両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



ただ今

飛鳥・藤原修行中!



 ゆき さん



飛鳥のことを勉強し始めたのは大学を出て働き始めてからですから、
現在5年目に突入したばかり。
このメールマガジンをきっかけに皆様と一緒に
飛鳥についてさらに深く勉強することができればと思っています。
どうかよろしくお願いします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はじめまして
石神遺跡の瓦葺建物 -石神遺跡第21次調査から-
(1)    (2)    (3)
7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-
(1)    (2)
甘樫丘東麓遺跡出土の瓦
藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える
(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)



「はじめまして」   (09.5.1.発行 Vol.50に掲載)

 皆様、はじめまして。今回から、連載を担当させていただくことになりました”ゆき”です。前任者が杉山洋さん、今連載されておられる方々も考古学の第一線で活躍されておられる一流の研究者ばかりということで、はじめ風人さんからお話をいただいた時は、私なぞがなんと恐れ多いとご辞退申し上げたのですが、結局言葉巧みに(?)説得され、お引き受けすることになりました。若輩者ゆえいたらぬところも多いと思いますが、皆様どうか寛大なお心でよろしくお願いいたします。

 さて、現在このメールマガジンを読んでおられる方々は飛鳥の歴史をよく勉強されている方々だと思います。私も現在飛鳥のことを日々勉強中の身です。何を隠そう(別に威張ることでもありませんが…)飛鳥のことを勉強し始めたのは大学を出て働き始めてからですから、現在5年目に突入したばかり。もしかしたら皆さんよりも年数はずっとずっと浅いかもしれません(汗)。学生時代は縄文時代を勉強していて、例えば大官大寺といえばお寺そっちのけで縄文の遺跡だと思っていたくらいでした…(大官大寺の下層には大官大寺下層遺跡という奈良県を代表する縄文時代中期末から後期の集落が眠っています)。このメールマガジンの趣旨からは少し外れるかもしれませんが、いずれ飛鳥の縄文時代についてもお話しできればと思います。

 個人的な話になりますが、飛鳥といえば思い出すのは、小学生の遠足です。私が初めて発掘現場を目にしたのも明日香でのことでした。現場は明日香村埋蔵文化財展示室がある旧飛鳥小学校の裏手付近だったと記憶していますから、おそらくあれは水落遺跡か石神遺跡だったのだろうと思います。現場ではびっしり敷かれた石敷がでていました。現場の一生懸命仕事されている作業員さんに「発掘っておもしろそうですね」って声をかけると、その作業員さんに「おもろないわ!!現場はしんどいし、先生は怖いし、うるさいし」と即座に返されてしまいました。子供心に、「そうか、発掘現場はしんどくて、発掘する先生は怖くてうるさいのか」とそら恐ろしく思ったものですが、後年まさか自分が発掘をする側で、しかも明日香の遺跡発掘に携わるとは思ってもいませんでした。まさに人生って不思議なものですね。まあ、現場ではせめて怖くてうるさい先生と陰口は言われないようにしようと努力しています。

 それはさておき、今回の連載のテーマは、「ただ今、飛鳥・藤原修行中!」。自分がまだまだ勉強中の身ということでこのタイトルにさせていただきました。このメールマガジンをきっかけに皆様と一緒に飛鳥についてさらに深く勉強することができればと思っています。現場のこと、私が主に仕事で携わっている瓦のことなど、いろいろなことをお話できればと思います。どうかよろしくお願いします。





「石神遺跡の瓦葺建物  -石神遺跡第21次調査から-」
【1】 (09.6.5.発行 Vol.53に掲載)

 奈良文化財研究所では去年の10月から今年の3月にかけて石神遺跡第21次調査が行われました。調査では石神遺跡の東限施設、瓦葺建物に伴うとみられるクランクする溝、天武朝から藤原宮にかけての総柱建物などが検出されました。このメールマガジンを読んでおられる方の中には、2月に実施した現地説明会にいらしてくださった方もたくさんおられると思います。

 参考資料: 石神遺跡第21次現地説明会資料

 その速報展示が奈良文化財研究所の飛鳥・藤原地区の資料展示室で現在行われていますが、展示をご覧になった方はあれっと思われたかもしれません。そうです。現地説明会後の調査の結果、記者発表当時とは少し見解が変わっています。斉明朝(7世紀中頃)とされていた瓦葺建物にともなう溝の年代が7世紀前半まで古くなりました。これは、溝から出土した瓦の年代が明らかに斉明朝よりも古いことと、溝を壊して石神遺跡の東限施設の柱穴が掘られていることが確認されたためです。この溝に関しては、斉明朝の迎賓館は瓦葺きと大々的に報道されたので、年代がかわってしまったことは我々としても少し手痛い出来事となってしまいました。また、一般の方々に対しても、現説以降の調査で新たに判明したことはなかなかお知らせする機会がないので申し訳なく思っています。その罪滅ぼしにはならないかもしれませんが、今回はこの石神遺跡の瓦についてお話したいと思います。

 石神遺跡から瓦が出土することはこれまでの調査からも知られていました。特に南部分(石神3次・4次)では60点以上もの軒丸瓦が出土しています。出土する軒丸瓦の多くは「奥山廃寺式軒丸瓦」と呼ばれる、明日香村奥山にある奥山廃寺出土軒丸瓦を標式とする軒丸瓦です。蓮弁は8枚、弁の形は剣菱形のシンプルな素弁で、先端に点珠と呼ばれるポッチがついています。
 現在、奥山廃寺式軒丸瓦の年代はおおよそ620~630年代に位置づけられています。飛鳥寺創建の軒丸瓦と比べて文様構成が少し新しい要素をもつ反面、軒丸瓦と丸瓦の製作技法は共通しているからです。
 今回、石神遺跡の調査で出土した瓦の中には軒丸瓦の顔部分はありませんでしたが、軒丸瓦の丸瓦部分と丸瓦、平瓦が出土しています。その製作技法の特徴を検討すると、奥山廃寺式軒丸瓦のそれと合致することが判明しました。従って、石神遺跡から出土した瓦も620年~630年代に製作・使用されたと考えられます。

 しかし、620年~630年代といえば推古天皇、もしくは舒明天皇の時代にあたります。従って、斉明天皇の饗宴施設とされる石神遺跡の年代よりも明らかに古く、迎賓館に葺かれた瓦ではありません。では、石神遺跡の瓦は何の建物に使用された瓦なのでしょうか。     (つづく)

