両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



  飛鳥の遺跡

 石神遺跡

 遺跡は、19次に及ぶ発掘調査が継続的に行われています(現在も継続中)。 飛鳥寺の北限と竹田道を挟んで接し、遺跡の南西には水落遺跡があります。 
 石神遺跡から明治35年に出土したことで知られる石人像(道祖神像)や須弥山石は、遺跡の最南端から発見されています。 その場所は、石が敷詰められており、庭園遺構であったことが分かっています。

 『日本書紀』に斉明天皇3年(657)7月15日「須彌山の像を飛鳥寺の西に作る。且、孟欄盆曾設く。暮に、覩貨邏人に饗たまふ。」斉明天皇6年5月「石上池のほとりに須彌山を作る。高さ廟塔の如し。以って粛慎四十七人に饗たまふ。」とあり、石神遺跡の須弥山石が、この記述の物かどうかは別にしても、斉明天皇の時代に作られたものだと考えられています。
これらの石像は、一種の噴水施設と考えられています。

 また、石人像の男女の風貌は、西域の人々を連想させるものとなっています。 猿石と共に出土した高取の顔石(人頭石)とも共通する印象を受けます。

 石神遺跡は、これまでの調査によって斉明期、天武期、藤原京期と3期の遺構が重層していることがわかっています。 3期の遺構は、それぞれに特徴を持ち、その性格は異なったものになっています。

 斉明天皇の頃には、迎賓館的な建物や庭が中心となっており、須弥山石や石人像を配した石敷きの広場を持っていました。

 天武期になると、遺構からは木簡が多数出土し、遺跡の性格は変わってくるように思われます。 第15次調査では、贄と記された木簡などが確認されています。木簡は削りくずを含めると1000点を超え、7世紀としては飛鳥池遺跡に次ぐ量になります。 また朝廷へ献上する物品「調」と「五十戸」を併記した木簡も出土しており、各地から派遣され雑役に従事する仕丁の生活費にあてる「養」の荷札などもあることから、庭園を廃して、より公的な施設へと造りかえられたことをうかがわせています。

 藤原京の時期になると、ますます役所的な性格を強めてゆくようです。第15次調査では、持統三年(689年)の3、4月の一部を記した日本最古の暦の木簡が見つかりました。中国で5世紀半ばに作られた「元嘉暦(げんかれき)」という暦で、実物の発見は中国を含めても初めてのものでした。
 出土品は、直径約10センチの円盤状だったのですが、もとは縦25センチ、横50センチほどの長方形の木簡で、不要になったため丸く切って容器の蓋などに再利用されたようです。 また、第16次調査では、7世紀後半の国内最古の定規が出土しています。公文書を書く際に行間をそろえるために使われたとみられ、定規は木製で端から約10センチが残っていました。それに等間隔の目盛りが切り込まれています。 正倉院文書などには、定規を使い、墨で線を引いて行間を等間隔にそろえて文字を書いた奈良時代の古文書や経文が残されており、飛鳥時代も同様の方法で書いていたとみられます。
 これらの出土物は、古代日本が律令制国家へと転進してゆく、その姿を示しているように思えます。


 飛鳥寺

創建年代 588年 整地開始
590年 着工
596年 落成
606年 本尊安置
建立氏族 蘇我氏(馬子)
寺域 東西200m・南北300m
伽藍配置 一塔三金堂形式
本尊 金銅丈六仏(現・飛鳥大仏?)
繍丈六仏(遺失?)



 飛鳥寺は、東西200m・南北300mという広大な敷地の中に、塔を三つの金堂が取り囲むという一塔三金堂という様式の伽藍配置でした。現存する飛鳥大仏は、この中金堂に収められたもので、現在に至るまでその位置を変えずに安置されているとされています。

 塔の東と西には、塔に面して東金堂と西金堂が位置し、これらを囲む回廊が中門へと廻らされていました。講堂は、回廊の外に置かれています。 講堂は、8間の間取りでした。それは現在の寺院のような金堂と同じように仏像を拝する空間ではなく、本来の僧の修養の場としてあった古い様式のものでありました。



飛鳥資料館ロビー模型 (奈良文化財研究所蔵) 許可を得て掲載しています。

 
 飛鳥大仏

 推古天皇13年(605年)、天皇は聖徳太子・蘇我馬子および諸王・諸臣に詔して、ともに請願を発し、銅および繍の丈六の仏像を各一体作るように、鞍作鳥に命じています。
日本書紀によると翌年(606年)に仏像が完成したことになっていますが、他の資料など(『元興寺縁起』所引の「丈六光銘」に記される)では609年とする説があり、こちらの方が有力だとされているようです。
 現在見ることが出来る大仏様は、建久7年(1196年)の金堂焼失時に大破しており、調査の結果、頭部では額・両眉・両眼・鼻梁。左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれる左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指のみが建立当時から残る部分であることが分かっています。
また仏像の台座が当初の須弥座を部分的に留ており、本尊の両側には、脇侍を固定するほぞ穴があることが確認されています。それによって開眼当初のお姿は、法隆寺金堂釈迦三尊像などに近いものであったことが想定されています。


