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Vol.014(08.3.21.発行)~ Vol.038(08.12.19.発行)に連載

飛鳥のみち

飛鳥へのみち

「阿倍・山田道」



橿原考古学研究所主任研究員  近江俊秀先生

橿原考古学研究所






【1】 「その1 阿倍・山田道(1)」  (08.3.21.発行 Vol.14に掲載)

 その晩、私は酔っていた(いつものことだが)。目の前に座っていた風人さんが、急に改まって、何やら頼み事を始めた。私は、すぐさま、その依頼を引き受けた。深く考えることもなく・・・
 というわけで、今回からこの連載が始まるわけであるが、このような経緯で始まるものだから、皆さんには気楽に読んでいただきたい。私も、普段、思っていても、なかなか文字にできないことを気軽に綴っていこうと考えているので。
 また、今回は特に必要な場合を除いては、あえて用語にはこだわらない。その方が、話がわかりやすくなると思うからである。よって、「まだこの時期、天皇号は成立してない」とか、専門的なツッコミは、ご勘弁下さい。

 申し遅れたが、私は古代の道路について、少し研究めいたことをしている。恥ずかしながら、この春には2冊目の本も出すことになった(「道路誕生」というタイトルで青木書店から刊行されます。良かったら手に取って下さい)。

 今回は、この本に書いた内容を基に、「飛鳥のみち 飛鳥へのみち」というタイトルで、古代のみちの話をしたいと思う。最初に話す「みち」は、私が最も好きな飛鳥のみち、「阿倍・山田道」に勝手に決定させていただいた。私が「阿倍・山田道」が好きな理由、それは、大きく二つある。ひとつは、このみちの存在があったからこそ、飛鳥に都がおかれるようになったこと(思いこみかも知れないが)、もうひとつが、このみちのことを考えると、歴史上の人物の顔が頭に浮かぶこと(これは、さらに思いこみであるが)である。これだけでは、お読みいただいている方は、「なんで?」と首をひねるかも知れない。詳しくは、追々、語っていくことにしよう。


 「阿倍・山田道」は、現在の近鉄橿原神宮前駅東口から東へ伸び、丈六付近で下ツ道と交差し、東へ2㎞程度直線的に伸びたのち、桜井市山田付近で北西からのびる丘陵裾と山田川の間をとおるように北西方向に向けゆるやかなカーブを描き、安倍寺の東側でほぼ南北方向の直線道路となり、横大路との交差点以北は、上ツ道になる。沿線には、推古天皇の豊浦宮・小墾田宮といった飛鳥における初期の宮が立地し、さらに、その路線は飛鳥に宮が置かれる以前に歴代天皇の宮が置かれた、磯城・磐余地域と飛鳥とを結んでいる。

 私はこの道路は、上・中・下南北三道並びに横大路(これらのみちについては、いずれお話します。)に先行して、蘇我氏が、飛鳥という新しい支配拠点の建設にあたり、推古天皇即位に先立って整備した道路であると考えている。詳しくは、次回。 



【2】 「その2  阿倍・山田道(2)」  (08.5.2.発行 Vol.20に掲載)

 参照の地図をご覧いただきたい。

参考地図(近江先生作成の参考資料です。)
・・・画像をクリックして原寸表示してください。見やすくなります。

 このみちの沿線には、蘇我稲目の小墾田の家・向原の家・軽の曲殿、馬子の石川の宅、蘇我蝦夷・入鹿父子の甘樫岡の邸宅など、歴代の蘇我総本家の邸宅があることがわかる。また、そこから北東に進むと、歴代天皇の宮がつくられた磯城・磐余の地に至る。ここには、稲目が大臣として仕えた欽明天皇の磯城嶋金刺宮、馬子が仕えた敏達天皇の訳語田幸玉宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮、崇峻天皇の倉橋柴垣宮などがある。つまり、「阿倍・山田道」は、大臣の家と天皇(この頃は、大王)の宮とを結ぶように走っているのである。

 蘇我氏のもともとの本拠地は、橿原市曽我町付近と考えられている。現在、近鉄真菅駅のそばには、式内社宗我坐宗我都比古神社があり、小綱町には入鹿神社があり、これらは蘇我氏の本拠地が、本来このあたりにあったことを示す傍証となろう。また、このあたりは、弥生時代から古墳時代の遺跡が多く確認されている場所でもある。つまり、古くから住みやすく、生産力に富んだ肥沃な土地が広がっていた場所だったのだ。

