両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第55回定例会

ウォーキング

早春の外鎌山から忍坂の里を歩く




レポート
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第55回定例会 事務局作成資料
2016年3月12日

 3月12日土曜日午前10時、「早春の外鎌山から忍坂の里を歩く」と題した第55回定例会は、近鉄大和朝倉駅からスタートしました。
 当日は気持ちの良い晴天、ウォーキングや登山には少し暑くなるかな?という気候の中(もちろん事務局長風人さんの人徳ゆえであることはいうまでもありません、と一応記しておきます〈笑〉)、18名が参加。
今回のウォーキングでは、忍坂富士と呼ばれる外鎌山に登り、忍坂街道・伊勢街道を様々な史跡を巡りながら桜井駅を目指して歩きました。



 初めに訪れたのは、駅から歩いて5分ほどのところにある素盞嗚神社です。名前の通り、素盞嗚尊を祀る神社で、拝殿の裏に巨岩からなる磐座がありました。拝殿下の境内広場では土師器片が見つかっていて、古代祭祀のあとと考えられているそうです。


 少し戻って、忍坂古墳の一部が移築された古墳公園で、忍坂1・2・8・9号墳の4基を見学。近くに団地が造成されたため、多くあった古墳のほとんどが消滅してしまった中、移築保存されている石室を、皆さん興味深そうに見学・撮影していました。中でも8号墳は、榛原石を煉瓦のように積んだ磚槨式石室で、六角形であるという特徴をもちます。ここには2009年4月の特別回で忍坂街道の古墳めぐりをしたときにも訪れてそんな話を聴いたことを思い出し、懐かしくなりました。


古墳公園からの遠望

 振り返ると、これから登る外鎌山がすぐそこに見え、みるからに視界の開けていそうな山頂にわくわくしながら登山口を目指します。


 登る前に、上着を脱いだりストックを用意したりと準備を整えていざ出発。比較的傾斜の急な山だと聞いていましたが、以前よく山に登っていた私にはそれほどきつさも感じず、20分ほどで山頂に到着。期待通りの絶景がそこには待っていました。


大神神社の鳥居

 山の西側に六甲山、生駒山など遠くの山々のほか、両槻会には馴染みの深い二上山や大和三山、三輪山も見渡すことができ、参加者はそれぞれに景色を眺めたりカメラに収めたりしてその絶景を堪能していました。


 また、この山頂には、中世の城郭「外鎌城」があったと考えられており、築城主とされる西阿という大和武士の墓碑もありました。登山道の途中に、その石垣の一部を見ることができました。


ロープを頼りに下る

 少し休憩したあと山を下りますが、登りよりも怖い下りの傾斜。2009年12月の特別回で芋峠越えをしましたが、前を行く人の姿がまるで谷底に吸い込まれていくかのようにみえた急坂を思い出し、「またあんなふうに滑り降りるのか…」とかなり不安を抱いていたのですが(笑)、実際にはあそこまで強烈な道ではなく、ほっとしました(笑)。とはいっても、ところどころ足場の悪い箇所や道が細くなっているところなどがあり、前を行く人から順に声をかけあったり、よっぱさんが用意してくれたロープにつかまったりして、何とか無事に下山。

 時計を見ると、12時を少し回っていましたが、昼食場所はまだまだ先。ここからは、今登ってきた外鎌山から南に続く尾根に築かれた3つの古墳を訪ねます。


大伴皇女押坂内陵の背面カット

最初に訪ねたのは、大伴皇女押坂内陵。大伴皇女は、欽明天皇と堅塩姫の間の皇女で、聖徳太子の叔母にあたる人ですが、ほとんどが謎に包まれているようです。その陵墓も調査されておらず、詳細が不明ですが、墳丘をぐるっと一周してみると、テラス状に整地された様子や、背面の尾根がカットされているのがよくわかりました。


 少し歩いて、今度は鏡女王押坂墓を見学しました。鏡女王というと、一般的には額田王の姉で、中大兄皇子から中臣鎌足に下賜された女性だと認識されていますが、これにもまた舒明天皇の皇女ではないかという別の説もあるようです。鎌足の正室の墳墓ということで、談山神社の管轄にあった時期もあったそうで、今もその管理の下、地元の老人会によって維持されているそうです。
 先程の大伴皇女押坂内陵もそうでしたが、どちらもなんだか寂しいところにあるお墓だなぁという印象を受けました。


