両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

 第一回 両槻会講演資料         二〇〇七年三月三十一日 於 橘寺往生院


 吉野宮滝への道


- 菅原道真「宮滝御幸記略」をめぐって -

                                     奈良大学 滝川幸司

T、宇多天皇について

宇多天皇(八六七〜九三一)。光孝天皇第七皇子。元慶八(八八四)年四月十三日、臣籍降下。仁和三(八八七)年八月二十五日、親王、二十六日、父光孝天皇の崩御と同日に立太子、践祚。寛平九(八九七)年、譲位。昌泰二(八九九)年十月十四日、仁和寺で出家。


〔天皇系図〕

   


U、「宮滝御幸記略」を読む

▼『日本紀略』昌泰元年十月二十、二十一日条
廿日丙辰。太上皇(宇多)遊猟す。是より先、左右鷂飼并びに行事・番子等の装束を定め、左右相分つ。上皇御馬に騎りて、朱雀院自り出で、川嶋に至る。始め猟騎を命ず。日暮れて赤日(目カ)御厩に宿る。廿一日。片野に幸し、又大和宮滝に至る。河内・竜田山・難波に入る。
 *二十日〜二十一日の記録として、紀長谷雄「昌泰元年歳次戊午十月廿日競狩記」がある。


菅原道真「宮滝御幸記略(仮)」(『扶桑略記』所引)*原漢文。
 *『桑華書誌』所載「古蹟歌書目録」に「宮滝記<一帖。端紀中納言。奥菅丞相>」とある。また、『古今和歌集目録』素性に「昌泰元年宮滝遊覧記」との名が見える。

○二十一日 片野(交野)で遊猟す。
〔昌泰元年〕十月廿一日。太上〔宇多〕天皇、御鷹狩の逍遥有り。其の従駕の者、常陸大守是貞親王・権大納言右大将菅原朝臣〔道真〕・参議勘解由長官源昇朝臣・四位右兵衛督藤原清経朝臣・左近衛中将在原友于朝臣・右近衛権中将源善朝臣・五位備前介藤原朝臣春仁・左馬助藤原朝臣恒佐・右衛門権佐藤原朝臣如道・中宮大進源朝臣敏相・六位八人、小童三人、都て廿二人也。其の余数十人、山に登り水に臨みて、野を行き原に在り。野遊して日暮れば、旅宿に留幸す。

▽紀長谷雄「昌泰元年歳次戊午十月廿日競狩記」
廿一日丁巳。……、巳四刻許、片野の原に行幸す。其の陪従せる者、貞数親王・菅原朝臣・昇朝臣・清経朝臣・友于朝臣・善朝臣・春仁・恒佐・如道・敏相・季縄・善行・忠房・公頼・朝見・浣・凝等及び鷹飼四人而已。其の余皆悉く帰り遣はしむ。本職の事に勤めしむるなり。……
*長谷雄は、「史臣長谷雄、右脚、馬の踏み損ふ所と為る、従行に堪へざる也。故に帰
洛す。悔ゆること及び無しと雖も、首を掻く而已。自後の事、敢へて記す所に非ず」(「競狩記」)とあり、負傷のため、宮滝まで扈従できず、記録は道真に任されることになった。
○二十二日 宮滝へ向けて出発。
廿二日。宮滝を直に指して、上皇臨発。


○二十三日 法華寺参拝。素性法師合流。この日は高市郡の道真の山荘に宿泊して和歌会を開く
廿三日。早朝進発し、道を抂げて法華寺を過ぎる。仏を礼し綿二百屯を捨す。 上皇出入往反し、寺の中を巡覧す。破壊の堂舍を見る毎に、指を弾きて歎息す。寺門を出づ。旧宮の重閣門の所に至りて、路傍に酒醴果子有り。往々炭を生ずるに、一人も見えず。群臣、其の主を問はず、意に任せて飮喫す。或る人曰く、「此の物、大安寺の別当僧安奚、右大将〔道真〕来ると聞きて、相待つ所也。乍ち御駕を見て、僻易迷惑して、草の中に隠れ伏す」と。上皇馬上に勅して曰く、「素性法師、応に良因院に住すべし。使を馳せて路次に参会せしめよ」と。即ち右近番長山辺友雄を差して請はしむ。法師単騎、路頭に参会す。上皇感歎す。法師笠を脱ぎ鞭を揚げ、前駆して行く。勅して曰く、「相随ふ者、惣じて是れ白衣なれば、禅師なれども、称、須らく仮に俗法に随ふべし」と。仍りて号して良因朝臣と曰ふ。住む所の名を取る也。日暮れて、宿を大和国高市郡右大将〔道真〕の山庄に留むる也。勅して曰く、「良禅師は、和歌の名士也。宜しく首唱と為して以て旅懐を慰むべし」。即ち各和歌を進ず。右衛門権佐如道、献歌の後、独り隅に向ひて、指を屈して計ふ。良久しくして曰く、「臣が作、已に格律に乖る。願くは、三字を滅せん」と。勅有りて許さず。諸人以て口実と為す。