 蘇我氏が飛鳥に進出したのは、6世紀になってからである。それに前後して蘇我氏は周辺の渡来系氏族を傘下に入れ、さらなる経済力と最新の技術を手にいれたようである。そして、宣化天皇元年(536)、蘇我稲目が大臣として歴史の表舞台に登場する。宣化天皇の宮は、桧隈廬入野宮。ここは、蘇我氏と非常親密な渡来系氏族である、東漢氏の本拠地である。そこに宮がおかれたということは、宣化即位に蘇我氏が関わっていたことを示すものであろう。つまり、稲目の名が記録に現れる以前に、蘇我氏は天皇の擁立に携われるだけの力を有していたと言える。その力の源は、代々受け継いだ生産力、渡来人から得た最新の技術と大陸の情報、そして人脈であった。

 蘇我氏の飛鳥進出のねらいは、自らの勢力の拡大をはかるとともに、天皇家との接近にあったと思う。この頃の天皇の宮は、通常、磯城・磐余に置かれていた。飛鳥の地は、渡来系氏族の居住地に接し、磯城・磐余に近い。飛鳥を本拠にするということは、当時の蘇我氏のライバルと言える物部氏や大伴氏よりも有利な立場にたつことを意味する。なにせ、「阿倍・山田道」をとおれば、磯城・磐余の宮は目と鼻の先であるのだから。



【3】 「その3  阿倍・山田道(3)」  (08.5.27.発行 Vol.22に掲載)

参考地図(近江先生作成の参考資料です。)
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 蘇我氏の話をもう少し続けよう。図は、蘇我氏とその同族の本拠地の分布である。前回、お話したように、蘇我宗本家の邸宅は、阿倍・山田道の沿線にあり、その同族も交通の要衝に分布していることがわかる。また、蘇我氏の行った政策として、屯倉の設置と経営があげられるが、これらの多くも交通の要衝に置かれた。

 これらのことから、蘇我氏は交通を重視し、その掌握に力を注いでいたのであることがわかる。さらに、蘇我氏は池の掘削などの治水、灌漑事業をおこない、農業生産力の拡大を目指した。この事業の実施のためには、渡来人がもたらした最新の土木技術が導入されたのだろう。

 少し迂遠な話になってしまったが、「阿倍・山田道」の成立とその意味を考えるためには、蘇我氏の動向と、その政策を知る必要があるし、それを抜きにしては、このみちが造られた意味を理解できないと思う。「阿倍・山田道」は蘇我氏と天皇をつなぐ「みち」であり、さらに言えば蘇我氏の権力を支える大動脈であった。
 おそらく、蝦夷や馬子は、このみちを使って天皇の宮に通っていたのだろう。そして、推古天皇も、住み慣れた磯城・磐余の地を離れ、このみちをとおって豊浦にやってきたに違いない。極論すればこの「みち」は、皆さんが愛してやまない飛鳥の地が、歴史の表舞台に立つ際に、重要な役割を果たしたのである。

 物部氏という、最大のライバルを打倒した蘇我氏は、ついに天皇を自らの本拠地の中に引き込むことに成功した。豊浦宮がそれであり、さらに『日本書紀』に現れない遣隋使によりもたらされた大陸の情報(開皇20年(600)に日本から使者が来たと『隋書』にある)に基づき、小墾田宮が造られた。この宮は、飛鳥では、飛鳥寺に次いで造られた南面する施設である。
 推測であるが、蘇我氏は早くから自らの本拠地に天皇を向かえ入れることを見越し、飛鳥を中心とした道路網の整備や、諸施設の整備を行っていたのだろう。向原の家を寺としたことからはじまる蘇我氏の造寺の試みも、自らの対外的な立場もあるが、いずれこの地に天皇を引き込むことを視野にいれた、国際都市の建設を目指したものと考えたい。



【4】 「その4  阿倍・山田道(4)」  (08.6.20.発行 Vol.24に掲載)

 前回、前々回とかたい話が続いたので、今回は、ちょっと趣向を変えよう。今回のテーマは、蝦夷や馬子がとおった「みち」は、今、私たちが「阿倍・山田道」と呼んでいるみちと同じなのかということである。これについては、平安時代に書かれた仏教説話集である『日本霊異記』の記事が、検証にあたって大きな力を発揮する。

