両槻会(ふたつきかい)定例会は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来ます。 飛鳥検定(ネット版)・講演会・ウォーキングなど企画満載です。参加者募集中♪

第四回定例会


飛鳥展望散歩

― 多武峰から万葉展望台藤本山へ、そして彼岸花咲く稲渕の棚田へ ―


第四回定例会ルートマップ
コース概要
桜井駅南口(バス)→ 談山神社バス停(徒歩)→ 談山神社西門 → 念誦掘 → 藤本山万葉展望台(昼食休憩)→ 明日香村上居(柿山)→ 石舞台公園(休憩)→ 稲渕案山子ロード→ 棚田展望ロード→ 石舞台公園 (解散)     
  (歩行距離 約8.5キロ)

2007年 9月 16日開催
主催 : 両槻会
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この色の文字は参考ページにリンクしています。

 藤本山(万葉展望台)という名前の山をご存知でしょうか? 飛鳥真神原の真東に聳えており、飛鳥の近隣地区からもはっきりと見分けることが出来るのですが、その名をご存知の方は少ないのではないかと思います。岡寺の上の山ですよと言えば分かりやすいかもしれません。上の写真の奥のピークが藤本山です。(飛鳥真神原から撮影)  
 ( 参考:藤本山万葉展望台
 第四回定例会は、多武峰からその藤本山に向かいました。藤本山からの眺望は素晴らしいの一言です♪


 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。(田身は山の名なり、此をば大務と云ふ。)復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。

 これは、日本書紀斉明天皇2年(656年)の条にある記事です。素直に読めば、「多武峰の山の頂に垣を廻らせて、二本並んだ槻の木の近くに高殿を建てた。名付けて両槻宮(ふたつきのみや)と命名した。また別名を天宮(あまつみや)と言った。」となります。
 
 飛鳥時代の斉明天皇の頃、両槻宮と名付けられた離宮が建設された記事です。従来より「観」や「天宮」が道教の影響を受けた名前であるとして、特殊な離宮とする説が多くありました。宮の東の山にあたる酒船石遺跡の特異な様相も、その説をさらに補強したようにも見えました。また他には、山上に造られた離宮であるため、山城などの軍事施設ではないかとする説もあります。

 ここで一番の問題となるのは、田身嶺が何処を指し示しているのかということです。多武峰の最高峰や御破裂山々頂のようにも読めるのですが、多武峰は幾つかのピークを持つ山塊と捉えられますので、その候補地はかなりの数に登るのではないかとも思えます。

 第四回定例会では、幾つかの両槻宮候補地を訪ね、藤本山からの遠望や飛鳥一帯を眼下におさめて楽しむと同時に、飛鳥時代の謎にも思いを馳せたいと企画しました。


 定例会当日は、数日前からの事務局の心配をまるで嘲笑うかのように、好天に恵まれました。 (この後、好天過ぎたと言う声が、あちらこちらから聞こえてくることになります。^^;)
 集合場所では、参加受付の後、挨拶や自己紹介などで和気藹々と、皆で談山神社行きのバスの到着を待ちます。桜井駅南口広場から乗車。23名の参加者で、バスはほぼ貸切状態となりました。急な山道を、バスは軽快に登って行きます。談山神社まではおよそ25分で到着。
 終点の談山神社バス停で、最初の休憩です。と言うのも、ここを出ると本日の行程中盤にある石舞台までお手洗いがないのです。トイレ休憩を済ませ、参加者の皆さんにお集まりいただいて、本日最初の挨拶を事務局長より。(「挨拶します?」と、名指しされた会長は、時間節約の為ご挨拶を辞退。(笑))
 さて、出発です♪
 「下りのみのウォーキング」が今回の定例会の謳い文句であった筈でしたが。すいません。暫くは・・・少しだけは・・登って頂く事になります。^^;