▽「重閣門」…重層の門。場所は特定できないが、例えば、『続日本紀』宝亀八年(七七七)五月七日条に「天皇御C重閣門k 観C射騎B」とあるので、平城宮の門であったと推測される。あるいは、朱雀門か。
「安奚」…秋篠氏出身。菅原氏と同族。道真と何らかの関係があったのだろう。なお、
『大安寺縁起』によれば、道真は大安寺俗別当であったとされる。その縁があったか。
「素性法師」…六歌仙の一人、僧正遍照の子。俗名玄利(はるとし)。古今和歌集に
三十六首を残す歌人。
「良因院」…石上寺にある院。石上寺は、大和国山辺郡布留社(天理市の石上神宮)
の北二町程の所にあったという。
「白衣」…黒衣を着る僧に対して、俗人をいう。


▽道真山荘和歌会か
 『袋草紙』置白紙作法
記に云はく、「即ち、善朝臣その題を献ず。歌に云はく、
やたがらすかしらに置きてしののかみ句の末に置き旅の歌よめ
侍臣等題を聞きてより、饗ならびに管絃を忘る。昇・友于起居沈吟するも、遂に成すこと能はず。大いに歎きて曰はく、『臣等の歌の興、如道等に及ばざるに非ざるか。然り而して臣等頗る和歌の道の善悪を知る。今夜謀窮まり、力屈して遂にその悪しきを悲しむ。如道等その道を知らず、自らもつて善となす。悲しきかな、道を知らざる者』と云々。あるいは両人の定むる所は甚だ大理なり。道をもつてこれを言ふは、その無きは名づけて歌を恥づべき者とするのみ」と云々。

『素性集』
しまのかみ、やたがらすを題にて歌たてまつれとおほせあれば、やたがらすを句の上にすゑ、旅の歌よむ

60 山辺こし旅の雲間の雁が音のらうたくもあるかかすみかはかみ


▽『古今和歌集』羈旅
  朱雀院のならにおはしましたりける時に手向山にてよみける 
                菅原の朝臣
420 このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに
                   素性法師
421 たむけにはつづりの袖も切るべきに紅葉にあける神やかへさむ
 *「手向山」…旅の道中の安全を祈念して奉幣する神が祀られた峠や坂道のある山をいう。普通名詞。奈良では平城山をいうのが通例。但し、手向山八幡宮辺りをいうとも。

▽道真の山庄について
 『和州久米寺流記』*鎌倉時代頃成立か
一 天満天神御託宣事
天暦六年二月三日託于八歳之少女而言、我在世之時、詣于斯寺而結縁於此、留神於斯砌。七軸之経王者雖弘于世、三粒之駄都者留猶在奥。即垂跡於当崛、永為擁護鎮将云々。仍天暦六年国宣将(符カ)云、去春依霊託久米寺東塔基敬奉祝天満御霊、是為鎮護国家興法利生也。自今以後久米長者民人等、毎年八月廿五日応奉祭之者云々。
→竹居明男「天神信仰の地域的拡大─十三世紀前半期までを中心に─」(人文学171・二〇〇二年三月)


 


*藤原道長金峰山詣(寛弘四年八月二日〜十四日)の行程(平城京以後)
大安寺宿(三日)→井外堂宿(四日)→軽寺宿(五日)→壺坂寺(六日)→観覚寺、現光寺を経て野極宿(七日)→宝塔(九日)→御斎所(十日)


      

○二十四日 現光寺参拝、吉野郡院に宿泊。
廿四日。進発して現光寺を過ぎる。仏を礼して綿を捨す。別当聖珠大法師、山果を捧げ、香茶を煎じ、以て勧め、侍臣を饗す。上皇進行して、宿を吉野郡院に留む。
▽「現光寺」…大和国吉野郡にあった山岳寺院。現奈良県吉野郡大淀町比曾の世尊寺(曹洞宗)境内に寺跡が存し、薬師寺式伽藍配置であったことが判明している。吉野寺、比曾寺ともいう。

