両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

 ここから、扶桑略記に入ります♪
(本文中、白背景の箇所が頂いた資料を転載したものです。縦書きから横書きに変更している為、表記が実際の資料と異なっている箇所もあります事をお断りしておきます。)

 治安3年の10月17日から11月1日まで。道長さん御一行が、京を出て京に戻るまでの15日あまりの旅日記と考えれば良いようです。

Ⅲ、読解
○十月十七日 道長、金剛峯寺へと出発。巳の刻に宇治殿に到着し、御膳。東大寺に宿泊。
同十七日丁丑。入道前大相国紀伊国金剛峯寺に詣づ。則ち是れ弘法大師の廟堂也。路次に七大寺并びに所々名寺を拝見す。相従ふ人等、内相府(教通)、并びに民部卿(俊賢)、中宮権大夫(能信)、修理権大夫長経朝臣、前備後守能通、前肥後守公則、散位隆佐、左衛門大尉宗相、散位範基、兵部大丞源致佐、右衛門権少尉真重、同高平、前権少僧都心誉、前権少僧都永円、権少僧都定基、権少僧都永照、三会已講教円等、都(すべ)て十六(ママ)人、緇素轡(しそくつわ)を並べ、共に以て前駆す。巳の時、宇治殿に御す。膳所(ぜんしよ)、御膳を供す。次に東大寺に留宿す。
→ 『小右記』
十七日丁丑。今暁禅閤高野に参らる。前日、関白(頼通)参らるべき由と云々。而るに禅閤の命に依りて俄に以て留めらると云々。内府(教通)忽ち関白の替に参入すと云々。関白□□城外便無かるべき事也。賀の日、禅閤、関白参らるる由を談ぜらる。然而(しかれども)、左右を申さず。穏便ならざるに依りて、之れを計りて気色を見給ふ哉。或□、民部卿俊賢卿、大納言能信等参入すと云々。
*「賀の日」…同年十月十三日、大皇太后彰子、道長上東門第にて、倫子六十賀を行う。皇太后妍子、中宮威子も行啓。『小右記』に詳細な記事がある。
▽ 「金剛峯寺 …紀伊国伊都郡内、現在の和歌山県伊都郡高野町に所在する真言宗の根本道場。本来、高野山を一円境内とする寺全体をさす名称。弘仁七年(816)空海が嵯峨天皇に上表し、修禅(山林修行)の道場として高野山を賜り、金剛峯寺を建立したのに始まる。
▽ 「七大寺」 …東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺
▽ 参加者
 「内相府」 …内大臣藤原教通。道長男。母源倫子。996~1075。この時28歳。
 「民部卿」 …民部卿源俊賢。源高明男。道長妾妻明子兄。959~1027。この時65歳。
 「中宮権大夫」 …中宮権大夫藤原能信。道長男。母明子。995~1065。この時27歳。
 「前備後守能通」 …前備後守藤原能通。藤原永頼男。生没年未詳。寛弘五年、敦成親王(一条天皇親王、母道長女彰子)誕生の折には家司別当に任ぜられるなど道長の信任も篤いが、特にその男教通とは家司として終生密接な関係にあったらしい。
 「前肥後守公則」 …前肥後守藤原公則。伊傅男。章経養子。生没年未詳。道長の近習の一人で、家司受領。
 「散位隆佐」 …藤原隆佐。宣孝男。母藤原朝成女。985~974。この時39歳。大学寮紀伝道出身。
 「左衛門大尉宗相」 …左衛門大尉藤原宗相。生没年未詳。11世紀初めに左衛門尉で検非違使として著しい活躍をした。道長の命によって動いているケースが多い。
 「散位範基」 …平安中期の廷臣。駿河守高扶の子。?~1066。蔵人、春宮少進等を歴任。尚侍藤原嬉子(道長の四女、敦良親王妃)の乳母子。
 「右衛門権少尉真重」 …平真重。道長没後、その馬の処分に預り、一疋賜っている。合戦乱闘の記事あり。
 「同高平」 …平氏。
 「前権少僧都心誉」 …右大臣藤原顕忠孫。左衛門佐重輔男。971~1029。園城寺の勧修・穆算二師から顕密の教えを受け、特に加持祈祷の験応に名を得、広く皇族・貴族の招きを受けた。時の権勢者藤原道長の信任も篤く、法成寺別当の職をゆだねられ、更に大僧都に任ぜられた。
 「前権少僧都永円」 …兵部卿致平親王の息。980~1044。明尊の後嗣である明行に就いて天台を修める。道心堅固にして、常に勉学修道を怠らなかったという。
 「権少僧都定基」 …平安中期の園城寺僧。千手院に住す。散位源助成(茂)男。975~1033。僧正智弁の弟子。寛弘四年の藤原道長の金峯山詣に同道した。また、長和四年道長の五十賀において堂達を務める。
 「三会已講教円」 …伊勢守藤原孝忠男。実因の弟子。978~1047。

 この参加者の中には、道長の長男・頼通の名が無いんですよね。長男ですよ?お父ちゃんの一大イベントにくっ付いていかなくて良いんか?と思いますが、先生曰く「こりゃ連れて行かんほうが良いみたいやな」と、道長が急遽弟の内大臣・教通らを代わりに連れて行くことにしたんだろうということです。

 この顛末は、実資の「小右記」に書き残されているんだそうで、(上記資料内)これをもも流現代語訳にすると「関白も行くらしいと聞いたが、道長の命令で急に置いていかれることになったらしい。弟の教通が代りに付いていくんだそうな。関白たるもの都より外に安易に出るもんではない。そういえば、旅立ち前日にあった祝いの席で「連れて行こうかと思うんだけど」と道長に相談されたな。けど、ワシ何とも応えてやらんかった。さては、波風が立たないようにと考えたな。」となります。^^;
 最初は連れて行ってもらえるはずだったのに、実資の顔色を伺って、結局置いてきぼりになったお兄ちゃんは、どんな気持ちだったんでしょうね。今頃は・・・なんて京の都で思っていたんでしょうか?