 参考文献:
 花谷浩2004「石神遺跡の瓦」『奈良文化財研究所紀要2004』奈良文化財研究所



「石神遺跡の瓦葺建物  -石神遺跡第21次調査から-」
【2】   (09.7.17.発行 Vol.57に掲載)

 斉明朝の石神遺跡は、斉明天皇の迎賓館ですから宮殿施設にあたります。宮殿施設で瓦を葺くのは、日本では藤原宮が最初です。それまでは、瓦葺きといえばお寺だけでした。ただし藤原宮以前にも宮殿を瓦葺きにしようと試みた例があり、『日本書紀』に斉明天皇が655年に小墾田宮を瓦葺にしようとして頓挫したという記載があります。

 当初、石神遺跡21次調査から瓦が出土した際に、真っ先に思い浮かんだのがこの記事でした。小墾田宮については、従来は飛鳥寺左岸の明日香村豊浦にある古宮土壇周辺とする説が一般的でしたが、現在では発掘調査の成果によって飛鳥川右岸の雷丘の東側周辺にあったことがほぼ確実視されています。また、小墾田の地名に関しても、飛鳥宮跡の北側一帯を指す可能性が高く、従って石神遺跡も小墾田の範囲内に入ると考えられます。こういった意味でも、石神遺跡の瓦=小墾田宮の瓦葺き建物はとても魅力的なアイデアでした。

 しかし、ここを小墾田宮の瓦葺き建物にするには、出土する瓦の年代がどうしても655年とは合致しません。655年といえば、百済大寺や山田寺の造営が既に開始しています。これらの寺で使われる丸瓦は、明らかに石神遺跡から出土する丸瓦より新しい技法を用いて製作しています。

 ここで、少し話が逸れるかもしれませんが、古代の丸瓦の話をしたいと思います。
 古代の丸瓦は丸太を芯にして、それに粘土を巻きつけて筒状の粘土円筒を作り、それを半分に割って作っています。丸瓦には、丸瓦を組ませるためのソケット部があるものとないものとがあって、ソケットがあるものを玉縁式、ソケット部がなくて筒状のものを行基式と呼んでいます。


玉縁式と行基式

 石神遺跡出土の丸瓦はほとんどが玉縁式ですが、この丸瓦はまず丸太に粘土を巻きつけて筒状の粘土円筒を作った上で、玉縁部(ソケット部分)を貼り足しています。この技法は、飛鳥寺の創建瓦と共通する古い技法です。しかし、百済大寺に比定される吉備池廃寺や山田寺以降の瓦は、少し極端な表現ですが、芯となる丸太が芯の折れた鉛筆の様な形をしていて、筒部から玉縁部まで同時に作れるように工夫されています。玉縁を別に作っているか、筒部から玉縁まで一緒に作っているかは、玉縁部の内面に布目があるかどうかで見分けられることが多いです。すなわち、布目のないものが玉縁だけ別作り、あるものが玉縁と筒部同時製作となります。

 このように飛鳥の丸瓦の製作技法は、吉備池廃寺以前と以降では大きくことなっており、そのなかでも石神遺跡の丸瓦は古い技法で作られたといえます。

 このことからも、石神遺跡の瓦は少なくとも、百済大寺(639年造営開始)や山田寺(641年造営開始)よりも古いと考えることができます。従って石神遺跡の瓦は、残念ながら655年の小墾田宮の瓦葺き建物ではなさそうです。  (つづく)



「石神遺跡の瓦葺建物  -石神遺跡第21次調査から-」
【3】   (09.8.21.発行 Vol.60に掲載)

 石神遺跡の瓦葺建物が斉明天皇の小墾田宮ではないということは、前回にお話ししました。その他に、公的施設に瓦を葺く例は、694年に完成する藤原宮をのぞいては、陸奥国の官衙などで7世紀末に遡る可能性がある程度です。
 従ってやはり、石神遺跡の瓦葺建物は宮殿や役所などの公的施設ではなく、仏教施設に付随するものと考えるのが妥当のようです。

 石神遺跡から出土する大量の奥山廃寺式軒瓦からすると、奥山廃寺式軒丸瓦を金堂所用瓦とする奥山廃寺とはやはり密接な関わりがありそうです。奥山廃寺式軒丸瓦は、奥山廃寺のほかに、飛鳥寺、和田廃寺など、蘇我氏と関わりがあると思われるお寺で出土しています。しかしながらいずれも出土は少量で、石神遺跡ほど多くの奥山廃寺式軒丸瓦は出土していません。現在奥山廃寺式軒丸瓦は、21回に渡る石神遺跡の調査で77点出土しており、奥山廃寺で出土した115点に迫りそうな量です。飛鳥の寺院において、異なるお寺同士で所用瓦の文様がここまで重複するのはかなり特殊な例で、両者の密接なつながりがうかがえます。

 奥山廃寺の比定に関しては、長らく逸名の寺院とされてきました。しかし、近畿大学の大脇潔先生が瓦の同笵関係や立地を理由に蘇我氏の傍系氏族の寺とされたのち、奈文研の小澤毅さんが小墾田の地が飛鳥川右岸と判明したことをきっかけに奥山廃寺=小治田寺(小墾田寺)説を唱えられました。さらに大脇先生は、小澤さんの説に同意されるとともに、奥山廃寺寺域東北隅の井戸から出土した墨書土器が「少治田寺」と書かれている可能性を指摘され、現在は小墾田氏の氏寺である小治田寺=奥山廃寺とする見方が有力です。
 小墾田氏は蘇我氏の傍系氏族のひとつです。大脇先生は、蘇我稲目の向原の家が豊浦寺に受け継がれたように、彼が欽明天皇から与えられた仏像を安置したとされる小墾田の家が小治田寺に受け継がれたとする可能性まで示唆されておられます。

 以上のことや、四天王寺式をとると考えられる奥山廃寺の伽藍配置、金堂所用軒瓦の年代観などを考えても、奥山廃寺=小治田寺である可能性は高いと思われます。
 では奥山廃寺=小治田寺とするならば、石神遺跡の瓦葺建物は一体どのような性格の建物だったのでしょうか?

