両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



  檜前・御園の遺跡


 御園地域は、檜前、栗原などと共に、檜隈郷と考えられており、『日本書紀』応神天皇二十年九月条には、倭漢人の祖である阿知使主とその子の都加使主が渡来し、檜隈郷を与えられたことが記されています。

 桧隈に接する高取町では、近年、渡来系の地域であったことを示す床暖房施設であるオンドル遺構や朝鮮半島の建築様式である大壁建物遺構が相次いで発掘され、韓式系土器なども出土しています。 こうしたことから、渡来系の人々が広く桧隈近辺に居住していたことが考古学的にも実証されてきました。

  檜前には、渡来系の人々によって造営された檜隈寺跡などがあり、寺跡には式内社である於美阿志神社があります。祭神として倭漢人の祖とされる阿知使主が祀られています。飛鳥地域が本格的に開拓されていった最初の土地なのかも知れません。


 御園アリイ遺跡御園チシヤイ遺跡檜前タバタ遺跡檜前脇田遺跡檜前門田遺跡などは、縄文時代または弥生時代に遡ることが出来る遺跡群です。

これらの遺跡からは、弥生時代の遺構や古墳時代の竪穴式住居址、また飛鳥時代の掘立柱建物跡も検出され、土地が連続して利用された過程が分かるように思われます。

そこから出土した遺物には、弥生土器、古式土師器と呼ばれる古墳時代前期から中期にかけての土器、飛鳥時代の土器などがありました。 (明日香村埋蔵文化財展示室にあります。)

 
 桧前脇田遺跡からは、有茎尖頭器が一点出土しています。     

有茎尖頭器とは、狩猟のための石器の一種で、縄文時代草創期に使われていたようです。 明日香村に人が初めて住み始めたころの物だと思われます。  

(明日香村埋蔵文化財展示室に展示されています。)

飛鳥地域には、他にも縄文時代の遺構が残っています。 特に飛鳥川沿いに多く分布しているようで、稲淵ムカンダ遺跡島庄遺跡飛鳥京下層遺跡飛鳥寺下層遺跡などから縄文時代の土器や石器などが出土しています。 また、飛鳥京下層遺跡では竪穴式住居も発見されています。 飛鳥地域は、上層の遺構を破壊しないと下層遺構を調査出来ないという特殊な事情があり、飛鳥時代以前の遺構に関しては、調査が進んでいないのが現状のようですが、縄文・弥生時代には、小規模な集落が点在した程度であったようです。


平田の遺跡

吉備姫王桧隈墓

吉備姫王は、欽明天皇の孫で皇極天皇、孝徳天皇の母であり、天智・天武天皇の祖母に当たる方です。(=吉備嶋皇祖母命 ) 系図参照
 
 墓は、8m程度の小円墳とされているようですが、考古学的な裏付けはありません。 古墳ではないとの説もあるようですが、現在は欽明天皇陵の陪塚として宮内庁の管轄となっています。

 日本書紀には、「皇極天皇二年九月十九日、皇極天皇の母、吉備嶋皇祖母命を檀弓岡に葬る。」とあります。 

 桧隈墓は、真弓には属さないのですが、平安時代の延喜式に「桧隈墓、吉備姫王。在大和国高市郡桧隈陵域内西南。無守戸。」と書かれており、あるいは書記の記述後に改葬されたのかも知れません。 延喜式の書かれた時代には、既に現在地が吉備姫王墓と認識されていたように思われます。



 現在は、欽明天皇陵の東にあるカナヅカ古墳を、吉備姫王墓に治定する説が有力となっているようです。 
 
 カナヅカ古墳に関しては、項目を改めます。


猿石

吉備姫王墓には、4体の猿石と呼ばれる石造物があります。 左から、女・山王権現・僧・男と呼ばれているようです。 最近、僧を力士と見る説も注目されています。


 猿石は、江戸時代の元禄年間に、字イケダの田の中より出土したことが知られていますが、それ以前の記録としては、平安時代末の今昔物語集に欽明天皇檜前ノ陵に「石の鬼形共」と書かれています。平安時代末には、欽明天皇陵に並べられていたようですが、製作された飛鳥時代から平安末までの時期には、どこにあったのかは不明です。

 「大和名勝志」という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あったことが記されています。その1体を土佐の大円寺に移したとされていて、これが高取町にある光永寺の人頭石(顔石)であることは、ほぼ確実であると思われます。

 江戸時代の出土後は、再び欽明天皇陵の前方部南側に置かれていました。 現在地には、明治の初めに行われた陵の整備に伴う工事が行われており、その時に移動されたものと思われます。

 猿石には、道祖神説や石の埴輪説、また平田キタガワ遺跡で検出された庭園遺構に伴う石造物だとする説などがあります。

 猿石4体の内、女・山王権現・男には背面にも別の個体が彫刻されており、いわゆる二面石となっています。 また僧と呼ばれる物には、背骨と肋骨が彫られています。 (背面の観察は、飛鳥資料館前庭の復元石造物で出来ます。) 

