ増えました。

 5月上旬といえば、強くなりつつある陽射しの下、紫外線を気にしながら汗をかきつつ
歩くんだろうなあと想像していたのですが、予想に反する天候の中、一人では絶対に行かないであろう「雨の奥飛鳥と朝風峠越え」を体験できたことは、寧ろ忘れ難い思い出となりました。

 雨の中一生懸命説明をしてくださった風人さん、企画が滞りなく進行するようタイムキーパーをされていたももさん、コースの下見や資料作成など準備に奔走してくださっている事務局員の皆さん、初めて一人で参加した時から折に触れ声をかけてくださる会長の太古さん、散策途中、おしゃべりの相手になってくれる参加者の皆さん…
 雨の中、冷えた体で10キロ近くも歩いて、普通なら心も冷え切って「もう嫌…」と思うのでしょうが(笑)、家に帰ったらすっかり「楽しい思い出」になっていました。それはやっぱり「皆で歩いたこと」。これが大きいのだと思います。


皆で辿る山路

 「そこに友がいるから」とは、以前、P-saphireさんがメルマガで書かれていた言葉ですが、それをだんだん実感するようになりました。集団行動が苦手でいつも一人であちこち歩いていた私が両槻会のイベントに参加するのは、内容が魅力的なのもさることながら、そこに集う人たちに会いたい、と思うからです。

 飛鳥のどこが好きか…冒頭にも書いたこの問いの答え。
 誰でも時を経て年齢を重ねれば興味の対象が変わっていくのと同様、飛鳥を訪れる度にその理由も微妙に変わっていくような気がします。古代の人々も見ていたであろう風景を同じように味わえる魅力は今でも変わらないけれど、両槻会に参加してからは「私にとっての飛鳥」が「他の人にとっての飛鳥」に影響を受けているのを感じます。

 そんなふうに飛鳥の楽しみ方が広がっていく喜びがあるから、この次も参加しようと毎回思うのです。 


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 木簡ロマン散策

sachi さん
(08.7.18.発行 Vol.26に掲載)


 今回の定例会のメインは、午後からの講演会。でもその前に、講演に関する遺跡を実際に歩いてみよう~ということで、集合は午前中。

 今回の講演会のテーマは、木簡。そこで、木簡がたくさん出土した遺跡を実際に回ってみよう!ということで、昼食休憩を挟んで全行程2時間ほどの散策。もともとは迎賓館だった飛鳥宮の北限といわれる石神遺跡~庭園と薬草園を兼ねたともいわれる飛鳥苑池遺跡~天武天皇の飛鳥浄御原宮跡(もとは板蓋宮跡)~飛鳥寺西門跡~飛鳥宮の工房があったとされる飛鳥池遺跡。飛鳥宮の北の端から、南の端まで、ぐるっと歩いてきたわけですが、案内役の風人さんの解説がとってもわかりやすくて、一人で歩いてもなかなかイメージとして沸いてこないものが、すごく立体的な形をとって見えてきて、面白かったです。

 講演会は、実際にその研究に携わってるプロの先生がお話して下さいました。ただ木簡に書かれた文字を読むだけではなく、そこに書かれた内容から、いろんなことがわかるんだというお話を聞いて、すごく勉強になりました。
 書かれた内容から、その出土地の特徴や役割だけでなく、どういった物がどういう風に動くかという物流の状況、そこで働く人たちの出身地や氏族、そして宮を司る皇族や貴族との関係性、さらにそんな関係から見えてくる政治的状況。そういう風な角度から木簡を見ていくと、当時生活していた人たちの実在感というか、リアルなイメージも見えてきたりして、なかなか興味深いですね。それに、実際に木簡を発掘し、どうやって調べ、どんな風に保存するかとか、研究の裏話みたいな部分もお話して下さって、調査がすっかり済むまでは保存処理は施さず、それまでずっと水に漬けたまま(もちろん水の取替えはあるそうですけど)というのには、ちょっとびっくり。木簡によっては、何十年も水に漬けっぱなしということもあり得るとか。千年以上も泥に埋もれていた、いわば木の切れ端ですもんね。空気に触れるとすぐ腐ったり痛んだりして、ダメなんだそうです。

 講演会は、先生の熱弁で大いに予定時間オーバーし(笑)、後片付けをし終えたところで、何とか資料館の閉館時間ぎりぎり。やはり研究をしておられる先生方って、自分の語りたいことを大いに語って下さるので、決まった時間内にはなかなか収まらないみたいですね。(いえ、先生方に限らないでしょうが/爆)。

 (sachiさんがご自分のブログ(趣味の日記)にUPされた感想を編集・転載させて頂きました。)


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 目指せ!飛鳥人

yukaさん
(08.9.19.発行 Vol.31に掲載)



 「楽しく」がモットーの両槻会。とはいえ、「検定」とつくだけで、高得点をとらなければ…というプレッシャーをどうしても勝手に感じてしまう。

 それに加え、飛鳥を訪れても難しい薀蓄は抜きにして、いつもぼ~っと妄想に耽って(?)歩いているだけなので、こんな状態で受検してもつまらないだろうと、過去の定例会のレポートを読み返してみることにした。ここ数ヶ月すっかり飛鳥から離れていた心は、たちまち引き戻された。試験のために覚えるというよりも、「やっぱり飛鳥っていいなあ、好きだなあ」という気持ちが先行して勉強できたことが、とても楽しかった。

 私は古代史が好きなのをきっかけに飛鳥に入ったので、歴史上の出来事や人物関係、地理、それに万葉集については多少知識はあったものの、植物や発掘遺跡については苦手意識があってきちんと向き合ったことがない。

 飛鳥を歩くとき、また甘樫丘から飛鳥の里を眺めるとき、「あ~ここで天皇が祭祀を行ったのね」とか「あのへんに○○皇子の邸があったんだよね」とか「あの万葉歌はここからみた風景を詠んだものなのかな」と考えるのだが、そういったことは、現場を発掘・調査・研究する人がいて、そこから得た結果がベースになっているのだ。そして、そこには「古代ロマン」という言葉では片付けられない現実的な苦労が多々あると思う。