 小墾田と関わりの深いお寺とすれば、『東南院文書(*)』に出てくる小治田禅院の記事があります。この文書には小治田禅院に嶋宮の奴婢が住んでいたという記事があり、宮に所属する公的な奴婢を使役していることから、小治田禅院は、小墾田氏の氏寺である小治田寺とは別の皇室関係の仏教施設ではないかという指摘があります。
 この指摘は石神遺跡の性格からもぴったりあてはまるような気がしますが、残念ながら、記事の年代は奈良時代。7世紀前半には小治田禅院は石神遺跡にあり、その後斉明朝には別の場所に移動して奈良時代まで存続したという想定もできなくはないですが、現時点ではあまりにも証拠は不十分です。

 小墾田といえば、もうひとつ。先ほど触れた蘇我稲目の小墾田の家があります。しかしながら、蘇我稲目が活躍した時期、石神遺跡の大部分は地盤の緩い沼地もしくは流路だったと考えられており、7世紀に入るまであまり活発な土地利用もみられません。このことからも、小墾田の家を受け継いだ捨宅寺院でもなさそうです。

 やはり、現時点では石神遺跡の瓦葺建物は、軒瓦の文様からも蘇我氏の影響の強い仏教施設という以外、なかなか手がかりはつかむことは困難です。
 また、瓦葺建物と同時期に存在する周辺遺構など、瓦葺建物を取り巻いていた当時の様相もあまりわかっていません。今後、これまで確認されている遺構を再検討するなかで、斉明朝の饗宴施設以前の石神遺跡の様相を検討する必要があります。
 石神遺跡の瓦葺き建物に関する問題はまだまだ山積みのようです。(おわり) 

 *東南院文書
  明治年間に東大寺から皇室に献納された東大寺文書の一部
  東南院(東大寺子院)に保管されていた奈良から平安期に渡る記録




「7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-」
【1】   (09.10.16.発行 Vol.64に掲載)

 先日、檜隈寺周辺の発掘調査において竪穴建物遺構とそれに伴うL字形カマドが出土したという記者発表をしました。記者発表を行ったときにはもう遺構は埋めてしまっていたので、皆さんに遺構を見てもらうことができず残念に思っています。現在、その速報展示を奈文研の藤原資料室で行っています。竪穴建物遺構から出土した遺物をはじめ、写真も多く展示していますので、お時間のある方は是非ご覧いただければと思います。今回はその竪穴建物遺構と、この調査によって少しずつ様相がつかめてきた檜隈寺の前身寺院についてお話ししたいと思います。

奈文研発掘現場(第156次調査地は丘陵の上の檜隈寺講堂跡の北)

 実は、今回検出したL字形カマドは、去年行われた155次調査で石組遺構として一部を検出していました。今回の調査は、その石組遺構の全体像を把握すべく調査を行い、結果出土したのが石組みのL字形カマドです。今回検出したカマドは、竪穴建物の中心近くに焚き口を北向きに設け、煙道を南にのばし、竪穴建物の南壁で西方向に曲がり壁に沿って伸びた後北に向けて煙を出す構造になっています。したがって、L字というよりは逆L字状になります。

 通常のカマドが壁際からすぐに屋外に煙を出すのに対して、L字形カマドは屋内に煙道をL字形に長く設けて、煙がすぐ外に出ないように工夫してあります。従って、L字形カマドは調理施設であると同時に、カマドの熱を利用したストーブの役割も果たすと思われます。L字形カマドはかつてオンドル状遺構と呼ばれていましたが、L字形カマドはオンドルのように床下暖房ではないので、現在は区別して考えられています。ですが、L字形カマドは、朝鮮半島に類例がみられ、その年代が日本より遡ることや韓式系土器等、渡来系の遺物が伴うことがあることから、渡来系の技術として考えられています。

 今回の調査でも、竪穴建物から渡来系要素の強い軒丸瓦が出土しました。素弁八弁蓮華文軒丸瓦で、瓦当裏面に格子叩きが施されています。瓦当裏面の格子叩きは朝鮮半島で多くみられる技法ですが、飛鳥の軒丸瓦ではあまりみかけません。瓦当裏面格子叩きは、日本では滋賀県の穴太廃寺などで出土しています。ちなみに穴太廃寺のある穴太遺跡でもオンドル遺構が検出されています。
 この素弁の軒丸瓦の年代は瓦当文様から7世紀前半と考えられます。竪穴建物遺構から出土したもう1点の軒丸瓦も、星組の瓦をベースに蓮弁に火炎文をあしらったもので、やはり7世紀前半の軒丸瓦です。また、竪穴建物遺構から出土した土器から、7世紀中頃には遺構が埋没したと思われます。

 この7世紀中頃という年代が遺構から指し示めされたということには重要な意味があります。

 現在、檜隈寺跡には、金堂、講堂、西門の基壇が残っていますが、これらの造営時期は、使用された瓦の年代からいずれも7世紀後半から藤原宮にかけてと考えられています。この年代観は、檜隈寺に関するもっとも古い史料である、『日本書紀』の朱鳥元年(686)年八月二十一日条にも合致し、この時までには檜隈寺の伽藍がおおよそ整っていたと考えられます。檜隈寺から出土する瓦は、Ⅰ型式(7世紀前半~中頃)、Ⅱ型式(7世紀後半)、Ⅲ型式(藤原宮期)、Ⅳ型式(奈良時代以降)の4段階に分類されています。発掘調査で検出した檜隈寺の伽藍には、いずれもⅡ型式(金堂)とⅢ型式(講堂・塔)の瓦が使われていたことがわかっています。つまり、Ⅰ型式の瓦については、どこに使用されたのかわかっていません。そのI型式の軒瓦の年代が7世紀前半~中頃、つまり今回出土した竪穴建物遺構の年代と重なってきます。   (つづく)



「7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-」
【2】   (09.12.11.発行 Vol.68に掲載)


竪穴建物位置(檜隈寺跡案内板より)
 今回出土した竪穴建物と、檜隈寺の前身伽藍がどのような関わりがあるのかは明確にはわかっていません。ですが、両者は同じ丘陵上に隣接して位置すること、その使用年代が重なること、L字形カマドの煙出しや支脚に檜隈寺の瓦が使われていることから考えても、竪穴建物は檜隈寺と何らかの関わりのある人々が使用していた可能性は十分あると思われます。例えば、竪穴建物は前身伽藍の造営に関わった渡来系技術集団の作業場、という想定も成り立つのではないかと思っています。

 ところで、檜隈寺=渡来系氏族の氏寺ということは周知の事実として知れ渡っていますが、文献以外で、檜隈寺が渡来系氏族の寺であることを彷彿とさせる要素は意外に少なく、講堂の基壇外装が朝鮮半島にみられる瓦積基壇であることがこれまで唯一の事例でした。


瓦積基壇(檜隈寺跡案内板より)