 結局、関白だった長男・頼通を都に残して、倫子腹・教通と明子腹・能信の息子二人と明子の兄・俊賢と数人の近習、護衛の為か?の武士、僧4名の総勢17人。
 扶桑略記には「都て十六人」となっていて、実際に名前が書き出されている人数と合計が違っています。原文では「十六人」の右横に「ママ」と書かれてあって、これは、「元が間違ってるけど”そのまま”写しましたよ」と言う印(?)なんだそうです。しかし・・何人の名前が書かれてあるかちゃんと数えたんですね、写した人。偉いなぁ~。私なんて、わざわざ「十六人」って書いてあるので、疑いもしませんでした。で、漢文なのに何故「ママ(母親の意)」が出てくるんだろう?と、ずっと思ってました。(汗)
横道・・・資料の参加者略歴の中に「宣孝」の文字を見たときに「あれ?」と思いました。そ、あの紫式部の旦那であったと言われる藤原宣孝です。散位隆佐(タカスケ)がこの宣孝の息子。残念ながら(?)母は藤原朝成の娘で、式部ではないそうです。式部は、宣孝の数ある通い処の一つに過ぎなかったんじゃないかということでした。(独り言:紫式部ってあんまり結婚生活に向いてなさそうやもんな。。。)
 総勢17人を引き連れて(どっちが引き連れられているんだろうと思わなくも無いですが。(笑))道長さん御一向は、旅立ちます。
 「緇素轡(しそくつわ)を並べ、共に以て前駆す。」とは、僧を黒(緇)、俗人を白(素)として、「僧も俗人も皆区別なく馬を並べて進む」という意味になるんだそうです。こういう端的な引き締まった表現、漢文ってカッコいいなって最近思います♪

 道長さん御一行、出立してすぐにご飯です。(はやっ!)「膳所、御膳を供す」とあるので、宇治殿の食事を司ってるところがきちんとした食事をきちんと人数分用意して待っていたってことなんだそうです。宇多さん御一行が出立2日目(実質3日目?)に道端で誰が用意したかもわからん物を夢中で食べたのとは大違い。(笑)(この宇多さん御一行のお話は、第一回定例会資料「○二十三日 法華寺参拝」の辺りをご覧下さい♪)


○十月十八日。大仏に礼し、銀堂の修理を命ず。興福寺、元興寺、大安寺、法蓮寺(石上寺)を巡り、山田寺に至る。
十八日。早旦。大仏を礼し奉る。又寺内東に去ること五六許町、山上に堂有り。これを銀堂と謂ふ。堂中、銀丈六盧舎那仏像を安んず。蓋しこれを以て堂号と為す也。破損殊に甚し。銀像の過半賊に穿取さる。衆人私(ひそ)かに相ひ語りて云く、此の仏、鎖籠の搆無きに非ず、此の堂守護の司無きに非ざるに、頻りに偸児の手入る。鎖固無きが如し、と。或は以て弾指し、或は以て流涕す。仍りて威儀師鴻助を召し仰せて云く、此の仏此の堂哀愍すべし。且つ材木等の支度を勘申せしめよ。料物に至りては、申請に随ひて宛て給ふべし、と。又陪従の人々の知識に示して各の銀一両を加ふべき由、定め仰せられ了(をはん)ぬ。則ち御餌嚢(ゑぶくろ)銀鋺一器を召し、且つ鴻助に預くること已に了ぬ。巡礼の後、大門の下に於て、御馬一疋僧正に投ぜらる。
次に興福寺北南円堂を拝す。巽角の小門扉自ら開く。諸僧之れを驚く。此の門開く時、之れを物怪と謂ふ。
次に元興寺に御す。
次に大安寺に御す。
次に未の時法蓮寺<字名上寺>に御す。給(塔カ)下の八相を覧る。
次に山田寺に御す。已に以て夜に入る。前常陸介維時参り来る。大僧都扶公、威儀師仁満等飯膳を弁備す。
▽ 「銀堂」
『東大寺要録』巻四・諸院章
*東大寺の寺誌。嘉承元年(1106)に僧観厳が編纂したといわれている。一〇巻より成り、旧記文書を編したもの。奈良・平安時代の東大寺の寺勢を知る史料として知られる。
一、千手堂 <銀堂>
 ……
 銀盧舎那仏一体 <等身> 金剛座一具 <華葉八十六枚>
湛照僧都分付張に云く、前々張に云く、件の仏像の御身、盗人の為に割き取らる。天暦七年七月五日。時の別当光智、而於(ママ)之れを補錣せらる。……
▽ 「僧正」 …深覚か。深覚は、平安中期の真言僧。藤原師輔男。955~1043。この年8月22日に東大寺検校となった。
▽ 「法蓮寺」 …天理市田町の厳島神社北側に寺址がある。石上寺と呼ばれていた(近江昌司「石上寺・良因寺の成立と展開」藤沢一夫先生古稀記念『古文化論叢』同論集刊行会・1983年)。本文「名上寺」は「石上寺」の誤写と推測される。
▽ 「八相」 …釈尊の一生に於ける重大事件を八つにまとめたもの。ここはそれを図にした八相図か。原文「給」は誤写か。
▽ 「維時」 …平維時。平維将男。貞盛の子となる。武に長じていた。
▽ 「扶公」 …平安中期の興福寺の僧。966~1035? 左衛門佐藤原重輔男。真善に従い法相を学ぶ。長保五年(1003)法橋に叙され、寛弘二年(1005)大安寺別当を兼ねる。同四年には維摩会講師を務める。寛仁元年(1017)少僧都、治安元年(1021)権大僧都となり、万寿二年(1025)興福寺別当に補される。長元四年(1031)法印に叙されるが、同8年7月に至り入滅。