 何故そこに酒船石があるのか、ここが○○氏の邸宅だったといえるのはどうしてか、という根拠を知ることも大切だと思うようになった。

 木簡にしても、今まではその古さや現代まで残っていたことへの驚きしか感じなかったが、そこに書かれている文字そのもの、また、それを解読してくれる人たちのお陰で、我々は今飛鳥を楽しむことができるのだ。

 今回の試験問題は、そういう現場の第一線で活躍する先生方からの出題もあり、本格的なものだった。とはいっても、試験を受けるというのではなく、クイズを解く感覚で検定を楽しむことができ、事務局の皆さんの発表も、大学で講義を聴いているような素晴らしいものだった。

 結果は…紫の冠は無理だろうから、頑張って青を目指したいと思っていたが、あと一歩及ばず赤だった。とはいえ、今まで知ろうとしなかったことに目を向け、新たな知識を得るきっかけをくれた飛鳥検定に参加して本当によかったと思う。


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こだわりと熱意の結晶~飛鳥‘マニア’検定

sachiさん 
    (08.9.19.発行 Vol.31に掲載)


 事前のお勉強もあまりやらないまま(苦笑)、飛鳥検定当日。
 朝から雨がよく降ってました・・・(汗)。とはいえ、検定なので外を歩くわけでもないし、支度をして出発。

 検定会場は、稲渕の棚田へ向かう途中にある、祝戸荘。
ちょっと坂道を登っていくのですけど、それだけで息切れ。体力がないなぁ(汗)。無事に会場へ到着し、両槻会の皆様にご挨拶。事務局員の皆様とはすっかり顔なじみになりましたし、常連の方々も増えてきて、その中に入るとなんだかほっこりしますね。和気藹々とした感じで、居心地がとってもいいんですよ。

 時間になり、いよいよ検定開始です。今年の問題は、実際に遺跡の発掘や研究に携わってる先生方からも出題いただき、専門的な問題もかなり混じってましたね。もちろん、事務局員さんたちそれぞれの個性と知識を駆使した問題もたくさんあって、なかなかに難題揃い(苦笑)。
 事前にお知らせいただいた傾向と対策、ヒントの数々を、しっかり勉強しておけばそれなりだったと思うのですけど、なにせほぼぶっつけ本番で受けましたので、わかる問題のほうが少なかったです(爆)。
 とはいえ、歴史関連と、実際に歩いて回ったことのある地図問題は、どーにかこーにか。残りは勘を頼りに(苦笑)答えを書き込み、検定終了!

 今回は、自己採点による自己申請で、点数に応じた「飛鳥人認定証」をいただけるとのことでしたが、答え合わせをすると、私の正答率はなんとか5割。昨年の成績とほぼ変わらず、認定官位も確か同じ(笑)。・・・まぁこんなもんかぁ。

 でも実は、メインはそのあと(笑)。回答に添えられた解説集と参考資料集のすごかったこと!あまりの分厚さと中身の濃さに、これだけの準備をして下さった事務局員の皆様には、ほんと頭が下がります。
 これらの資料を使って、それぞれ担当の事務局員さんが、発表形式で解説して下さったんですけど、これまた内容が濃い濃い!
 飛鳥歩き、歴史、遺跡、文化、植物、食物まで、あらゆる角度からの飛鳥視点のオンパレード。時間が少ないのがほんと勿体ない!私はもともと入鹿ファンの歴史視点でしか飛鳥を見れないものですから(苦笑)、こういった他方向の視点って、かなり貴重ですし、新鮮でもあります。とっても面白く、お話を聞かせていただきました。

 試験時間よりも、解説時間のほうがあっという間に過ぎ去って(笑)、気がつけばもう終わり。検定はお開きとはなりました。

 次回の11月は、談山神社から飛鳥へと下ってくるウォーキング。昨年の同じ時期に行きそびれたコースでもありますし、ちょうど秋も真っ盛り、紅葉も期待できて、ものすごく楽しみです。ただそれまでに、もう少し体力をつけておかないといけませんねぇ・・・(苦笑)。
 (sachiさんがご自分のブログ(趣味の日記)にUPされた感想を編集・転載させて頂きました。)



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太子道をたずねる集い ~磯長ルート~

yukaさん
    (10.3.19.発行 Vol.76に掲載)


 2010年2月22日月曜日、標記のウォーキングに参加してきました。
 9時に法隆寺を出発し、藤ノ木古墳を経て、太子の法隆寺ロケハンに一役買った龍田神社で説明を聞き、三室山を眺めつつ、吉田寺の前を通過。


達磨寺

 達磨寺にやってきました。ここの千手観音がめちゃめちゃ綺麗でした!あの手は何本あるのかな…千本はないだろうけど、それに近い数はありそうな勢い。それに、台座がちょっと変わってましたね。蓮華ではなく、ちょっとごっつい感じの木か岩?みたいな感じでした。岩座なのかな。縁起には、寛文7(1667)年、雲渓という仏師の作品ということが書いてあるだけ…このお寺には、6世紀の古墳群や石塔の出土跡、水晶の舎利容器などもありますが、私としてはやはりこの千手観音坐像がインパクト大でした(・∀・)
 ここと、道路を挟んだ向かいにある片岡王寺跡と、南の尼寺廃寺、北の西安寺跡の位置関係について、ウォーキング終盤の講演で先生から解説がありましたが、なるほど~!と思える大変興味深いものでした。

 先に内容をメモしときます。
【片岡王寺】東に門がある、南向きの四天王寺式伽藍配置→寺域の東側に重要なものがあった可能性
【西安寺跡】寺跡とされる場所の西に「門ノ脇」「馬場ノ脇」という小字→伽藍の名残と捉えると、西に門があった伽藍配置を示す=西方を意識していたことが窺える
【尼寺廃寺】北遺跡…東側に門をもつ、東面する法隆寺式伽藍配置

