両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第27回定例会レポート


嶋宮をめぐる諸問題


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散策資料

2011年7月9日
第27回定例会レポート
  主催講演会 「嶋宮をめぐる諸問題」
  講師:明日香村教育委員会 文化財課 調整員 相原嘉之先生



上居の空

 両槻会主催第27回定例会は、明日香村教育委員会 文化財課 調整員の相原嘉之先生に「嶋宮をめぐる諸問題」と題しご講演頂きました。

 過去7月に開催した定例会では、事前散策を行っていませんでした。理由は勿論外気温!猛暑の中、説明を聞きつつ歩くというのは、ちょっとキツイだろうというのが、事務局の総意でもありました。ですが、今回の講演に関ってくる遺跡の範囲はかなり広いうえに、地形や位置関係などは、やはり現地を歩いてもらったほうがいいんじゃないだろうかと、第27回定例会は事前散策を実施する方向で進めました。

 少し早い入梅と二転三転する天気予報に、事務局では数日前から毎日天気予報とニラメッコの状態が続きました。ホント、胃に悪いです(^^ゞ ところが前日になって、梅雨明け宣言が出されました。神様の思し召し♪夏空の下、無事第27回定例会を開催できることになりました。

事前散策ルートマップ

より大きな地図で 第27回定例会講演会前散策ルート を表示

 集合場所の飛鳥駅には、次々と事前散策に参加くださる方がお集まりくださいました。暑い中、事務局の趣旨をご理解くださり有難うございました。m(__)m バスの時刻がありますので、ここではご挨拶のみ。順にバス停へ移動して頂きます。飛鳥駅から高松塚公園、天武・持統天皇陵を経て川原寺へと向かう十分ほどのバスの中では、「お久しぶり」や「はじめまして」のご挨拶が飛び交っていました。(^^)


川原寺前

 さて、川原寺バス停に到着です。まだ、午前10時前だというのにもう陽射しは皮膚に痛いです。^^; この後、川原寺回廊跡で参加受付や資料配布と今回初めて使用するFMラジオのチェックなどを行いました。


橘寺

 川原寺跡から、東西道路を横断し南にある橘寺東門へと続く小道を進みます。本当に7月初旬なのか?と疑いたくなるような空です。まだ大きく戦ぐほども育っていない早苗だけが季節を正確に教えてくれているようです。


 向かったのは東橘遺跡。現地に広がっているのは、数棟のビニールハウスと田んぼだけの長閑な田園風景です。ここでは、東橘遺跡の遺構や壬申の乱、南西にあるミハ山の話などの説明が事務局長からありました。 (資料ページ:東橘遺跡道の話
 また、このビニールハウスの東の方には、対岸へと渡るための飛び石があったと明日香在住のおばあさんが話しておられたというのを前日発行の飛鳥遊訪マガジンに明日香しぐれさんがお書きくださっています。(ひとり井戸端会議 明日香しぐれさん/飛鳥遊訪文庫
 当日は、時間的制約もあり確認できませんでしたが、できるだけ近いうちに・・・と事務局では考えています。(^^) この辺りで飛鳥川を渡ることを考えれば絶好の場所かもしれません。古代は、橋も架かっていたのか?と想像するのも面白いと思います。(講師の相原先生は、この辺りに橋を想定されています。)
 

島庄遺跡・西部地区 遠望

 ここから、飛鳥川を越えた北東方向に見える田や住宅地が、島庄遺跡の西部地区にあたります。こんなところにまで島庄遺跡が広がっているなんて、今回の定例会の準備をするまでしらなかったσ(^^)です。ホント、広いんですよ・・・島庄遺跡って。(資料ページ:島庄遺跡西部地区


壬申の乱に思いを馳せ玉藻橋へ向かう

 このまま道なりに南へ進みます。飛鳥では痕跡が確認されてはいないと言え、中つ道の延長線上にある?と思えるこの道。壬申の乱の話や先ほどの飛び石の話から稲淵の飛び石の話、ミハ山のことなどへと、それぞれの興味で盛り上がりつつ、玉藻橋から石舞台公園へと向かいます。


風舞台

 さすがにこの季節の石舞台公園には、人影が殆どありません。^^; 木陰を求めて石舞台の南西角にあたるベンチで初めての休憩です。リュックを下ろして汗を拭き、水分補強をしながら、ここでは、島庄遺跡の東部地区にあたる石舞台周辺の主な遺構についての説明を聞きました。


石舞台の南西 (石組溝はこの方向?)