 談山神社西門に到着。西門の少し手前辺りから、金剛葛城の山並みが見えます。本日最初の遠望の利く地点。カメラを取り出す方、方角を指差して場所確認に余念のない方、門前の展望・石垣・女人禁制の石碑などを見つつそれぞれに会話が弾んでいるご様子。一先ず、このルートを選んで良かったと安堵。 

 ここは、明日香村大字冬野の集落への分岐点にもなります。冬野から畑を経て七曲の眺望を楽しみ、細川に下りてくるルートも楽しいハイキングとなります。 また、畑からは尾曽の集落へ出る山道も整備されており、こちらは上(かむら)の集落や旧道を降りれば細川に出るコースもあります。もちろん足を伸ばせば、冬野から竜在峠を越えて、吉野へと歩くことも出来ます。本居宣長(菅笠日記)や芭蕉(笈の小文)が、それぞれの旅で歩いた道です。

 門跡では、少しだけ神社のご説明。
 談山神社(当初は寺)は、寺伝(鎌倉時代作)によると、藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(阿武山古墳か)から多武峰に移し、十三重塔を建立したのがその発祥となります。
 天武天皇9年(680年)に講堂(神廟拝所)が建立され、妙楽寺と称しました。大宝元年(701年)、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立されました。

 談山の名の由来は、藤原(中臣)鎌足と中大兄皇子が、乙巳の変(大化の改新)の談合をこの多武峰山中にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされます。  (参考:談い山

 平安時代には藤原高光(三十六歌仙の一人)が出家後に入山、増賀上人を招くなど、藤原氏の繁栄と共に栄えました。
 明治の廃仏毀釈の際に寺を廃して神社のみとなりましたが、建物は十三重塔をはじめ寺院建築をそのまま残しているため、特異な雰囲気を漂わせています。

 平安時代に天台僧である増賀上人を迎えたことから、宗派の違う興福寺とは同じ藤原氏縁の寺院でありながら紛争が絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび衝突を繰り返しています。この時期に多武峰の傘下にあった山田寺は、仏頭(国宝)として知られる講堂に安置されていた薬師如来像を強奪されています。 (参考:山田寺

  本来なら、この西門から神社へ・・となるところを「ここから入山できます」とのご案内だけで失礼しました。この後の行程を考えて今回の談山神社参拝はパス。遠方からお越し下さった方々には、本当に申し訳ない事をしました。当初の予定からもお断りしていたとはいえ・・・、すいません。m(__)m

 (談山神社は季節毎に美しい姿を見せてくれます。11月3日には、境内で蹴鞠奉納も行われます。 参考:談山神社公式HP

 舗装の道がもう少し続きますが、左右に生い茂る樹木のお陰で心地良いハイキングです。右手に茂った草木の間から時々石垣が顔を出しています。「この光景をご記憶下さい」の事務局長の言葉に、時代的に新しそうだとか、何の石垣だろうとか、それぞれに妄想も膨らむようです。

 10分程歩いて、右へと少しだけ道を逸れます。謎に満ちた念誦掘(ネヅキ)と呼ばれる場所に立ち寄る為です。
 念誦掘へ向かうには、左下写真のような石段を二回登らなければなりません。ので、此処は希望者のみ、階段を登る、登る、登る・・。

 念誦掘・紫蓋寺跡(シガイジ)は、御破裂山の8〜9合目南西斜面(明日香村方向)にあり、多武峰寺(妙楽寺)の奥の院とも言われています。
 西国名所図会という書物にはこの紫蓋寺が書かれており、嘉永6年(1853年)までは存在していたことが分かります。このお寺もまた明治初期の廃仏毀釈により廃されたようです。
 談山神社の社家に残された文書によると、増賀上人の霊堂一宇、坊中六宇、往古十三坊、とあり、現在も所々に石垣が散見されます。先ほど、石垣をご記憶にと言った理由は、これです。
 念誦掘(ネヅキ)は、増賀上人が入滅されたところと言われ、石を積み上げた円墳状のお墓になっています。念誦掘は根槻とも書かれるようで、そこから両槻宮との関連も古くから指摘されてきたようですが、真相は如何に?(笑)

