飛高百新
アジク さん
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【1】 「飛高百新」 (10.1.22.発行 Vol.72に掲載)
「飛高百新」 いったいなんと読めばいいでしょうか?
「ひこうしゃくしん」、「ひだかももしん」、「ピゴペクシン」・・・
実は自分自身でも何にも考えてないんです。ひょっとして次回からは漢字の順番も入れ替わってしまうかもしれませんし。
で、どんな意味か?
古代史好きの皆さんはすぐにピンときているはずですよね。 そう、飛鳥・高句麗・百済・新羅の頭文字を組み合わせただけなんです。 「伽耶が抜けてる」って?
伽耶を加えると「お伽ばなし」になってしまうんですよね。私は作家やないので、古代歴史小説を書く技量は、もちろんあるわけ 無い!
何を書くのかとゆうと、韓国の考古学情報を紹介しようと思っているのです。
実は今、韓国でも歴史が熱いんです。(これまでになく。そして私の主観ですけど・・)
少し難しい話しですが、私が大学院生の頃、今から15年ほど前に韓国で初めての財団の発掘調査機関が設立されました。 それが現在はなんと48機関!! もはや乱立しているといってもいいような状態になってしまいましたが、そのおかげでこれまで発掘調査もされずに破壊され、消え去っていた遺跡を多く調査できるようになり、中には保存されたものも増えてきています。
調査機関の増加に比例して、発掘件数も大幅に増加、韓国全体の発掘調査件数も2000年から3倍以上になっています。
そして調査が増えると、新聞紙上に発掘成果が掲載されることもかなり増えました。韓国の聯合ニュースに出た考古学のニュース先月12月はなんと18件もありました。こんなこと今までの韓国ではありません。今年に入ってからもすでに5件、今日も韓国西南部の中心都市である光州の遺跡から韓国最古の鋤が発見されたというニュースが入ってきました。
韓国で、最近こんなに考古学の話題が一般の関心を呼ぶきっかけになったのは、百済の最後の都が置かれた扶余という町の寺跡の発掘調査で、金銀銅の舎利容器が発見されたことだったと私は思っています。この舎利容器については、昨年のNHK教育の番組「日本と朝鮮半島2000年」でご覧になった方も多いと思います。実は、この舎利容器には銘文があって王興寺という寺の創建年代が明らかとなり、日本の飛鳥寺との関係が俄然注目されるようになりました。
てなわけで、単なる韓国の文化財情報でなく、飛鳥地域や飛鳥時代にからめて、これから少しずつ紹介していきたいなと思っています。
題名にあやかって、目指せ連載100回!!!
【2】 「百済で相次ぐ舎利荘厳具の出土」 (10.3.19.発行 Vol.76に掲載)
第1回目に、韓国で考古学の報道が格段に増え、国民の関心が高まっていることを紹介しましたが、その発端のひとつが百済地域の寺院跡の調査で相次いでいる石塔や塔跡の調査と、そこからの舎利荘厳具の発見です。今回はその成果について紹介したいと思います。
舎利荘厳具とは、ごくごく簡単に言うと、お釈迦さまの遺骨である仏舎利を納めた容器や舎利に対してお供えされた様々な装飾品などのことで、おもに寺院の中心である塔の心礎に納められていました。
では、近年舎利荘厳具が出土した陵山里廃寺、王興寺址、弥勒寺址の成果を順に紹介しましょう。
まず、最初に発見されたのは、百済最後の都が置かれた忠清南道扶余邑の陵山里廃寺の塔跡でした。陵山里廃寺は、この都城の城壁のすぐ外側で百済の王陵である陵山里古墳群との間の谷で1990年代後半の発掘調査で発見された寺跡です。金銅製の大香炉が出土したことが日本のニュースでも取り上げられるなど大反響を呼びました。この時の調査で塔跡から石製舎利函が出土しました。舎利函には「百済昌王十三季太歳在 丁亥妹兄公主供養舎利」の文字が刻まれていました。昌王とは威徳王餘昌のことで西暦566年にあたります。
王興寺址は扶余の町から錦江という大河を挟んで北側の対岸にあります。2007年の発掘調査で、ここの塔址の心礎から青銅製、銀製、金製の舎利容器が入れ子状になった状態で出土しました。一番外側にあたる青銅製舎利函の表面には「丁酉年二月十五日 百済昌王為亡王子立刹 本舎利二枚葬時神化為三」との銘文が刻まれていて、陵山里廃寺と同じ、威徳王がその治世の24年(577年)に寺院を建立したことが記されていました。