 これらの寺院は、現在南北に通る国道168号線にほぼ沿った直線上にあり、各寺院が接する街道(=太子葬送の道)を意識した立地だった─そんなお話でした。言われてみれば「そうだよね~」とさらっと受け取れる単純な事実ですが、小字名や伽藍配置を調査してそこから導き出すなんて、簡単にはできないことのように私には思えます…お話を聞いて、ちょっと感動しました。

 そういえば、三室山は斑鳩地域の横道(さらに行くと北の横大路)から続くラインの起点であること、また、飛鳥から斑鳩に移された神社が三室山にあるという興味をそそられるお話もありました。

 が、時間の都合上、先生のトークが巻きを強いられていたことと(笑)、あまりにも語りが流暢だったため、予備知識がほぼゼロだった私の頭では消化しきれませんでしたー。

 達磨寺の後は、尼寺廃寺北遺跡で解説がありました。

 非常に分かりやすい(笑)塔基壇跡。一辺7m強の正方形…結構大きめ?ここから、巨大な心礎と12個の礎石が出ています。出土した瓦から、塔(坂田寺式)→金堂(川原寺式)→回廊の順に建立されたことが分かっているそうです。(たぶん…違ったらすみません;)


尼寺廃寺北遺跡 南西から北東方向

 ここは、古代における葛城尼寺(聖徳太子建立)とする説、片岡尼寺とする説などがあるようです。この遺跡について少し興味を持ったので、後日ちょっと調べてみました

 創建年代については、
  1)柱座が若草伽藍と同形(添柱用の掘り込み孔がある)
  2)舎利荘厳具(金環)が出土→7世紀の早い時期  
 つまりこれが、葛城尼寺説の根拠とするところらしいです。

 それに対して、もう少し時期が下る可能性を示すものとして
  3)坂田寺式軒丸瓦(単弁八葉蓮華文)が出土
  4)法隆寺式伽藍配置
  5)川原寺(660年代後半の創建)と同じ半地下式心礎
  6)7世紀中葉以後の建造物に使用されている唐尺を採用→7世紀半ば
 とする見方もあるようです。

 現状では前者は否定され、葛城尼寺ではない=聖徳太子は創建に関わっていない、という説が主流となっているようです(この場合、葛城尼寺の所在は飛鳥に求められるらしい)。
 細かいことは分かりませんが、やはり決め手は瓦の形式に拠るところが大きいみたいですね。

 それに加えて、後にここへ進出し本拠地としていたらしい敏達王家との関わりを窺わせる遺跡等の存在(茅渟王の墓と比定される平野古墳群、その後裔大原真人所縁の片岡僧寺)も、大きな根拠となっていそうです。

 調査・考察が重ねられた結果(詳しい経緯は知らない〈笑〉)、創建は7世紀半ば以降と位置づけられたようです。

 そのほか、紀氏を造営氏族とする論もあるようで、この場合もやはり瓦の分布が手がかりとなっています。
 ・坂田寺式軒丸瓦と同形の瓦が葺かれた寺院が、紀ノ川流域に集中している。(それらの造営氏族は、坂田寺の鞍作氏と繋がりを持ちうる)
 ・そこを本拠地としていた紀氏が造営氏族として考えられ、尼寺廃寺造営氏族との繋がりが推測できる。→交通の位置関係から見て同族の可能性・紀氏は平群郡に勢力をもっていた。

 ちなみに、論拠は私には複雑すぎてきっちりと理解できなかったので、結論だけ拾っています^^;

 また、川原寺式複弁八葉蓮華文軒丸瓦から、その分布を根拠に壬申の乱の功臣との関連性を求め、件の紀氏もその一つであるという方向からもやはり紀氏との接点を想定しうる、という考えも提起されています。
 そうすると…紀氏が氏寺として僧寺と尼寺を建てたということになる かな。確かに、紀氏の名を冠する飛鳥の紀寺は、大安寺の前身の一つ・高市大寺の候補となっているし…

 それにしても、瓦ってすごい。面白い。これだけのことが論じられるもとになるんですもんね。蓮子の数がどうとか、鋸歯文がどうとかいうややこしいことは知りませんけど…(笑)。余談ですが、あの加守廃寺とも同笵の軒平瓦が出土しているらしい。

 尼寺廃寺を出て、昼食休憩の後、志都美神社に立ち寄りました。しばらく住宅街を歩いた後、バスに乗って穴虫峠を越え、太子町入り~。
 バスを降りて、太子町役場で先に触れた講演会を聴きました。
 葬送の道に関わるお話のほか、最終目的地の御廟や叡福寺について、また、ご専門の瓦について、短時間ながらも充実したお話を聴けました。

 瓦からは本当にいろんなことがわかるのね…すごーい

 さっきの尼寺廃寺もそうでしたが、出土瓦の形式から、寺院の創建年代やら伽藍の建立順序、造営氏族が分かってしまうんですからね~(正確にいえば、その瓦の情報をもとにしていろんなことを推測する研究者の能力が私からみたら神業)。

 朝からず~っと歩き通しで、疲れと睡魔が襲ってきそうなタイミングでの講演でしたが、先生の話術に引き込まれてとてもじゃないけど寝てる場合じゃありませんでした☆
 そんな中身がぎゅっと詰まった感じの講演を聴き終え、叡福寺に向けてラストスパート(っていうほどでもない近さだけど)。
 御廟前に到着し、太子和讃。ちょっと長かった^^;


御廟前

 ほぼ予定通りの時間で、無事に太子を磯長陵までお送りできました~♪
 …太子、フォーエバー彡

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 (掲載幅の都合上、記事を少し縮めさせて頂いております。当日の講演内容も含めた画像満載の本編は、yukaさんのブログ「古都☆古都雑記」で是非ご覧下さい♪)



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古墳壁画の世界
第20回定例会に参加して
yukaさん

(10.8.6.発行 Vol.86に掲載)