 『日本霊異記』の最初の説話は「雷を捉へし縁」というもので、雄略天皇の臣、少子部栖軽が、雷を捕まえたという話である。余談になるが、私は栖軽という人物が好きである。『日本書紀』には、雄略天皇が養蚕を行うために蚕を集めてくるよう命じたのに、栖軽は誤って嬰児を集めてきたとか、天皇の命を受け三輪山の神である大蛇を捕らえてきたとか、いろいろなエピソードが記されている。このようなエピソードから、私のイメージする栖軽の人柄は、気は優しくて力持ち、真面目で忠誠心旺盛であるが、どこか抜けているところがあり、そこが何ともユーモラスで、周囲の笑いを誘う、といった人である。霊異記に見える栖軽も、まさにそういう人物である。
 ある日、栖軽は天皇と皇后が同衾している時に、そうとは知らずにあやまって参入してしまった。天皇はよほど気まずかったのか、テレ隠しと腹いせに、その時たまたま鳴った雷を連れてくるよう栖軽に命じた。真面目で忠実な栖軽はすぐさま、合戦に挑むかのような勇ましい姿に着替え、雷が落ちた方へと向かった。
 
 栖軽勅を奉りて宮より罷り出づ。緋の縵を額に著け、赤き幡桙を擎げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越の衢に至り、叫囁びて請けて言さく、「天の鳴電神、天皇請け呼び奉る云々」とまうす。

 栖軽は、赤い鉢巻きをして矛に赤い旗をつけ、馬に乗り磐余宮を飛び出した。そして、「阿倍の山田の前の道」「豊浦寺の前の道」をとおって、「軽の諸越の衢」へ向かった。


雷丘(東から)

 もう、お気づきだろう。栖軽がとおったみちは、まさに「阿倍・山田道」のことを指しているのである。もちろん、この記事をもって雄略天皇の時代には、「阿倍・山田道」があったとは言えない。しかし少なくとも、私たちのいう「阿倍・山田道」は『日本霊異記』が書かれたころには、存在していたことがわかる。
 ついでにその後の話も書き加えておこう。栖軽はみごと雷を捕らえ、天皇のもとへ連れて行ったが、天皇は光る雷を恐れ、落ちた場所に帰させた。この場所が、明日香村雷に所在する雷丘である。栖軽が死んだとき、天皇はその墓を雷丘につくり、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した柱をたてた。これを見た雷は怒り、この柱を破壊しようとしたが、逆に柱にはさまってしまい、再び捕らえられてしまった。栖軽は2度も、雷を捕らえたのである。



【5】 「その5  阿倍・山田道(5)」  (08.8.1.発行 Vol.27に掲載)

 「阿倍・山田道」をとおった、歴史上の著名人をもうひとりあげておこう。それは、小野妹子に連れられ、隋からやってきた裴世清である。『日本書記』によると裴世清は、推古天皇16年(608)4月に、遣隋使小野妹子らとともに、筑紫に到着(この報告を受けた当時の政府は、難波に使者を迎えるための館を造る)。6月15日、難波に到着。8月3日、海石榴市で額田部連比羅夫らに出迎えられている。


 飾り馬形遊具♪
 難波から海石榴市に来るまでの2ヶ月弱の間、裴世清がなにをしていたのかは不明であるが、この間、大和では使者を迎える準備があわただしく進められていたのであろう。なお、海石榴市の場所については、桜井市金屋付近とする説と、桜井市谷~戒重の横大路と上ツ道の交差点付近とする説があるが、いずれにしても、そこから推古天皇の小墾田宮に行くためには、「阿倍・山田道」をとおらなければならない(ちなみに、桜井市金屋には、海石榴市で額田部比羅夫が飾馬75頭をもって、隋使を迎えたという記録に因み、石製の飾馬や飾馬形の遊具がある、結構ユーモラスなので、是非一度どうぞ)。

 ちなみに、海石榴市は、交通の要衝であったと考えられており、磯城・磐余に宮が置かれていたころからの、各地の使者をもてなすための迎賓館的な性格を持つ施設があったと推察されている。おそらく、大事な使者をもてなすために、急ごしらえの施設ではなく、設備が十分に整っていた旧来の施設を利用したのだろう。もちろん、大がかりな改修工事を行った上で。

