両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪




今回はセン仏のお話など



中東洋行先生
吉野歴史資料館 学芸員






【1】                            (15.5.15.発行 Vol.215に掲載)

 先日、思い立って東京まで行って来たんです。私みたいに田舎に住んでいますと、まず建物に驚きますね。高層ビルやら、東京スカイツリーやら、「ハァー、すごいなぁ」と。で、次に驚くのは人の多さ。「めっちゃ人多いやん」「外国の人もすごい来てはるねんなぁ」なんて具合に。やっぱり都会という場所は、いろんなモノや人が各地から集まっていますね。で、最先端のモノなんてのもあちこちに転がっていて、感動のメーターがすぐに振りきれてしまう。そして、その帰るときには疲れのメーターが振りきれてしまっていますね。

 多分、古代の飛鳥も同じだったんだと思うんです。それまでになかったような建物 ――白い壁、瓦ののった屋根、赤い柱、3階や5階建の高層建物、部分的に金色のものがついていたりする―― が林立していて、訳のわからない言葉 ――古代の中国語や韓国語―― をしゃべる変な姿の人たちがウロウロしている。役人や貴族ではない一般の人々や、地方から来た人にとっては、カルチャーショックの連続となる場所だったのではないかと夢想します。

 そんな、古代の飛鳥にあった“最先端のモノ(※今からおよそ1400年前の)”の一つが、セン仏です。今、飛鳥資料館でされている展示、“はじまりの御仏たち”で展示されているものですね。・・・ここだけのお話なんですけど、こう見えて私、セン仏の研究家なんてフリをしているときがあるんです、実は。・・・内緒ですよ?まぁ、そんな者ですから、少しそれっぽいお話など、させてもらおうと思います。

 セン仏というのは歴史的な言葉ではなくて造語です。セン(瓦の一種で、レンガやタイルのようなもの。漢字で書くと土へんに専。)の表面に仏さまが表現されているものです。結構安直なネーミングですよね。まぁ、簡単にいえば、仏さまが描かれたレリーフのことです。

 今レリーフと言いましたけれど、実際には何に使われたものかよくわからないんですよね。だって、おんなじようなものが今残っていないんですもの。ただ、古代の文献やら、セン仏に残る痕跡なんかを探ると、どうやらお寺の壁とかに貼られたり(なかには壁一面に貼られていた場所もあるかも!)、あるいは念持仏としてお祀りされたりしていたようです。もちろん、素焼きのままではなくて、金ピカにメッキされたり、極彩色に塗られたりした状態で、ですよ。

 想像してみてください。お寺の中というのは、基本的にあんまり光が入らないものですから、基本的に暗いところが多いんですよね。その暗いお堂の中で、チロチロとゆれるロウソクの灯火。その灯火に照らし出された壁をよ~く見てみると、何やらデコボコして金色に光り輝いています。おそるおそる近づいてみるとそこには、仏さまの顔が一面にズラリ!・・・なんとなく、古代の最先端はホラーだったのではないか、という気がしてきました。

 いかがでしょうか。セン仏のこと、皆さまに少しでもお伝えできたでしょうか?ここでお話したことの詳細は、飛鳥資料館の図録にそれなりに書かせていただきましたので、御覧頂けましたら幸いです。あ、私のポッケに印税などは入りませんから、商売ではございませんよ?念のため・・・(あせあせ)。

 と、ともかく!もう1回か2回、こちらでセン仏のお話などさせていただこうと思います。次回は少しマニアックな内容になる予定ですので、皆さま、覚悟なさってくださいね?それでは。






【2】                            (15.6.26.発行 Vol.218に掲載)

 醤油鯛、って御存知ですか?お弁当なんかを買った時についてくる、お醤油などが入った魚のかたちをした“あれ”の事です。


醤油鯛

 ま、正式名称?は“たれびん”とか“ランチャーム”とかいうようですけれども。実は、その醤油鯛の図鑑があるんですよ!いやぁ、世の中マニアックな人がいるもんだ!!それを持っている自分も大概かもしれませんが・・・。

 で、その醤油鯛の図鑑によると、醤油鯛にも結構種類がいるらしいんですよ。(今、これを書いているときに私の手元に本が見当たらなかったもんですから)筆者のHPを覗いてみたところ、76種×22形質あるみたいです。型作りの大量生産品かと思いきや・・・。意外と奥が深いぞ、醤油鯛!おおいぞ、醤油鯛!!

 ひるがえって、古代の型作り製品“セン仏”はというと、図像の種類が80種類位(中東2011年調べ。四捨五入しているので、本当はもう少し少ない)に分類できそうなんです。意外と奥が深いぞ、セン仏!おおいぞ、セン仏!お前もか、セン仏!