 講義の前に、展示室にあるキトラ古墳の複製陶板を見学させてもらいました。精巧に復元されたレプリカを実際に間近で見ると、剥がれた漆喰に傷みの深刻さを感じたり、十二支「寅」の鮮明な転写痕に、古代の壁画職人がそこにいるように錯覚したりと、この謎だらけの古墳に、俄かに興味が沸いてきました♪
 
 講義ではまず、壁画の四神図と、近い時代の四神図とを比較し、制作時期や作者を考察していくプロセスについて聞きました。白鳳期から奈良時代初頭にかけて、四神図は、絵画手法と両古墳の形式から、「薬師寺金堂本尊台座→キトラ→高松塚→正倉院八卦十二支鏡」の順に変化していったといえるのだそうです。

 作者については、律令制の画工司に組み込まれた、渡来系の画師集団を想定できるようです。従来からの黄文連本実説には、先生は否定的なようでした。いわば技術官僚であるトップ自らが実務に携わるとは考えにくい、ということですが…確かに、持統・文武の殯宮司を務めたとの記録があるようで、画師としてのテクニックのみならず、そういったセレモニー全般に関する知識も持っていたのでしょう。キトラ・高松塚古墳との関わりにおいても、葬儀や墳墓造成を含む現場全体に対して采配を振る立場にあったとすれば、壁画執筆に直接携わったとは考えにくい、というのは道理だと思います。

 ただ、これは一素人の感想にすぎませんが、古代の実情は、必ずしも現代のシステムと同じ感覚で捉えるのとは違うかもしれないし、黄文本実が描いたという可能性がそれで否定されてしまうのも、何だか彼がかわいそうな気がします(笑)。本実さんに特別な思い入れがあるわけではないけれど、もし、実は彼の力作だったとしたら、「え~!?せっかく頑張って描いたのにな~(´・ω・`)ショボン」…なんて草葉の陰でイジケてるかもしれません(笑)。
 
  …それはさておき、次は、唐の墓葬壁画の作例を参照しつつ、キトラ及び高松塚壁画の比較です。唐壁画における天円地方の思想は、日本のキトラ・高松塚古墳にも反映され、星宿図に天を、四神・十二支に地を象徴させているのはその表れでしょう。ただ、星宿図の差異(キトラ…丸く写実的、高松塚…四角くデザイン化)や、その他の要素から判断すると、高松塚壁画の方がより中国的な作法に則って描かれているのだそうです。正統的な描写 (キトラ) → 形式化 (高松塚)という様式の変化を物語っているということですね。そういわれてみれば、キトラの線描のタッチには躍動感が感じられますが、高松塚の筆致は、わりとクールであるように見受けられます。
 
 そして、両者の最も大きな相違点、白虎の向きについてですが、キトラの四神が循環しているのは「気の流れの象徴」で、高松塚で白虎と青龍の両方が南を向くのは「入口からの邪気を威嚇するため」なんだそうです。どちらが新しい思想なのかはよくわかりませんが、いずれにしても、このように四壁の図像に関連性を持たせた構図も、石室を一つの宇宙空間に見立てていることの表れなのかな、と思いました。ただ、キトラの玄武って顔は東向いてるけど体は西向きだから、正確にいえば循環じゃないような気が(笑)。
 
 ちなみに、少し調べてみたところでは、この循環構図については、鏡の文様における十二支像の参入が関わっている、という説がありました。初唐の四神鏡でも踏襲されていた中国古来の南面思想は、時代がやや下り、四神が十二支とセットで用いられるのに伴い、循環するようになったのだそうです。正倉院の十二支八卦背円鏡でも、十二支と四神が循環していますが、その影響なんですね。

 ところで、講義中、唐の十二支像の画像を見たとき、キトラの獣頭人身像が武器を持っているのに対し、笏を除いて持物がないのを不思議に思いました。武器を手にするのは、日本のオリジナルなのか、それとも、例えば朝鮮半島の影響なのか…

 先生に訊いてみると、新羅では8世紀半ば以降に武器を持つ十二支はあったけれど、年代が異なるため、キトラへの影響はないとのこと。また、キトラ北面の像は、剣を絡め取る杖を持っていますが、これは中国の三国時代に見られるもので、やはり時代が古く、ダイレクトな関係は考え難い…というようなお答えでした。

  …何だかいろいろと難しいですが、四神図にしろ獣頭人身像にしろ、完全に中国や朝鮮の模倣だったら芸がないですし、オリジナリティがあってよいと思います。特に、中国にも朝鮮にも例がない形態だといわれるキトラの朱雀は、クールビューティーな感じがして私は好きです(笑)。
 
 最後に、キトラ・高松塚古墳の壁画の前後関係、そして被葬者について二つの壁画の制作年代は、第8次遣唐使が帰国した(第7次から30年ほど経ている)慶雲元(704)年を基準に分けられるようです。キトラ壁画は、間接的に得た情報をもとに描かれたため、唐の壁画との間に微妙な食い違いが起こり、一方で、遣唐使が直に見聞した情報に基づいた高松塚の壁画は、より唐に近いものになった…という結論でした。

気になる被葬者については、私はこの際誰でもいいと思ってます(笑)。候補に挙がっている人物について、この人のお墓かな、あの人かな、と想像するだけで十分です。ややこしいことは考えたくないだけですけど(笑)。
 
 本当に乏しい知識しかなかったキトラ古墳・高松塚古墳ですが、これで少し壁画の世界に近づけたかな、と思いました。 



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第26回下見レポート

よっぱさん

(11.4.15.発行 Vol.105に掲載)


 4月2日にスタッフ及びサポートスタッフで下見に行って来ました。参加者の方ために、参考情報を記載しています。今回のコースは、パート1からパート4までに区切られていますので、それに沿って記載しています。


より大きな地図で 両槻会第26回定例会 を表示

 パート1(飛鳥駅から越、与楽、寺崎の古墳群)
  まず岩屋山古墳です。石室内の見学、墳丘頂上からの眺望も可能ですが出発時刻に遅れると置いてけぼりを喰い迷子になります。両槻会は案内標識を無視した抜け道を通りますので、ご注意を!