 なお、『隋書』巻81東夷伝倭国条には、裴世清を迎えるにあたっての、日本側の対応が記されている。その中に、「清道飾館」の文字がある。「ことさらに道を清め、館を飾る。」と読み、「清道」とは、道路整備と考えられる。通説に従い、裴世清が難波から船で海石榴市に着いたとすれば、「清道されたみち」とは、「阿倍・山田道」の可能性が高い。実は、この「清道されたみち」が、発掘調査で見つかったのである(そう思っているのは、私だけかも知れないが)。それは、次回にお話しよう。



【6】 「その6 阿倍・山田道(6)」  (08.9.19.発行 Vol.31に掲載)

 阿倍寺のすぐ近くで、桜井市教育委員会が「阿倍・山田道」の推定ライン上に、小さなトレンチを設定し、発掘調査をおこなった。
 もちろん、「阿倍・山田道」が見つかることを期待して、である。そして、予想どおり「阿倍・山田道」の一部が見つかったのであるが、その構造は通常の古代の道路とは、異なるものであった。
 見つかった道路は、路面を小礫や土器片で舗装し、石組の側溝を伴う。古代道路の中には、ごくまれに路面を舗装するものがあるが、石組の側溝を伴うものは、宮など重要施設の中につくられた道路でしか見つかっていない。
 先述のように、調査箇所は別に重要施設の中ではなく、「阿倍・山田道」の一区間である。そして、路面に敷かれた土器の時期などから、舗装や石組み側溝がつくられたのは、7世紀前半であることがわかった。
 なんでもないところから見つかった、必要以上に丁寧なつくりの道路、そしてその整備時期は7世紀前半、さらに裴世清は「阿倍・山田道」をとおった、ここから想像すると、この調査で見つかった道路こそ、『隋書』にみえる「清道されたみち」ではないかと思う。もちろん、たった一カ所の調査成果だけで結論を出すわけにはいかないが、その可能性は十分に考えられるし、可能性を指摘しておくことが次の発掘調査にもつながるのだから。

 もうひとつ、「阿倍・山田道」の発掘事例を紹介しよう。昨年、奈文研がおこなった石神遺跡で検出されたのが、それである。


石神第19次発掘調査(07.3.31.現地説明会)

 この発掘調査では、阿倍山田道の南側溝と路面が検出された。路面幅は約18m。両側に側溝を持つ立派な「みち」である。この付近は、谷を埋め立てた脆弱な土地であり、本来ならば「みち」をとおすにふさわしくない場所であるが、丁寧に盛土をして「みち」をつくっている。盛土の下からは、多量の木の枝や皮が出土しており、これらは「みちづくり」のための基礎工事と考えられている。また、過去に近接する場所でおこなわれた発掘調査では、地中の水分を除去するために、大がかりな石組みの暗渠がつくられていることも確認されている。
 このように、発掘調査で見つかった「阿倍・山田道」は、いずれも当時の他の「みち」をしのぐ立派なものであり、いかにこの「みち」が当時の国家にとって大事なものであったかを雄弁に語ってくれる。
 ここまで、読んで下さった皆さんは、もうそろそろ「阿倍・山田道」の話は終わりかと思うかも知れない。しかし、話は単純には終わらない。「阿倍・山田道」には、まだまだ多くの問題が残っている。次回へ続く。



【7】 「その7 阿倍・山田道(7)」  (08.11.7.発行 Vol.35に掲載)

参考地図(近江先生作成の参考資料です。)
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 前回、紹介した石神遺跡の「阿倍・山田道」。実は、見つかったのは七世紀中頃のものだったのだ。桜井市で見つかったものは7世紀前半、つまり両者は時期が異なるのである。また、現在の奥山から雷の間の「阿倍・山田道」は、県道拡幅に伴い奈文研が継続的に調査をおこなっており、現在、推定されている「阿倍・山田道」の路線上で、7世紀前半の建物跡を見つけている。このことは、奥山から雷の間を直線的につなぐ「阿倍・山田道」の区間は、7世紀中頃前後につくられていたもので、裴世清がとおったみちとは違うということを示している。 