 その鏡女王が詠んだ万葉歌「秋山の 樹の下隠り逝く水の 吾こそ益さめみ思ひよりは」の歌碑を途中に見ながら、すぐそばの段ノ塚古墳に向かいました。


 この古墳は、敏達天皇の孫であり、天智天皇や天武天皇の父である舒明天皇が、当初葬られた「滑谷岡」から改葬された「押坂陵」とされ、母の糠手姫皇女との合葬墓と考えられています。三段になった台形状の築成の上に、さらに八角形の二段築成があるという形状から「段ノ塚」と呼ばれています。八角形の場合、通常は辺になった部分が正面に来るのに対し、ここでは角の部分が正面になっています。残念ながら外からその形を見ることはできませんが、資料に記載された図や、解説担当のよっぱさんが見せてくれた資料でその様子がわかりました。この八角形墳は、後に舒明天皇の妻である斉明天皇や、子孫の天智天皇、天武天皇、草壁皇子、文武天皇の古墳へと引き継がれていきます。天皇陵を八角とする最初の例とされていますが、蘇我氏と血縁関係のある天皇陵が方墳だったことと形状の上で大きく異なる特徴をもつ、というところに、アンチ蘇我の意識が強調されているのかな、とも思いました。


 段ノ塚古墳を後にし、大きな石に半鐘が乗った「神籠石」(通称ちご石)を見ながら忍坂街道をいったん南下して、石位寺に到着。すでに13時を回っていました。一山越えてここまで来た疲労と空腹を癒すべく、早速境内で昼食をとりました。ぽかぽかと暖かい日差しを浴びながらお弁当を広げ、それぞれにほっと一息ついた様子でした。


 有名な薬師三尊石仏を各自で拝観した後に、解説タイム。もとは薬師堂が建っており、仏像が安置されていましたが、後に長野の清水寺に移されたといいます。石位寺の南東にある粟原寺から渡ってきた(粟原流れ)薬師三尊石仏は、本尊として収蔵庫に安置されており、ちょうどおにぎりのような三角形の石に彫り出されています。白鳳期の石仏ですが、表面に漆の塗られていた痕跡がみとめられ、そのためにこのようなきれいな姿で残存しているのかもしれない、ということでした。

さて、ここまでどのくらい進んだかな?とコースマップを見ると、山道を歩いてきたためにずいぶん来たような気がしていましたが、まだまだ先は長い!昼食を食べて休憩も取って、体力が回復したところで再出発。


伝承の井戸跡

 再び忍坂街道を北へ進み、本朝三美人の一人といわれる衣通姫を祀り、その産湯に使ったと伝わる井戸のある玉津島明神を経て、忍坂坐生根神社へ向かいました。


 正面入り口の石段を登ったところに、榊の木に垂らした3本の注連縄が独特で目を引きました。ここは神様の通り道ということで、私たちは別の道なりに開けた入り口から境内に入りました。大神神社と同様、本殿はなく、拝殿の後ろの山をご神体としています。数ある石灯籠には蝋燭が置かれていて、夕方になると地域の住民が毎日灯明を灯しているそうで、夕暮れ時の雰囲気も風情があっていいですよ、というらいちさんの言葉に「見てみたい!」と思いましたが、名古屋在住子育て主婦の私には、そんな時間にここに来ること自体まず不可能…心の中でその光景を想像しながら、神社を出ました。


 忍坂街道を少し離れ、粟原川を渡って押坂山口坐神社に着きました。途中、先程登った外鎌山のきれいな円錐形をした姿がよく見えました。


 さて、この神社も先の忍坂坐生根神社と同様本殿はなく、拝殿と磐座だけが奥にあります。が、境内に入った途端目に飛び込んできたのは、大きな楠でした。なんでも金閣寺造営に際して天井板を一枚張りにしようと巨木を探したところ、ここの楠の木を利用することになったのだとか。事実かどうかはわかりませんが、ここから遥々京都の北山まで運ぶのは大変だっただろうなぁとつい考えてしまいました。
 「山口」という名称には、天皇の宮を造営するための木材を切り出す山の入り口、という意味があるそうで、ひっそりとした小さな神社ではありますが、実はとても神聖かつ重要な場所であっただろうことが想像されます。境内の地面は土のかわりに砂が敷かれていましたが、わざわざそうしたのもそのためだったのかもしれません。

