両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


Vol.001(07.12.7.発行)~Vol.043(09.2.6.発行)に連載

最近飛鳥でおもうこと


奈良文化財研究所 飛鳥資料館学芸室長 杉山洋先生

飛鳥資料館公式サイト




 飛鳥資料館に勤務をはじめて、通算で18年近くが過ぎようとしています。
少し長く居すぎたかもしれません。
しかしここ数年のいろいろな出来事は、
10年分以上の変化を館に与えているように思います。
そのなかで思ったことの徒然を書き散らしてみようと思います。


「特別展の仕事」 「聖徳太子」展 2
「壬申の乱」展 「仏舎利埋納」展 1
「古墳を科学する」展 1  「仏舎利埋納」展 2
「古墳を科学する」展 2 10 法隆寺金堂壁画「飛天」展 1
「聖徳太子」展 11 法隆寺金堂壁画「飛天」展 2
「キトラ古墳壁画」の特別公開 12 法隆寺金堂壁画「飛天」展 3



【1】 「特別展の仕事」  (07.12.7.発行 Vol.1に掲載)

 私が資料館に勤めるようになったのは昭和61年からです。そのころはまだ春秋2回の特別展示が仕事の中心でした。私の館での最初の仕事は、この年の秋期特別展示『飛鳥の石造物』にちなんで、前庭に酒船石を設置するための測量作業でした。それまで平城宮跡発掘調査部で発掘調査をしておりましたので、測量などの野外作業は特に大変には感じませんでしたが、石造物という対象自体が私にとって未知の分野で、若干面食らったのは事実です。

 その後、印象に残っている展覧会はやはりなんと言っても『飛鳥の衣食住』展です。 衣装の復元もさることながら、飛鳥の蘇復元、ということで、牛乳を日がな一日ストーブの上で煮詰めたことが思い出です。展覧会の後、商品化され「飛鳥の蘇」として売り出されたので、皆さんもご存じかと思います。 



【2】 「壬申の乱」展  (07.12.21.発行 Vol.3に掲載)

 さて飛鳥資料館に入った年1986年秋が『飛鳥の石造物』展、翌1987年春が『万葉の衣食住』展という、いずれ劣らぬ印象深い展覧会でした。
 87年の秋は『壬申の乱』展でした。これもなかなか一筋縄ではいかない展覧会でした。
 まずポスター撮りです。乱の展示ですから思い浮かぶのは武人の姿です。飛鳥資料館は飛鳥寺の塔心礎から出土した桂甲という鎧を所蔵しており、その複製品もありました。ただ鎧だけではポスターになりません。
 武人が着て馬に乗る写真を撮ることになり、御所市の乗馬クラブ、クレインさんにお願いして、乗馬の先生に桂甲を着て頂き、写真を撮りました。乱の様子はたくさんの人形を使ったジオラマで表現しました。
 時は壬申の年、西暦672年7月6日、大伴吹負や置始菟らの大海人軍が、近江軍に戦いを挑んだ箸墓の戦いをモデルとしました。人形は全部で100体、これは業者さんに作って頂きましたが、それを並べるのは展示の仕事です。ベースの上に草地を表現し、箸墓の周濠を作り人形を並べていきました。
 鉄道模型を作るようなのりで、大変楽しかった思い出が有ります。
 こうして苦労した展覧会は、10月7日に始まり、10月29日には3672人の入場者数を記録しました。この数字は昨年キトラ古墳壁画『白虎』で5月21日に5344人を記録するまで、長らく1日の入場者数としての最高記録でした。



【3】 「古墳を科学する」展 1  (08.2.1.発行 Vol.8に掲載)