 このすぐ西側では、石組溝跡や塀跡などが検出され、石舞台造営に際しては数基の小古墳が破壊されていたんだそうです。巨大な古墳のために壊された小さな古墳のあった辺りは、階段状に整地され、公園の一角に溶け込んでいました。(資料ページ:石舞台古墳島庄遺跡 遺構概略図


石舞台北西辺 (小古墳があった辺り)

 売店のある休憩所前を通り、石舞台の東にある丘を目指します。・・・その前に、売店の横の茂みに分け入り、小さな小川を覗き込みます。(笑)
 これが唯称寺川と呼ばれる川で、今定例会では結構重要な位置を占める川になります。川に沿うように休憩所の北側からは、結構しっかりした石組溝が検出されているんだそうです。(史料ページ:石舞台古墳北の石組溝
 木立に阻まれて川面はかなり見難いですが、この辺りの唯称寺川は、まだ川と呼んでも差し支えなさそうな姿をしています。(この後、これが川か?という唯称寺川に出会います。)


唯称寺川沿いに東に向かう

 石舞台の東にある丘、通称 柿山へと向かいます。石舞台の東に位置するこの丘からは2006年に大型の柱穴跡や柱穴列が検出されています。段々に整地された水の張られた田んぼを前に石舞台との位置を確認しながら、説明を聞きました。(資料ページ:島庄遺跡第31次調査区


柱穴列のあった田

 ここから石舞台・・・確かに良い位置かもと思わせます。そして、それをもっと実感するために、今回はもう少し丘陵の上へ。


 上居の案内板を左手にズンズンと上って行くと、遠くに二上山・畝傍山を控え、石舞台を含めた島庄の一帯がほぼ一望できます。


柿山から石舞台方向

 ここで前半に見てきた各遺跡の位置確認をしながら、時折り吹く風にほっと一息。さぁ、今来た道を下りて、引き続き石舞台の北東に広がる地形を確認するため谷の内側をグルっとなぞるように歩いていきます。

北東部(北から) 下見時撮影
クリックで拡大します。

 先に歩いた石舞台東にある谷部よりは、明らかに棚田の一段一段の幅が広く取られています。飛鳥では田んぼ1枚にほぼ1遺跡だという事務局長の何気ない会話が耳に残るσ(^^)です。今回は立ち寄りませんでしたが、北にあるもう一つの谷もやはり棚田の幅は狭めになっています。少し広く取られたこの棚田。ただの傾斜の違いなのか、それとも古代の用途の違いなのか、色々妄想の膨らむ地形ではあります。

北部地区の唯称寺川(東から)
下見時撮影

 丘を下り石舞台から岡寺へと続く道路を横断するところで、先程の唯称寺川に出会います。下流にあたるこの辺りでは、唯称寺川は、石組の水路と化し、川としての名を持っているなんていうことは、言われなければ気付きません。でも、この唯称寺川が、島庄遺跡の北限で、嶋宮と飛鳥京の境界だとされています。確かに北には岡の丘陵が控えていますので、境界とするには丁度いい地形かもしれません。(資料ページ:島庄遺跡 北限の塀


島庄遺跡 北部地区

 また、この場所の少し南からは、小さな池や人工の川、掘立柱建物なども検出されているようです。(資料ページ:島庄遺跡第20次調査区)田んぼや民家を前に説明を受け、島庄北部地域をあとにします。

 この後、西から南へと民家の間を抜けるようにして、皆さんお馴染みの石舞台駐車場へ向かいます。が、駐車場に入る前に、ちょっと立ち止まって道路の北側をご覧頂きました。


方形池の痕跡をもつ畦(西から)