岩屋山古墳、天井石に龍神現る!(下見時撮影)

 牽牛子塚古墳からカンジョ古墳までは丘陵内の細い散策道や歩車道の区別のないアスファルト舗装道を進みます。当日は20~30名の方が一列で進むことになりますので、前の方との距離を空けずに進まれることをお願いします。そうでないと昼休みはごく限られた時間になってしまいます。(昼ご飯ぐらいはゆっくりと)カンジョ古墳から与楽鑵子塚古墳までは緩やかな登りですが、その後は竹藪内の坂道を登り詰めると寺崎白壁塚古墳に到着、お昼の休憩となります。

 パート2(寺崎白壁塚古墳からマルコ山古墳まで)
 昼食後は丘陵を下り、少し戻って反対側の丘陵を登ります。一山(丘陵)越えて集落内を抜けてマルコ山古墳に到着です。トイレ休憩の予定ですが、トイレは1室のみですのでご注意を。


 パート3(真弓・佐田の古墳群)
 続いて皆さんもご存じの束明神古墳に向かいますが、ここまでの行程も地元民しか知らないような道を進みますのでくれぐれもはぐれることの無いように。はぐれずについてきた方には、放課後のクラブ活動を思い出させる階段がご褒美として待っております。ここまでをクリアーすれば、あとは佐田1号墳、2号墳と出口山古墳を経て、紀路まで丘陵を下ります。

 パート4(紀路探訪:出口山古墳から近鉄市尾駅まで)
 散策マップでは、この区間の距離が非常に長く見えますが、この区間はほぼ平坦ですので、体力的にも時間的にもそれほどきつくはありません。途中には、高取中央公園駐車場やその向かいのリベルテホールにいくつかのトイレがありますので、ここでトイレ休憩です。ここが第一のリタイヤポイントです。足に自信のない方、遠方からの参加で時間に余裕のない方は、ショートカットして近鉄壺坂山駅に。
 この後、紀路を西に向かい市尾墓山古墳までは、集落内の生活道路を抜けていきます。車両の通行なども頻繁にありますので一列で秩序正しい行動をお願いします。

市尾墓山古墳(下見時撮影)

 途中、市尾墓山古墳の手前で近鉄市尾駅に通じる交差点を通過しますので、ここが第二のリタイヤポイントですが、ここまで来ればあともう少しですので頑張ってください。この後も古墳ファン必見のひょっこりひょうたん島こと市尾墓山古墳や石室や石棺まで見学できる市尾宮塚古墳、瓦ファンには必見の高台・峰寺瓦窯が待っています。



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ふるさと自慢に限りなし

らいちさん

(11.7.22.発行 Vol.112に掲載)



 先日の両槻会で機会をいただき、「文化財レスキュー」へ少しばかりの寄付をさせていただきました。私は奈良県内に住んでいて、このように歴史文化遺産の豊かなところで暮らせることを常々とてもありがたく、そして誇らしく思っています。被災された東北地方の方々も同じようにご自身の地域に残る歴史文化を心のよりどころにされているのではないかなと思いました。被災地域の貴重な文化財を守るために始まったこのレスキュー事業に県内の関係機関の方々も多数協力されていることもまた、私は誇らしく思っています。

 最近、私の住んでいるところがこんなにも歴史的に重要な場所だったんだと再認識した事がありましたので、お知らせがてらその話を書こうと思います。

 桜井市の多武峰といえば、談山神社の蹴鞠会や秋の紅葉が有名でしょうか。それとも乙巳の変ゆかりの談所ヶ森を連想されるでしょうか。藤原鎌足公の廟所として開かれた多武峰は藤原氏の隆盛と共に10世紀頃には全盛期を迎えますが、京都とのつながりが深まるにつれて、法相宗から天台宗に宗旨が変わると興福寺との争いが絶えなくなり、焼いたり焼かれたりの繰り返しがあったことは皆さんよくご存じの事と思います。この長く続いた戦乱の時代に夢のように花開いた芸能があったことを、私は初めて知ったのです。

 談山神社では平成18年から社殿の大規模な修理をしています。ここ何年かは桜や雪景色の写真を撮ろうにも、工事用の足場や覆い屋が一緒に写ってしまっていささか興ざめでしたが、十三重の塔に続いてこの5月には権殿の修理が終わり、本殿の修理も来年の春には終わるそうです。

 修理の終わった権殿

 さて、この権殿ですが、いったい何の為の建物なのかよく知りませんでした。今は本殿の修理でご神像を仮安置している場所になっています。何十年に一回かのこんな時の為に建てた建物なの?って不思議に思っていたのですが、もともとは常行三昧堂という名の念仏修行をする為の仏堂でったらしいです。ここで宗教行事の一環として報祭されていた舞が散楽・大和申楽となり、今の能楽につながったのだそうです。このお堂のご神体として祀られていた「摩多羅神面」は能楽の翁面のルーツではないかともいわれていて、それについてのシンポジウムが去る5月15日に開かれました、そして翌日の16日には観世流家元によるご神体の古面をつけての舞が奉納されました。室町時代以来400年ぶりということです。

 同じ頃に田原本にある唐子・鍵考古学ミュージアムでは春期企画展にあわせて、新しく町の指定文化財になった室町時代の古文書が展示されていました。中世にはかなりの大寺院であった補厳寺(ふがんじ)の寺領を記した土地台帳で「補厳禅寺納帳」というものです。この中に「至翁禅門」(しおうぜんもん:世阿弥の法号)や「寿椿尼」(じゅちんに:世阿弥の妻の法号)の文字が見られ、世阿弥が忌料として懲り寺に土地を寄進し、世阿弥夫婦がこのお寺で長く菩提を弔われた事がわかりました。世阿弥が忌料として納めた土地は今も田畑として残っています。私はそんなお寺があったことも知らなかったのですが、能楽関係者の間では世阿弥ゆかりの地としてそれなりに知られていたようです。今は山門と鐘楼が残るだけですが、傍らには世阿弥顕彰碑が建てられています。


世阿弥顕彰碑

 お能って実はよくわからなくて、私には敷居が高くて今まであまり興味がなかったのですが、日本が世界に誇る芸能の発祥地がこんなに身近なところであるのに、無関心でいてはいけないという気持ちになりました。

 ところで、常行三昧堂の「三昧」というのは仏教における行を延々と続けることで、ずっと座り続けるとか、仏像の周りをグルグル周り続けるなどして、そのうちトランス状態というか人間離れした境地に陥るのがよしとされていたようです。「映画三昧」とか「ゴルフ三昧」とか好きなことをひたすらやる意味の場合は「ざんまい」と濁るけれども、この仏堂での行は「さんまい」と読むのだそうです。そう言えば「○○三昧」とかいう某氏のホームページがありましたね。こちらは「ざんまい」なんでしょうか、それとも「さんまい」とお読みするのでしょうか?