  では、裴世清のとおった「阿倍・山田道」は、奥山以西、どこをとおっていたのだろうか。この付近では、奈文研による発掘調査が、継続的におこなわれているが、それらしき痕跡はみつかっていない。つまり、考古学の立場では、この付近における「阿倍・山田道」の位置は不明としか言いようがない。しかし、今回の執筆のコンセプトは、「思っていること書く」である。だから、根拠薄弱な話ではあるが、私の考えを述べておこう。 「阿倍・山田道」の位置を考える上で、私が注目している点の第1は、小墾田宮の構造である。岸俊男先生は、かつて『日本書紀』の記載から、小墾田宮の構造の復元をおこなっている。詳しくは、岩波書店刊『日本の古代宮都』(古本屋で比較的、安価で入手できます)などをご覧頂きたいが、この復元によると小墾田宮は南に門を持っており、主要施設は基本的には南北に配置されていたことがわかる。裴世清も南門から宮に入っている。裴世清が「阿倍・山田道」を利用したのは間違いなく、素直に考えれば、宮南門は「阿倍・山田道」に面して開いていた。言い換えれば、「阿倍・山田道」は小墾田宮の南を通過していた可能性が考えられる。

  では、小墾田宮はどこか?現在では、雷丘東方遺跡がそれであるという説が一般的である。明確な宮の遺構は見つかっていないものの、明日香村教育委員会による調査で「小治田宮」と書かれた墨書土器(ただし、平安時代のもの)が出土したのが、最大の根拠である。この宮は、推古天皇以降も継続的に営まれており、新しくは奈良時代に淳仁天皇が行幸したという記事がある。宮の北限は、雷岡の北裾付近、南限ははっきりしないが先の墨書土器出土地点を宮の一部と考えると、今の「阿倍・山田道」を跨いで広がっていたことは確実である。 このことと周辺の他の遺跡のあり方や地形などから推測すると、裴世清がとおった「阿倍・山田道」は、水落遺跡の北辺を東西に走る里道付近をとおっていたのではないかと、私は考えている。



【8】 「その8 阿倍・山田道(8)」  (08.12.19.発行 Vol.38に掲載)

 裴世清がとおった「阿倍・山田道」は、水落遺跡の北辺を東西に走る里道付近。なぜ、このように思うのか。その根拠を述べておきたい。


参考地図(近江先生作成の参考資料です。)
・・・画像をクリックして原寸表示してください。見やすくなります。

 まず、ひとつはこの里道の南辺に沿って、飛鳥寺の北面大垣が想定されているので、これより南をとおる可能性は、低いと考えられること、また、軽街に向かうという「阿倍・山田道」の路線としての目的から、あまり南へ行きすぎると、目的地に対して迂回的になりすぎることである。逆に、これよりも北に求めようとすると、飛鳥川が大きく蛇行する付近が、渡河地点になってしまい、渡河するには不自然であることがあげられる。つまり、地形や遺跡の状況から考えると、この場所以外に想定すると、何らかの不自然さがつきまとうのである。
 一方、裴世清がとおった「阿倍・山田道」を、7世紀中頃以降の「阿倍・山田道」の北側とする見方もある。しかしその場合、小墾田宮との位置関係が不自然で、また、地盤もより脆弱になると予想されるので、私は賛同できない。

 おそらく、最初の「阿倍・山田道」の路線は、図に示したようなものではなかろうか。奥山~雷間の路線が南へ大きくずれるのは、この区間の地盤が脆弱だったためであると思う。そして、斉明天皇の時代、石神遺跡の整備などが行われるのに伴って、路線の一部を付け変え、今の場所をとおるようにしたのではないかと思う。
 斉明天皇の時代、飛鳥の景観は大きく変わった。このことは、いずれまた述べることにするが、石神遺跡でみつかった「阿倍・山田道」の遺構は、斉明天皇の時代のものと考えるのは、大方の了解は得られるだろう。

山田道関連調査地(近江先生作成の参考資料です。)
・・・画像をクリックして原寸表示してください。見やすくなります。

 なお、私の推定した「阿倍・山田道」の路線上では、奈文研による発掘調査がおこなわれている。しかし、みちの跡は、みつからなかった。このことを、もともと「みち」が無かったからみつからないと考えるか、石神遺跡や水落遺跡の造営に伴い削られてしまったと考えるか。私は、後者のように考えたいのですが、読んでいただいた皆さんは、いかが思いますか?

 これにて、「阿倍・山田道」の項、とりあえず終わります。お付き合い下さり、有り難うございます。

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 近江先生にご寄稿いただきました「飛鳥のみち 飛鳥へのみち 阿倍・山田道編」は、今回を持ちまして一応の区切りとなりました。阿倍・山田道の概要から始まり、ご自説の展開まで、熱のこもった記事をお書きくださいました近江俊秀先生に、この場を借りまして心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 1月末に発行を予定をしています第42号より、近江先生の新連載が始まっています。そちらもお楽しみください。 (真神原 風人)





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