 ということで、時にはセン仏研究者を騙る中東です。今回も、はりきってセン仏の世界をのぞいていきましょう。

 繰り返しになりますが、セン仏は型作りなんです。古代+型作り=瓦!とお思いの方も多いのではないかと思いますが、実は瓦だけではないのですよ、フフフ・・・。それで、古代→型作り→瓦の感覚でいきますと、勘の鋭い皆さまなら、「あっ。ハン傷とか同ハンの話かな」と思われるのではないでしょうか。ホント、皆さまにはかないませんね。その通り。今回は、そういうお話を少しさせてもらいます。

 まずは、ハン傷の話です。実は、セン仏にはハン傷が“ない”んです。セン仏の型は、瓦のハンと違って陶製なんですよ。(と断言したものの、セン仏の型はまだあんまり見つかっていないので、何年かしたらごめんなさいと言うかもしれませんが。)で、私、実際に陶製の型をつくって、粘土を詰めてはずして、粘土を詰めてはずして・・・、というのを100回繰り返してみたんです。・・・夜な夜な親に白い目で見られながら。すると、本当にセン仏にはハン傷がほとんど出来ないことが確認できたんですね。ただ、これは同時に、セン仏が瓦の研究方法と同じやり方では出来ないことが証明されてしまったということですので、実は自分の首を絞める結果になってたりもしています。

 次に、同ハンのお話をしましょう。先ほど、セン仏は80種類位ある、というお話をしました。ただ、最近、自身の研究で、さらに細分出来る可能性を見つけてしまったのです。そう、さらに自分の首を絞める結果をだしてしまったのですよ!それほど種類があるセン仏ですから、さぞかしあちこちで見つかっているんだろうと思いきや・・・、実は全国150か所ほどでしか見つかっていません。そう、同じものがあちこちでたくさん見つかるメジャーな数種類のセン仏と、その遺跡オリジナルといってもほぼほぼ間違いのないマイナーなたくさんの種類のセン仏があるんです。なんてややこしい!

 そして、セン仏は、北は東北から南は九州まで見つかってますので、中東は時間とお金をみつけては全国を放浪するハメになるのでした。めでたし、めでたし。

・・・オチがつきましたので、今回はこの辺で。もう一回・・・いや、できれば二回くらい、何かセン仏のことを騙らせてもらおうかなと思います。え?もう飛鳥資料館の展示が終わってるですって?・・・まぁ、それはそれ、ということで。






【3】                            (15.8.7.発行 Vol.221に掲載)

 東京国立博物館がGW頃まで、特別展「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」 という展示をされていたんですよ。いやぁ、マニアックですねぇ。渋いですねぇ。そこで、GWに突然思い立って、・ ・・ちょいとツウぶって行ってきたんですよ。インドのセン仏があるかなぁと思ったりもしたもんですから。そしたらね、ありましたよ。インドのセン仏!一通りにらめっこして、満足した気分になって、その後は東京散策へとくりだしていったんですけどね。いやぁ、よかったよかった。

 東京散策はどこに行ったのか、などという野暮な質問は受け付けませんよ!ども、セン仏研究者を騙る中東です。ここまでの2回、セン仏、セン仏・・・とうわ言のように繰り返してきましたけれども、今回もひきつづきセン仏のお話です。さっそくお話をしていきましょう。

 これまで、古代の日本のセン仏の話ばかりしてきましたけれども、実は日本以外の国々でも、セン仏はあるんです。・・・あっ!すでに冒頭でインドのセン仏のお話をした後でしたね。ネタ晴らし済みのお話を繰り返してしまうとは・・・。ここはひとつ、ご愛嬌というやつで。

 日本以外でセン仏がある所は、インドをはじめ、東南アジアの国々、中国、韓国、チベットなどがあります。形や描かれている図像、大きさなども様々!東南アジアでは、現在も護符のような意味合いでセン仏が使われている国があるみたいです。

 じゃあ、どの国が一番最初にセン仏をつくりはじめたのか、ということに興味をもたれる方もおられるのではないでしょうか。ここで答えれたらカッコいいんですけど・・・、これがなかなか難しい。というのは、海外のセン仏の研究成果の情報を得ようにも、中東は英語が苦手なんですよね。自慢じゃないですけど、高校の時は赤点をとらずに済むか、ヒーヒーいってたんですよ?タハハ、ホント自慢にもなりません。

 ただね、どうも漏れ聞いている情報によると、どうやら世界的にはインド発祥という意見が強いようです。美術史学なんかは、まさにそういうスタンスをとっているようで。どうやら三蔵法師が書いた記録に、インドでセン仏をつくっていたかのような記録があるとかどうとか・・・。