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第33回定例会に参加して

アダッチさん

(12.5.25.発行 Vol.134に掲載)


 5月5日の定例会に初参加させて頂きました。アダッチと申します。
 今回、朝からの事前散策にも初参加させて頂きました。本名で名前を登録しなくて良いというとてもユニークな会だなぁ。というのが最初に思ったことです。主催の両槻会の方々、参加されている方々の博識の高さに自分自身、もっと勉強しなければと思わされました。

 橿原神宮前で集合してスタートをして、雷丘北方遺跡から中世の城の雷ギヲ山城、雨乞いをしていた「フルミヤさん」などを巡り、歩きながら所々立ち止まって、実際の遺跡を見ながらの詳しい解説はとても興味深いお話が多く自身の勉強になりました。

 また「埋もれた大宮びとの横顔―藤原宮東面北門 周辺出土の木簡」という展示が開催されていて、実際に木簡を近くで見ることができ、調査員の方のお話を聞けたのでとても勉強になりました。それから飛鳥資料館へ行き、「比羅夫がゆく-飛鳥時代の武器・武具・いくさ-」を見学し、7世紀の北方の武器を身近に見ることが出来てとても感激しておりました。

 本題の森先生の講演会は「小山廃寺」のお話で、講演を聞く前に実際に小山廃寺跡も巡ってきたので、尚のこと真剣に先生のお話を聞いていました。最後に初参加だったので前に出て挨拶をすることになるとは思いませんでしたが・・・笑)。

 今回朝から全てに初参加させていただいて、講演会に関する遺跡を歩き、その時に両槻会さんが用意された参考資料を読むだけでもとても勉強になるし、図の作成方法についてものすごく教わりたくなりました!

 今後も定例会などにも積極的に、時間が合えば参加させていただきたいと思っております。


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定例会に参加して

ガッキーさん

(12.6.8.発行 Vol.135に掲載)


 初めて定例会レポートを書かせていただくガッキーです。両槻会の定例会に初めて参加した感想は、熱い!とにかく熱い!いろいろと熱い!学生身分の私としては、負けてなるものかといった気分で参加させていただきました。その気持ちは、今後の研究に役立てる元気をいただいたような気がします。さて、それでは事前散策から振り返っていきたいと思います。

 講演会に先立って事前散策を行いました。そのルートは、雷丘北方遺跡付近→雷ギヲ山城→藤原京十条大路付近→フルミヤさん→小山廃寺→藤原宮跡資料室前(復元道路)→藤原宮跡資料室といった順路です。飛鳥といいますと、某大学に所属している私は学外講義などで回った経験があります。しかし、フルミヤさんは今回の定例会で初めて知るという学生にあるまじき不勉強さ。自分の勉強不足を実感しました(汗)。また、非常に統制のとれた動き、話を聞く姿勢、学生として恥ずかしいと同時に学ばないといけない所はたくさんあるな、と感じました。遺跡を巡った中で私は、メインテーマである小山廃寺跡が気になりました。小山廃寺の金堂と思われる寺跡で想像を膨らませながら、この辺に瓦が落ちてないかなと探したりしてこっそりと楽しみました。結果、瓦というより土器片の1つも落ちてはませんでしたけど・・・。

そして、いよいよメインテーマの森先生による講演会「小山廃寺(紀寺跡)を考える」がスタートです。事前散策で小山廃寺見学してきた分、聞く側の姿勢にも熱が入ります。会の姿勢と森先生の講演も合間って前のめりに話を聞くことができました。
最後に個人的な失敗は、会の方に土器について聞かれた際に、知っていることを全部伝えようとして、うまく伝えることができなかったことです。自己紹介をした際に、風人さんに言われるまで説明できた気になっていた自分が本当に恥ずかしかったです(汗)。この会を通じて、説明できる話術も身につけたいと思いました。


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飛鳥万歩写記

tubakiさん

(12.6.22.発行 Vol.136に掲載)


 読者の皆様、こんにちは。なにわの写真司です。
 (第1回目の飛鳥資料館写真コンテストにおいてこの官位を頂きました。)

 飛鳥を歩き感じた雑記を投稿致しました。

 この日の目的は飛鳥資料館の写真展応募へのイメージ固めと撮影。今回のテーマは『遥かなる華の都』。歴史を織り込み「華」がある写真にいかに仕上げるか?む~ん、写真も飛鳥も歴史も初心者級の私にはトリプルに高いハードルのテーマです。しかも飛鳥の写真ストックが無い私にとって、締め切りまでの間、やりくりして撮影しなければなりません。梅雨入り直後のこの日は、生憎の空模様でしたが、とにかく歩こうと飛鳥入りしたのでした。

 飛鳥は何処もかしこも一家総出で田植え準備の真最中。それは、それは癒される懐かしい風景でした。この時期はいい。これぞ飛鳥です。入江泰吉さんの『昭和の奈良大和路』にある飛鳥を想いだします。眼前に広がるカラーの現風景と入江さんのモノクロ写真を想い比べながら農作業中の飛鳥人さんを撮影。この日の農作業は機械で土をおこすだけ。浮いてきた泥が落ち着ついてから田植えだそうです。きっと今頃は田植えも終わっているのでしょうね。