 東大寺に泊まった翌日、大仏を参拝して銀堂へ向かいます。この銀堂「銀の丈六を安置するから銀堂と言われてる」と言いながら、「囲い(鎖籠の搆)も守る者(守護の司)もあってないような」状態で、像の銀が半分以上も盗み取られている無残な状況だったようです。
 これはあまりにも、と言う事で修繕の為の材木の手配やら必要な物資の援助を約束したんだそうです。けど、この銀堂は、記録によると953年にも修理されていたんだそうで(東大寺要録)それも、誰それさんが書いた付箋のようなものの上に、これまた誰それさんが付箋を貼って・・と、何だか度々盗人にあってた災難だらけのお堂だったみたいです。^^;
 銀のお椀と馬一匹の布施して、道長さん御一行は東大寺を出ます。

 次に寄ったのは、興福寺。ここで南東にあった小さな扉が勝手に開いたのを僧たちが驚き騒いだんだそうです。「物怪」と書かれた表現は、「怪しいこと」や「不思議なこと」なんかを表す言葉で、どちらかと言うと良い意味なんだそうです。「さすがの道長様がお見えになったから、素晴らしく不思議な事が起こるもんだ!」みたいな感じの・・ま、ベンチャラが交じってるんやないか・・・と聞いたように記憶してますが。(笑)

 で、最初に「路次に七大寺并びに所々名寺を拝見す」と書かれているにもかかわらず、元興寺と大安寺の詳しい記事はありません。たいした事が書いてなかったので「多々略抄」されちゃったか?

 古都・奈良をウロウロしていた道長さん御一行はこの後、道を南にとって法蓮寺へ向かいます。この法蓮寺。調べても調べても(たかが、ももの調べる程度ですから知れてますが。)何処にあったお寺さんかわかりませんでした。

 先生のお話では、本文中にある「字名上寺」の「名」の字が「石」の間違いで、この寺の別名は「石上寺」だと言うことです。が・・この「石上寺」の別称を持つお寺さんもこれまた四つ程あって云々。。。
 今回の法蓮寺は、天理市田町辺りにあったのではないかと言うことです。ともかく、此処で「八相」とか言うものを見て、いよいよ飛鳥へ向かいます。

 ここから飛鳥までは、直線にして・・・う~~ん、何キロや?^^;法蓮寺についたのが午後2時ぐらいですから、小一時間居たとしても・・当然山田寺に入る頃には夜になってます。先々の計画を立てて移動している筈なのに、案外暮れてからって言うのが多いような気がする今回の道長さん御一行の行程。この時代、当然のことながら街灯もなく、夜になると魑魅魍魎が跋扈する筈なのになぁ・・と、某小説の影響濃すぎなσ(^^)は思ったりするのですが。

 で、この山田寺で道長を出迎えたのが、扶公と言うお坊さん。扶公は、仁満と言う人達と「飯膳を弁備す」とあるので、少なくとも道長さん御一行よりは先に山田寺に居たことになりますよね。勿論、同行者の中にも名前はありません。山田寺も寺ですから、お坊さんが居ても何ら不思議はないんですが。というか、それが当たり前なんですが、よりによって、何で興福寺の僧が居るんですか?!(怒)
 あ・・忘れるところでした。(^^ゞ ここでも道長さん御一行は、ご飯をきちんと食べてます。(笑)
横道:山田寺で、「参り来る」と書かれている維時(コレトキ)は、平将門を討った平貞盛の孫なんだそうです。平将門ってこの頃の時代の人なんだ・・と、しみじみ思ってしまいました。(平安貴族と武士は全く違う時代に生きていたと思い込んでます。^^;)
 この旅の同行者にも武士らしき人物が二人ほど居ますしね。(
右衛門権少尉真重、同高平

○十九日、山田寺、本元興寺(飛鳥寺)、橘寺を覧て、竜門寺に到着し、宿泊。
十九日。堂塔を覧る。堂中奇偉を以て荘厳す。言語云(ここ)に黙し、心眼及ばず。御馬一疋を権大僧都扶公に給ふ。
▽「堂中奇偉を以て荘厳す。言語云に黙し、心眼及ばず(堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及)
 →「堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず」
   (奈良文化財研究所『大和山田寺跡』吉川弘文館・二〇〇二年)

 「荘厳」…十月三十日「寝内を荘厳し、庭中を掃除す(荘厳寝内、掃除庭中)」
 
 「奇偉」…『続日本紀』天平勝宝四年四月九日条 大仏開眼記事
盧舍那大仏像成る。始めて開眼す。是の日。東大寺に行幸す。天皇親ら文武百官を率ゐて、設斎大会す。其の儀、一に元日に同じ。五位已上の者、礼服を著し、六位已下の者、當色なり。僧一万を請ふ。既にして雅楽寮及び諸寺種種音楽並びに咸来集す。復王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏(たてふし)、踏歌、袍袴(はうこ)等歌舞有り。東西発生し、庭に分れて奏す。作す所の奇偉勝(あ)げて記すべからず。仏法東帰す。斎会の儀、未だ甞て此くの如き盛なるは有らざる也。
 
 「云」…ココニ。荻生徂徠『訓訳示蒙』巻三「云字、タヾ何ノ事モナキ助語ナリ」

 翌日になって、道長は「堂塔を覧」ています。で、ここで漸く昨年の飛鳥資料館の特別展のタイトルにもなったの「奇偉荘厳」と言う言葉が出てきます。
 で、先生のお話は、上の資料を見て頂ければ良いんですが・・・少しだけ。(^^ゞ