 ですが、今回の調査でL字形カマドをもつ竪穴建物が検出されたこと、さらに竪穴建物の埋土からは朝鮮半島の造瓦技術を用いた軒丸瓦が検出されたことで、渡来系色の強い要素が7世紀前半の檜隈寺においても確認されたということも今回の重要な成果といえます。

 では、Ⅰ型式(7世紀前半~中頃)の瓦が使用された檜隈寺の前身寺院ともいえる建物はどのようなものだったのでしょうか? 
 残念ながら檜隈寺の7世紀後半以前の遺構に関してはよく分かっていせん。発掘調査によって、現在伽藍が残っている檜隈寺の造営の際に、大規模な整地を一時に行ったことがわかっています。その範囲は非常に広いもので、伽藍部分はもちろんのこと、今回出土した竪穴遺構も檜隈寺造営の際に一気に埋められ整地されたと考えられます。整地層も相当厚く、東回廊付近では、礎石下2mにまで達しています。したがって、檜隈寺の前身伽藍は、7世紀後半に檜隈寺を造営する際に壊されてしまったか、厚い整地層の下に埋もれているのでしょう。
 一方、遺物のほうから見てみると、7世紀前半の瓦の量はさほど多くなく、瓦の出土量だけみれば、さほど大規模な伽藍があったようには思えません。


火炎文入り軒丸瓦(破片)
 しかし、軒丸瓦の出土量は少ないながらも、瓦当文様にはバリエーションがあり、火炎文とよばれる蓮弁の子葉に光芒をあしらった軒丸瓦が2種(星組系統と山田寺式系統)、そのほかにも花組や星組の軒丸瓦、山田寺式軒丸瓦も出土しています。軒平瓦は確認されていません。おそらく飛鳥寺と同じように平瓦を何枚か重ねて軒平瓦としたのでしょう。
そして、これら軒丸瓦の年代幅は瓦当文様から考えても20~30年あります。前身伽藍はある程度の時間幅を持って造営されたのか、それとも何度か建て替えられているのか、そういった疑問も出てきます。

 このようにまだまだ謎だらけの檜隈寺の前身伽藍ですが、今回の調査でわずかなりとも7世紀前半の檜隈寺の様相が垣間見られたことは重要な成果といえます。また、竪穴建物遺構以外にも、他の調査区では7世紀前半に位置づけられる溝も検出されています。さらには、谷を挟んだ隣の丘陵でも明日香村教育委員会による調査で大壁建物が検出されました。この年代は、L字形カマドの年代とも合致してくるようです。
 7世紀前半の檜隈寺に関する手がかりは少しずつですが、蓄積されています。まだまだ靄がかかったようにぼんやりとしていて、明確にはわかないのがもどかしいところではありますが…。  (おわり)





「甘樫丘東麓遺跡出土の瓦」   (10.2.5.発行 Vol.73に掲載)

 今回は、皆さんにとってもおなじみの甘樫丘東麓遺跡についてお話ししたいと思います。

 甘樫丘東麓遺跡ではご存じのとおり、石垣や石敷遺構、総柱建物、掘立柱建物をはじめとした7世期中頃から後半にかけての大規模な遺構群が確認されています。特に石垣は、『日本書紀』に記載されている甘樫丘にあったという蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅と関わる可能性が高い遺構として重要視されています。

 甘樫丘東麓遺跡は、去年の調査で検出した石敷遺構の続きを検出するとともに、東側の斜面の様子を確認することと、今は駐車場となっている1994年の調査区で確認した7世紀中頃の焼土層につながる遺跡の状況を確認する目的で、今年度も少し特異な形の調査区を設定して、1月から調査をしています。

 その甘樫丘東麓遺跡では、少量ですが何故か瓦が出土します。出土する瓦は2種類あり、ひとつは川原寺所用の一群、もうひとつは7世紀前半位置づけられる一群に分けることができます。
 
 川原寺所用の瓦は、川原寺創建期から平安時代までの瓦が含まれます。これらの瓦はほとんどが包含層からの出土なので、川原寺の瓦がどういった経緯で甘樫丘から出土するのかよくわかりません。ただ、川原寺は、古代から平安時代にかけて飛鳥の地に寺領として広大な荘園をもっていたうです。その寺領のひとつが大和国の東三十条三里・四里にあり、その場所を『大和国条里復原図』に照らし合わせると、ちょうど川原寺の所在地にあたります。


川原寺寺領と関連遺跡イラスト

 東三十条三里・四里の範囲は、東西はおおよそ亀石のあるあたりが西限で、東限は川原寺の東門があったあたり、南北の範囲は川原寺の南大門を南限にして、甘樫丘東麓遺跡周辺がちょうどその北限にあたります。したがって、おそらくは甘樫丘の南半分は奈良時代以降、川原寺が所有していて、寺で不要になった瓦片などを廃棄したりしたのでしょう。

 一方、7世紀前半の一群は、飛鳥寺同笵と思われる星組の軒丸瓦1点、船橋廃寺式とよばれるやや肉厚の弁をもった素弁八弁蓮華文の軒丸瓦(豊浦寺同笵)1点、および同じく船橋廃寺式の文様構成をとる古宮遺跡同笵垂木先瓦5点、鴟尾1点などがあります。軒平瓦は確認されていません。これらも遺構に伴っていないものがほとんどで、残念ながら使用用途など詳細はわかりません。

 これらの瓦は、甘樫丘北麓に位置する豊浦寺と縁の深い瓦でもあるので、豊浦寺や平吉遺跡から流入したと考えるのが今のところ一番自然な解釈だとは思います。

 しかし、特に垂木先瓦に関しては、5点もの出土があり、軒瓦の出土の少なさに比べれば、少し特異ともいえる量です。また、瓦の出土量が少ないのにも関わらず、鴟尾の出土があるところも気になるところです。
 
 個人的には、ひょっとするとこれらの瓦は蘇我氏の邸宅に使用されたのではと考えたりしています。もちろん、瓦の出土量からすれば、瓦葺きはありえませんが、例えば邸宅の垂木先だけ瓦を使用するとか、瓦葺きとまではいかなくとも鴟尾だけ屋根にのせるとか、そういったことも想定できるのではと考えています。
 だとすれば、瓦葺き=寺院だったこの時代に、蘇我氏の邸宅は異様な存在感を放っていたことでしょう。絶大な権力を振るった蘇我氏にふさわしい邸宅であっただろうと一人妄想に耽っています。     おわり
 
 参考資料:奈文研 学術情報リポジトリ
 甘樫丘東麓遺跡(飛鳥・藤原第157次)現地説明会配布資料
 甘樫丘東麓遺跡(飛鳥・藤原第151次・157次)