 再び忍坂街道に戻り、国道165号線との交差点に差し掛かると、そこが宇陀が辻。忍坂街道と泊瀬・伊勢街道とが分岐するところです。そういえば、もう7~8年前になりますが、長谷寺から伊勢街道を通って桜井駅まで一人で歩いたことを思い出しました。今回と同じ道ではありませんでしたが、あの時は晩秋の夕方で日が暮れかけていたのと、地図も何も持たず思いつきで歩いてきたため(なんて無謀な…)、道に迷ったりして少し心細い思いもしましたが、この日はそんな心配もなく、いろいろとおしゃべりをしながら楽しく歩いていると、外山不動院の赤い幟が見えてきました。


 いったんそこを通り過ぎ、その先にある宗像神社を先に拝観しました。境内には末社が3つあり、多くのご祭神が祀られていました。「宗像」の名から想起されるように、筑前宗像氏の娘を母に持つ高市皇子の創建といわれています。複雑な歴史の中で長く所在が分からなくなっていたこの神社を、幕末の国学者が調査・再興して、現在の宗像神社となったそうです。境内入り口近くには、「能楽宝生流発祥之地」と書かれた石碑がありました。


 宗像神社を出て、先程通過した外山不動院に入り、本堂の中でご住職の説明を拝聴し、さらに読経までしていただきました。本尊の不動明王を間近で拝観させていただき、写真撮影もOKとのことで、ブツ好きの私ははりきってカメラにそのお姿を収めました(笑)庭では、人慣れしたおとなしくて可愛い犬が、ぽかぽか陽気の中、気持ちよさそうにまどろんでいたのが印象的でした。


 さて、ブツ好きの私がひそかに楽しみにしていたのが、報恩寺の丈六阿弥陀如来です。まだ建てられて間もない真新しいお堂の中に阿弥陀が…!と心躍らせながら、先程の不動院のご住職が開けてくれるのを待っていたのですが、どうやら鍵が合わず開かない様子…先の予定もあるし、開かないんじゃ仕方ない、ということで、残念ながら中の拝観は断念。本尊の阿弥陀如来のほかにも何体か仏像が安置されているそうで、いつかまた訪れてみたいと思いました。


 この時点で、時刻は15時半。そろそろ夕方の気配、少し風が出てきて時折寒さも感じる中、桜井茶臼山古墳に向かいます。中は見ることができず、後円部の北側外からの見学・解説でした。石室内には大量の水銀朱(辰砂)が塗られていたり、数多の銅鏡(確認されているだけでも81面)が埋納されていたり、また、祭壇遺構である方形壇の周囲に丸太垣と呼ばれる円柱が立てられていたりと、少し変わった要素があるようで、古代の死生観はどうだったのだろうと考えさせられる古墳です。
 ちなみに、「茶臼山」という名は全国に多くあり、山の形が茶葉を引く臼に似ていることに由来するのだという説明もありました。余談ですが、私の住む愛知県で「茶臼山」といえば、長野県との境にある茶臼山高原が有名ですが、冬にはスキー場、初夏には一面に咲く芝桜で知られています。


 西日がまぶしくなってきた中、さらに街道を進み、あと少しで桜井駅というところで最後の見学ポイント「魚市場跡」について話を聞きました。T字路になった一体は、江戸時代には宿場や駅、問屋街として賑わっていたそうで、市も立ち、とりわけ魚市場はよく知られるところだったといいます。海のない大和の国だからこそ、熊野から運ばれてきた鯖などの魚が珍重されたのでしょう。南に延びる道沿いの一部にアーケードが見られ、確か上ツ道にも似たような風景の「丹波市跡」があったなぁと、一瞬景色が頭の中で重なりました。今は人や車が往来するこの場所で、当時の様子を思い描くのはなかなか難しいように思いました。

 魚市場跡から桜井駅までは5分もかからなかったでしょうか。予定より20分ほど早いゴールとなりました。

 今回の定例会は、地元桜井市在住のらいちさんが企画・案内をしてくださいました。また、よっぱさん、ももさんもそれぞれ解説を担当され、いつもの風人さんの案内による飛鳥めぐりとはまた違った趣の定例会となり、個人的にはとてもよかったと思います。

 参加者の皆さんも、見所満載の充実したウォーキングで、早春の外鎌山と忍坂の里を満喫されたのではないでしょうか。

 東大寺二月堂の修二会も終わり、本格的な奈良の春は、もうそこまで来ています。

レポート担当:yukaさん




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