 僧には、底面に直径30cm、高さ13cmの凸部が作り出されていて、他の物に差し込むように設置してあった可能性が指摘されています。

 ここで思い出されるのが、高取町にある人頭石(顔石)です。頭頂部が手水鉢として追加工されてはいますが、もともと窪みを持っていた可能性もあり、セットとして考えることも可能だとする見方もあるようです。 それはともかく、回転させ角度を変えることが出来るように作られていた可能性を示唆しているように思われます。

 これらのことと、高取城址にある猿石や橘寺に持ち込まれた二面石(背面が垂直に加工されており、壁などに沿わせて立てられていたように思われる)も合わせて考えると、単に石の埴輪や道祖神と考えるより、石神遺跡から出土した石人像や須弥山石と同様に7世紀の飛鳥の庭園を飾った石造物であるように思われます。 ひょっとすると亀石もこの仲間であった可能性も否定出来ないのではないかとも思われます。


 平田キタガワ遺跡

 飛鳥京の第3期に類似した石敷きと、石組護岸・敷石・石列が検出されています。 出土遺物が極めて少なく、時代を特定出来ないようですが、石敷きの特徴などから斉明朝の遺構である可能性も考えられます。 遺構の性格についても、断定できるものは検出されなかったのですが、飛鳥地域南西部に存在した特殊な目的のために作られた公的な施設であることは、ほぼ間違いないかと思われます。

 第一次の調査区で検出された石敷き遺構は、人頭大の川原石を敷き詰めたもので、遺構面を北から南にかけて緩やかに傾斜を持たせています。 また特徴的なのは、敷石に模様を作っていることです。 目地のように5mにわたって直線状に並ぶ部分や、大振りな石の周辺を同心円状に廻る部分がありました。  

 第二次の調査区では、石積護岸が検出されていますが、1m大の石を二段に横積みし、その上に30cm大の石を2〜3段に積んで、高さを調整しているようです。 護岸は、東西方向の直線になっており、検出されたのは12mですが、地中探査の結果、150m以上に及ぶことが確認されています。 南北には、調査区が狭いため広がりを確認できなかったようですが、水を利用する施設があったことが推測されているようです。

 平田キタガワ遺跡の立地は、天武・持統陵古墳へと続く谷筋になっており、湿地帯であったことが調査においても分かっています。そこをあえて埋め立てて飛鳥京に匹敵する石敷きと護岸を持つ水の施設を作っていることになります。

 平田キタガワ遺跡は、紀路を通って飛鳥中心部に入ってくる入口になります。紀路はこの付近では、ほぼ現在の国道169号線に重なりますので、適度な距離になります。ここに、石神遺跡のような迎賓館的施設が建設されたことは、容易に想像することが出来ます。

 近くから出土した猿石などは、この遺跡と絡めて考える時に、本来の姿を見ることが出来るのではないかと思われます。


 カナヅカ古墳

 カナヅカ古墳は、古墳の時代区分で言うと終末期古墳になります。現在は宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定されていますが、指定されている部分は墳丘の一部分であって、その全容を含めたものではありません。

 現在は小さな墳丘に見えるのですが、築造当時は、一辺約35mの二段築成の方墳であったと推定されています。

 埋葬施設については、破壊される以前の明治23年の資料から、切石を用いた大型の横穴式石室であったことが明らかになっています。(石室は、明治時代に破壊されています。)

 資料の中には羨道と玄室の二種類の石室図が描かれており、切石(石英閃緑岩)を用いた両袖式の横穴式石室で、玄室壁面は二段積みであったことがわかりました。また石室の壁面の石組も、右壁と奥壁が上段1石、下段2石、左壁は上下段各2石となっています。

 これらのデーターから判断すると、カナヅカ古墳は、7世紀中頃に築造された古墳であると考えられます。


 被葬者については、延喜式によると欽明天皇檜隈坂合陵(梅山古墳)の兆域内に吉備姫王墓が存在することが記されていることや、年代に矛盾がないこと、墳丘の規模などから、斉明天皇の母の吉備姫王の可能性が高いとする説が有力になってきています。

 カナヅカ古墳は、天理市にある峯塚古墳とほぼ同様の構造となっているようで、同一の石工集団が築造に係わったと考えられているそうです


 鬼の俎板・雪隠古墳

 小字霧ヶ峰の地名などから、様々な鬼にまつわる伝承があるので有名ですが、もちろんこれは終末期の古墳が解体された姿です。 石槨の二つの石材が露出していて、俎板が底石、雪隠が側石と天井石が一体となったドーム状の石材です。形状から終末期の古墳であるように思われます。

 この鬼の俎板・雪隠古墳の東側に、やや小ぶりなもう一基の終末期の古墳がありました。現在、細断された石材が、橿原考古学研究所の庭に展示されています。

 鬼の俎板・雪隠古墳は、大化の改新で制定された「大化薄葬令」の規制に従ったとするならば最大限度の規模となり、天武持統陵から欽明天皇陵に至る同丘陵上にある点など、被葬者が皇族あるいは高位高官の者である可能性が指摘されています。


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