 増賀上人(917〜1003)は、比叡山の高僧良源の弟子で、法華経に通じていたそうです。奇行も多く『本朝法華験記』、『今昔物語集』、『撰集抄』、『発心集』など、多くの説話集に語られているようですが、世俗的な生き方を捨てて、多武峰に隠棲したと伝えられます。 
       
       参考:『増賀上人行業記絵巻(上下巻)』 奈良女子大学付属図書館

 増賀上人の逸話は、徒然草にも登場します。

 『徒然草 第一段』
 法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖の言ひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

 現代多少誇張気味関西弁訳(^^ゞ
 坊さんほど羨ましくないもんはあらへんやろ。「人さんには、有り難味も何もない木の切れっ端のように思われて」って、清少納言はんが書いてはるのも、なるほど、そらもっともやで!と思うやんか。権勢に乗って羽振りが良かったりするのんも褒められたもんやないしな。増賀上人はんが言わはったみたいに、出世ばかり気にして、仏さんの教えに外れてまうやないかって、思うんやけどな。まったくこういう風に世を捨ててしまいはったお人は、ほんまええ事言わはるもんや。


 中世には、多武峰の西の守りとして念誦掘付近に念誦掘城塞が造られたようで、今残る石垣は、あるいはその当時のものである可能性もあります。 (中世にはかなりの開発もされ、この念誦掘の尾根伝いに連郭と呼ぶ方式の砦があったとする想定も可能なようですが、発掘調査などは行われていませんので、今のところ確証はありませんが、遺跡地図には多武峰城塞跡念誦掘地区として認知されています。)

 念誦掘付近は、御破裂山から西に張り出した尾根の南斜面にあり、飛鳥真神原方向への視界はありません。
 たとえ、この尾根のピーク(念誦掘城砦跡付近)に両槻宮が在ったとしても、さらに西に尾根が続くため、斉明天皇の宮(後岡本宮・明日香村)方向の視界はほとんど無いと思われます。
 よって、後岡本宮(のちのおかもとのみや)から離れたこの地に、両槻宮を造る意味付けを想定できず、ここに両槻宮が置かれたとは思われません。「観」と書かれた高楼(高殿)を造るということは、「見下ろす・見上げられる」からこそ意味のあるものではないかと思うからです。 ただし両槻宮が宗教的な施設であるなら、人里離れた場所も意味があるのかも知れません。

 念誦掘を見学後、階段横の道を回り込んで戻ります。途中には、多武峰に所縁する人々の墓地も存在します。(‐人‐)

 「これ、何ですか?!」と、上げられ声に皆が傍らの草陰を覗き込みます。大きな赤唐辛子のような、ウィンナーのような何とも形容しがたい奇怪な物体が小さな木にぶら下がっています。「ツチアケビです」と答えが返ってきます。こういう疑問がその場で解決するのも、大勢で歩く定例会ならではの光景です。
 ツチアケビは、ギンリュウソウなどと同じく腐生植物の一種になるそうです。
 参考:何の実?

 念誦掘を後にし、再びウォーキング開始です。20分程歩くと舗装道から地道へと降りる桜井市北山集落との分岐点に出会います。此処へ来てやっと両槻会らしい山道のウォーキングです。地道は、「足に優しいから良いね」などと話ながら、皆で一列になって下っていきます。

 地道をこれまた5分程歩くと、万葉展望台(藤本山)と桜井市高家(たいえ)への分岐点に出ます。秋のハイキングシーズンに向けてでしょうか、下草が刈り取られ随分と歩きやすくなっています。 此処に来るまでに、除草作業しておられる方々にお逢いしました。「何処まで行くん?」「ええ時に来たな」と、お声を掛けて頂きました。 作業ご苦労様です。
 高家方面の道も下草が刈り取られ一見普通の道には見えます。確かに面白い道ではあるのですが、お勧めはしません。(^^ゞ 茂る草木、崩れた丸木橋、倒木を跨ぎ潜り、蜘蛛の巣と格闘して下った数年前。(笑)
 分岐点横には、役行者像。これは、上の行者と呼ばれ高家にある下の行者と対をなすものです。その昔、山道を行く旅行者の無事を祈ったものなのかもしれません。 行者像の横にはお地蔵様が二体いらっしゃって、岡寺への道標にもなっています。 古くからこの尾根道は、岡寺への参道として知られていたようです。