弥勒寺址は扶余からは南に33キロほど離れた全羅北道益山にあります。ここは百済の副都が置かれた地と考えられていて、王宮の遺跡や王陵などが発見されています。弥勒寺も百済によって創建された寺院で、百済の中でも屈指の規模の伽藍を誇っています。現在は大伽藍のうち西石塔が唯一現存しているのみですが、近年おこなわれている西石塔の解体修理に伴って、2009年に金製の舎利壺をはじめとする豪華な舎利荘厳具が発見されました。その中には舎利の由来について記した金製舎利奉安記があり、金製の板の表裏両面に百済金石文最多の193文字が刻まれていました。文中には「己亥年」の年紀があり、武王40年(639年)に舎利を奉ったことが明らかになりました。
ちなみに、武王はドラマ「ソドンヨ」の主人公といった方が馴染みがあるでしょうか? 威徳王は暗殺されたそのお父さんです。
以上、3つの例を紹介しましたが、共通しているのは、すべて舎利の由来と、奉納した年紀を記しているということです。またこのうち2つは埋納した人物の名まで記しており、これによってその寺院がいつ、誰によって、何のために建立されたかが明らかにできるのです。それは、亡くなった姫のためだったり、王子のためだったり。護国とかご利益のためではなく、亡き人の冥福をただただ願い祈る王の姿が目に浮かびます。
さて、日本の飛鳥時代の塔からも舎利荘厳具は発見されています。おもなものとしては、飛鳥寺塔跡をはじめ、香芝市の尼寺廃寺塔跡、滋賀県大津市の崇福寺跡塔跡、斑鳩町の法隆寺五重塔などの例があります。
いずれのものも非常に精緻な作りであり、様々な埋納品を伴っていますが、舎利を納置した年や発願者の名を記したものはまったくありません。
舎利とともに奉納されたガラスや金銀、水晶の玉、勾玉、耳環、金の延べ板など、飛鳥寺と共通するものが多数あったり、王興寺は伽藍配置についても飛鳥寺との共通性が指摘されたりしており、飛鳥と飛鳥へ仏教を公伝した百済の共通性や影響ばかりが注目されているのですが、でも、わたしは飛鳥と百済の両者の間には何か決定的な違いがあるような気がしてならないのです。
まだ、ぜんぜん答えは見つかりそうにありませんけど・・・・つづきは、いつかまた
(注:参考イラスト地図は、事務局が作成しました。)
【3】 「大唐皇帝陵展」 (10.5.14.発行 Vol.80に掲載)
キトラ古墳の四神の実物公開まであとわずかとなりました。今年も大勢の人が列をなして四神と対面するんでしょうね。
今回は飛高百新を飛び越えて中国の話から始めたいと思います。
今、橿原考古学研究所附属博物館で開催中の「大唐皇帝陵展」では、巨大な青龍と白虎の壁画の模写を展示しています。その大きさはなんと体長およそ6m!!キトラや高松塚のものが30!)くらいだったと思いますから、その差は天と地ほどの差といえるかもしれません。実物ではなく模写を展示している理由が、大き過ぎて飛行機に乗らないからって言うんですから、そのスケールの大きさは日本とは比べものになりません。
さて、このような壁画が描かれた墓にはいったいどのような人物が葬られていたんでしょうか?
この青龍と白虎の壁画は恵陵という墳墓から発見されました。被葬者は李憲という人物。楊貴妃などで知られるあの玄宗皇帝のお兄さんにあたる人なんです。元々はこのお兄さんが皇太子で、いずれ皇帝になるはずの立場だったのですが、数々の活躍をしていた異母弟の李隆基に皇太子の座を譲ったんですね。それで玄宗皇帝が誕生し、「開元の治」と称賛される大唐帝国の絶頂期を迎えることができたんです。李憲はその後長生きされて、741年に亡くなりますが、死後に玄宗皇帝が「譲皇帝」と諡名して、皇帝として弔うことになりました。本来、皇帝には即位していないので、「李憲墓」と称されたはずですが、皇帝の号を諡されたので、皇帝のお墓にしか付けられない「陵」を称しています。ですから、恵陵の墓室はすでに作られていたようなので親王クラスの型式と大きさになったようですが、陵園全体の規模や墳丘の南側に立て並べられた獅子や人、馬などの石刻、そして副葬品は皇帝に準ずるものに変更されて造営されたようです。
話がやや逸れましたが、つまり、恵陵の青龍と白虎の壁画は皇帝陵クラスの規模ということになります。この壁画は恵陵の墓道の入口の部分に描かれていました。墓室から見て左側の東壁に青龍、右側の西壁に白虎です。では、四神の残りのふたつはどこに描かれていたんでしょうか?それとも描かれていなかったんでしょうか?