「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【1】 -藤原宮所用瓦の生産開始時期-  (10.4.2.発行 Vol.77に掲載)

 2010年も4月に入り、奈良ではいよいよ遷都1300年祭が幕を開けます。雑誌やテレビでは連日、奈良特集が組まれ、せんとくんのメディア露出も日に日に増えて、奈良はますます盛り上がりそうです(多分)。
 都が奈良平城京に移って1300年ということは、すなわち藤原京が廃都になって1300年の年でもあります。この記念すべき節目の年に、ここでは裏企画、ひとり藤原京廃都1300年祭と称して、藤原宮の造瓦について地味に考えてみたいと思います。

 藤原宮内の発掘調査は、従来は宮周囲を取り囲む宮大垣や官衙の調査が主でした。しかし、近年は2000年の100次内裏地区の調査を皮切りに、朝堂院や大極殿周辺および朝庭など宮中枢部の調査をおこなっており、藤原宮内の具体的な様相も判明してきています。
 瓦の研究に関しても、従来から蓄積されてきた文様論や技法論に加えて、発掘調査成果をもとに分布論からも議論ができる段階にきています。

 藤原宮はご存じの通り、日本で初めて屋根に瓦を葺いた宮殿です。
 宮殿に必要な瓦は150万枚以上と言われており、膨大な量の瓦を生産し、宮まで搬入させるためには、これまでにない画期的な瓦生産方法を開発する必要がありました。その生産方法として打ち出したのが、全国各地の瓦窯へ瓦を発注し、さらに大和盆地内でも安定した瓦の供給が見込める瓦窯を新設して、大量の瓦をまかなう方法です。
 当初は、近江、和泉、讃岐など遠隔地にも瓦を発注していましたが、大和盆地内の瓦窯での瓦生産が安定するにしたがって、次第に大和盆地内のいくつかの瓦窯での生産に集中することとなります。

 では、藤原宮の造瓦はいつごろから始まっていたのでしょうか。宮内各施設に使用する瓦は膨大な量にのぼるため、694年の藤原遷都よりもかなり前に生産を開始する必要があると思われます。
 藤原宮所用瓦の生産開始時期を推測するヒントはいくつかあります。

 まずは、先々行条坊側溝からは瓦が出土しない一方で、先行条坊側溝と下層運河からは瓦が出土する点です。先々行条坊と先行条坊は藤原宮下層に敷かれていた条坊道路で、下層運河は藤原宮造営に必要な物資を運搬するための運河です。宮の各施設はこれらを埋めた後に造営したことが判明しています。
 先々行条坊は、京内全域におよんでいないことから、近年の研究では676(天武5)年の「新城」への新都建設計画とその中止に関わる遺構とする考え方がなされています。この考え方が正しければ、先々行条坊に瓦を含まないことからも、676年の段階ではまだ瓦は生産されていなかったことになります。
 一方で、先行条坊と運河に関しては、先行条坊側溝を一部壊して運河を作っていることから、先行条坊が古く、運河が新しいことは確実です。ただし、両者は宮の中枢建物を造営する直前まで機能し併存していたと思われます。運河からは、瓦とともに天武末(682~685)年ごろの木簡が出土しています。したがって、少なくともこの頃には瓦の生産が開始されていたのでしょう。

 もうひとつは薬師寺の創建年代です。薬師寺は680(天武9)年に発願され、688(持統2)年正月に無遮大会が薬師寺でおこなわれたという記載があります。したがって、688年までには薬師寺の主要伽藍は完成していたのでしょう。
 その薬師寺金堂所用軒平瓦のひとつが、藤原宮所用軒平瓦の笵を彫り直して使用しています。つまり藤原宮所用軒瓦として生産された後、今度は薬師寺所用瓦として使用されている瓦笵があるのです。薬師寺は先述したように688年にはほぼ伽藍は完成していたと考えられますから、藤原宮造瓦の開始時期は当然それよりも古くなります。

 以上のことを総合すると、藤原宮造瓦の開始時期はおおよそ680年代前半と考えることができそうです。このことは藤原宮造営開始時期とほぼ一致し、宮造営と同時に造瓦も開始されたと考えられます。
 しかし、藤原宮所用軒瓦すべてが同時に生産されたわけではなく、ある程度の時期差をもって生産されていたことが、運河やそこから派生する斜行溝(第153次朝堂院の調査で検出)や南北・東西溝(第160次大極殿院回廊の調査で検出)など、造営期の遺構から出土した瓦から分かってきました。        (つづく)



「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【2】 -瓦の廃棄状況からわかること- (10.5.28.発行 Vol.81に掲載)

 藤原宮から出土する瓦は、出土状況から大きくふたつに分けることができます。

 ひとつは藤原宮廃絶後に廃棄された瓦群です。藤原宮所用瓦の多くは宮解体後、平城宮に運ばれて宮内の各建物に再利用されましたが、屋根から下ろすときに割れたり、状態の悪かったりしたものはそのまま藤原宮内にうち捨てられました。廃棄された瓦は時が経つに従って、そのまま埋没してしまうか、あるいは後世に瓦を敷き詰めて路面がわりに再利用されたりもしています。

 もうひとつは、藤原宮を造営している段階で未使用のままなんらかの由で捨てられてしまった瓦群です。これらの瓦の多くは破損していますが、なかには完形の瓦もあり何故廃棄されたのかよくわからないほど状態の良いものもあります。
 宮造営期に廃棄された瓦はいろいろな場所から出土しており、捨てられた時期もさまざまです。たとえば、運河や先行条坊の側溝や沼状遺構など、造営段階でも建物を建てる前の比較的当初に位置づけられる時期や、宮の整地土や建物を建てるための水準溝など、建物の建設が始まってから捨てられた瓦などもあります。

 したがって、どの段階に瓦が廃棄されたかを細かく検討することによって、藤原宮所用瓦の生産の移り変わりや、ひいてはこれらの瓦を葺いた建物の造営順序なども知る手がかりになると考えられます。

 そのなかで、藤原宮の瓦生産を考える上でやはり重要になってくるのは、運河や先行条坊の側溝など、宮内の各建物を建てる前に埋められたと考えられる遺構から出土する瓦群です。
 なかでも藤原宮内を流れていた運河は、宮造営に必要な資材を運び込むために築かれた幅約3~7m、深さ約2mの南北の大きな溝です。この運河は従来の発掘調査の成果から、大極殿や内裏、大極殿南門など、宮中枢部の重要建物の真下を通っていることが判明しています。
 さらに2008年に発掘された第153次朝庭部、および2009年の第160次大極殿南面回廊の発掘調査成果から、この運河はさらに大極南門の南で北東に向かって派生し、南北方向の溝になること、そしてこの南北溝は大極殿院北面回廊造営直前に埋め立てられ、回廊の南で東西溝に付け替えられていたことが判明しています。