上の行者

岡道を示す地蔵尊
 展望台へと向かう途中、左手の木々の隙間から尾曽の集落が一望できます。別名天空の村♪ 僅か6軒の小さな集落ですが、観光で賑わう明日香村にあって別世界のような静かな佇まいを見せます。

 参考: 天空の村  奥飛鳥の隠れ里

 いよいよ、展望台に到着です♪
 回復したお天気が、この時ほど嬉しかったことはありません。 展望を満喫しつつ此処で昼食と休憩をとります。休憩の間に眼下に広がる大和盆地を舞台に、皆で歓談と、当会の命名由来の一つでもある「両槻宮」や飛鳥の遺跡との関わりなどの話を少々。

 藤本山は、飛鳥真神原の東に聳える山で、明日香村と桜井市を隔てる市村境界ともなっています。 大和盆地への展望が開け、特に西と北への展望が優れており、難波と大和を分ける金剛山・葛城山・二上山・信貴山・生駒山が屏風のように並びます。穴虫峠付近からは、遥か大阪のビル群の向こうに六甲の山並みが見えます。又北は、若草山が見えますので、奈良方面までなら充分に視界に納めることが出来き、遠く京都の山々(比叡山や愛宕山を視認出来る方もおられるでしょう。)まで目に収めることが出来ます。まさに、絶景です♪
    (参考:万葉展望台 藤本山からのパノラマ写真

 近頃は、万葉展望台として整備され、訪れる人も増えてきました。 藤本山・明日香村間のルートは、二つあります。 「明日香村大字東山へのコース」と「岡寺へのコース(岡道)」です。この岡道コースは、途中から上居(じょうご)にも出ることが出来、今回のハイキングルートはその上居へ出るコースを採用しました。

 中世には、この展望とも関連するのだろうと思うのですが、岡道城塞と呼ばれる砦・物見が在ったようです。奈良県の遺跡地図には、多武峰城塞跡岡道地区として示されているようです。 現在の地形は、展望台として整備する際にも手を加えられているでしょうけれど、中世城塞建造に係わる削平であるのかもしれません。 またそれは飛鳥時代にまで遡るものであるのかも知れません。未だ発掘調査はされていません。

 この藤本山は、「観」を建てるというには適した場所ではないかと思います。そのことは両槻宮の所在地を求める際、大きな要素の一つになるのではないかと思われます。



 藤本山を考えるには、興味深い遺跡があります。 万葉文化館への進入道路建設や圃場整備で遺跡自体が無くなってしまっているので、お気付きでない方も多いかと思います。
 酒舟丘陵の一つ北の丘(向イ山)に在った向イ山遺跡(酒舟遺跡向イ山地区)と八釣の丘陵にある八釣マキト遺跡です。
 二つの遺跡の共通点は、その尾根上に掘立柱塀が検出されている点にあります。若干地形に沿って「くの字」には曲がっているのですが、直線的に続く塀です。この塀は、尾根のピークに造られている点や直線的に続いていることなどから、建物など小さな範囲を囲うような状況ではないと判断されています。
 両槻会の第五回定例会に講師としてお話くださる村教委の相原先生が発掘を担当され、興味深い論文を書かれています。
  『 倭京の”守り” -古代都市 飛鳥の防衛システム構想-』 
  明日香発掘情報とよもやま話 「飛鳥をめぐる掘立柱塀の謎」
    (2007年10月ページが抹消されました。)