 扶桑略記の原文は、「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及」で、「堂中は以って奇偉荘厳にして、言語云うに黙し、心眼及ばず」と読まれるのが一般的かと思います。
(事前散策資料の「堂中の奇偉の荘厳を以上って言語云黙し心眼不ばず」は、飛鳥資料館カタログ第11冊「山田寺」(平成9年九月10日発行・第2版(改訂))からの引用になります。一部の方に混乱を招いてしまったことをお詫び致します。m(__)m)

 先生曰く・・
 漢文と言うのは、元来表現が対になってるものなんだそうで、「言語」と「心眼」、「云黙」と「不及」は、それぞれ対だと考えるんだそうです。で、「荘厳」と言うのは、「素晴らしい」や「美しい」とかの形容詞ではなくて、「飾る」や「美しくする」とかの動詞として使われるのが普通なんだそうです。
 となると「奇偉荘厳にして(あまりにも珍しく素晴らしくて)」と読むのは、少しおかしいのではないかと。

 この「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及」を先生は「堂中奇偉を以って荘厳す。言語云に黙し、心眼及ばず」と読まれました。これは、「お堂の中は、珍しく今まで見たこともないほどに飾り立てられて、それは言葉にもならず、心の眼さえも及ばない」となり、これは、道長来訪に合わせて扶公が施した装飾のことをさすのではないかと。
 そう考えると、此処で色々と辻褄が合ってくるように思えます。
 何故、南都七大寺の後に山田寺なのか。それも飛鳥に入る拠点と言うよりも、山田寺そのものが目的のようにも見えます。山田寺と興福寺・僧と道長の関係。これが分かれば、当時の山田寺の様子や飛鳥での寺や貴族間の力関係なんかも分かるのかもしれません。

 で、褒美として馬一匹が山田寺の僧ではなく、扶公に与えられています。この時既に、山田寺にはイッパシの寺住の僧は居らず、興福寺の管理下にあったとみるべきなのでしょうか。

 次いで、道長さん御一行は本元興寺へ向かいます。

次に本元興寺に御す。宝倉を開きて覧(み)しむ。中に此和子陰毛<宛も蘰の如し。其の尺寸を知らず>有り。鐘堂の鬼頭、忽ちに撰び出だし難し。物多く事忙に依れば也。
▽「本元興寺」
 「此和子陰毛」…未詳。南方熊楠の、柳田国男宛明治44年8月12日書簡に次のような言及がある。
…ついでに七難の揃毛(そそけ)のこと抄出候。
……源空の師皇円の作といえる『扶桑略記』巻二八、「後一条院、治安三年十月十七日丁丑。入道前大相国、紀伊国の金剛峰寺に詣る」、路次、七大寺並びに所々の名所を見る、「次いで本元興寺に御し、宝倉を開いて覧せしむ。中に此和子の陰毛あり(さながら蘰(かつら)のごとし、その尺寸を知らず)」。熊楠いわく、此和子は女の名と見えたり。何のことか不詳。ここは七難の名なし。

 「鬼頭」…鬼の頭髪か。

 『日本霊異記』上巻 *原漢文
*正しくは『日本国現報善悪霊異記』。仏教説話集。僧景戒著。弘仁十三年(822)に成立。上・中・下三巻よりなる。雄略天皇から嵯峨天皇までの話が時代順に排列され、各巻の冒頭に序文が付いている。
  雷(いかづち)の憙(むがしび)を得て生ましめし子の強き力在る縁 第三
 昔敏達天皇の御世(みよ)、尾張の国阿育知(あゆち)の郡片蕝(かたわ)の里に一りの農夫有り。田を作り水を引く時に、小細雨(こさめ)降る。故に、木の本に隠れ、金の杖を植(つ)きて立つ。時に雷鳴る。即ち恐り驚き金の杖を擎(ささ)げて立つ。即ち雷彼の人の前に墮ちて、小子(ちひさこ)と成りて随ひ伏す。其の人、金の杖を持ちて撞(つ)かむとする時に、雷の言はく「我を害(そこな)ふこと莫(な)かれ。我汝の恩に報いむ」と。其の人問ひて言はく「汝何をか報いむ」といふ。雷答へて言はく「汝に寄りて子を胎(はら)ましめて報いむ。故に、我が為に楠の船を作り水を入れ、竹の葉を泛(うか)べて賜へ」と。即ち雷の言ひしが如く作り備へて与へつ。時に雷言はく「近く依ること莫かれ」と、遠く避けしむ。即ち、靉(くも)り霧(きら)ひて天に登る。然して後に産まれし児の頭に蛇を纏(まと)ふこと二遍(ふためぐり)、首と尾とを後(しりへ)に垂れて生まる。……(十歳余りの頃、力持ちの王との力比べ)……
 然して後に少子元興寺の童子(わらは)と作(な)る。時に其の寺の鐘堂の童子、夜別(よごと)に死ぬ。彼の童子見て、衆僧に白(まう)して言はく「我此の鬼を捉へて殺し、謹しみて此の死災を止めむ」と。衆僧聴許(ゆる)しつ。童子、鐘堂の四つの角に四つの燈を置き、儲(まう)けし四人に言ひ教ふらく、「我鬼を捉ふる時に、倶に燈を覆へる蓋(ふた)を開け」と。然して鐘堂の戸の本(もと)に居り。大きなる鬼半夜所(よなかばかり)に来れり。童子を佇(のぞ)きて見て退く。鬼亦後夜(ごや)の時に来り入る。即ち鬼の頭髪を捉へて別(こと)に引く。鬼は外に引き、童子は内に引く。彼の儲けし四人、慌(ほ)れ迷(まど)ひて燈の蓋を開くこと得ず。童子、四角別(よすみごと)に鬼を引きて依り、燈の蓋を開く。晨朝(じんてう)の時に至りて、鬼已(すで)に頭髮を引剥(はが)れて逃げたり。明日、彼の鬼の血を尋ねて求め往けば、其の寺の悪しき奴を埋め立てし衢(ちまた)に至る。即ち知りぬ、彼の悪しき奴の霊鬼なることを。彼の鬼の頭髪は今に元興寺に收めて財(たから)とす。
 ……(王の妨害を退け、寺の田に水を引く)……
 故に、寺の衆僧聴(ゆる)して得度し出家せしめ、名を道場法師と号(なづ)く。後の世の人の伝へて謂はく、元興寺の道場法師、強き力多(あまた)有りといふは、是れなり。当(まさ)に知るべし、誠に先の世に強く能き縁を修めて感じたる力なりと。是れ日本国の奇しき事なり。