参考資料:
 飛鳥藤原第153次調査現地説明会資料(奈文研学術情報リポジトリ内)
 朝堂院の調査─第153次─(奈文研紀要・奈文研学術情報リポジトリ内)
 藤原宮跡大極殿院回廊の調査・飛鳥藤原第160次
        (奈文研ニュースNo.35・奈文研学術情報リポジトリ内)

 この運河は先述したように大極殿や大極殿南門、内裏など宮中枢部の重要建物の真下を通っていますから、これらが建てられる段階には埋められています。したがって、運河から出土する遺物は、少なくともこれらの建物が建つ前に、生産されて宮内に運ばれ捨てられたことになります。
 
 それでは、運河から出土した瓦はどういった瓦なのでしょうか。

 運河から出土する軒瓦で生産地が判明しているものは、奈良県橿原市日高山瓦窯、同県五條市牧代瓦窯、同県御所市・高市郡高取町高台・峰寺瓦窯があげられます。したがって、この三つの産地が少なくとも、大極殿造営前に生産が開始されていた瓦窯ということになります。

 これらの瓦窯の特徴としてあげられるのは、その所在地がいずれも大和にあるということです。                (つづく)



「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【3】  -運河出土軒瓦を読み解く-  (10.8.5.発行 Vol.86に掲載)

 運河から出土する瓦は日高山瓦窯、牧代瓦窯、高台・峰寺瓦窯といずれも大和産の瓦ということを前回はお話ししました。
 運河から出土した瓦がいずれも大和産の瓦だったということは藤原宮の屋瓦生産を考える上でも大きな意味をもっています。

 藤原宮所用瓦の産地は、前々回のメルマガでも述べたように、大きく分けて大和以外の遠隔地の瓦窯と大和の瓦窯との2種類があります。

 これらの違いは、瓦当文様や製作技法などにも影響しています。
 遠隔地の瓦窯には、忍冬唐草文と呼ばれる複雑な唐草文が瓦当文様に採用されており、製作技法としては粘土板技法と呼ばれる板状の粘土を用いた瓦作りが用いられています。粘土板技法は、飛鳥寺以来の瓦伝来当初から用いられている古い技法です。

 参考:忍冬唐草文軒平瓦(飛鳥資料館倶楽部サイト内画像)

 一方で、牧代瓦窯以外の大和の瓦窯では、軒平瓦の瓦当文様は偏行唐草文、製作技法は、藤原宮の屋瓦生産で本格的に導入された粘土紐を巻き上げて作る粘土紐技法とよばれる新しい技法を用いています。
 したがって、大和国内の藤原宮所用瓦窯よりも、遠隔地の瓦窯の方が古い手法を受け継いでいることがわかっています。

 参考:偏行唐草文軒平瓦

 このことから、従来から藤原宮の造瓦体制の理解として、前代未聞の大量の瓦を必要とする藤原宮造営のために、当初遠隔地にもともとあった瓦窯に製品を発注し、ある段階に大和国内で直轄の生産地を設け大量の瓦を生産し、次第に大和の特定の瓦窯に生産を集約していったと考えられて来ました。
 つまり、藤原宮造瓦に関しては遠隔地が古く(本薬師寺の瓦窯である牧代瓦窯は除く)、大和国内が新しいと考えられていたのです。

 しかしながら、運河から出土した瓦はいずれも大和にある瓦窯の製品でした。運河からは天武末(682~685)年の木簡が出ていますから、この頃まで大和の瓦窯の操業がさかのぼる可能性があります。このことはすなわち、藤原宮の瓦生産が始まったと同時に大和国内でも藤原宮屋瓦の生産が始まっていたことを意味します。
 おそらくは藤原宮造営のために、当初から最新技術(おそらく中国から学んだもの)を取り入れた瓦窯を大和国内に設置するとともに、従来あった遠隔地の瓦窯にも瓦を発注したのでしょう。とすれば、藤原宮屋瓦生産は、もともとあった瓦窯に頼るという従来の考えとは異なって、最先端の技術も積極的に取り入れた非常に綿密な生産体制を当初から構築していたということになります。

 このように近年の発掘調査の成果から、今従来考えられてきた藤原宮所用瓦の生産体制の理解が大きく変更されつつあります。



「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【4】-大和の藤原宮所用瓦窯-  (10.10.1.発行 Vol.90に掲載)

 運河がいつ埋まったか、残念ながら正確には分かりませんが、藤原宮遷都が694年ですから、この段階で宮のど真ん中を運河が南北に貫いていたとはちょっと考えられません。また文献で抑えられる限りでは、69年に公卿大夫を内裏に饗すという日本書紀の記事があることから、少なくとも内裏は695年には宮内に存在したことになります。内裏は運河を埋め立てた後に建てられているので、このときまでには埋まっていたことは確実でしょう。

 では、それぞれの瓦窯の特徴をみてみましょう。

 日高山瓦窯は現在の橿原市飛騨町にあって、朱雀門の南西約300mに位置することから、藤原宮所用瓦を製作する瓦窯としてはもっとも藤原宮に近い場所にありました。藤原宮に近い場所にあれば、瓦を運搬するにはとても便利ですが、天皇が生活する宮に近いところで、瓦を焼く窯の煙がモクモク上がっているのが、宮内の各建物から丸見えというのはあまり見栄えがよくありません。
 従って、日高山瓦窯は藤原宮が完成するころまでには瓦窯の操業は停止していたと考えられています。実際、日高山瓦窯で使用された瓦笵は、そのほとんどが高台・峰寺瓦窯に移動していますので、このことも宮造営の最終段階までは操業していなかったということの傍証になると思います。

 牧代瓦窯は、奈良県五條市にある瓦窯で、もともとは本薬師寺所用です。本薬師寺所用の瓦と藤原宮所用瓦の密接な関わりは、前にメルマガでも述べたとおりです。製作技法も粘土板技法とよばれる、粘土の板を桶や一木に巻きつけて瓦をつくる、飛鳥寺以来の古い技法を用いています。この技法は大和産の藤原宮所用瓦のなかでは少数派ですが、その一方で、大和以外の遠隔地で製作された藤原宮所用瓦はすべてこの粘土板技法が用いられています。
 このほかにも大和以外の遠隔地の瓦窯は、牧代瓦窯産の瓦と文様や製作技法での共通点がいくつかあって、本薬師寺の瓦工人が各地へ拡散した可能性も指摘されています。