 この論文には、羅城的に飛鳥を取り囲む防衛ラインが想定されています。甘樫丘や古代寺院を利用するその防衛ラインは、八釣マキト遺跡の塀に上手く接続でき、その延長線を尾根伝いに延ばすと、藤本山に行き当たるのではないかと推定されています。詳しくは論文や明日香村サイトの「よもやま話」(上記リンク先)をご覧ください。
 論文は、橿考研資料閲覧室などで閲覧可能だと思います。(第五回定例会では、ご本人(相原先生)から、そのお話も聞けると思われますので、ご参加をお待ちしております。
 ( 定例会開催予定 希望者は、両槻会サイトよりメールにて申し込みください。11月5日締め切り

 白村江の敗戦の後、北九州や瀬戸内海沿いに防衛拠点として朝鮮式山城が建設されます。神籠石(こうごいし)と呼ばれる石垣もそのようなものなのでしょう。 同時に延々と続く烽火(のろし)の施設も造られたようです。
 飛鳥の近くでは、高安城が知られています。戦略上、烽火を見ることも含めて遠望が利くことは重要なことでしょうし、最終防衛拠点としても藤本山は適当な位置にあるように思います。後背にある多武峰山塊から竜在峠を越えると吉野へ、針道から大峠を越えると宇陀へとルートが確保出来ることは、万が一の事態への備えともなるのではないかと思えます。
 両槻宮を軍事施設だと考えると、藤本山こそ両槻宮の所在地候補筆頭と言えるかも知れません。
 両槻宮が軍事施設だとは断定できませんが、藤本山にはなんらかの防衛施設が必ずあったのではないかと、その地に立つほどに思えます。


 酒船石遺跡は、両槻宮であるか、またはその一部であるとする説が近年盛んに唱えられました。亀形石造物や酒船石の存在など、いかにもそれらしい謎の石造物がある事も一層の拍車をかけたように思います。 この遺跡は、亀形石造物や酒船石のみならず、酒舟丘陵を標高130mで2m以上の高さを持って取り囲む切石の壁に注目しなければなりません。 丘の西側は4段の石列が囲み、見上げるとまるで階段ピラピッドの様に見えたのではないかと推測されます。 酒舟丘陵自体が、地山を削り取って版築を重ね、改めて飛鳥石の基礎を並べた上に、切り石を積み重ねるといった半人工の丘と言うことが出来ます。


酒船遺跡復元模型
飛鳥資料館ロビー模型より
奈良文化財研究所の撮影および掲載許可取得済み。

 日本書紀斉明2年の条は、次のように書いています。

 時に興事を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を塁ねて垣とす。時の人の謗りて曰く、「狂心の渠。功夫を潰し費すこと、三萬餘。垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
又、謗りて曰く「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。


 その石を運ぶ運河を掘るために3万人が動員され、この丘を築くために7万人が必要とされたと書かれています。全長700m以上になるという丘陵を巡る石垣を考えると、それも肯ける規模となります。

 亀形石造物は、現状では竹薮の下に明るい広場のようになっていますが、施設のある谷底のような窪地に立つと、前面は切り立った石の丘に見えていたのではないかと思われます。 現状では、万葉文化館建設のために切り開かれていますが、当時は丘が両側から包み込むように迫っていたようで、閉鎖的な密室のような空間であったように思われます。   それはきっと特別な人のみが立ち入りを許された、きわめて特殊な施設ではなかったかと想像されます。

 亀形石造物を含めたこの一連の導水施設が何であるのかは、現状ではまだ確定的な説明はなされてはいません。 ただ、水を使った何らかの祭祀に関連することは間違いないのではと思います。 湧水施設からの水を舟形の水槽にいったん溜めて、その上水を亀形石造物に流している点など、大量の水ではなく、綺麗な少量の水を必要にしていたようにも見えます。 これらの遺跡と酒舟丘陵との関連は、明確ではありませんが、階段の痕跡もあることなどから、その丘陵上にある施設に向かう導入部分であるのではないかとも思えます。 たとえば、祭祀を執り行う祭壇に向かうための手水所(禊の場)なのではないかと、想像を巡らせることも出来るようにも思われます。