 彼は、飛鳥寺の「宝倉を開」け、中にあったまるで蔓のようでもあり、長さもどれぐらいあるかわからん「此和子陰毛」と言うものを見ています。が、この物体一体何のことだか、他に資料がないんだそうです。唯一、柳田国男に宛てた南方熊楠の手紙に引用されているだけで、全くもって不可解なシロモノなんだそうです。

 後一つ、探し出せなかったものに「鐘堂の鬼頭」があがっています。この「鬼頭」は、日本霊異記の「雷の憙を得て生ましめし子の強き力在る縁」と言う話に出てきます。この元興寺の鬼の話は有名で、鬼を「ガコジ」や「ガゴウジ」などと呼ぶのも、この日本霊異記の説話に由来するとも言われています。(元興寺と本元興寺(飛鳥寺)の名前に、混同があったとも言われているようです。)

 結局、倉の中は何だか物が雑多に一杯だし、こっちも忙しいし(物多く事忙に依れば)と言う事で、道長さん御一行は、この「鬼頭」は見ることが出来ないまま飛鳥寺を後にします。事忙に依れば・・って、ついでに見ようとするからなんちゃうん?と思ってしまいますが、前太政大臣なんだから、事前に連絡でもして探し出しといて貰えばいいやんか・・と思うのですが。(^^ゞ)

 で、当然この時代に飛鳥大仏はあった筈なのに、それに対する言及は原文にもありません。珍宝を確認するだけの為のような飛鳥寺参詣(これを参詣というのか?^^;)。
・・・と言う事は、此和子陰毛なるものも、昔は何かの記録に登場した由緒(?)あるものなのかも?と、先生が仰ったような仰らなかったような。(^^ゞ


次橘寺に御す。宝物を披覧す。覧る物已に少く、遺(のこ)る所猶多し。是れ日暮れ途(みち)遠きに依れば也。今日恨む所なり。天雨曼陀羅花<太子勝鬘経を講ぜし時雨(ふ)る所の瑞也>を求め得ず。次(衍か)漸く晩頭に向ふ。
▽「橘寺」
 「曼陀羅花」…白い花とされることが多い。『法華経』序品に、仏が法華経を説いたとき、天が曼荼羅花、曼珠沙華などを降らせたという。

 「太子勝鬘経を講ぜし時雨ふる所の瑞也」
 『日本書紀』推古天皇十四年(606) *原漢文
秋七月。天皇皇太子に請ひて勝鬘経を講ぜしむ。三日。説竟(をは)る。是の歳。皇太子亦法華経を岡本宮に講ず。天皇大いに喜ぶ。播磨国の水田百町を皇太子に施す。因りて以て斑鳩寺に納む。

 『上宮聖徳法王帝説』 *原漢文
*撰者及び成立年代は未詳ながら、平安初期に法隆寺系の人物によって編述されたとする見解が有力。内容は聖徳太子の伝記を中心とした古記録で、一族の系譜記事や太子の事蹟、古伝旧記の引用、一種の皇代記などからなる。
戊午年四月十五日。少治田天皇、上宮王に請ひて勝鬘経を講ぜしむ。其の義僧の如き也。諸王公主及び臣連公民信受して嘉せざるなき也。三箇日の内講説訖(をは)る也。天皇、聖王に物(ママ)播磨国揖保郡佐勢の地五十万代(しろ)を布施す。聖王即ち此の地を以て法隆寺の地と為す也<今播磨に在る田三百余町なる者なり>

 『延暦僧録』 第二・上宮皇太子菩薩伝(『日本高僧伝要文抄』所引) *原漢文
*鑑真とともに来朝した唐僧思託の撰になる僧伝。延暦七年(788)二月成立。
…即ち疏四巻を作り経を釈す。又維摩経疏三巻、勝鬘経疏一巻を作る。……又件の疏を講ずるに、香風四起し、花雨依霏たり。
*「疏四巻を作り経を釈す」…法華経疏を作ったこと。「依霏」…たなびく様子。

 『聖徳太子伝暦』 *原漢文
*10世紀前半に著された聖徳太子の伝記。作者未詳。欽明天皇31年から大化元年(645)に至る編年体の太子伝で、年紀の立て方を『日本書紀』によりながら、先行太子伝を集成し、太子に関する奇瑞の物語や神秘的な話を数多く集め、更には釈迦本生譚や仏教霊験譚などの援用を得て太子伝としての完成を目ざしている。そのため、後世の太子伝や太子研究に与えた影響は計り知れない。
秋七月。天皇、太子に詔して曰く、諸仏所説の諸経、演(の)べ竟へり。然るに勝鬘経、未だ其の説を具(つぶ)さにせず。宜しく朕の前に於て其の義を講説すべし、と。太子辞し奏すらく、臣頃(このごろ)将に疏を製せんとす。其の義理を思ふに、適(まさ)に未だ通達せず。伏して念ふに、五六日より旬に至る時、乃ち応に麈尾(しゆび)を握りて師子の座に登るべし、と。天皇答へ勅して、試みに講じて、諸名僧大徳をして、其の妙義を問はしむ。太子、天皇の請を受く。其の義僧の如し。三日にして竟る。講竟へし夜、蓮花零る。花長きこと二三尺なり。而して方三四丈の地に溢る。明旦これを奏す。天皇大いに奇として、車駕してこれを覧る。即ち其の地に於て、誓ひて寺堂を立つ。是れ今の橘寺也。