 道路に沿って東側には、方形池の南東隅が田んぼの畦となって現在にその姿を残しています。(資料ページ:方形池

方形池跡付近(北から)
下見時撮影
クリックで拡大します。

 さて、次は石舞台の駐車場へと入ります。 島庄遺跡といえば、ここを思い出される方が殆どかもしれませんね。馬子邸か?などと報道され現地説明会が開催された時の喧騒が嘘のように、今は見事なほどに何もありません。そりゃ、駐車場ですから、何かがあっては困るわけですが。(^^ゞ 駐車場になる以前、ここは小学校だったそうで、そのときの基礎工事で地下部分がかなり削り取られているんだそうです。(資料ページ:南部地域の掘立柱建物群


石舞台駐車場

 事前散策の行程を無事終了し、参加者全員で昼食休憩のために風舞台へ移動します。ようやく、昼食の時間です。両槻会としては短めの二時間弱の散策となりましたが、暑い中ご参加くださった皆さん、有難うございました&お疲れ様でした。m(__)m
 昼食を前に、事務局から文化財レスキューに関するご連絡とご協力のお願いをさせて頂き、明日香風争奪ジャンケン大会も行いました。ここで、会場設営のため飛鳥資料館に向かうスタッフの一人として、σ(^^)は離脱しましたが、その後懇親会なども行われた模様です。

 飛鳥資料館講堂前に設置した受付には、講演の部から参加される方が順に到着されました。事前散策への参加を体調などを考慮して、自粛されたと仰る方もいらっしゃいました。(このレポの前半部分が、少しでもそういう方のお力になれれば良いのですが・・・。)
 受付では、いつも好評の「あかい奈良」の最新号を含むバックナンバーも販売させていただきました。お買い上げくださった皆さん有難うございます。


 相原先生のご用意くださった資料は、A4で14枚にも及ぶものでした。資料の最初のページには、本日の講演の流れが記されていました。全部で8項目!テンコ盛りです♪


 「飛鳥河の傍に家せり。仍ち庭の中に小なる池を開れり、仍りて小なる嶋を池の中に興く、故、時の人、嶋大臣と曰ふ。
 この『日本書記』の推古34年の記事が、「嶋」の名の切っ掛けと考えられるそうです。で、この「嶋」は、書紀の記述にもあるとおり、池の中におかれた嶋のことですから、地名ではなく、中国の神仙思想に基づく庭園の意味になるんだそうです(この辺りの地名は、『日本書記』の雄略7年や推古34年の記事から「桃原」それも「上桃原」といわれていたと考えられるそうです)。

 「敷地内に造った小さな池の中の小さな嶋」と、随分と小さなものが名前の由来になっているように思いましたが、個人の邸宅内に庭園(嶋)を造ったってことが、凄いことだったのかもしれませんね。
 「お!自分ちにエライもん造りよった!」みたいな。(^^ゞ 
 稲目や蝦夷の邸宅や呼び名が、所在地名がくっ付いただけの「向原の家」とか「小墾田の家」とか「豊浦大臣」であったのに対し、馬子の家が「桃原の家」と呼ばれなかったのは、そこら辺りにあるのかな?と思ったりします。

 嶋の風景は、『日本書記』の上の記事だけではなくて、嶋宮として草壁皇子が住んでいたときの様子が万葉集に見られるのは皆さんもご存知だと思います(この辺りは咲読にも少しだけσ(^^)が書きましたが)。(資料ページ:関連万葉集歌抜粋

 「上の池(2‐172)」とあるからには、下の池と呼ばれる池があった可能性や、「放ち鳥・鳥」などが数首に見えることから、池には鳥が放たれていたらしいこと、「荒磯(2‐181)」や「磯(2‐185)」などから池には波打ち際のような景観を持った部分もあったのではないかと考えることもできるようです。これは、草壁皇子の嶋宮の状況ですから、全てを馬子の嶋の家から引き継いだものだとは断言出来ないそうですが、「嶋(庭園)」の名の由来はしっかり受けついでいることになるんでしょうね。あと、「勾の池(2-170)」の「勾」は、曲線とも角とも取ることができるそうで、午前中の事前散策で見てきた「方形池」が、もしかしたらこれにあてはまるかも?と。でも断言も出来ないしまだまだ不明な部分は多いそうです。
 また、「東の瀧の御門(2-184)」や「東の大き御門(2‐186)」などから、東側に門や瀧(この場合は飛鳥川か?)があると考えて、草壁皇子の嶋宮は、東橘遺跡だとする説があるんだそうです。