展覧会では展示されていませんが、朱雀も玄武もちゃんと描かれていたようです。その場所は李憲が葬られた墓室の壁、墓室の南壁に朱雀が、墓室の奥壁である北壁に玄武がそれぞれ描かれていました。先にも述べたように、墓室は親王クラスでしたので、青龍や白虎のような大きさのものではありませんが、それでも朱雀の翼を広げた幅は1mくらいあるようですから、キトラと比べると(あまり比べてばかりいたら、キトラファンに嫌われるかもしれませんが・・・)かなり大きいですね。
「大唐皇帝陵展」では、この壁画模写だけでなくて、実は壁画の実物も2点展示しています。ひとつは中国考古学史上唯一、発掘調査された皇帝陵、第21代僖宗の靖陵の「武人図」。この御陵の調査のきっかけが盗掘なんですが、そのやり方がダイナマイトでドッカン!ですから、中国はホンマに何もかもがスケールのでかいことで・・・
もうひとつは、別のお墓から発見されたものですが、「馬球図」というものです。英国でいう「ポロ」をしている絵なんですが、唐の壁画墓やほかの絵画がものすごく「静」なイメージのものばかりな中で、馬に騎乗した二人の人物がひとつの球を今まさに打ち合おうとしている躍動感あふれる絵なんです。わたしの今回一番のお気に入りです。
と、まぁ今回は宣伝ばかりしてますが、展覧会のタイトルだけでは取っ付きにくいかも知れませんが、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画だけでなく、いろんな飛鳥時代の文物と比べてみて面白いものもたくさんあります。
この初夏、キトラの四神に会いにきたついでに寄ってみてはいかがでしょうか。
いや、寄ってみてください。
次回は、朝鮮半島に戻って、新羅の話でもしてみようと思います。では、
今回はこれにて
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「大唐皇帝陵展」 橿原考古学研究所附属博物館 2010年春季特別展
(会期 2010年4月24日~2010年6月20日)
「キトラ古墳壁画四神」
(会期 4月16日~6月13日)
・四神特別公開 5月14日~6月13日
【4】 「新羅でも!」 (10.7.23.発行 Vol.80に掲載)
前回に「次は新羅ネタで」って書きましたので、今回は新羅の最新の発掘情報をご紹介しようと思います。
最新といっても、もう2か月近く前になってしまうのですが、韓国の聯合ニュースで非常に重要な発見が記事になっていました。
「新羅も瓦を積んで建物基壇を造った」韓国聯合ニュース 2010年5月26日の記事
えっ、新羅で?! それが正直な最初の反応です。
さて、どうゆうことかといいますと、韓国の慶州にある伝仁容寺址で瓦積みの建物基壇が発見されたという記事なのです。
伝仁容寺址は新羅の宮城が置かれた「月城」の川をはさんで南側にある寺院の遺跡で、これまで日本で言うところの「薬師寺式」の伽藍配置が確認されたりしています。今回話題になっている瓦積基壇をもった建物跡は、3間×1間(12.6×6.7m)という小規模なものでした。
瓦積基壇といいますと、寺院の建物の基壇の外装を石ではなく瓦を積んでいるというもので、近江や南山城を中心に古代寺院の跡から多数発見されています。飛鳥では檜隈寺跡で確認されています。ほかに有名なところでは、木津川市の高麗寺跡などがあります。
ちなみに、Googleで「瓦積基壇」を検索すると、トップに「○○し ひとひら」がヒットします。O先生の寄稿につづき2回連続の登場、さすがですっ!!