 『日本往生極楽記』聖徳太子 *原漢文
*慶滋保胤撰。『日本往生記』『日本往生伝』『慶氏往生記』などとも。日本における「異相往生」の例四二話四五人を集めたもの。漢文体。その成立は著者の出家前後で、永観元年(983)から寛和元年(985)にかけてひとまず成り、その後若干の追補を経て、永延元年(987)ごろに完成をみたらしい。
天皇、太子に請ひて勝鬘経を講ぜしむること三日なり。太子袈裟を着し麈尾を掘り師子の座に登る。其の義僧の如し。講竟へし夜、蓮花忽(たちま)ち落(ふ)る。花の長さ二三尺なり。明旦これを奏す。天皇太だ奇とす。即ち其の地を卜して伽藍を建立す。今の橘寺、是れ也。

 橘寺に到着です。ここでもお堂や仏像に対する記載はなく、「宝物」を見るのですが、これまた時間がなくて全部見ることが出来ずその中でも、「天雨曼陀羅花」と言うのが見つけられなかったと嘆いてはります。
 この「天雨曼陀羅花って、何ぞや?」
 聖徳太子がお経の講読をして、その際に天から花が降ってきたと言うような話はよく聞きますが、ではその話は一体何処からきてる?と、先生は、色んな書物を当たって下さったんだそうです。(とんでもない講演を依頼して誠に申し訳ありませんでした。m(__)m)

 書物の成立年代順に考えて文章の変換を見ていくと、どの辺りでそういう伝承が具体化したかが分かるようです。

 よーは、聖徳太子が勝鬘経を購読して、天皇が喜んで褒美に土地を与えたと言う大元らしい話に、「花が雨のように棚引いた(延暦僧録)」が加わって、「蓮の花が降る。それも長さ10cm弱の花が約10m四方に(聖徳太子伝暦)」と、やや具体的(過ぎるとも思うけど)な表現になって、もうすこし簡略化した形の「蓮の花が沢山降る。花の長さは約10cmほど(日本往生極楽記)」に落ち着くようです。この蓮花が降る話は、平安頃に成立したんじゃないかと。
 最初は貰った土地を斑鳩寺のものとしたり、法隆寺を立てたりと、斑鳩方面の寺へ結びつくんですが、途中から、「瑞祥があったその地に橘寺を建てた」と変わってきます。もしかしたら、聖徳太子信仰が盛んになりだした時期と関係があるのかしれませんね。


 夕方に漸く橘寺を出て、竜門寺に向かいます。

次に竜門寺。時に仙洞雲深く、峡天日暮る。青苔の巌は尖り、曝布の泉は飛ぶ。其の勝絶を見て、殆ど帰るを忘れんとす。仏を礼して後、上房に留宿す。霜鐘の声屡(しばし)ば驚き、露枕の夢結び難し。昔宇多法皇卅一字を仙室に詠じ、今禅定相国五千灯を仏台に挑ぐ。今を以て古を思へば、随喜猶前に同じ。岫下に方丈の室有り。これを仙房と謂ふ<大伴・安曇両仙の処なり。各其の碑有り>。菅丞相都良香の真跡、両扉に書す。白玉の匣に盈つるが如く、紅錦の機(はた)に在るに似たり。各妙句を詠ず。徘徊して去り難し。前総州刺史孝標は、菅家の末葉也。折桂の身為ると雖も、敢へて滄花の才非ず。誤りて仮手の文を以て、忝くも神筆の上(ほとり)に書す。其の心無きを悪み、消すに壁粉を以てす。其の外儒胤成業の者、又拙草を並ぶ。衆人これを嘲る。
▽「竜門寺」 …吉野町山口にあった寺。竜門の滝や仙人で有名。昌泰元年宇多上皇の宮滝御幸でも一行が立ち寄った。宇多上皇の宮滝御幸を描いた、菅原道真「宮滝御幸記略(仮)」に「路次竜門寺に向かふ。仏を礼して綿を捨す。松蘿水石、塵外に出づるが如し。昇朝臣・友于朝臣、両人手を執り、古仙の旧庵に向かひ、落涙を覚えず、殆ど帰ると言はず。上皇仏門に安坐して、痛く飛泉に感じ、勅して歌を献ぜしむると云々」とある。
  「仙房」 …「古老相ひ伝へらく、本朝往年三仙人有り。竜門寺に飛ぶ。所謂大伴の仙、安曇の仙、久米の仙也。大伴の仙の草庵、基有りて舎無し。余の両仙の室、今に猶存す。但し久米の仙、飛びて後更に落つ。其の造精舎大和国高市郡に在り。……久米寺、是れ也」(『扶桑略記』延喜元年八月二十五日条)
  「孝標」 …菅原孝標。女(むすめ)は、『更級日記』の作者。
  「折桂の身」 …文章生になったことをいう。文章生は、大学寮紀伝道で学ぶ。
  「滄花」 …「搶花(花を搶(あつ)む)」の誤写か。ここは、すばらしい詩を作ることをいうか。
  「仮手」 …元来は、手を借りる、代作を意味する。ここは、代筆の意か。