 1988年は春の特別展では古墳を取り上げました。『古墳を科学する』展です。古墳を科学する、なんか変な命名でしたが、要するに古墳を色々な科学の力を借りて調べてみようという試みです。
  まず最近とみに有名になったキトラ古墳です。1983年にキトラ古墳の石室にはじめてファイバースコープが入りました。高松塚古墳のように最初から発掘調査をするのではなく、小さな孔から入れたファイバースコープによって中の様子を確かめようとしたのです。画素数も少なくてぼんやりとした映像でしたが、奥壁の玄武が確認され、一躍有名になりました。ただ今から考えるとおとぎ話のようですが、玄武を確認後、ファイバースコープを側壁の方向に向けようと曲げたとたん折れてしまい、調査は玄武の確認だけで終わってしまいました。
  『古墳を科学する』展ではこのときの調査の様子を再現するために、展示室に1/4の大きさの墳丘を作り、ファイバースコープに似せたケーブルとテレビカメラを置き、調査当時の映像をビデオで流しました。ビデオは5分足らずの短いものでしたが、最後に調査担当者の「あーーっ!」という声と共に画面が真っ黒になると言う、なんとも劇的な(?)映像でした。キトラ古墳に関しては、この他にもレーダー探査を行い、石室の外形を確認する調査も行ないました。レーダー装置を引きずって急な墳丘を登り降りした思い出があります。
  実はこの展覧会のメインは高槻市阿武山古墳の展示でした。そこは次回と言うことで。



【4】 「古墳を科学する」展 2  (08.2.15.発行 Vol.10に掲載)

 「古墳を科学する」展のメイン展示は、大阪府高槻市阿武山古墳の復元展示でした。阿武山古墳は高槻市西北の阿武山山中腹にあります。1943年に偶然開口し、中から保存状態の良い夾紵棺(キョウチョカン)が発見され一時有名になりました。当時ここには京都大学の地震研究所があり、その関係から京都大学の考古学研究室が調査を行いましたが、なにぶん戦前のこと、皇族の墓であるとの風説もあったことから、棺ごと埋め戻されて今は見ることができません。
  発見時、状態が良かったからか、棺を島津製作所のX線撮影装置で撮影しており、その写真原板が地震研究所に残されていました。考古学調査にX線写真撮影を導入した最古の事例です。この原板をもとに、朝日放送と東海大学の協力を受けて、副葬品などの棺の中身を復元、展示しました。復元したのは金糸で装飾された冠帽と玉枕です。X線写真には残りの良い人骨を初め多くの副葬品が写っていましたが、被葬者の頭骸骨の周囲に、金糸による模様のような線が見られました。これから冠帽の縁に金糸による花弁状の文様が復元されました。また数多くのガラス玉や針金状の線も見られ、大小のガラス玉を銀線で連ねた玉枕が復元されました。
 このような華麗な副葬品から、藤原鎌足の墓ではないかとの推定も生まれました。ただその後高槻市教育委員会によって周辺部の発掘調査が行われ、時代を推定する遺物も出土したそうですが、藤原鎌足の年代とはかならずしも一致しなかったようです。
  古墳そのものではなく、その調査研究に応用された最新の技術に注目した展示として、当時異彩を放った展示でした。



【5】 「聖徳太子」展  (08.4.4.発行 Vol.16に掲載)