で、なぜ驚いているかとゆうと、日本で発見されてきた瓦積基壇は、これまですべて百済の影響が指摘されているのです。実際、これまで韓国でも百済地域、しかも百済最後の都の時期であるシヒ期(538~660年)でしか見られないとされてきたからなのです。
今回、新羅、それも新羅の都である慶州のど真ん中で初めて瓦積基壇が発見された、ということになります。
さて、仁容寺は新羅文武王の弟である金仁問のために、その死後に建立されたと伝えられています。これまでの発掘調査の成果からは8世紀中頃に創建されたと考えるのが一般的でした。しかし、今回確認された瓦積基壇の建物跡については、基壇盛土の内部から出土した単弁蓮華文軒丸瓦の型式から7世紀初め頃に推定されると、記事には調査を担当した国立慶州文化財研究所のコメントが掲載されています。
これは大変なことかもしれません。(記事を見た時の、次のアジクの反応は「えっらいこっちゃ!」です。)日本で最初の本格的な寺院である飛鳥寺は、伽藍の全てであるかはともかく、596年に完成したと『日本書記』には記録がありますが、檜隈寺跡をはじめ飛鳥の多くの寺院が建立されるのは7世紀に入ってからであることは、皆さんもよくご存じのことと思います。今回の発見された瓦積基壇の7世紀初め頃という年代が妥当なものであるならば、今後日本の初期仏教史を大きく見直す必要があるのかもしれません。
では、今回はこのへんで。
【5】 「穴のかたち」 (10.12.10.発行 Vol.95に掲載)
ご無沙汰しております。随分長いこと休ませてもろてましたんで、もはや過去の人になってしもてたかもしれませんが、少し落ち着きましたので、細々と復活いたします。
さて、その間の近況報告。
先月、1年半ぶりに韓国へ行ってきました。もちろん仕事、自由時間なし、ほぼホテル内、ほぼホテル食・・・
でも、まぁ充実はしておりました。
では、本題に戻って、最近の韓国の文化財情報をひとつ紹介します。 「慶州 四天王寺金堂 後代の拡張施設確認」2010年11月24日、聯合ニュース
慶州四天王寺は、大阪の四天王寺とは違って、金堂の前に東西の塔が並び立ついわゆる双塔伽藍の寺院で、感恩寺とともに薬師寺の伽藍配置のモデルであったことが知られています。
文武王19年(679)に護国寺院として創建されましたが、今回のニュースは、その金堂の規模が創建当初よりも後代に東西で計2m、南北で計3m拡張されていたことが判明したというものです。
ニュースでは、これ以上の詳しい情報はありません。ので、ここからはアジクの情報で補足しておきたいと思います。実は、唯一外出できた時に四天王寺の発掘現場をのぞいて来たんです。
金堂の基壇も見てきたのですが、基壇の土層断面を見るかぎりは、拡張の様子ははっきりとは確認できませんでした。でも、基壇の外装をしている石に違和感があり、よく見てみると面白いものを発見しました。
それは、「矢穴」です。矢穴とは、石材を割り出す時に楔(矢)を打った痕跡のことで、日本で確認された最古の例は大和郡山市の額安寺にある宝篋印塔で1260年ですが、韓半島では、それをはるかに遡る三国時代のものが確認されています。
統一新羅時代になると矢穴の実例もかなり増えて、感恩寺などでも確認できます。四天王寺の塔跡の礎石にもあることを、私が確認しています。
で、その矢穴の形に特徴があるのです。統一新羅初期の矢穴はほぼ正三角形をしています。感恩寺のものも、四天王寺の塔礎石も正三角形です。
しかし、金堂基壇の一番外側の最下部に据えられた石(日本では地覆石にあたるのか)にあった矢穴の形は、丸みの強い台形をしていました。これは、明らかに時代が異なることを示していますが、今回のニュースでは具体的な年代については触れられていません。私個人は、高麗時代のものだろうと考えています。
さて、統一新羅にはたくさんの矢穴が確認されているのに、古代の日本には本当に矢で石材を割る技術は伝わってこなかったのでしょうか?