 馬子の死後「嶋の家」には、蘇我の人間が住んだという記録はないそうです。その代り、舒明天皇の母・糠手姫皇女や、皇極天皇の母である吉備姫王が「嶋皇祖母命」と呼ばれていることから、蘇我氏が政略として邸宅を提供したんじゃないかとも考えられるんだそうです。「どうぞ、お使い♪」って感じ?

 肝心の「嶋宮」の名ですが、『日本書記』の天武天皇の吉野行きの記事まで、記録には出てきません。だからと言って、ここで突然「宮」になったわけではなく、それ以前に大海人皇子も、もしかしたら嶋に居住していた?とも考えられるそうです。うん、その方が自然かも。

 で、嶋宮の経営というんでしょうか、田畑とか収入源になりそうな部分ですが、これが史料からその規模はかなりのものだったとも考えられようです(この辺りは、咲読の最後の方に風人が書いています)。
 記録に残る水田や奴婢の数などもそうですが、収穫した穀物などを保管しておく施設などの存在も読み取れるんだそうです。史料って理解できたら凄いんだと思った次第です。(^^ゞ 

 じゃ、その「嶋の家」や「嶋宮」って何処なんだ?って話で、発掘調査でわかったこととしてお話を伺いました。このときのために、午前中暑い中、島庄遺跡をぐるっと一回りしてきたわけです。

 事前散策中にも東橘遺跡・西部・東部・北部・南部と歩きながらそれぞれの場所を区分けして説明がありました。島庄遺跡は、推定される利用のされ方から、これらの5つに分けて考えることをが出来るようです。また、全体に時期が4期5区分されることなども、定例会に先駆けて、相原先生が分かり易く飛鳥遊訪マガジンに「嶋宮をめぐる諸問題- 第27回定例会に向けて」として、ご寄稿くださっていました。

島庄遺跡 時期・地区別に見た主な遺構
北部地区 南部地区 東部地区 西部地区 東橘遺跡 
Ⅰ-A期
(推古朝 前半)
方形池造営 大型建物・塀    
Ⅰ-B期
(推古朝 後半)
  大型建物群 石舞台古墳造営
大型柱穴・柱穴列
 
Ⅱ期
(舒明・皇極朝)
曲溝・小池・川・塀・建物 建物群・塀・溝    
Ⅲ期
(斉明・天智朝)
建物群・塀     廊状建物
Ⅳ期
(天武・持統朝)
正方位の建物 正方位の建物群・塀    
利用形態 庭園か 居住空間 墓域 経営基盤か 大型建物の空間

 頂いた資料とお話を元に上のような表にして見ました。遺構変遷は、概略図として資料ページに掲載していますので、詳しくはそちらをご覧ください。m(__)m (資料ページ:島庄遺跡遺構概略図
 ひとつひとつの遺構のお話は、書いているとキリがありませんし、正確に聞き取れたという自信もないので、ここでは割愛させて頂きますが、北部の方形池と東部の石舞台古墳は、造営されてから飛鳥時代の間はずっと存続していたようです。(資料ページ:石舞台古墳方形池

 石舞台古墳は、馬子の墓なのか?ということで、頂いた資料にある横穴式石室や横口式石槨の変遷図を見ながらお話を伺いました。使用された石が自然石か加工された切石かの違い以外にも、石室の壁面や奥壁、羨道などに使用された石の数などで、造営された年代を推定していくことが出来るのだそうです。
 横口式石槨に関しては、お話が話題の牽牛子塚古墳や越塚御門古墳を絡めた鬼の雪隠・俎板古墳の話にもなり、この辺りで、σ(^^)の頭はこんがらがってきました。^^; ともかく、石舞台は馬子の墓と考えて良いだろう・・と言うお話だったように記憶してます。(古墳がイマイチ理解しきれていないσ(^^)なもので、すいません。m(__)m)
 でも・・・宮の横手に墓って良いのか?と思いませんか?当事は、居館の横に墓域があるのは不自然じゃないというようなことをおっしゃってたように思うのですが、宮になってからも、そのままってどうなんだろうと。埋葬者がしっかり分かってる古墳だから?入鹿と違って馬子は偉大だと思われていたから?と、潰そうと思えば潰せた古墳をあえて残したようにσ(^^)には思えてしまいました。だとしたら、理由は何なんだ?と。(^^ゞ