 中東としては、まだインド最古のセン仏を見たことが無いので、今のところこの見解については保留です。「インドの仏」展でみたインドのセン仏からは、日本のセン仏とつくり方が違うんじゃないかな、という印象をもちはしたんですけど・・・、それだけで意見をいいますのもねぇ?そのうえ、インドは広いですし、遺跡の規模も日本のそれと全然違いますから。英語の読み書きができない身としては、ただただ、貝のように口を閉ざすばかりです。

 今のところ確実に言えるのは、日本のセン仏は中国の影響をとても強く受けている、ということです。というかむしろ、中国起源と言い切ってもいいと思います。なぜなら、日本のセン仏とほとんど同じ図像のセン仏が、中国で見つかってるんですよね。考古学はモノが“ある”と強気な発言ができるんです。一方、韓国では今のところ、日本のセン仏と同じ図像のセン仏が見つかってませんから、多分ほとんど影響がなかったのかなと思ってます。ま、これも、韓国でこれから調査が進む中でどうなるかわからないお話ですよね。考古学は“ない”ことにはあまり強気な発言ができませんから(笑)

 そんなこんなで、そろそろ文字数に限度がきたようです。今回はこの辺で。あまりお話しすぎますと、「あ、ネタ切れか」とばれてしまいますが・・・、せっかくなので、次回もう一回だけセン仏のことを書かせてもらいますね。




【4】                            (15.10.2.発行 Vol.225に掲載)

 子どもの頃だと信じられないようなお話が、気がつけば常識になっています。世間とは恐ろしいものです。『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』の筆者は、次のように述べています。「1824年に巨大爬虫類としてのっしのっしと歩き始めた恐竜は、いつしか尾を支えとして2本足で立ちあがり、やがて尾をあげて駆け巡り、今では羽毛にまみれる日々だ。わずか180年の間に、とんでもない成長を遂げている。この勢いでいけば、目から怪光線を発する日も遠くない。」よく考えれば、考古学も似たような部分があるような。セン仏の目から怪光線が出ていたと考えられるようになる日も・・・、いや、それはこないでしょうかね。

 さて、そろそろくだらないお話に定評がでてきた?吉野歴史資料館の中東です。今回はセン仏の図太さについてお話ししたいと思います。

 セン仏というと、飛鳥時代から奈良時代頃につくられたもの、というイメージがとても強いのですが、実はその後も細々とつくられていることはご存知ですか?平安時代、中世、江戸時代にも、実はセン仏があるんです。こういう新しい時代のセン仏たちを、仮に中世セン仏(江戸時代のものがありますが、それはさておき)と呼称しましょう。

 中世セン仏には、大きく2種類の形状のものがあることがわかっています。レリーフ状になっているものと、立体になっているものの2種類です。
 
 レリーフ状の中世セン仏は、結構いろんな種類のものが見つかっています。例えば、中世に石川県で焼かれていた陶器、珠洲焼きの窯でつくられたものがあります。“珠洲焼きの中世セン仏”は兵庫県下の神社や岩手県の遺跡などで確認されていて、結構広範囲に流通していたことがわかっています。ちなみに、・・・こんなこというと怒られそうですけど、飛鳥時代のセン仏のほうが整った顔をされてます。少なくとも私には、そう見えます。はい。

 立体になっているものは、たい焼きみたく、二枚以上の型を合わせてつくられています。あんまり種類はみつかっていないのですけどね。ただ、これをセン仏というと、“セン”仏か?という疑問がふつふつと・・・。型でつくられた仏さま、というニュアンスだと言われれば、納得できなくもないような気がしないでもないですが・・・。

 冒頭で話題にした恐竜も、最近は鳥と恐竜の区別が定義しづらくなっているようで、「わかりやすくするため、従来通りに鳥以外の恐竜を“恐竜”と呼ぶことにさせてもらえまいか?」という切なる願いが生じているようです。どうやら考古学も、「型でつくられた仏さまを“セン仏”と呼ぶことにさせてもらえまいか?」とお願いしなければならない日も・・・、いや、それはそれで不都合が生じそう・・・。ムゥ、日本語は難しいですね。アハハ。

 話を変えましょう。セン仏の技術が他のものに転用された例もあります。粘土でつくって焼き締められた小型の塔、瓦塔なんかが代表例です。瓦塔のどこにセン仏の技術がつかわれているかと言うと、一階の壁部分。ここに、型づくりの仏さまが浮き彫りに表現されているのです。(※仏さまが表現されていない瓦塔もたくさんあります。)瓦塔をつくっていく際、壁になる部分に、セン仏をつくるように型を「ぺたっ」と押し当てたのでしょう。きっと塔の中に仏さまが居るように表現したかったのでしょうね。