酒船石遺跡の砂岩の切石、高松塚古墳やキトラ古墳の石槨、そして寺院や宮殿の礎石や基壇石材、きれいに加工された飛鳥の石たちの裏側で、人知れず矢穴がまだ眠っているのかもしれません。
では、今回はこのへんで
【6】 「地震のはなし」 (11.3.4.発行 Vol.102に掲載)
先日、ニュージーランドで直下型の地震が発生し、日本人を含む多くの方々がまだ行方不明とのことで、非常に心配しております。
さて、日本やニュージーランドは地震国ですが、韓国では地震は滅多に起こりません。体に感じることができる規模の地震は、最近では2005年3月と2007年1月と2010年2月の3回しかありません。2007年 1月に東海岸地域の江原道江陵付近で発生した地震の時には、わたしも韓国にいたのですが、大田市では揺れを感じませんでした。ニュースでも震源地の被害情報よりも、ソウル市民のまるでお祭りでもあったかのように笑顔で揺れについて身振り手振りでインタビューに応えている様子が延々と流れており、韓国の人たちは地震の怖さを知らないんだなと実感したものです。
そんな韓国で地震が頻発した時代がありました。それは8世紀、統一新羅の時代でした。韓国の歴史書『三国史記』には地震の記録が書かれているのですが、ほかの世紀には数件程度であるのがほとんどなのに、8世紀だけは17件、それも聖徳王という王様の36年の治世の間には9件もあるのです。
実は、このころ新羅の都城にも変化が起こります。都城の北西部に新たな都城、新市街地が造営されたようなのです。同時代には洪水や火災もあったことから、災害復旧の一環としておこなわれたようなのですが、もとの、市街地の区画どおり復興せずに、道路の方向も区画の規模も変えて新たに造営したというのは、地震という当事の韓国の人たちにとって一生に一度経験するかしないかという天変地異、地震が何度も起こったことに対する、新羅王室の気運一新の目的もあったのかなと、想像しています。
では、今回はこのへんで。
【7】 「史跡の保存と活用」 (11.4.29.発行 Vol.106に掲載)
今回は、固いタイトルになってしまいました。そのきっかけは、以下のふたつの記事です。
「大田鶏足山城城郭復元 -今年末、昔の面影回復-」聯合ニュース2011年4月17日
「大田 “山城都市”ブランド化推進」聯合ニュース2011年4月20日
大田広域市はソウルから高速道路で2時間ほど南下した韓国中西部にある都市です。ここからさらに1時間ほど南西に進むと百済の古都、公州があります。韓国の首都機能の一部が移転している大都市で、私も韓国に住んでいた時、拠点としていました。
この大田には記事にも書かれているように40カ所以上の山城跡があります。この一帯は三国時代の終わり頃、百済・新羅・高句麗が激しい攻防を繰り広げた舞台でもありました。そのため、新羅が築いた城や、百済が築いた城がたくさんあるのです。
さて、韓国では古代の山城跡を地域のシンボルとして調査し、整備をはかる事例が多くあります。しかし、その実態は復元という名の新築・・・崩れてしまった城壁は、わずかに残っている部分や内部の石積みや遺構などお構いなしで、真新しいピッカピカの城壁を新たに作ってしまうことが非常に多いのです。ひどい話では、土築城壁の山城に石垣を築いてしまったという話を聞いたことがあります。
新聞記事に出てくる鶏足山城は新羅による、宝文山城は百済による築城で、オリジナルを残してこそ、その歴史的価値や意義が保てるのに、なんの歴史的価値もない新しい城壁を作って、公園にして、観光地にして、なんてことをまたやっちゃうようです。その名も直訳すると「文化財活き活き事業」、「山城ムラ活き活き体験と鶏足山城への招待プログラム」だそうで・・・失礼ですが、少し笑っちゃいました。
さて、わが明日香でも2期目に入った知事さんによって「明日香における歴史展示の実施計画」なるものが進められることになります。今はのどかな田園風景を眺めながら、ここが「日本国」の最初の首都だった時代に思いを馳せて、その光景を思い思いに夢想するのは、一部のもの好きの自己満足としか思ってないようです。
作りものがないと人には伝わらなくて、人は集まってこないそうです。
今まで飛鳥に集っていた方々が離れても、それを補ってあまりあるほどの人が飛鳥にやってくるのでしょうか?
みなさんはどう考えられますか?