田起こしの風景

 写真の世界では、田植え前の水に移る光景(桜、木々、夕焼けなど)美に題材を求めます。飛鳥では古宮土壇・稲淵・細川の棚田が有名で人気ですね。

 田んぼと言えば、飛鳥のそれはちょっと他とは違います。
 飛鳥は歩くとなだらかな傾斜地である事が田の畝からよくわかります。今の飛鳥の景観は中世からのものだそうですが、古代の地形を踏襲していることもまた、事実。飛鳥の地形によりおこる洪水を納め、開拓し宮や寺院そして道を作ってきた、いろいろな歴史の痕跡が一面に眠っているのです。

 飛鳥の歴史を知れば知るほど、ただの癒しだけではなく、何かぞくぞく感じるのはそのせいでしょうか?そんな風景も表現できればいいなと思います。


水の張られた田

 散策の後半、伝飛鳥板蓋宮跡から移動しようとした時、志貴皇子の万葉歌の記念碑が眼に留まりました。この志貴皇子の歌は、悲しさとある種の美がありますが、大きな災害を経験した今はリアルな悲しみのほうが一層ましてくるので、撮影にはどうかと躊躇します。と、そこに小柄な飛鳥女人が何処からとも無くやってきて、突如腰掛けられたのです。農作業の帰りのいつもの休憩と言った感じで、遥か彼方に見える香具山でも眺められているのでしょうか。一瞬の幸せを彼女と共感しながら何とも和やかな風が吹くのを感じました。流れる時間が悲しみを癒してくれるのだと感じる瞬間でした。


歌碑とともに

 改めて飛鳥を撮るという事を考えると、かわらぬ古代から続く風景を、古代人の想いに共感しながら自己の思いを織り交ぜて撮るという、普通の風景写真にはとどまらない醍醐味がある様に思います。そして飛鳥を歩ば歩くほど、その撮影対象は無限に広がり、飛鳥に思いを馳せれば馳せるほど、古代人がその思いに答え、導いてくれるような気さえします。

 結局『華』と言うテーマにこだわらずに(技量に限界があるのですから)感じたままの飛鳥を撮影する事だな~と思い至りながら、約2万歩の飛鳥歩きは終りました。次回は現存する寺院や今回の場所を厳選して再訪問し撮影に専念する事に致しましょう。

 皆様はどのような飛鳥を表現されますか?
 歴史好き、飛鳥好きな方にはぜひこの写真展に応募していただきたいと思います。いろいろな感性の「華」のある写真、楽しみです。最後に、この企画に感謝。

 ちなみに午後から歩いたこの日のルート。
 丈六交差点を出発、石川精舎、石川池、大野丘、古宮土壇、豊浦寺、甘樫坐神社 難波池、すすぎの滝、石神遺跡、水落遺跡、伝飛鳥板蓋宮跡、エビノコ郭、飛鳥寺、入鹿首塚、酒船石、石垣状遺構、島庄遺跡、勾の池、石舞台、飛鳥周遊歩道をへて橘寺裏路、天武持統陵裏、鬼の雪隠を臨む丘、飛鳥駅(同行のナビ人さんに感謝。)

 午前中は橿原考古学博物館で春期特別展『三国志の時代-2・3世紀の東アジアー』を見学。今尾学芸員さんの列品解説つき。これはお得で勉強になり良かった!


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飛鳥歩記(あるき)と両槻会

tubakiさん

(12.8.17.発行 Vol.140に掲載)


 両槻会での事前散策、奥飛鳥滝めぐりや紀路踏破などの経験を経て、かなり健脚に近づいてきたと自負できるようになりました。同日最長歩行記録は26km。そして時速4・5・6kmと調節して歩けるようにもなった。これは日頃の訓練の賜物です。(笑)

 健脚?となり個人でも飛鳥を歩くようになってからの楽しみは何かを発見すること。その発端となったのが「西飛鳥古墳めぐり」という超マニアックな定例会を体験した後日、御園辺りから農面道路で峠を越え、稲淵に出たときの事です。小休憩のため本道をそれた脇でなにやら刈り草や雑草に覆われた不自然な切り込みのある巨石が目に留まりました。

謎の巨石?

 一瞬古墳・石室?と妄想が走り、なぜ、まさか?・・・結局これは、次回、第34回定例会で訪れる塚本古墳だったのです。

塚本古墳

 あまりの姿に悲しくなりましたが、「歩き」だから発見できた事、古墳ツアーを体験していなければ意識しなかったであろう事に、ちょっと楽しくもあった思い出です。(現在は地図に掲載されていても、実際には見つかりにくいところにありますが、棚田以前、古墳成立時の風景はどのようなものだったのでしょうか?)そういえば細川にも棚田の真ん中に草に埋もれるように同様の石室?と思われる巨石がありますね。

 飛鳥には今もさりげなく溶け込む歴史の残影があるのです。

 さて、次回、第34回定例会のルートマップに浅鍛冶地蔵尊や栗原地蔵尊の文字がみえます。たいていは道標の代わりにもなっておられる石仏ですが、飛鳥でもいろいろな石仏をお見かけします。つい最近、欽明天皇陵の南東方向にある辻(字名下平田)で蓮華の台座をお持ちの道標を兼ねた半跏思惟像の石仏を発見。(実施には右膝を立て左脚は垂らさず曲げておられる、変則ポーズですので、半跏と言えるのかどうか詳しくないので判りません。)


 お顔は判別しづらいのですが、小さな口元が微笑んでいらっしゃるように見えるかわいいお方です。中宮寺や岡寺の半跏思惟像は有名ですが、石仏としては珍しいように思います。石仏で半跏像のものは、平安時代末期以降の事だそうですが、また機会があれば半跏思惟像について詳しく調べ飛鳥話続編として投稿いたしましょう。