 飛鳥寺講堂跡

 2006年11月、飛鳥寺(現安居院)の北にある来迎寺から、創建飛鳥寺の講堂礎石が四個出土しました。 講堂の南西角にあたる場所が確認できたことになります。
 礎石は、長い方が1.2から1.6m、柱座から据えられた柱の太さは0.6m程と考えられるそうです。 飛鳥寺で使用された礎石の中でもとりわけ大きなものになるそうです。
 これまでの発掘調査で判明している東西と北端を考え合わせると、飛鳥寺講堂の規模は、35.15×18.7mになります。

 飛鳥寺西門跡

 西門は、寺の四方に開いた門の中で最大の大きさだとされています。その大きさは、三間(11.5m)×二間(5.5m)の規模だとされています。 西門は、礎石を置いて柱を立ち上げた瓦葺の門でした。今も、その地に礎石が復元設置されています。

 西門の西外には塀があり、土管を繋いだ上水道が埋まっていました。 
 これらのことは、西門の西に槻の木の広場があったことと無関係ではないように思われます。


 入鹿の首塚

 飛鳥寺を西に出ると、甘樫丘を背景に五輪塔があります。これは、蘇我入鹿の首塚と言われるものです。伝説では、大化改新(乙巳の変)の時に切られた蘇我入鹿の首が、飛鳥板蓋宮からこの地まで飛んできたとされます。 五輪塔そのものは、鎌倉時代に建てられたものだそうです。
 また、切落とされた入鹿の首は、鎌足を細川の上流にある明日香村字上の「もうこの森」(気都倭既神社付近)まで追い掛け回したという伝承があります。 あるいは高見山に落ちたとの伝えもあり、高見山東麓の集落には入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔もあります。

 五輪塔は、創建当時の飛鳥寺に住持した恵慈・恵聡の墓だとする伝承もあるのだそうです。恵慈は高句麗僧、恵聡は百済僧で、聖徳太子の仏教の師ともされる人物です。
 近年まで、五輪塔は二基あったという話もあります。二人の偉大な僧の墓だと言うのも面白い話かもしれません。五輪塔の形がややアンバランスに見えるのは、二基の石塔を足して一つの物に作り変えたからだとも言います。 


 槻の木の広場

大化改新の序曲となる中大兄皇子と藤原鎌足の出会いのエピソードを始め、日本書紀に数々のエピソードが綴られる槻の木の広場ですが、考古学的には未調査の地域になります。
古地図の小字名を見ると、入鹿の首塚から東に二枚目の田んぼが、「土木」と呼ばれていることが分かります。ツチノキ = ツキノキ なのでしょうか。 確証のある話ではありませんが、槻の木の広場のおおよその位置を示しているように思えます。


 東垣内遺跡

 この遺跡では、7世紀中頃の幅約10m、深さ約1.3mの南北大溝が検出されました。 溝の規模は、飛鳥最大のもので、運河として用いられたと考えられます。 
総延長は、奥山久米寺の西付近でも検出されているので、約1km.以上であることが確認されています。



 宮ノ下遺跡

 宮ノ下遺跡も東垣内遺跡とほぼ同様の溝後が出ています。 溝跡では、約150m南の飛鳥池工房遺跡から排水とともに流れてきたらしいフイゴの羽口が、七世紀後半の土層から出土ました。運河が工房の排水路として利用されていたことを示しているように思われます。

 日本書記、斉明天皇二年(656年)の条には、「天皇は造営工事を好まれ、水工に命じて香山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。 時の人はこの渠を「狂心の渠」と呼んだと書かれています。

 東垣内遺跡や宮ノ下遺跡の溝は、酒船石遺跡の東から伸びている点や、その規模、また掘削された時期から、狂心の渠である可能性が高いと思われます。


 飛鳥城

 飛鳥城も明日香村にある中世城郭の一つです。 低い丘に築かれた小規模の城郭です。国民ほどの勢力ではない、村落レベルでの土豪の城郭であるとされています。 他の城でも同様ですが、城主を特定することは難しいようです。 ただ、飛鳥城に関しては、飛鳥氏ではないかとする説もあるようです。



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