 時期区分を見ていると、石舞台古墳よりも、前の時期に造られた方形池は、馬子の嶋の家にあった小池なのかということになりますよね。方形池は、42m四方もあるので、『日本書記』にある「小さなる池」とは言えないだろうということでした。嶋は、神仙思想の庭園に由来する名だと最初にも伺いましたが、じゃ、その苑池には、一体どんなものがあるのか?と言うお話へと続きます。

 苑池は、形状から四角いものと曲線をもったものとに大別でき、さらにそれを大きさなどで細分することができるそうです。それぞれの種類の遺跡の画像を順にパワーポイントで見せていただきながら伺ったお話と、頂いた資料を元に表にして見ました。


方形池 曲池

A類
(小型)
B類
(大型)
C類
A類 B類 C類




護岸垂直
水深1m未満
規模6m未満
護岸垂直
水深1m以上
規模8m以上
護岸傾斜
水深が深い
懸樋で水を落とす 護岸曲線
水深が浅い
中島をもつ
石敷きのみ
(池が未確認)


石神遺跡A
石神遺跡B
郡山遺跡(仙台市)
島庄遺跡A
飛鳥池遺跡
雷丘東方遺跡
坂田寺跡
上之宮遺跡
島庄遺跡B
古宮遺跡
宮滝遺跡B
出水酒船石
宮滝遺跡A
飛鳥京跡苑池
飛鳥京内郭の池
平田キタガワ遺跡
雷内畑遺跡

服属儀礼? 主に貯水 蓮池      

 方形池は、規模によって主な使用目的が変わると考えられるようです。A類の小型の池は、石神遺跡と似たものがもう少し時代を下った仙台の方でも見つかっていて、こちらは、東国遠征に関わるんじゃないか考えられるそうです。
 B類の大型のものは、やはり貯水が主な利用目的だろうということです。水を溜めるのが目的なら、そんなに形に凝る必要はないですし、ある程度の大きさがいりますもんね。
 曲池はというと、もともとは見せるための池ではなかったみたいです。A類の曲池の変遷を画像や遺構図を見ながら、お話をお聞きしていると、塀や建物の後ろ側にあった池が、時代を経るごとに目に付き易い場所へと移動していくのがよく分かりました。池に対する認識が変わっていったってことなんでしょうね。

 σ(^^)は、小さな池と溝が繋がっている遺構は、溝から池に水が流れ込んでいるんもんだとずっと思っていました。が、本当は樋のようなもので、何処かから引いてきた水を池に溜めて溢れた水を溝に流すんですね。苑池って、最初はシンプルで規模の小さかったものが、だんだんと規模の大きなものになっていったようです。飛鳥時代の苑池の最終形態は、飛鳥京跡苑池遺構や亀型石造物のになるんでしょうね。・・・ということは、島庄遺跡の方形池は、やはり大きすぎて、馬子の嶋の池ではない?