 漸く竜門寺に到着します。
 その景色は、青々とした苔が生す巌は険しくてそこに滝の飛沫が激しい、本当に仙人の住む秘境のようで、「殆ど帰るを忘れんとす」と彼らに思わせたようです。そこで色々と修行をしなければ仙人になれないんですがね。(笑)

 記録者の長経は、「昔の宇多上皇は仙室の前で歌を読み、今回道長は五千もの献灯をした。」と書いています。別に歌が悪くて献灯が偉いと言ってるわけじゃないんでしょうが、なんとなく自分たちの方が凄いんだぞ!的に聞こえてしまうのは、これまた私だけでしょうか。(^^ゞ
ま、それでも今も昔も同じだなぁ~なんて思ったりして、仙人が居たと言う跡を探しにいくのですが。

 宇多上皇来訪時(昌泰元年・898年)には、どの程度だったか記録には無いようですが、その後延喜元年(901年)の記録には、大伴仙人の草庵は土台だけで、安曇仙人と久米仙人の草庵は残っていたとされています。今回それから100年ほど経て道長さん御一行が訪れた時には、「方丈の室あり・・・大伴・安曇両仙の処なり。各其の碑有り」と、久米仙人の名がありません。^^;碑も久米さんのはなかったんでしょうか?女性の脹脛を見て落ちちゃったから建てて貰えなかった?何てー事を思ったりもしますが。
・・と言うか、三仙人が住んでいたという伝承がずっと大切に守られていたんだと素直に読むべき部分ですね。ここは。。(^_^;)

 で、ここの扉に菅原道真と都良香の筆跡があったのだそうです。漢詩文に秀でた二人の筆跡は本当に素晴らしくて見飽きない・・みたいに褒めてあります。
 で、面白いのはここからです(笑)。
 その後に続く「前総州刺史孝標は・・・」をもも流現代語に置き換えてみましょうか。「前に総州の国司だった菅原孝標は、あの菅家、菅原道真公の流れで文章生という一応そういう学問を修めたものでもあるのに、そういう才能は全くない。にもかかわらず、道真公の誠に有り難い神の手とも言えるほどの筆の横手に、それも代筆で歌を書き付けるとは何とフトドキな輩であろうか!と言う事で壁土で塗りこめて消してやったわい。」
・・・となります。(かなりの異訳です。m(__)m)

 よーは、この孝標という人、菅原道真の家系に連なるのにたいして歌や詩の才能がなかったみたいですね。かなりケチョンケチョンに言われてます。名門に生まれると辛いもんがありますね。^^;

 で、「道真と都良香の筆跡」と先生が仰るので、この良香って人も宇多さんの宮滝行きに同道した人の一人なんだろうと勝手に思い込んでたら・・・、宇多さんご一行の中にこの良香さんって人は、居ませんでした。孝標にしても、良香にしても、いつ誰が竜門寺に参詣して、仙人の草庵跡も見たか何ていうのは、追いかけてたらきりが無いので、やめておきますが、結構皆さん出かけてはるのかもしれませんね。 (事前散策用資料・竜門寺)


○二十一日。吉野川で船に乗り、午の刻に高野政所に着。申の刻、山中仮屋の宿めざす。前例は、騎馬であったが、今回は藁履を用いる。

○二十二日。内大臣教通等、朝の雨の中、徒歩にて追う。申の刻、金剛峯寺に着。明日の法会のために僧三十口に法服を賜う。

○二十三日。法華経一部、般若理趣経三十巻を供養す。この時、左衛門督藤原隆家参上。申の刻、金剛峯寺に帰る。蔵人右馬権助源資通、天皇の手紙を伝える。

○二十四日。政所を目指す。山中仮屋にて御膳。未の刻、降雨。徒歩にて降る。丑の刻、政所御宿に着。皇太子、三后の使来る。

○二十五日。大僧正の房に着。引出物あり。申の刻。平維時の宅に宿る。簾・帷に飾りを加え、盃・盤は尽く珍宝であった。

  …以上、原文省略

 ↑の21日から25日までの記事は、時間的制約があって、講演会当日は割愛されてしまいました。つまりは、大した事が書いてないって事で良いんだと思います。(笑)
横道:23日にある左衛門督藤原隆家は、道長の政敵であった伊周の弟です。なぜ此処に彼が参上しているのか・・色々と妄想するのも面白いかもしれません。^^
高家は、豪胆な性格で、伊周とともに一度は失脚するも、再び浮き上がってきて結構長生きしてはるみたいです。

 で、やっぱりこの間もきちんとご飯は食べてます。(笑)
 24日は「山中仮屋にて御膳」、25日には、あの山田寺に駆けつけた平維時の家で「簾・帷に飾りを加え、盃・盤は尽く珍宝であった」と記録されています。


○二十六日。維時に馬を賜う。法隆寺に着。夢殿、種々の宝物を見る。道長、歌を詠む。
廿六日。維時を召して、御馬を給ふ。法隆寺に御す。先づ東院を覧る。是れ聖徳太子夢殿也。種々の宝物を覧る。御歌有りて云はく、
王乃(おほきみの) 御名乎者聞土(みなをばきけど) 麻多毛三奴(まだもみぬ) 夢殿麻天仁(ゆめどのまでに) 伊賀手木津覧(いかできつらむ)。
古今の秀歌有りと雖も、其の右に出づべからず。

 翌26日に、宿とした家の主、維時が呼ばれ褒美の馬が下されます。そのまま、道長さんご一行は、法隆寺に向かい夢殿を見、またまた宝物を見ています。(笑)
 で、此処で一句・・と道長が歌を詠んだようです。長経は、「この歌以上に素晴らしい歌はこの世にはない!」なんてベタ褒めしてますが、幾らなんでも褒めすぎやろう・・と。「この世をば」の歌さえも自分の記録に残さなかった道長は、この歌が後世に残る事を果たして希望したのか?と思ってしまいます。^^;