それにしても、唐突に話は戻りますが、大田の山城の史跡整備事業、国がその7割も負担してくれるんですね。その額も70億ウォン!!ちょっと、羨ましかったりもして
今回は、このへんで。
【8】 「阿志岐山城跡」 (11.6.10.発行 Vol.109に掲載)
今回は、日本の新聞記事を紹介してみましょう。5月20日の文化財審議会が新しい国指定史跡に答申したものに福岡県筑紫野市の阿志岐山城跡がありました。
阿志岐山城跡(あしきさんじょうあと)は、未知の遺跡でした。発見されてから、まだ12年しかたっていない古代山城なんですよ。しかも発見者は研究者や行政の者ではなく、一般人!!ほぼ同じ頃に同じ福岡県内で唐原山城跡が発見され、日本にある古代山城は23カ所になりました。
しかし、これらの古代山城の多くは『日本書紀』や『続日本紀』などの文献に記録が残っていないんです。だから、築造された当時の名前はわからない。阿志岐山城跡も史跡指定に向けた活動が本格的になるまでは山城がある山の名前をとって、宮地岳古代山城などと呼ばれておりました。最終的には、飛鳥時代の周辺の地名が阿志岐(蘆城)だったことから、この名前になったようです。
逆に文献に名前が載っている山城は、全部で12個あるんですが、その所在が判明しているのは、ほぼ半分の7カ所だけ・・
飛鳥の防衛を考えたとき、最後の砦となる高安城も場所こそ奈良と大阪の境、高安山と信貴山にまたがって存在したことだけは確実ですが、実はその実態はぜんぜんわかっていないんです。
高安城も「高安城を探る会」という一般の方々の団体が、礎石建物跡を発見してその存在が実証されたのですが、残念ながら発掘の結果、建物自体は奈良時代のものであることが判明し、高安城の築城当時の確実な遺構は未知のまま・・・
アジクも個人的にほそぼそと探索をつづけていますが、誰か高安城を見つけてくれませんか!?
では、今回はこのへんで
阿志岐山城跡:史跡等の指定等について(文化庁 報道発表資料)
【9】 「古代日本と東アジアの関わり」 (11.8.19.発行 Vol.114に掲載)
古代の日本は、古代朝鮮三国や中国の帝国とさまざまな形で交流し、飛鳥時代に古代国家「日本国」を成立させました。交流の有り様とはどのようなものだったのでしょうか?
最近は6社の検定教科書があるのですが、少し前まで韓国の歴史教科書は国定でした。つまり国が編纂した1種類しかない。そこには古代日本との関わりをどのように記述していたのでしょうか。
1995年に刊行された『国定韓国高等学校歴史教科書』の第2章・古代社会の発展には、「古代文化の日本伝播」という節があります。その冒頭は、「新しい文物を携えて日本に渡ったわが国の人びとは土着の日本人を教化した。」
と、始まります。さらに、節の最後は、「このように三国時代のわが国の流移民は日本列島に渡り、先進技術や文化を伝え、大和政権の誕生と古代飛鳥文化の基礎を築いた。」
と、結んでいます。
検定教科書を私は読んでいないのですが、韓国の反日教育は以前よりも活発なようですから、どの教科書もニュアンスはきっと同じだろうと思います。
さて、皆さんは上の文章を読んでみて、どのように感じられるでしょうか?
なにか一方通行的なように私は感じていますが、実際にそうだったのでしょうか?
古代東アジアの交流は中国を中心としていたことは言うまでもありませんが、その形は冊封という外交上の君臣関係や、対等外交、同盟、小中華思想などさまざまであったはずです。そして、それは一方通行ではなく、相互の交流であったことは間違いありません。
韓国では、来年から高校の歴史が「韓国史」・「世界史」・「東アジア史」からの選択制となるそうです。日本との関わりは「東アジア史」の中で詳しく取り上げられることになるでしょうが、はたしてどのような内容になり、教師はどのように教え、子供たちはどのように受けとめるのでしょうか?