 書紀の記事を読む限り、この酒船石遺跡は「宮の東の山」ではあるのですが、両槻宮の記事とは別のものとして書かれているように思えます。

 この他、「宮の東の山」や「両槻宮」に関連する日本書紀の記事は、ごく僅かです。
 蘇我赤兄が有間皇子に謀反を唆した時に発したとされる斉明4年の条の「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ。という。」
 「持統7年(693年)9月5日 多武嶺に幸す。」
 「持統10年(696年)3月3日 二槻宮に幸す。」
 持統7年9月5日の記事には、翌日に宮(飛鳥飛鳥浄御原宮)に帰ったと書かれており、持統天皇が両槻宮に宿泊したことが伺えます。(多武嶺=両槻宮とするならば。 この4日前の9月1日に、日食があったことが記されています。関連があるのかどうかは分かりません。
 また、続日本紀には、造営(修理修繕?)の記事が一件だけ見えます。
 「続日本紀 大宝2年(702年)3月17日条 大倭国をして二槻離宮を繕治はしむ。」
 二槻宮と呼ばれた宮は、確かに大宝年間までは、存在していた事になります。

 これらことは、両槻宮が単に道教の祭祀の場や斉明天皇の個人的な信仰の場ではなかったことを物語るように思えるのですが如何でしょうか。



 飛鳥展望散歩は、奇しくも両槻宮候補地を巡るハイキングでもありました。その所在は明確には示せませんが、今後とも古代史の謎を推理する楽しさを、皆さんと共に体験して行ければと思っています。

 第五回定例会は、その「両槻宮をめぐる諸問題」と題して、明日香村教育委員会の相原嘉之先生に講演をお願いしてあります。 どうぞご参加ください♪(07年11月10日実施)


 さて、長い休憩(笑)の後は、素晴らしい展望を後に、いよいよ石舞台へ向けて残り約半分の行程を辿る事になります。
 下草はこちらも綺麗に刈り取られています。下見と称して、会長&事務局長が来た時には、鬱蒼と夏草が生い茂っていたのですが、今日は地面がきちんと見えています。(笑)
 ですが、先日来の天候のせいでしょうか、所々ぬかるんだ状態の箇所も見受けられ、階段の足止めに置かれた丸太自体が危ない物など、足元を見ながら、前から順に声を掛け合いながらのウォーキングになりました。途中右手に、今下ってきたばかりの藤本山の姿が木々の間に見ることが出来ました。実際にこの目で見ると、下ってきた実感が湧きあがってきて良いものです♪
 左手に沢もあり、飛鳥石の巨石がまるで古墳のように沢の下流にむけて口を開けています。もしかしたら、この辺一体も古墳群かもしれないなどと、ワイワイいいながらの約30分程の行程です。
 「山道は終わりです」の声を聞いて、舗装された集落の道へと出ます。上居(じょうご)です。
 さて、本来なら安全な舗装道を行くのですから、この日一番の楽な道であるはずなのですが、下りばかりだった事が足にきはじめる方、陽射しを遮るものが何もないアスファルト上のウォーキングは、参加者の面々をそれぞれに苦しめる事になりました。好天に恵まれるのも程々が良いということですね。(^^ゞ

 後はもう、ただただ下るのみ。少しづつ見慣れた景色が広がって行きます。柿山を回り込み、漸く石舞台が見えてきました♪

 皆さんお疲れ様でした♪♪   
 さぁーーー!水分補給に走ってください!(笑)