○二十五日 宮滝へ到着。それぞれに和歌を詠む。竜門寺参拝。源昇、在原友于、仙人の庵を訪ねる。野別当伴宗行宅に宿る。

廿五日。遂に宮滝に至る。愛賞し徘徊して、景の傾くを知らず。其の滝の体為るや、広袤廿三町、勢峻嶮に非ず。其の叢竹急流の色、積雪を崩すが如し。勅有りて曰く、「勝地、空しく過ぐべからず、「宮滝を観る」を以て題と為し、各和歌を献ぜよ」と云々。鷹飼紀貞連、清貧の尤も甚しき者也。平生食を多くする処、置腹して飽満するも、其の食の無きに当たりては、連日眈はず。近日の食、宿設する無し。故に群臣、朝食に各満腹を期すは、夕餔の定まらざれば也。便ち号して貞連の喫と曰ふ。路次龍門寺に向かふ。仏を礼して綿を捨す。松蘿水石、塵外に出づるが如し。昇朝臣・友于朝臣、両人手を執り、古仙の旧庵に向かひ、落涙を覚えず、殆ど帰ると言はず。上皇仏門に安坐して、痛く飛泉に感じ、勅して歌を献ぜしむると云々。是の日、山水興多く、人馬漸く疲る。素性法師・菅原朝臣・昇朝臣等、三騎尾に御して行く。素性法師問ひて曰く、「此の夕べ宿を何処に致すべき」。菅原朝臣声に応じて誦して曰く、
  不定前途何処宿  前途を定めず 何処にか宿らん
  白雲紅樹旅人家  白雲紅樹は 旅人の家なり
山中幽邃、人の、句を連ぬる無し。菅原朝臣高声にて呼びて曰く、「長谷雄何処にか在る、長谷雄何処にか在る」と。再三止まず。蓋し其の友を求
むる也。夜に入りて炬を執り、野別当伴宗行が宅に到る。

▽宮滝での和歌
  法皇吉野の滝御覧じける御ともにて        源昇朝臣
いつのまに降りつもるらむみ吉野の山のかひよりくづれおつる雪
(『後撰和歌集』雑三・1236)
                    法皇御製
宮の滝むべも名におひて聞こえけりおつる白泡の玉とひびけば (同1237)

  法皇宮の滝といふ所御覧じける御ともにて     菅原右大臣
水ひきの白糸はへておる機は旅の衣に裁ちやかさねむ (同羈旅・1356)

  宮の滝といふ所に法皇おはしましたりけるに、仰せごとありて
                  素性法師
秋山にまどふ心を宮滝の滝の白泡にけ 消ちやはててむ (同羈旅・1367)


▽「竜門寺」…大和国吉野郡内、現在の奈良県吉野郡吉野町大字山口に所在した寺院。竜門滝を中心に、山腹の緩傾斜地を削平して建立された。竜門滝や仙人で有名。

  →参考『古今和歌集』雑下
    竜門にまうでてたきのもとにてよめる 伊勢
  926 裁ち縫はぬきぬ衣きし人もなきものをなに山姫のぬのさらすらむ

*仙人について
『扶桑略記』延喜元年八月二十五日条
古老相伝ふ、本朝往年三仙人有り。竜門寺に飛ぶ。所謂、大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙の草庵、基有れども舎無し。余の両仙の室、今に猶ほ存す。但し久米の仙飛びて後更に落つ。其の造精舎大和国高市郡に在り。……、久米寺是れ也


▽「其の友を求むる也」…道真の詩友長谷雄
 『菅家後集』識語
西府新詩一卷、今後集と号す。薨ずるに臨みて、封緘して中納言紀長谷雄に送る。長谷雄これを見て、天を仰ぎて歎息す。大臣の藻思絶妙、天下無双なり。卿相の位に居ると雖も、風月の遊をなげうた抛ず。凡そ厥の文章、多く人口に在り。後代の文章を言ふ者、菅家を推さざる莫し。


○二十六日 一日宮滝に留まる。都の醍醐天皇から使(平元方)が到着。
廿六日。留りて出でず、或は小飮、或は閑談す。内裏〔醍醐天皇〕の御使、左兵衛佐平朝臣元方、忽ちに野中に参り、寒温寝膳を問ひ奉る。

