両槻会(ふたつきかい)定例会は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来ます。 飛鳥検定(ネット版)・講演会・ウォーキングなど企画満載です。参加者募集中♪


第五回定例会


両槻宮をめぐる諸問題


■ はじめに

 両槻会第5回定例会は、11月10日に、主催講演会として飛鳥資料館の講堂をお借りして開催することになりました。
講師は、かねてからお願いしていた明日香村教育委員会文化財課主事の相原嘉之先生です。春から高松塚古墳の解体作業に伴う発掘調査にもかかわっておられて多忙を極める相原先生が、両槻会のために、休日にわざわざ時間をお取りいただき、事務局員一同、大感激でした。
 以下は、当日の講演会のテーマである「両槻宮をめぐる諸問題」の聞き取りレポートです。先生が必ずしもこのようにお話されたということではなく、多岐にわたるお話を継ぎ合わせ、あくまで事務局員の印象としてまとめたものですので、独断的メモであることをお断りしておきます。
先生のお話の内容は、最後に記した先生の文献資料をお読みいただくことがお奨めです。このレポートがその足がかりになればと思っています。

 なお、テーマは「両槻宮をめぐる諸問題」と題していただきましたが、先生が長年従事して来られた亀形石造物や酒船石遺跡を巡る石垣の発掘、八釣マキト遺跡や酒船石遺跡向イ山地区検出の丘陵頂部に連なる塀跡の発掘成果を踏まえ、飛鳥防衛システム構想や日本書紀に記された斉明天皇の「両槻宮」とのかかわりについても、事務局のたってのお願いで特に言及していただいたものです。

■ 講演会前の遺跡ウォーキング

 講演会に先立ち、参加希望者には講演内容にかかわる遺跡のいくつかを、現地で確認していただくことにしました。すでに削平されて消えてしまった遺跡もあり、実際に目で見て、おおよその地形と位置を確認してもらおうという両槻会の新たな企画でした。前回の定例会では、今回の講演内容を踏まえたウォーキングを実施しましたが、講演会当日の現地確認は初めての試みであり、前回定例会の補完ウォーキングでもありました。
 この試みは、参加者には好評でありましたので、今後の企画にも活かせていきたいと思います。ただ、講演会の会場の準備と現地案内に少ない事務局員が分かれることになりますので、毎回できるかどうかは分かりません。



■ 講演会のはじまり

 先生の講演内容は
1 酒船石遺跡の発掘調査
2 酒船石遺跡の性格をさぐる
3 両槻宮は何処に
 という大まかなシナリオで、資料として多数の遺跡地図や発掘図面を用意していただきました。
 今回は時間制限なしでお話を…、という事務局の勝手な申出に、初めは苦笑しておられましたが、お話しになるうちに次第に熱が入り、図面とにらめっこで専門的な発掘内容の詳細をお聞きすることになりました。
 酒船石遺跡というのは、遺跡の名称となった飛鳥のなぞ石の代表格である酒船石をはじめ、山裾の亀形石造物、酒船石の丘陵部を巡る石垣の総称だそうです。
 遺跡の全体としては、現在、天理教岡分教会のある裏山も含む地域のようです。この丘陵は、西側を削り取られている様ですが、裾部分に石垣が取り巻いていた事が推定されています。
酒船石遺跡向イ山地区は、酒船石遺跡の確認調査として実施されているため、便宜上、酒船石遺跡の名称を付けて呼ばれているようです。)

 さて、講演はその酒船石遺跡の発掘経過の詳細なお話から始まりました。先生に用意していただいた図面には、発掘調査の年次と箇所が地図上にいくつものアルファベットと数字で記載され、先生の流暢なお話と地図上の記号の追いかけっこが始まりました。ぼうっとしていると、どのポイントのお話か分からなくなります。みんな真剣に地図を見ています。そのうち、何ページ目かの図面にお話が展開すると、お話に遅れないように素早くページをめくらねばなりません。とても眠っている暇はありません。これも講演の場数を踏まれている先生の戦略かと、思わず熱心に話し続けられる先生の表情を盗み見してしまいました。