 1988年の秋の特別展は聖徳太子を取りあげました。聖徳太子といえば飛鳥時代の人物で最も知名度が高い方ではないでしょうか。資料館に来る質問の中でも最も多いのが聖徳太子に関する質問です。特に最近は「聖徳太子はいなかった」という論調の説が発表され、より質問の回数が増えたような気がします。
 ただ飛鳥との関係から言えば、橘寺が生地と伝えられる他は、法隆寺のある斑鳩に比べて、故地との印象はそれほど強くないといえるでしょう。そこで飛鳥資料館で聖徳太子を取り上げるにあたって何をポイントにしようかと色々と案が出されました。なかでも聖徳太子は推古天皇の摂政として活躍し、それが飛鳥の豊浦宮でのことであり、天皇親政を推し進めた皇子としての面を取り上げる事になりました。現在、聖徳太子の墓地は大阪府太子町の叡福寺にあり、すぐ近くには敏達天皇、用明天皇、推古天皇らの陵があります。
 そこでこれらの聖徳太子ゆかりの人々の墓を取り上げることにしました。ただこれらの陵は宮内庁指定の陵墓で調査はおろか人が立ち入ることさえ許されません。そこで上空から写真を撮って関係者の縁を表現しようと考えました。それには発掘調査で良く行うヘリコプターによる空中写真撮影が必要です。でも当時の学芸室長はどうも高いところが苦手だったらしく、結局私にその役が廻ってきました。もちろん写真は研究所のカメラマンが撮影しますが、各陵墓を上空から探し出し、的確に撮影するナビゲーターが必要となります。これが私がヘリコプターに乗った最初です。実は私は高いところは大丈夫なのですが、飛行機はあまり得意ではありません。好奇心はありましたが相当に覚悟して乗った記憶があります。
 そんなヘリコプターにもそれ以後何回となく乗り、最近ではカンボジアでヘリコプターをチャーターして、アンコール・ワット上空を飛ぶという経験もしました。今年のキトラ特別公開では、朝日新聞社のご協力によって、「飛鳥空の旅」が計画されています。抽選3組限定となりますが、飛鳥を上空から観察するまたとない機会となります。ぜひご応募ください。



【6】 「キトラ古墳壁画の特別公開中です」  (08.5.16.発行 Vol.21に掲載)

 これまで過去の展示の話を続けてきましたが、ここで閑話休題。

 今現在の飛鳥資料館の様子を少しだけご紹介しましょう。というかキトラ古墳壁画の特別公開のご紹介です。もう既によくご存じかと思いますが、飛鳥の2壁画古墳高松塚古墳とキトラ古墳は、ほぼ同じ時期に対照的な運命をたどることになりました。高松塚古墳は石室解体という荒療治になりましたが、キトラ古墳は壁画を取り外すという処置になり、仮修復を終えた壁画から当館で展示をすることになりました。一昨年白虎を展示し、昨年は玄武を展示しました。今年は獣頭人身十二支像の子・丑・寅を展示しています。保存を考えた2週間だけの限定公開ですが、本物の壁画を間近に見られる機会ですので、ぜひお越しください。

 去年ほどではないですが、やはり休日の日中はかなり混雑してしまいます。今年は3回ある土曜日に午後9時までの夜間開館を行います。夕方から夜にかけては、それほど混雑しませんので、そのころをねらってご来館頂くのも一考かと思います。
【7】 「聖徳太子」展 2  (08.7.4.発行 Vol.25に掲載)

 前回は、キトラ壁画展のご案内をさせて頂きましたので、お話が飛んでしまいましたが、前々回(Vol.16)の聖徳太子展の続きをお話させていただこうと思います。

 聖徳太子展ですからまず聖徳太子のお顔を拝見。皆さんが一番よくご存じなのは、お札になった聖徳太子の肖像画でしょう。ただ昔から聖徳太子を描いたかどうか疑問が唱えられている絵画です。
 もともと、飛鳥資料館では橿原市曽我町の東楽寺に伝わる聖徳太子2歳像をお預かりしていました。聖徳太子像としては、2歳の南無仏太子像、17歳の孝養太子像、35歳の摂政太子像などがあります。この時の展示では、この2歳像の他、17歳の孝養太子像を展示しました。孝養太子像は斑鳩町の成福寺が所蔵し重要文化財に指定される優品で、当時は奈良国立博物館に寄託されていました。大変保存状態のよい美しい太子像で、展示会場でひときわ輝いていたことを記憶しています。

 このときのポスターや図録をごらんになったことあるでしょうか。この聖徳太子17歳孝養像をイメージした写真を使いました。そこで聖徳太子に扮しているのは、後にNHKの朝の連続テレビドラマ「やんちゃくれ」などに出演した女優の高田聖子さんです。当時はまだ大学生だったかもしれません。その後劇団☆新感線での活躍は有名です。

 この当時のポスターにはよく人物が登場しました。その後、抽象的なポスターが多くなり、最近では展示作品をあしらったポスターも多くなりました。飛鳥資料館の地下ロビーではこれら歴代のポスターを展示しています。ポスターデザインの移り変わりと、展示内容の変化に思いをはせていただくのも、また一興かなと思います。