 石舞台北側の丘の上に陣取り。休憩しつつ 会長・事務局員、続いて参加して下さった皆様の恒例の自己紹介です。^^ 
 四回目を向かえる定例会、既にお馴染みになって下さってる参加者の方もいらっしゃいますし、毎回お初の方も何人か来て下さいます。m(__)m
 皆さん、一応に藤本山の展望の良かった事を上げてくださいました。(ホッ) ただ、思いの他の暑さには、参ったとのお声も。すいません。m(__)m さすがの両槻会もお空に知り合いは居りません。^^;
 充分に水分補給と休憩の後、稲淵へと彼岸花と案山子を見に行くことになっています。
 石舞台公園では、薄や萩がそろそろ見頃と言ったところです。5キロの山道もなんのその、皆で元気に稲淵へと足を進めます。
 ところが・・此処へ来て急に暗雲垂れ込めて。勧請橋下で暫し雨宿り。
 小雨になるのを待って、思い思いに案山子ロードを散策です。大案山子の下では、ミズアオイが見事に咲いていました。彼岸花は・・・もう少し後のようですね。実った稲が穂が垂れ始めて、黄金色に染まるのも時間の問題だと思われます。翌週に予定されている彼岸花祭りには、どんな光景がまっているんでしょうか。^^


 案山子ロードを一回りして、峠越えで飛鳥駅方面に出られる方々とは、朝風峠でお別れです。 「ありがとうございました」と互いに頭を下げ、第五回での再開をお約束。残りのメンバーで祝戸から石舞台へと。途中、右手に聳える藤本山が見えます。展望台のある第1のピークとその下にある第2のピーク。こうしてみると、山の稜線が良くわかります。
 玉藻橋を越え、石舞台に到着。

 「ナンバンギセルって何処に咲くんですか?」のお声に、薄の根元を掻き分ける事務局長。(笑) 無事発見し、見事皆さんにナンバンギセルのお披露目会が出来ました。薄の根の養分で育つ寄生植物のナンバンギセル。俯くその姿から「思ひ草」と言われたりもします。
 本日の両槻会主催のウォーキングは、此処まで。軽くお話の後、バスの時刻を確認して解散。この後、明日香村各所で行われた光の回廊へと足を向けられた方もいらっしゃったとか。^^

 皆さんお世話になりました。ありがとうございます。


多武峰関連年表
斉明29 656 斉明天皇、田身嶺に両槻宮を造営。
天武 7 678 定慧、父・藤原鎌足の遺骸を多武峯に改葬し、十三重塔建立。
持統 7 693 持統天皇多武峰に行幸す。(9月5日)
持統10 696 持統天皇二槻宮に行幸す。(3月3日)
大宝 3 702 大倭国をして二槻離宮を繕治はしむ。(3月17日 続日本書紀)
昌泰元 898 多武峰鎌足尊像破裂。以後35回の鳴動を記録。
応和 3 963 増賀上人、多武峰に入る。
天禄元 970 多武峰権殿を創建する。
寿永2 1183 多武峰・金峰山の僧徒、蜂起して源氏に応じる。
観応2 1351 多武峰一山の伽藍坊舎焼く。
永享7 1435 南朝の遺臣、多武峰に拠る。
永享10 1148 多武峰、畠山持国(管領)の大軍に攻められ堂舎焼く。
大織冠御影、橘寺に難を避ける。
宝徳 1451 多武峰の大織冠は12年間長谷寺に移座。
文正元 1466 多武峰僧徒、越智家宗を攻める。
文明 1481 多武峰衆徒と越智党の争い激化。
永正 1506 赤沢朝経の大和侵入に対し、大和国衆は連判状をもって盟約し、箸尾氏・十市氏は多武峰に篭る。
沢宗益多武峰を攻略、一山焼く。
天文元 1532 多武峰十三重塔を建造する。大和に一揆おこり、高取城を攻め、多武峰を攻め損じる。
永禄2 1559 十市遠勝、多武峰に拠り松永久秀を攻める。
天正13 1585 多武峰に刀狩りがおこなわれる。
天正16 1588 多武峰大織冠、郡山に遷座の綸旨がでる。
天正18 1590 豊臣秀吉の病気平癒のため大織冠郡山から多武峰帰座。


製作 両槻会事務局  もも ・ 風人

2007/9/21

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