○二十七日。心誉と永円が暇を請うて京に戻る(智証大師の遠忌が近いため)。河内国に向かう。山中に座を作り、酒を温める。暮れに河内国道明寺に着。河内国司菅原為職、寺を飾り、朝夕の儲けもおろそかにしなかった。
廿七日。前権少僧都心誉、同永円、暇を請ひて入京す。智証大師遠忌の近きを以て也。河内国を指して、進発の間、亀瀬山の嵐、紅葉影脆(もろ)く、竜田川の浪、白花声寒し。爰に山中に於て仮に草座を鋪き、聊か菓子を供す。紅葉を焼き、佳酒を煖(あたた)む。蓋し寒風を避くる也。昏黒、河内国道明寺に御す。国司為職食堂を装束す。帷帳の飾、壮麗云(ここ)に尽き、朝夕の儲、敢へて忽諸せず。諸陪従南廬太だ以て過分なり。
▽ 「亀瀬山…」 …大和と河内の国境にある、亀瀬峡谷。
▽ 「紅葉を焼き、佳酒を煖む」 …『和漢朗詠集』(巻上・秋興・221)に「林間酒を煖めて紅葉を焼き、石上詩を題して緑苔を掃く<白>」とあるのに基づく表現(「白」は、中唐の詩人・白居易のこと)。

 初日から同道していた僧二人が列を離れます。この二人三井寺の僧で、道長は三井寺とも色々と関係があったようです。

 法隆寺から道を西にとって河内へ向かった道長さんご一行。その道中、亀瀬山というところで、紅葉狩りのようなことをしているようです。
 で、ここに出てくる「紅葉を焼き、佳酒を煖む」は、あの白居易の有名な一文そのままなんだそうです。「へぇ、そんな事知ってるんや♪」とσ(^^)なんかは、思ってしまうのですが、これぐらいの事はこの時代の当たり前の教養だったそうで、逆に一字の捻りもなく、そのまま使ってるあたりが・・・なんだそうです。^^;
横道:この長経さんの漢文には、他にも所々おかしなところがあると先生は仰ってました。学問主体でやってる人でもない長経を何故道長は、記録係に任命したんでしょうか。伊周の娘を嫁にして、娘を彰子に出仕させて・・平安の世にそれなりに上手く生きた人ってことになるんでしょうかね?謎の人です。(笑)
 河内の道明寺に着いて・・・また食事です。河内国国司が食堂を見事に飾り立てて朝夕の食事も良かった・・んだそうです。(笑)
 ここで、何かを参拝するとか珍宝を見るとかしなかったんでしょうか。河内国道明寺も道長さんにしたらただの宿?^^;


○二十八日。摂津国に入る。午の刻、四天王寺に着。別当定基の房にて御膳を供す。仏舎利を見る。次いで、摂津国府大渡(おおわたり)にて船に乗る。
 原文省略

▽「大渡」…淀川河口に位置した津。

○二十九日。風が静かで波も穏やかである。田蓑島を通り過ぎる。未の刻、江口に向かうときに、遊女の船が来る。歌曲の声が聞こえる。遊女を憐れんで、讃岐米百石を賜う。

廿九日。風静かにして波平なり。田蓑島を過ぐ。雲海茫々として、沙渚眇々たり。未の時、江口を指して御す間、遊行の女船泛来す。歌曲参差たり。其の衒売の意を憐れまんが為に、讃州米百石を仰せて給ふ。

▽「田蓑島」…淀川の河口に数多くあった島の一つであろうが、はっきりしない。

*遊女と道長
『古事談』巻二(原漢文)
御堂、遊女小観童<観音の弟なり>を召す。御出家の後、七大寺に参らるる時、帰洛に河尻を経たり。其の間小観童参入す。入道之れを聞きて頗る赭面(しやめん)して、御衣を給ひて之れを返し遣らると云々。

 四天王寺です♪
 で、またまた食事です(笑)でもここでは、一応仏舎利を見てますね。(笑)

 そのまま舟に乗ってここからは、水路を行くようです。
 大阪の江口と言われる辺りで遊女の船と接触します。江口は、遊女で有名だったところだそうで、道長さんもその昔若かりし頃に・・ま、色々とあったようですね。(笑)
 

○三十日。申の刻に、山崎の岸辺で、船から下りる。山崎の関の外院に着す。院の預前肥後守公則は、寝殿を飾り、庭を掃除していた。飯の準備も、善美を尽くしていた。また、鉢具など銀で作ったのは、あまりに豪華すぎるが、既に完成していたので、遠慮はしなかった。

○十一月一日。丑の刻に、京に入る。桂川の辺りで、夜が段々明けていく。霧が野に満ち、霜が衣を濡らす。七条河原を経て、法成寺の御堂に入る。修理権大夫源長経が道長の命によって記した。多く省略してある。

 以上、原文省略

 そんなこんなで、遊女との一幕もありーのしながら道長さんご一行は、山崎まで戻ってきます。ここでも、留守役が邸内を掃除し飾りご飯の用意をして待っています。お椀なんかはわざわざ銀で作ってあったりして、本当に迎える方のご苦労は如何ばかりかと・・・。m(__)m

 京を出てから15日目の11月1日。
 漸くまた京に帰り着きます。

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 当日、予定の90分少しを超過して、講師の滝川先生は、お話下さいました。その後、休憩を挟んで、少しばかり時間を設け、参加者の方の質問にもお応え頂きました。

 ページの最後に、改めまして、丁寧かつ詳細な講演をしてくださいました滝川先生に深く御礼を申し上げますとともに、会場を快く提供くださいました飛鳥資料館学芸室長杉山洋先生はじめ飛鳥資料館事務員の皆さんに心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。

2008年 3月30日

製作担当 両槻会事務局  もも 

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