【8】 「仏舎利埋納」展  (08.8.15.発行 Vol.28に掲載)

 飛鳥資料館では特に展覧会の担当はもうけていないのですが、1989年の春に開催した仏舎利埋納展は、私にとって最初の担当展ともいうべき展覧会でした。飛鳥資料館では飛鳥寺の舎利容器を展示しており、それにちなんで日本・韓国・中国の舎利容器を集めた展覧会を企画しました。

 展覧会を企画して多くの出土遺物に触れると、いろいろなことを学びますが、この舎利容器の展示では文化財変転の歴史に思いを馳せることになりました。展示した舎利容器の内、大阪府茨木市太田廃寺出土の舎利容器は、現在東京国立博物館の所蔵になっているのですが、出土した太田廃寺の塔心礎は現地には残っていません。この種の塔心礎は古く庭石として珍重されたようで、法隆寺若草伽藍跡の塔心礎が庭石として一時寺を離れていたのは有名な話です。太田廃寺の塔心礎もある私邸の庭石として保管されていました。展覧会の準備のために許可を得て写真を撮影したのですが、庭石ですから周りは庭木に囲まれ、苔むしており、撮影に大変苦労しました。さらにこうした個人蔵の遺物では、所蔵者の名前を伏せるのが一般的で、後ほどお問い合わせを頂いた地元の教育委員会の方にも、所蔵者の名前をお答えすることができかったのが心残りでした。



【9】 「仏舎利埋納」展 2 (08.10.3.発行 Vol.32に掲載)

 この展覧会でもう一つ心に残ったのが、博物館と真贋判定という、永遠不滅の課題でした。知識としては博物館人としての心構えはできていたはずなんですが、実際にその場に立ち会うことになったのはこの時が初めてでした。

 多くの場合、指摘は同業者である他の博物館の方からもたらされます。この時もそうでした。ある舎利容器に問題があるという指摘でした。展覧会を企画する場合、その対象物、今回の場合では舎利容器ですが、図録等を記述するためにもある程度の勉強はするのですが、研究対象として長らく研究している方の眼力にはかないません。この場合も指摘を受けてからよく観察してみると、いくつか疑念がわいてきました。自館の所蔵品であればすぐ展示から外すのですが、今回はあるところからお願いして出陳していただいたのですから、対応は簡単ではありません。つまりこの記述にしても、はっきりと館名や対象物を紹介することはできません。

 結局、展示はそのまま続け、返却の折にそういう指摘があったことを相手先の学芸員さんにお伝えしたと記憶しています。とにかく初めてのことで対応に苦慮したことだけが記憶に残っています。ただ同じような局面には、その後、何回か遭遇することになりましたが・・・。



【10】 法隆寺金堂壁画「飛天」展 1  (08.11.21.発行 Vol.36に掲載)

 法隆寺の金堂と言えば、昨今展示されて有名となった飛鳥時代の四天王や、止利仏師作と言われる釈迦三尊像などの飛鳥時代仏像群で有名ですが、その周りにあった壁画は中国の敦煌などの壁画と比較される有名なものでした。でした・・と言わざるを得ないことは皆さんもよくご存じだと思います。昭和24年1月26日におこった火災によって焼損してしまったのです。しかしこの壁画群の上、建築で言うところの小壁にある飛天の壁画は、外されていたために火災の難を逃れました。1989年の秋の特別展は、この法隆寺金堂飛天壁画すべてを、ご拝借して展示するという大規模な展示になりました。

 焼損した壁画たちは大宝蔵院の東側の収蔵庫に往時のままに保管されています。当時は小壁もこの収蔵庫に保管されていました。当然、ご拝借の折はそこから運び出さなければなりません。我々も覚悟はしていたのですが、実は二階に置いてあったのです。収蔵庫にはエレベーターはありませんでした。階段を人の手でおろすことになりました。とは言っても建築の壁です。厚さ20cmを超す土の塊、重さにして数百キロはあるでしょう。傷つけないように運び出さなければなりません。展示に当たって美術品を運ぶ場合、大小軽重様々なものを扱うことになります。運搬に当たった日本通運美術品輸送の係の人たちは、様々な経験を積んだ”歴戦の勇者”ですから、何事もなく無事に運搬が行われたのはもちろんですが、それはそれは大変な作業でした。