 いかがだったでしょうか。セン仏は、飛鳥・奈良時代で消えてしまった儚い存在ではなく、図太く江戸時代位までその血脈を伝えていたんです。さて、そろそろネタも減ってきましたので、私のセン仏の話も一息入れようかと・・・。あっ、大事なことを忘れていました!明日香村の中で見つかっているセン仏について、何も触れてませんでしたね。ということで、もう一話続けさせていただいて、一段落つけたいと思います。私も図太い男の様ですよ。フフフ・・・。


























【5】                            (15.11.27.発行 Vol.229に掲載)

 身近なものほど「実はね」って言われると、「へぇ~っ」てなりますよね。私が最近驚いたのは、カラスです。『カラスの教科書』というまたマニアックな本がありましてね。カラスの「実は」(例えばカラスはマヨラーだとか)が満載のゆる~い本なんですよ。これを見てると、「へぇ~、カラスってそうなんだ。」となって、やがて「あぁ、カラスってかわいいな。」とほほえんでしまうこと間違いなしです。実際に見ると、「なんやねん、あのカラス。カァーカァーなきおって(怒)」ってなりますけどね。

 ども。図太くセン仏研究者を騙る、吉野歴史資料館の中東です。今回は、(明日香村では?)カラスよりも身近な明日香村のセン仏をテーマにお話したいと思います。

 さて、皆さんは明日香村内の何カ所からセン仏が出ていると思います?実はですね、『東アジア瓦研究』なる雑誌がありまして、こちらの第3号にセン仏が日本国内のどこで出ているのかがまとめられているのです!これによると、明日香村では・・・史跡橘寺境内(2種)、川原寺跡(5種)、川原寺裏山遺跡(2種)、定林寺跡(1種)、坂田寺跡(1種)、小山廃寺(1種)、奥山久米寺(1種)の計7カ所でセン仏が確認されております。 ※()内はそれぞれの場所で確認されたセン仏の種類数。

 では、瓦の研究のようなお話をしましょう。同じ図像のセン仏が見つかっている遺跡をグルーピングしますと、次のようになります。瓦で言うところの、同ハン関係にある遺跡、のようなものですね。


川原寺裏山遺跡出土方形三尊セン仏(明日香村埋蔵文化財室展示品)

【方形三尊セン仏】
 史跡橘寺境内、川原寺跡、川原寺裏山遺跡、定林寺跡、坂田寺跡

【独尊坐像セン仏】
 川原寺裏山遺跡、小山廃寺

 さぁ、ここまでくると、「造営氏族との関係が~」なんて話が言えたらいいんですけど・・・、セン仏ではそんな話ができないんです。だって、「川原寺と橘寺と定林寺と坂田寺を建てた氏族が同じなんです!」なんて言われても・・・、ねぇ?飛鳥にお詳しい皆さまなら「いやいやいや!そんなアホな!」ってなるでしょ?諸説ありますが、川原寺は天智天皇、坂田寺は鞍作氏、定林寺は聖徳太子か渡来系氏族の造営などと言われていますから。

 じゃあ、セン仏はどんな話が出来るのか。・・・実は、まだ何もお話できないんです。セン仏というのはよくわからない事がだらけでして。他の遺物を研究されている先生方も、「このことはよくわからないんですよね。」なんておっしゃるかもしれませんが、セン仏の“分からなさ度”はこれらをはるかに凌駕しています。

 だって、「このセン仏はいつ頃の物ですか?」と尋ねられても、「飛鳥時代と思います。」だとか「飛鳥時代の終わりから奈良時代の初め頃かなぁ。」が関の山なんですもの。他の遺物なら、「飛鳥時代の前期。」だとか「7世紀の第2四半期。」だとか、ある程度具体的な答えが返ってくるでしょ?年代観も、瓦で言うところの同ハン関係の意味も、セン仏ではまだまだミステリーなのです。

 カラスの「実は」は“カラスはかわいい”となりましたが、セン仏の「実は」は“セン仏はよく分からない”になりました。カラスはかわいさを、セン仏はミステリアスさを、これからは“売り”にしていくことでしょう・・・。って、“セン仏はよく分からない”じゃあ、「実は」じゃないですよね。エヘヘ。

 そんなこんなで、これ以上連載を続けますと、夢と想像のファンタジー世界へ突入してしまいかねないので、少し余力のあるここらで連載をひとまず完といたします。セン仏のミステリーを少しでも解明できるよう、色々と試してるところですので、続報をご期待ください。これまで5回にわたり、おつきあいいただきましてありがとうございました。(おっ、最後はそれっぽくまとまったかな?)ではでは。







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