■ 酒船石遺跡の発掘と成果

 酒船石のある山の斜面から砂岩を積み上げた石垣が検出され、その後の度重なる調査によって、この石垣が全長700メートルにも及び、酒舟丘陵を取り囲む石垣であることが判明しました。
 石垣は、上層部が天理砂岩をブロック状に加工した切石を積み上げて作られていました。さらに石垣を支える下層部は、上面を平らに加工した飛鳥石が用いられていました。
 発掘調査により、酒舟丘陵は地山を削り取った後に4メートルにも及ぶ版築がなされ、それをテラス状に削り出した所に上記の石垣が建造されていました。切石の加工痕跡や傾斜面を持った切石が出土することなどから、石垣の推定される高さは、おおよそ2m〜2.5mにもなろうかとされています。



酒船石遺跡石垣復元案
明日香村教育委員会文化財課編集・発行の「酒船石遺跡調査報告書掲載図」を
許可を得て転載しています。

 また、飛鳥宮から見える西側の石垣は四重にも築かれていましたし、積み上げられた切石の表面が磨き上げられるという、石垣としては特異なもので、防御壁というよりは装飾的な石垣でありました。

 これらの積み上げられた切石は、やがて天武天皇の13年(684年)に起きた白鳳南海地震によって斜面をずり落ちたものと思われる状況で出土しています。


 この石垣調査の間に、北側の山裾からは亀形の石造物と階段状の石敷き広場が検出され、注目を浴びたことはご存知の通りです。
 この亀形石造物には湧水施設が付属し、井戸を掘って地下水脈から地上に導水する取水塔が検出されています。地下からの湧き水は木樋を通して小判型の水槽にたまり、さらに亀の鼻から亀形石造物の甲羅の中に溜まる仕組みになっています。
 この亀の甲羅から流れ出た水は、北方の飛鳥池工房方向へ排水されていました。
 亀形石造物に流れていた水は溢れるような水量ではなく、湧き水の上澄みを貯める施設であったと考えられます。

 この亀形石造物が出土した空間は、東西南の三方を丘に囲まれ、丘を巡る階段状の装飾石垣に隔絶されて、仰ぐと空しか見えない狭い神聖な空間であったと思われます。
 この神聖な場所で湧水をろ過して亀形石槽に蓄え、この水を聖なる水として何らかの祭祀を行っていたのではないかと考えられます。

 また、石敷きのこの広場の北西隅には建物跡の柱穴が検出されており、普通の柱としては使わない皮付きの樫や桜の木が使用され、祭祀色の濃い黒木の柱であったことが分かっています。

 なお、現在見えている亀形石造物遺跡の復元展示は、天武・持統朝のもので、斉明天皇の時代のものはその下層に存在しています。この時期には、敷石の石が小振りで、亀形石造物もより低い位置に据え置かれていたようです。
 
 この亀形石造物のある施設は、9世紀の平安時代までは見えていたことが分かっていますが、当初にあった湧水施設は最早機能しなくなっていて、曲げ物の桶から水を注いでいたようです。

 こうした一連の発掘結果から想定されるのは、日本書紀の斉明天皇2年の条の記述です。斉明天皇が「狂心の渠」と謗られた水路を作らせて、石上山(天理)の石を載みて、宮の東の山に石を累ねて垣とし、石の山丘を作ったとする記述が、まさにこの遺跡に符合しています。


(3万人を動員して穿たれたという狂心の渠は、酒舟丘陵の東麓に集まる流路を利用しつつ、飛鳥池東方遺跡・飛鳥東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡を通り、明日香村大字奥山の集落の西側を抜け大官大寺方向へと続いていたようです。さらには、香具山の西を流れ、やがて米川に合流したのでしょう。)

 飛鳥東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡に関しては、
 両槻会サイト内「埋もれた古代を訪ねる・飛鳥の遺跡」を参照ください。


■ 酒船石遺跡は大嘗宮?

 酒船石遺跡が祭祀用に使われていたとすると、天皇家の祭祀として今でも皇室で行われている新嘗祭が考えられます。
 新嘗祭は毎年11月にその年の新穀を神に捧げて豊穣を感謝する儀式ですが、中でも天皇即位のはじめに行われる新嘗祭は大嘗祭として天皇の権威を内外に示す特に大事な儀式です。

 この大嘗祭で使用される新穀も主基(スキ)、悠紀(ユキ)という特命の里で栽培されたものが使用されました。

 初期の大嘗宮の様子を知ることが出来るものとして、平城宮跡から検出された遺構がありますが、大嘗祭を執り行うために朝堂院に仮設の大嘗宮が一回限りの臨時施設として設けられていました。