【11】 法隆寺金堂壁画「飛天」展 2  (09.1.4.発行 Vol.40に掲載)

 この展覧会はいろいろな意味で飛鳥資料館にとって特別な展覧会となりました。
 このころ普段の特別展は、通常の常設展の一部をその都度改装して使用していましたが、小壁を全部並べるには、これまでの展示スペースでは足りなかったのです。

 そこで思い切って第一展示室全部を使用することにしました。と言っても通常の常設展示が行われているのですから、改装は楽ではありません。
第一展示室のケースをすべて壁際と高松塚の展示コーナーに移動し、第一展示室の中に一回り小さな展示スペースを確保しました。

 次は実際の展示です。

 小壁と言っても縦約1.4m、横約0.7mで、重さは正確ではありませんが、200~300kgあったと思います。まずこの重さに耐えられる展示台と言うことで、鉄骨を組んだ展示台を特注し、構造計算もしてもらいました。
 さらにこの展示台の上に小壁を立てて展示するために、コンクリートの支えも作りました。さていざ展示ですが、300kgの展示品は簡単には所定の位置に納まってくれません。日本通運美術品輸送の方々と、揺れる展示台の上での悪戦苦闘が続き、やっとの思いで展示した記憶があります。

 しかしこの苦労は見事に報われ、10万人近くの来館者で、大変なにぎわいとなりました。



【12】 法隆寺金堂壁画「飛天」展 3  (09.2.6.発行 Vol.43に掲載)

 こうして苦労した飛天の展覧会は、会期中95,406人の方にごらん頂き飛鳥資料館の1展覧会での最大動員数を記録しました。

 私事ですが、飛鳥の石造物に始まる私の飛鳥資料館生活は、この飛天で一旦中断します。1989年4月の異動で、平城宮跡発掘調査部へ異動しました。しかし、学芸としての仕事は終わることがありませんでした。異動した平城宮跡発掘調査部では、長屋王展の準備が始まっていたのです。

 1986年、奈良そごう百貨店の進出予定地の発掘調査が始まり、長屋王王邸の存在を示す木簡の発見を始め、大きな成果をあげ、世間の注目を集めました。この調査から5年目の1990年に、奈良そごう百貨店で長屋王王邸の発掘を記念する展覧会を開催することになったのです。研究所をはじめ、奈良そごう百貨店、日本経済新聞社など多くの共催・協力の団体が加わり、奈良そごう百貨店に併設された奈良そごう美術館を皮切りに、広島県福山市広島歴史博物館、横浜そごう美術館の3館を巡る巡回展として計画されました。

 博物館の仕事としては自館の展示を手がけるのはもちろんのこと、こうした他館と共同で開催する展覧会の仕事も、時として担当することがあります。こうした巡回展は、規模の小さな飛鳥資料館では考えられませんでしたので、この折の長屋王展は、私にとって初めての経験でした。しかしこの後、巡回展ではありませんが、今やっているキトラ古墳の特別公開では、朝日新聞はじめ、多くの関係者と一つの展覧会を作り上げていく仕事に関わることになり、この時の経験が非常に貴重なものとなりました。

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 長らくお楽しみいただきました杉山先生の「最近飛鳥でおもうこと」は、今回を持ちまして休止となります。飛鳥資料館の特別展などが身近に感じられる連載でしたので、楽しみにしてくださっている読者の皆さんも多かったと思います。とても残念ですが、再開を約束していただいておりますので、楽しみにお待ちください。

 杉山先生、お忙しい中での連載、ありがとうございました。心よりの感謝を申し上げます。そして、再開を待ち望んでおります。      (真神原 風人)





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