なんてことを思いながら、秋の定例会では古代日本と東アジアとの関わりをみてみようかなぁと考えています。
【10】 「定例会ですね」 (11.10.28.発行 Vol.118に掲載)
今回は、関空にてバスを待ちながら書いています。ほぼ1年前にも同じようなことをしてますね。その時は出国の飛行機待ちでしたが、今回は帰国してきました。
最近は1年に1回しか韓国に行けてませんが、今年も何とか韓国に行ってくることができました。職場のリフレッシュ休暇という制度を利用して、韓国を堪能?!してきました。本来、仕事のはずなんですけどね。
で、今回は韓半島東海岸の江原道江陵市というところにある崛山寺跡という古代寺院跡をどのように地域活性に結び付けられるかということがテーマで行われた学際大会でした。ただ、整備手法などの議論はほとんど無く、発表者が基本的に歴史系、美術系の学者先生ばかりだったので、そんな話に終始しましたね。
ところで、テーマだった崛山寺は統一新羅時代の後期に建立された禅宗の寺院です。今、地上には幢竿支柱という幡を支えた石の柱などが残っているだけです。昨年から国立中原文化財研究所が史跡整備を目的に試掘調査を開始、中心伽藍ではないようですが、高麗時代の建物跡などが確認されはじめています。
まっ、まだ試掘調査が始まったばかりで、伽藍配置もまったく判明していないので、今後の調査の進展と史跡の活用による地域力アップに期待しましょう。
今回の模様は地元新聞も地元テレビにもばっちり映っているはずなんですけど、ネットで見れますかねぇ。
参考:
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/10/18/0903000000AKR20111018082300062.HTML
さて、定例会が近付いてきました。どのようにお話しすれば、皆さんに飛鳥時代の東アジア情勢を楽しく聞いていただけるかと悩み中ですが、親しみやすさを追求しすぎて脱線し過ぎないように注意をせなあきませんね。でも、興味をもっていただくきっかけは韓流歴史ドラマやと思いますので、予習できる方は少しご覧になっていただくのも良いかもしれません。わたしも全部は見てませんが、時代的には「淵蓋蘇文」や「大祚栄」、「善徳女王」などがちょうど合うと思います。
私はもう少し頭を悩ませることに致します。(笑)
ほな、今回はこのへんで
【11】 「真面目に発掘情報」 (11.12.23.発行 Vol.122に掲載)
韓国で大きな発掘成果が相次いでいます。最近は、こむつかしいネタとか、定例会予告ばかりでしたので、今回は純粋に最近の韓国発掘情報をお届けします。
一つ目は、こちら! http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/10/12/0906000000AKR20111012231500005.HTML
忠清南道公州市にある公山城の城内から札甲が出土したというものです。何がすごいか?
それは、その札甲に文字が記されていたこと。なんと、「貞観十九年四月廿一日」などが記されていました。銘文の全体はまだ判明していませんが、貞観十九年とは西暦645年のことです。
さて、公州とは475~538年の間の百済の都城である熊津だった所で、公山城はその王宮が置かれたと推定されている山城です。錦江に面した谷部での発掘調査で出土したそうです。
645年は、日本では皆さんよくご存じの乙巳の変があった年。百済では最後の王となってしまう義慈王の治世、滅亡まであと15年と迫っていました。「貞観」は唐の年号で、出土した札甲は「明光鎧」という唐様式のものとされています。
なんか、こないだの定例会の続きみたいな話になってきちゃいましたが(実は、定例会でも紹介しようと思いつつ、忘れてました・・・)、まさに百済末期の歴史を物語る遺物になりそうです。正確な意義は、今後の調査成果と研究を待つしかありませんが、とても楽しみです。
ちなみに、続報はこちら
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/10/13/0906000000AKR20111013161300005.HTML
さらに下層から馬甲まで出土したようで・・
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/11/01/0906000000AKR20111101096551005.HTML
おそらく、今年の韓国考古学最大の発見になるでしょう。
いつもどおり韓国語のサイトですが、写真がたくさんありますから、ぜひリンク先をのぞいてみてください。
つづいては、古墳ネタです。
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/11/22/0906000000AKR20111122070100005.HTML
これは、全羅南道霊岩郡のチャラボン古墳の20年ぶりの再発掘調査を伝えるものです。
チャラボン古墳は、現在韓国で13基確認されている前方後円墳のひとつです。残存している墳丘を見た時には前方部がかなり削平されてしまっていたので、かなり変な前方後円墳とおもっていましたが、公開された写真を見ると、まぁそれでも前方部は小さいですが、ちゃんと前方後円墳の形をしていますね。周濠からは埴輪も出土しています。
これらの古墳が分布している全羅南道は、こないだの定例会の資料など一般的な歴史地図では、百済の領域として描かれていますが、古墳が築かれた時期に百済の影響下にあったのは間違いないですが、百済の直接支配がこの地に及んでいたかは、疑問視する声も多く、韓国でも活発に議論されているネタのひとつです。
なお、続報はこちらです。
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/12/14/0906000000AKR20111214089900054.HTML
笠形木製品らしきものも出土しています。柱に串刺しにされた二つの物体のうち、下のものは日本の笠形とほぼ変わらない形態ですが、上の立ち飾りの部分が省略しすぎというか・・ただの塊ですね。他の前方後円墳からは石見形の木製品も出土していて、ますます倭人の臭いがしております。
北では将軍様が亡くなられ、現代の東アジア情勢もどのようになるのか不安もありますが、来年もこんな感じで韓国情報をお届けできればと思います。
ほな、今回はこのへんで。良いお年を!!
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