 左図は、相原先生のお書きになった飛鳥大嘗宮論 -初期大嘗宮と酒船石遺跡- より掲載されている平城大嘗宮遺構変遷図を参考に描いた概略図です。

 この大嘗祭が天皇即位時の行事として執り行われるようになったのは天武天皇以降のことになるようです。天武天皇は、新嘗祭を毎年盛大に執り行っていたことが日本書紀に認められ、大嘗祭と同様の様式で行われていたことを読み取ることが出来ます。ただ、天武天皇の時代には、平城宮のように仮設の大嘗宮を設けることの出来る朝堂院はまだ無かったようです。そのため、大嘗宮は宮域の外側に常設のものとして設けられていたのではないかと考えられています。天武朝の政治の中心であったエビノコ郭の南方も、その大嘗宮の適地と考えられますが、発掘によって未だ朝堂等も検出されてはいません。

 斉明天皇の時代に設けられた酒船石遺跡は祭祀を営むための神聖な常設施設であった可能性があります。天武天皇は、この遺跡の一部を大改修し、毎年の新嘗祭を大規模に営む常設の施設として利用していたのではないかと考えられます。

 相原先生の飛鳥大嘗宮論によりますと、酒舟丘陵は、酒船石を中心にして北と北西に別れる尾根が存在しており、その支尾根の北側には「悠紀院」(ゆきいん)・北西側には「主基院」(すきいん)が推定されています。これらは、大嘗祭には重要な役目を負う施設です。また大嘗祭には、もう一つ北側に「廻立殿」(かいりゅうでん)という施設が必要ですが、これが亀形石造物の付近である可能性を指摘されています。先ほども書きました黒木の建物や、大嘗宮で用いられる薦を意味すると思われる「□□薦二尺四寸」と書かれた荷札木簡の出土などもその根拠の一つになるものと思われます。
 亀形石造物から流れ出た水は、北の方角にある飛鳥池遺跡の方に流れていることが考えられるのですが、その飛鳥池遺跡からは、天皇祭祀に関わる木簡群が出土しています。その中には、天武6年に行われた新嘗祭に用いられた米の荷札木簡が含まれているそうです。(「丁丑年十二月三野国刀支評次米」・「丁丑年十二次米三野国」)
 閉鎖された天皇祭祀の場であることや、これらの木簡や遺構が示すものは、酒船石遺跡全体が大嘗宮である可能性を示しているように思われます。

 相原先生の説によりますと、大嘗祭の当日、天皇はまず大嘗宮の北側にある廻立殿に入り沐浴をします(亀形石造物を利用)。祭服に着替えた天皇は、酒舟丘陵北尾根上にある悠紀殿に登ります。祭儀を終え再び廻立殿に戻り、沐浴と祭服を改め、主基殿で同様の祭儀を行います。

 酒舟丘陵の頂部は、比較的広い平坦な部分があります。発掘調査が行われていないため確証は得られませんが、そこに大嘗祭を営む施設を想定することは可能ではないかと思われます。



■ 酒船石は笹舟石だった?

 酒船石の用途については、酒を造ったのではないか、薬の製造に使ったのではないかとも言われるなど様々な説がありますが、どれも決め手はありません。
 今回、相原先生が酒船石遺跡の報告書を纏められるのにあたり、欠損している部分を復元してみると、石に刻まれた幾何学文様の掘り込みを伝って流れた水が円形の溝に順番に流れ込むようになっていたのではないかと考えられるということです。河上邦彦先生が以前から言われていたことらしいですが、現在、酒船石は東が高く、西に傾いていますが、これは地震(白鳳南海地震(684))の影響で傾いた可能性があります。そこで、西側を28.5cm引き上げると石が水平になります。すると、水を西側から流したとした方が、水の流れ先がよく分かります。中央部の東西方向の掘り込みを西から東に流れた水は、窪みに溢れると微妙な溝の段差によって左右に振り分けられて流れ込むようになります。一番東の窪みまでたどり着いた水も、溢れるとさらに左右の枝溝に分かれ、それぞれの円形の窪みに振り分けられてゆきます。(現在の傾斜のまま水を流すと、水は枝分かれすることなく真中の溝を流れ去ります。)
 そのような水の流れを想定すると、この水に何かを浮かべて、その浮かべたものが最後にどの窪みに流れ込むかで何らかの占いや祭祀を行ったのではないだろうかというお話でした。水に浮かべるものは浅い溝と水量を考えると軽くて薄い笹舟のようなものではなかっただろうかと想定されています。