 考えるとこの下平田という辺りには、欽明天皇陵、吉備姫王墓、カナヅカ古墳、猿石、鬼の俎板・雪隠古墳などがあり、もっと近くには「平田キタガワ遺跡」があります。1986年、アパート建築に伴う事前発掘調査で、地表2m下から石積み護岸・敷石・石列などが検出され、レーダー探査では全長170mにも及ぶ大規模なものであったことから、水を利用する特殊な目的のために造られた公的施設ではと推測されています。飛鳥時代であることはほぼ判明している様ですが、詳しい時代は推測の域を出ないようです。
 紀路を通って飛鳥中心部への入り口にあたる位置にある事を考えると、 迎賓館的な施設が建設されていた可能性があり、近くから出土した猿石と絡めて興味深い妄想が生まれる遺跡と言えそうですね。

 今、遺跡はこの地蔵尊が見つめる向かって左側のアパートの下に眠っています。
  (参考資料:p134 飛鳥光と風 森和彦著/第2回定例会「埋もれた古代を訪ねる」資料/第33回定例会飛鳥咲読より)

 最後に、飛鳥を歩くと諸所に「マムシに注意」の看板があります。注意ったって遭遇したらどうすればいいの?と突っ込みたくなる看板ですが。


 この夏、稲淵の入り口付近の道路でペシャンコになった子供?のマムシを発見。つぶれていても赤紫色でマムシのイメージ色とは違うきれいな様相でした。明け方出てきたところを車に踏まれたのでしょうか?やっぱりマムシはいるんですね。その反面、昔はどこでも蛇やトカゲを見かけたのに、この夏の飛鳥歩きでは蛇2匹トカゲ3匹しか見なかったのは単なる偶然なのでしょうか?最も夜行性?という事だからでしょうか?あんまり出会いたくない方たちですが、すずめも少ないと感じる今、飛鳥の生態系も気になるところですが、調査はされているのでしょうか?

 兎にも角にも、飛鳥が飛鳥であり、いつまでも飛鳥歩きが楽しめるよう、全ての原風景の保存継承を望みながら休日、飛鳥を歩く事にいたしましょう。

 皆さんの飛鳥歩きでの発見は何かありますか?両槻会では飛鳥話の投稿を募集中です。私の様なちょっとした内容でもOKです。これくらいなら書けるわ、ネタあるよという方どしどし投稿お願いいたします。 



































本薬師寺の思い出

yukaさん

(12.9.14.発行 Vol.143に掲載)


 5年前の初秋のことです。
 記録的な猛暑だった夏も過ぎたというのに、9月になってもなお異常な暑さが続いたあの年です。

 その日は急に肌寒くなった日で、朝から雨の降りそうな曇り空でした。
 そんな日になぜ飛鳥に行ったのかは覚えていません。彼岸花でも見に行ったのでしょう。

 駅前で自転車を借り、王道観光コースを巡ったあと、藤原宮跡に行ってみようとふと思い立ちました。今ほど飛鳥のことを知らなかった当時は、甘樫丘より北へ行ったことがありませんでした。まぁ、大体の場所はわかるし、案内板もあることだし、だだっ広い宮跡を見落とすなんてありえないと思い、軽い気持ちで自転車を走らせました。

 やがて現れた「藤原宮跡」の案内表示に従っていくと、遠くにそれらしき広場と、何人かの人影が見えてきました。

  結構近いじゃん!らくしょーらくしょー♪

 と鼻歌まじり(だったかどうかは不明)で近づこうとすると・・・行けども行けども田んぼが続いており、どこから曲がったらいいのかわからない!しかも、季節柄草がボ~ボ~で道がみえません。仕方なく適当に走っていくと、すぐそこに大極殿跡の案内板とキャッチボールに興じる親子連れなどの姿が見えてきた…のに!

 一体入口はどこ~!?(泣)

 結局、よくわからないままなぜか敷地を1周するハメになり、気がつくと「紀寺跡」とテニスコートの前に来ていました。一瞬、迷っていることも忘れ、

 おお、ここが紀寺跡かぁ~

 と名前だけ知っていたけれども初めて現地を見たことにやたら感動し、まぁ今日は時間もないことだし藤原京もまた今度ゆっくり来よう、と橿原神宮前駅を目指しました。あとはとりあえず南西方向に向かえばなんとかなるでしょ、と飛鳥川を越えてトロトロと自転車を転がしていると、ついに小雨がぽつぽつと降ってきました。しかも、夕刻に近づき急に空気が冷たくなってきました。まだ猛暑の名残で思いっきり夏服を着ていた私は、寒いったらありゃしない!おまけに、レンタサイクルのタイムリミットは刻々と迫り、返却時間の17時に間に合うか微妙な雰囲気。不安と心細さでいっぱいになりながら雨と寒さに震えつつ、「早く駅に着けー」と、迫りくる時間と戦っておりました。

 するとそのとき、突然目の前に一面の薄紫色の世界が現れたのです。瞬時に「本薬師寺のホテイアオイだ!」と思いました。それ以前に本薬師寺に来たことはなかったし、地図も確認しなかったけれども、おおよその場所と目の前の光景をみて、なぜかピンときたのです。

 それまで泣きそうになりながら必死に自転車をこいでいた私は、雨も寒さも焦りも一瞬忘れ、自転車を停めてしばらくぼーっと見とれてしまいました。

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 あれから両槻会でも何度も訪れている本薬師寺。
 あの日と違って快晴でも、季節が違ってホテイアオイの花は咲いていなくても、ここに立つと、あのそぼ降る雨の中眺めていた一面の薄紫色が心に甦ります。

 意識的にではなく、偶然辿りついて自分で見つけた場所。そのことが妙にうれしくて、今でも忘れられない記憶として残っているのです。もちろん今では藤原宮跡へも迷うことなく行けますし、目新しいところでもないのですが、いつもの王道コースをこえて初めて藤原の地にやってきたこの時のことは、ちょっとした冒険として今でも特別な思い出となっています。

 私が両槻会と出会ったのは、この3ヶ月ほど後のことでした。

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 (ちなみに自転車は…このあと必死こいて飛ばしたおかげで、ギリギリ17時に間に合いました^^v)



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