 さて、草壁皇子の宮は嶋宮であり、東橘遺跡をその跡だとする説があること最初の方にお伺いしました。島庄遺跡からは、正殿クラスの廂付きの大型建物が検出されていないので、草壁皇子の嶋宮跡はまだ確定出来ないけど、遺構の時期が違うので東橘遺跡が草壁皇子の嶋宮である確立は低いと考えられるそうです。また、東橘遺跡の廓状建物跡(廊下に建物が繋がるような遺構)は、あまり見られない特殊な建物で、石神遺跡に似たような例があるだけなんだそうです。(資料ページ:東橘遺跡

 じゃ、東橘遺跡は何なんだ?ってことですが。相原先生は、東橘遺跡が中大兄皇子の宮であった可能性をお話くださいました。

宮殿を嶋大臣の家に接ぜて起てて、中大兄、中臣鎌子連と、密に図りて、入鹿を戮さむと謀れる兆なり

 これは、皇極3(644)年6月に流行った「遥遥に 言そ聞ゆる 嶋の薮原」という謡歌の解釈として、翌年の皇極4年6月に『日本書記』に載っているものます。
これによると、中大兄皇子は嶋大臣の家の近くに宮殿があったことになります。中大兄皇子の宮に関しての記録は、この謡歌の解釈として載るこの記事だけのようです。

 馬子の家の傍に立てたという宮殿。遺構の年代や方位。公的な施設と似た造りの建物などのお話を聞いてるうち、有り得るかも?と思えてきました。

 では、それ以外の飛鳥時代の皇子達は、何処に居住していたんだろうというお話になりました。
 皇子の邸宅としては、『日本書紀』や『万葉集』から、おおよその範囲が推測できるものも幾つかあります。

皇子名 宮 名 史 料 宮の推定場所 遺構の候補地
草壁皇子 嶋宮 『万葉集』 巻2‐170~189 島庄周辺 島庄遺跡
大津皇子 訳語田の舎 『日本書記』朱鳥元年10月3日
  「皇子大津を譚語田の舎に賜死む」

『万葉集』 巻3‐416
香具山北方
高市皇子 香久山の宮 『万葉集』 巻2‐199 香具山周辺 奈文研下層
興善寺下層
新田部皇子 『万葉集』 巻3‐261・262 八釣山周辺 竹田遺跡?
弓削皇子 『万葉集』 巻9‐1709 南淵山周辺 阪田ミヤノロ下遺跡
舎人皇子 『万葉集』 巻9‐1704 細川周辺
忍壁皇子 雷山宮 『日本書記』朱鳥元年7月10日
 「忍壁皇子の宮に失火延りて民部省焼けり」
雷丘周辺  
穂積皇子   香具山北方 興善寺下層?
有間皇子 市経家   丈六交差点付近 丈六北・南遺跡?
大海人皇子     島庄周辺 島庄遺跡
中大兄皇子     島庄周辺 東橘遺跡

 飛鳥の狭い平地の殆どは官の施設や寺が占めていますから、必然的に周囲の丘陵地が住宅地となっただろうということです。ただ、飛鳥での発掘調査では、建物跡が見つかっても大規模な範囲での発掘が難しくて全体像が掴み難いんだそうです。藤原京や平城京のような条坊があって、宅地の範囲がある程度決まっていれば一角を掘るだけである程度の推定はできるんだそうですが、飛鳥でそれは通用しないんだそうです。大きな柱穴が出ても、正殿クラスの大型建物が出るなり、「〇〇皇子宮」何ていう木簡なり、墨書土器なりが出て来ない限り、ここが皇子邸とはいいきれないようです。が、上の表にした以外にも候補地として考えられるものを、いくつかあげてお話してくださいました。

 相原先生は、一般の講演会だと3回か4回の連続講座になりそうな内容を要所要所で、地図や遺構図、遺構の写真なども交えてくださり、たっぷりお話くださいました。
 三時間を越える長丁場、有難うございました。m(__)m

 このレポートは、ももの記憶と講演会中に走り書きした自分でも難解なメモを元に作製しています。記憶違いや勘違いも沢山含まれていることと、σ(^^)の興味の対象に偏ってしまっていることもご了承頂ければと思います。m(__)m

 さて、最後になりましたが、第27回定例会当日に、参加者の方々に文化財レスキュー事業への寄付を募らせて頂きました。
 両槻会では、頂いた寄付金にに第27回定例会の経費分担金としていただいた参加費から必要最小限の経費を引いた全額と事務局からの活動準備金を合わせ25,000円を文化財レスキュー事業に寄付致しました。
 皆さんのご協力に感謝いたします。有難うございました。m(__)m




レポート担当: もも 

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