○二十七日 宮滝出発。元方も扈従する。
廿七日。進発。内裏御使元方、陪従して未だ帰らず。


○二十八日 早朝、元方、上洛。宇多上皇、住吉を目指し、竜田山を経て河内国に入る。竜田山の和歌を詠む。道真絶句を作る。
廿八日。早朝、元方勅を奉じて入京。巳刻、上皇摂津住吉の浜を指して、
竜田山を経て、河内国に入る。竜田は是れいにしへ古よ 自りの名山勝境也。各和歌を献ずと云々。菅原朝臣絶句に曰く、
  満山紅葉破心機  満山の紅葉 心機を破る
  况遇浮雲足下飛  况んや 浮雲足下より飛ぶに遇ふをや
  寒樹不知何処去  寒樹は 何処に去きしかを知らず
  雨中衣錦故郷帰  雨中 錦を衣て故郷に帰らむ

▽竜田山の和歌
紅にぬれつつ今日やにほふらむ木の葉うつりておつる時雨は
  亭子院奈良におましましける時、竜田山にてよませ給ひける北野の御歌となむ
                          (『新拾遺和歌集』神祇・1385)
  宮滝御覧じて帰らせ給うとて竜田山を越えさせ給うける日、時雨のし侍りければ
                                      亭子院御製
世の中にいひながしてし竜田河見るに涙ぞ雨とふりける  (同雑中・1760)
  亭子院の奈良におはしましたりける時、竜田山にて    素性法師
雨降らば紅葉のかげに宿りつつ竜田の山に今日はくらさむ
                            (『続古今和歌集』羈旅・905)


○二十九日 住吉に向かおうとするが、素性が帰るというので惜別の宴を開く。
廿九日。住吉の浜に向かはんとす。素性法師の、本寺に帰るを惜しまんが為に、留連して未だ発行すること能はず。群臣に勅して惜別の歌を献ぜしむと云々。歌終りて、法師に御服少衣一襲、細馬一匹を施す。法師数盃の後、兼ねて恩賜に感じ、御衣を著けて、御馬に騎りて、山に向ひて直に去
る。侍臣惜しみて群立して目送す。人々おもへら以為く、「今日以後、和歌の興衰ふ」と。


○三十日  住吉社参拝
卅日。月尽也。管絃相随ふ。磴を下し、帆を飛ばすの儲け無しと雖も、頗る潮に乗り、浪に駕するの趣を得たり。又各和歌を献ずと云々。江北に著きて、船を下り馬に騎り、住吉社に詣づ。和歌ありと云々。


○十一月一日 京都に向かう。朱雀院に到着して宴会
十一月一日。午の刻始めて京都に向ふ。申の時、楓河西の善朝臣の小家に到る。暫く昏景を待つ。両三刻の後、朱雀院に帰幸す。陪従の群臣に酒饌并びに絹を賜ひ、別に親王大納言参議に御廐馬一匹を加へ給ふ。群臣夜に入りて、各々分れ罷りぬ。
嗟乎、人意不同、譬へば猶ほ其の面のごとし。相従ふ者実を見、以て頌歎を為す。相従はざる者、虚を聞きて以て誹謗を為す。世の常也、怪しむべからず。
已上、右大将菅原朝臣これを記す。多きに依りて略す。

▽誹謗される道真
 鴻臚贈答詩序<元慶七年五月、余、朝議に依りて、仮に礼部侍郎を称し、蕃客を接対す。故に此の詩序を作る>
殊に恐るらくは、他人の此の勒に預らざる者、これを見てこれを笑ひ、これを聞きてこ
れを嘲る。嗟乎、文人相軽んず。証を来哲に待つのみ而已。
(『菅家文草』七・555)
 *渤海使との漢詩の贈答をまとめたものの序文



 このページは、両槻会第一回定例会のために滝川准教授が作られた資料を許可を得て掲載していますが、サイト製作の都合上そのままを掲載することが出来ませんでした。 先生には深くお詫び申し上げます。

 元資料は、B4サイズ用紙5枚と参考地図1枚に及びます。 サイトでは縦書きを表示することが困難なためと、一太郎文章で製作されているのですが、リンクページとしてアップロードしますとページ容量が大きくなりすぎてしまうため、横書きのこのページを作らせていただきました。 
 また、文中の参考図は本来の物ではなく(一枚はそのまま)、事務局にて付け替えさせていただいています。 ご了解下さい。

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