酒船石復元案
明日香村教育委員会文化財課編集・発行の「酒船石遺跡調査報告書掲載図」を
許可を得て転載しています。
(上図は、上が北になります。 現状では、Aが低く、Cが高くなっています。Aを高くしてみると、すべての窪みに液体が流れ込むようです。)


 この笹舟のお話は面白かったし、石の高さを変えて見るという発想が実に意外でした。今の酒船石を見ていると、当然東から西に流されていたと思えるからです。斉明天皇が酒船石に笹舟を浮かべて占っていたのは、いったい何だったんでしょうね。
 酒船石の名称は酒に由来するのではなく、笹に由来する笹船石だったかも知れないというのは楽しい語呂合わせでした。そういえば、酒はささとも言うし…♪

 酒船石の性格は、酒船石単体として捉えるのではなく、亀形石造物や酒船石のある丘陵を巡る石垣遺跡などを含めた全体として考える必要があると先生は仰います。遺跡全体が天皇の祭祀の場として考えると、その性格も見えてくるのでは、ということでした。
 亀形石造物のある山裾の空間で祭祀を行い、さらに石垣の階段を登って酒船石でも何らかの祭祀が行われたものと考えられています。


■ 飛鳥防衛システム構想 飛鳥の宮を守る羅城?

 講演会の前に現地ウォーキングを行った酒船石遺跡向イ山地区と八釣マキト遺跡は、標高140m前後の尾根の稜線部に掘立柱塀が並ぶ遺跡です。尾根筋の方位に合わせて直線的ではあるが「く」の字型に曲がっている検出状況から、この掘立柱塀は山の稜線に沿って続いていたものと想定されています。塀は内部に建物遺構を持つのが普通ですが、この掘立柱塀は尾根の稜線に沿って並んでいた特異なものです。掘立柱塀の作られた時期は特定はできませんが、7世紀前半のマキト古墳の墳丘上を越えていたものと思われることや、周辺から7世紀頃の土器が出土していることから、7世紀の中ごろ以降から後半で、大化改新以後に築かれたものと推定されます。

 両遺跡の柱間は8尺、1m〜1.7mの柱掘形で、柱穴は24cm〜30cmだそうです。向イ山では15基、八釣マキトでは16基が検出されています。

 尾根の稜線をめぐるこの特異な掘立柱塀は、7世紀中ごろ(とりわけ白村江の敗戦以降)から急速に高まった対外的軍事緊張から飛鳥を守るために作られた可能性があります。この尾根の稜線に沿って掘立柱塀を延長してゆくと、これまでに飛鳥周辺で発掘された遺跡や古代寺院、川や丘などの自然地形を繋いだ飛鳥の中心部を囲む一連の防衛的システムが描かれます。


 また飛鳥の地図を見てみると、ヒブリ山という地名が随所に残されています。ヒフリ、火振、フグリと伝えられる山頂から、緊急時には狼煙を上げる防衛上の軍事施設があったのではないかと推測できます。

 大陸では都市を外敵から守る羅城が築かれていますが、おそらく飛鳥のこの防衛ラインも羅城のようなものであったのでしょうが、飛鳥の場合は都市を守るというより、最も守りたかったのは飛鳥宮であったと考えられます。

 酒船石遺跡向イ山地区と八釣マキト遺跡から検出された掘立柱塀は、平行しており、連結しないように見えます。このことは、防衛用の塀が複数廻っていた可能性を示唆しているのかも知れません。また向イ山の塀は、藤本山の手前(西)のピークを指しているようにも思われます。藤本山を頂点とした飛鳥の防衛網がおぼろげながら見えてくるようにも感じました。



■ 両槻宮は何処に…

 さて、日本書紀斉明天皇2年の条に記された両槻宮ですが、書紀の記述には田身嶺(多武峰)の上の両つの槻の樹の辺りにあったとされていますが、天宮とも呼ばれたとする両槻宮の記述の後ろに「宮の東の山に石を累ねて垣とす」という記述があり、土木工事を好んだ斉明天皇を謗って「石の山丘を作る。作る随に自からに破れなむ」と記されています。

 この「石の山丘」は斉明天皇の宮殿から見ると「宮の東の山」にあたり、前述したとおり酒船石遺跡に当たることは間違いないでしょう。しかしこの酒船石遺跡は天武13年の白鳳南海地震によって崩れてからは、亀形石造物の周辺や飛鳥宮から見える西側の石垣の一部が修復された形跡はあるものの、全体としては使用されなくなっています。一方「両槻宮」は後に持統天皇も行幸し、修繕も行われたと書紀には記されていますから、両槻宮が酒船石遺跡とイコールとはなり得ないと思っています。