 高台・峰寺瓦窯は、奈良県高市郡高取町と御所市とをまたぐ位置にあります。高台・峰寺瓦窯は、藤原宮所用の瓦窯では最大規模を誇り、大極殿や朝堂院をはじめ、中枢部の主要な建物の瓦の半数以上がこの高台・峰寺瓦窯で生産されました。また、瓦だけでなく、磚(せん)なども製作していたようで、藤原宮の瓦生産において高台・峰寺瓦窯が果たす役割は非常に大きなものがありました。

 高台・峰寺瓦窯は、日高山瓦窯で使用された瓦笵が移動してくることもあり、従来は藤原宮の瓦生産の中でも比較的遅い段階で操業を開始する瓦窯と考えられてきました。
 しかしながら、第160次調査で検出した運河から派生する東西溝から高台・峰寺瓦窯産の瓦が、大和の中では比較的生産が早いと考えられていた日高山瓦窯産や牧代瓦窯産の瓦と一緒に出土したことによって、高台・峰寺瓦窯は藤原宮造瓦の初期の段階から生産を開始していた可能性が高くなりました。

 このように、大和では、日高山瓦窯、牧代瓦窯、高台・峰寺瓦窯から造営が開始されたと考えられます。その後、やや遅れて朝堂院所用の瓦を作る瓦窯として、平群町安養寺瓦窯、大和郡山市内山・西田中瓦窯などが設置されました。      (つづく)



 
「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【5】-宮を彩る数々の瓦-  (10.11.26.発行 Vol.94に掲載)

 遷都1300年祭も11月7日で無事に幕を閉じました。ですが、裏企画藤原宮廃都1300年祭はもう少しだけ続きます。

 前回までは、主に藤原宮造営期の瓦生産を軸に話をしてきましたが、今回は建物に瓦が葺かれた後の話、藤原宮の各建物を飾った屋根瓦について考えてみたいと思います。

  藤原宮で使用された軒瓦は、その時代を代表する様式のひとつとして、「藤原宮式軒瓦」と呼ばれています。
藤原宮式軒瓦

 軒丸瓦は、蓮弁は複弁と呼ばれるもので、弁と子葉がふたつあわさってハートのような形をしています。蓮弁の数は八弁、蓮弁の周囲には、珠文と呼ばれる点珠と、鋸歯文がめぐります。

 軒平瓦は右から左、もしくはその逆の左から右に流れる唐草文=偏行唐草文を中心に、その周囲に珠文のみがめぐるものと、上部に珠文、下部に鋸歯文がめぐるものとがあります。軒平瓦は、偏行唐草文のほかにも忍冬唐草文をモチーフ化した変形忍冬唐草文も存在します。

 偏行唐草文軒平瓦の一例 (飛鳥資料館倶楽部内画像)
 変形忍冬唐草文軒平瓦の一例 (飛鳥資料館倶楽部内画像)

 藤原宮から出土する軒瓦は現在軒丸瓦が32種、軒平瓦が28種確認されています。

 発掘調査では、建物毎に出土する軒瓦が異なることがわかっており、現
在はその建物の調査で最も多く出土した軒丸瓦および軒平瓦の型式をその建物の所用瓦として認定しています。

 藤原宮で使用された瓦は文様や製作技法などから、大極殿・朝堂院などの中枢部と、宮を取り囲む大垣とのふたつのグループに分けることができます。

 大極殿・朝堂院で使用された瓦は、ほとんどが大和産の瓦、それも御所市および高市郡高取町高台・峰寺瓦窯、大和郡山市西田中・内山瓦窯、生駒郡平群町安養寺瓦窯で焼かれたものです。

 一方、大垣で使用された瓦は大和産の瓦の他に、近江産や讃岐産、和泉産など大和国外で使用された瓦が含まれています。

 瓦の新旧からいえば、大垣のほうが古く、中枢部の建物のほうが新しい様相をもちます。なかでも東面大垣周辺に古い様相の瓦が多く出土しており、西に向かって次第に新しい様相の瓦が出土する傾向にあり、西面大垣では中枢部と同じ瓦も多く出土しています。

 もちろん、出土瓦の様相が示すのは、屋根が葺かれた段階の状況です。ですが仮にこれらが藤原宮の造営過程を反映しているとすれば、藤原宮造営はまずは大垣、それも東面大垣から着手されたと考えられます。



「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【6】 -藤原京遷都後の宮の様子-  (11.1.21.発行 Vol.99に掲載)

 前回は、藤原宮の各建物に葺かれた瓦の話をしました。藤原宮のお話もいよいよ終盤に近づいてきました。今回は藤原京遷都後の藤原宮の様子について考えてみたいと思います。

 持統6(694)年12月、持統天皇は、飛鳥浄御原宮から藤原宮へその住まいを遷します。藤原京遷都です。持統天皇が藤原宮へ遷居したとき、宮内の建物はどのような状況だったのでしょうか。

 まずは天皇の住まいである内裏は、当然のことながら完成していたと思われます。実際、遷都の翌月にあたる翌年の持統7(695)年1月には、「公卿大夫を内裏に響す」という記事が『日本書紀』にはみえます。
 一方で、宮の主要建物である大極殿や朝堂が文献に登場するのは、遷都よりももっと後のことで、大極殿は文武2(698)年、朝堂にいたっては大宝元(701)年が文献での初見記事になります。したがって初見記事=建物の完成年代とすれば、藤原宮の建物が完成したのは遷都よりもずっと後のことになります。

 大極殿と朝堂の完成時期はいつなのか、これは非常に重要な問題ですが、発掘調査からはまだ決定的な手がかりは得られていません。ただし、少なくとも朝堂院をめぐる回廊は、藤原宮遷都よりもかなり造営が遅れたことがわかっています。

 第128次藤原宮朝堂院回廊東南隅の調査では、回廊の東側で南北に流れる大溝を検出しています。この大溝は、朝堂院回廊の雨落ち溝の下層にあることからも、朝堂院回廊が完成した時には埋められていたことが確実です。大溝埋土には、大量の瓦片や木くずを含み、建物造営時に出るゴミを捨てたと考えられています。この大溝から大量の木簡が出土しており、そこから大宝元~3(701~703)年の紀年銘が書かれた木簡が出土しました。したがって、この溝は少なくとも大宝3(703)年までは機能していたことになります。このことからも朝堂院回廊が完成をみたのは、大宝3(703)年以降になり、少なくとも朝堂院回廊に関しては、藤原京遷都よりも随分遅れて完成したことが明らかとなりました。