 それではどこにあったかとなるのですが、飛鳥防衛システム構想で述べました尾根の稜線に作られた塀跡の延長線上のラインの東方山手のピークに当たる藤本山かその手前のピークも、両槻会事務局も関心を持っているように、ひとつの可能性としては考えられます。しかし考古学的な論拠はなく、先生も個人的な興味として述べられるにとどまりました。

 そこで、一つお聞きしたかったのは、なぜ、別宮として両槻宮が作られたのかということと関連して、仮に塀の延長線上に位置していたとすれば、その宮は塀の内にあったのか、それとも塀の外側にあったのかという点についての先生のご感想でした。しかし、そこまでは聞くな、と言われそうで止めました。



南(稲渕)から見た藤本山と手前のピーク


エビノコ郭から見た藤本山と手前のピーク



■ 質疑応答

いろいろ先生にお聞きしたかった参加者のみなさんには申し訳なかったのですが、講演が事務局のリクエストで長時間に及びましたので、質疑応答の時間がなくなり、事務局からの代表質問で3点だけお答えいただくことにしました。

1 酒船石遺跡のベニバナについて

 つい先日(07年10月25日)ニュースになった酒船石遺跡のベニバナ花粉を含む土は、最近確認されたものではありません。先般、巻向遺跡の溝から3世紀中ごろの染色用のベニバナの花粉が大量に検出されたことから、酒船石遺跡の亀形石造物から北に伸びる溝の土についても、平成12年度に奈良教育大学の金原先生の分析によって大量のベニバナ花粉が確認されていたことがあらためて報じられただけだそうです。

 ベニバナ花粉は飛鳥寺南方遺跡の染色工房の可能性が想定される付近の石組溝でも検出されていますが、亀形石造物の遺跡地域とは起伏で遮ぎられていますので、この溝から花粉が流れ込んだとは想定しにくく、酒船石遺跡の祭祀用に使用されたベニバナ花粉と思われます。ベニバナは染色、殺菌、防腐の用途に使用されており、酒船石遺跡の排水溝から出てきた花粉は遺跡の性格から考えて殺菌用途に大量に使われていたものと思われるそうです。


2 飛鳥防衛用の稜線の塀の高さは?

 検出された柱穴から塀や建物の高さを推定することはきわめて難しいようです。ただ、藤原京の塀が5メートルといわれていますから、それからあえて推定すると4〜5メートルはあったかも知れないが、高さについては分からないというのがお答えでした。

 尾根の稜線に沿って建てられていた塀であれば、風の影響も相当にあったと思われるのですが、高くなればなるほどよほど堅牢に立てられている必要がありそうな気がしました。

3 酒船石遺跡の東の端は石垣で閉鎖、それとも門があった?
 大嘗祭を営む丘であれば、東の半分方は必要ないのではと思われますが、その点は如何でしょう? また東端は、どのように閉鎖されていたのでしょうか、それとも門があったのでしょうか?

 丘陵東端部では石垣が折れ曲がったように階段状になって終わっているが、その丘陵上からは発掘成果として遺構は検出されていません。それが何も無かったことを意味するのか、後世の削平によるものなのかも現状では分かっていませんとのお答えでした。

 酒船石付近も含めて、尾根上の発掘調査を期待したいと思います。



■ 参考文献の紹介

1 酒船石遺跡調査報告書 明日香村教育委員会埋蔵文化財課 編集

2 飛鳥大嘗宮論―初期大嘗宮と酒船石遺跡―相原嘉之
  水野正好先生古希記念『続文化財学論集』2003年8月14日刊行

3 倭京の‘守り’―古代都市 飛鳥の防衛システム構想―相原嘉之 著
  明日香村文化財調査研究紀要 第4号 平成16年12月18日発行

4 飛鳥浄御原宮の宮域―飛鳥地域における官衙配置とその構造―
                          相原嘉之 著
  明日香村文化財調査研究紀要 第3号 平成15年3月31日発行


 ページの最後に、改めまして、長時間にわたる丁寧な講演をしてくださいました相原先生に深く御礼を申し上げますとともに、会場を快く提供くださいました飛鳥資料館学芸室長杉山洋先生はじめ飛鳥資料館事務員の皆さんに心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。


製作 両槻会事務局  河内太古 ・ 風人

2007/11/18

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