 ちなみにこの大溝からも大量の瓦が出土しています。出土する瓦は、使用された痕跡がほとんどなく、細かく粉砕して捨てられたとみられる破片も多くみられます。おそらくは回廊造営時に不要な瓦を捨てこんだのでしょう。
 ここから出土する軒瓦は、高台・峰寺瓦窯、内山・西田中瓦窯、安養寺瓦窯の製品です。これらは、前回のメルマガでも述べたように、大極殿および朝堂院用の瓦を作った瓦窯です。したがって、これらの瓦窯が大宝3(703)年の段階でも、操業していた藤原宮所用瓦窯と考えられます。          (つづく)



「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える」
【7】 -藤原宮廃都、そして平城宮へ-  (11.4.1.発行 Vol.104に掲載)

 7回に渡って連載してきた藤原宮廃都1300年祭企画、「藤原宮発掘調査成果から藤原宮造営を考える」も今回が最終回です。今回は、藤原宮廃都、そして平城宮へと題したテーマについて考えてみたいと思います。

 朝堂院東面回廊の雨落溝より下層にある南北大溝から大宝元年から3年(701~703)の木簡がでていることから、朝堂院東面回廊の完成はこれより遅れるというお話は前回のメルマガでしました。
 平城遷都に向けて文武天皇が遷都の議論をしたのが、慶雲4年(707)年、元明天皇による「遷都の詔」が下されたのは和銅元年(708)年2月ですから、朝堂院回廊が完成してまだ幾ばくもたってない頃から、すでに時勢は平城遷都に向けて大きく舵取りをしていったことになります。

 平城遷都の理由は、長らく途絶えていた遣唐使が大宝2年(702)に再開され、慶雲元年(704)に唐から帰国した遣唐使より、唐の長安城に関する最新情報がもたらされ、藤原宮には羅城門がないことや、京の中心に宮が位置するなど、長安城を模範とした律令国家の都城としては藤原宮の不十分な点があまりに致命的であったこと、また藤原宮周辺の地形は飛鳥川の流れに相応して、南東から北西に向かって傾斜しており、宮内の排水が、天皇のいる北に向かって流れ込むことなど、いくつかの理由が挙げられているのはご存じの方も多いのではと思います。

 藤原宮内で発掘調査をしていると、藤原宮が低湿地に立地していることはよくわかります。地下から水がこんこんと湧きだして、遺構検出に支障をきたすこともしばしばです。
 実際、宮内では古墳時代以前の沼状地形(107・120・125・132・144次調査など)や旧河川・流路などが見つかっており、これらの多くは宮の造営にともなって埋め立てられているのがわかっています。
 藤原宮はこのような低湿地の軟弱地盤の上に建設された宮なのです。

 しかしながら、藤原宮はこういった不安定な地盤の上に立地しているにもかかわらず、建物を建てるための念入りな地盤強化は、一部の建物以外はあまりおこなわれていなかったことが発掘調査からもわかっています。
 藤原宮内で地盤強化のための掘り込み地業が確認されているのは、2007年に発掘された153次藤原宮大極殿院南門、そして戦前に日本古文化研究所で発掘された大極殿だけです。
 そのほかの朝堂や回廊・門などの礎石建物は、掘り込み地業はなく、整地土の上に基壇土を積んでその上に建てられています。
 軟弱地盤の上に掘り込み地業もせずに礎石建物を建て、そして屋根には1枚10kg近くにもなる重たい瓦を数万枚も乗せた建物が、果たしてどれだけもつのかは甚だ疑問です。
 たとえ平城遷都がなかったとしても、このような状態では早い段階で建て替えを必要としたのではと推測されます。
 このことからも、藤原宮は律令国家の象徴としての不十分さや地形的な問題点に加え、建物構造自体にも問題があったのではという気がしています。

 さて、次に平城京遷都に目を向けてみましょう。平城京遷都に際して、柱や瓦など、平城宮で再利用できる部材は藤原宮から平城宮へ持ち運ばれたことはよく知られています。
 特に平城京の第一次大極殿は藤原宮の大極殿と規模が同じであることから、藤原宮の大極殿が平城京へ移築されたと考えられています。建物が移築したのですから、当然、平城京の大極殿の屋根を飾った軒瓦も藤原宮の軒瓦を使用しているのかと思えば、意外にも平城で新たに製作された瓦を用いて屋根が葺かれています。せめて、屋根瓦だけでも新しいものにとりかえて、新しい都の門出を演出したのでしょうか。

 では藤原宮から平城宮に運ばれた瓦はどこに使用されたのでしょう。
 藤原宮の瓦は、平城京の朝堂院の区画塀や大垣に多く用いられているのが最近の研究で判明しています。
 藤原宮では、建物ごとに用いる瓦の文様は決まっていましたが、平城京へ運ばれた瓦にはそのような規則性はみられません。どうやら、文様は関係なく平城宮へ運ばれた順に屋根に葺かれていったようです。

 藤原宮の瓦を平城宮に運び出す際には、屋根から下ろす段階で厳しくチェックがなされ、割れていたり、痛んでいる瓦は、そのまま藤原宮に捨て置かれました。それらが現在藤原宮の発掘調査で出土する瓦だと考えられます。

 したがって、平城宮から出土する藤原宮の瓦は、藤原宮造営から、平城京遷都へと激動の時代をくぐり抜け、日本における律令国家の形成と発展を見つめ続けた時代の証人(証瓦?)といえるかもしれません。
 このように、日本初の瓦葺宮殿である藤原宮を構成したさまざまな部材は、今度はより強固な律令制都城の建設のために平城宮で再利用されたです。    (おわり)
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 13回に渡って連載させていただいた「ただ今、飛鳥・藤原修行中!」は、今回をもっていったん終了させていただきます。
 メルマガのタイトル通り、飛鳥・藤原を発掘修業しつつ、皆さんと同じように飛鳥・藤原京を愛し、勉強する気持ちで、連載を続けさせていただきました。風人さん、ももさんには、メールマガジン連載という貴重な機会を与えていただいたこと、そして拙い文章を根気よく編集していただいたことに心より感謝いたします。また、どこかでお会いする機会もあると思います。そのときには、さらなる修業の成果をお見せできるよう、日々鍛錬を積んで皆様の前にお目にかかる所存ですので、これからもどうぞよろしくおねがいします。          
ゆき  



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