両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪






 吉野山と飛鳥のご縁

吉野歴史資料館 中東洋行先生
(14.8.8.発行 Vol.194に掲載)


 はじめまして、吉野歴史資料館の中東と言います。この度、風人様、もも様のご厚意で寄稿させて頂くことになりました。皆様、よろしくお願いします。

 ところで、皆様はご存知ですか?今年度は『紀伊山地の霊場と参詣道』が世界遺産に登録されて10周年目になるんですっ!かつて吉野山を訪れた、空海も源義経も後醍醐天皇も豊臣秀吉も松尾芭蕉も、まさか吉野山が世界の遺産になるとは思いもしなかったでしょうね。

 世界遺産の一部、吉野山は“桜”そして“修験道”というイメージがすっごく強いのですが、実は歴史の宝庫でもあります!山のあちこちに、“あの”有名人にまつわる物語が散らばっていて、これを探してみるのも中々乙なものですよ。時代を超えて、“あの”有名人と同じ場所で景色を見ることができるなんて、なんともロマンチックじゃないですか!

 飛鳥から芋峠を越えれば、そこはもう吉野。この道は大海人皇子や持統天皇が通った道としても知られています。そんな飛鳥と近しい場所だからこそ、吉野には飛鳥に関わりのある物語も多く残されています。それは吉野山も例外ではありません。今回は、吉野山と大海人皇子の物語を2つお話しましょう。

 1つ目の物語の舞台は、勝手神社の裏にある袖振山です。かつて大海人皇子が吉野に出家した折、皇子が社殿で琴を奏でたそうです。すると、袖振山から天女が舞い降りてきて、袖を翻して舞った、というのです。これが、袖振山の名前の由来とされています。

 2つ目の物語の舞台は、桜本坊です。ここには、夢見の桜とよばれる桜の老木があります。この桜にまつわる物語です。壬申の乱以前、大海人皇子は「桜本坊」の前身である「日雄離宮」を皇居としていました。ある冬の日、大海人皇子は桜が咲き誇っている夢を見ます。そしてその翌朝、皇子が目覚めると庭の桜が一本咲き乱れていたのです。この夢は「近々皇位につく良い知らせ」であり、壬申の乱の勝利を暗示していた、ということです。

 なお、この話には後日談があります。この桜にまつわる大海人皇子の不思議な出来事により、役行者の高弟角乗は日雄寺の号が与えられ、日雄角乗と名乗った、ということです。こんなところで、大海人皇子と桜と修験が結びつくなんて、なんとも吉野らしいですね。意外なところで飛鳥と吉野がつながるんだなぁと面白く思ってもらえたら幸いです。

 さてさて、そんな吉野山をふくむ『紀伊山地の霊場と参詣道』について、今年度吉野歴史資料館では、特別陳列「古代末~中世の金峯山寺」を開催したり、吉野を学ぶ歴史講座、公開講演会などの各講座で大特集したりしちゃいます!

 歴史講座では“金峯山寺”をテーマに8月中に講座を3回、“大峯奥駈道”をテーマに9月から10月に講座を3回行います。公開講演会では、11月に“吉野山と空海”をテーマに奈良県立橿原考古学研究所所長の菅谷文則氏にご講演いただきます。吉野山や大峯奥駈道にまつわる“実は”が盛りだくさんの1年間。大海人皇子や奥さんの持統天皇のように、ひと山越えて吉野を訪れてはいかがでしょうか。













 弘法大師でもつながる飛鳥と吉野の物語

吉野歴史資料館 中東洋行先生
(14.9.5.発行 Vol.196に掲載)


 どうも、吉野歴史資料館の中東です。またまた、メールマガジンにお邪魔しました。

 明日香村で有名な遺跡の一つに川原寺跡がありますよね。川原寺は、斉明天皇の仮宮であった飛鳥川原宮の跡地に、天智天皇のころに造営されたとされるお寺です。最近では、飛鳥光の回廊の舞台になっており、単に遺跡としてだけではない観光スポットとして、人気をあつめていますね。かくいう私も、川原寺の裏手にある川原寺裏山遺跡に係わるなどしていて、川原寺とは奇妙な御縁があったりします。

 さて、ともすれば忘れてしまいがちになりますが、この川原寺は弘法大師ゆかりの寺としても有名なのはご存知でしょうか?平安時代初期(832)、時の上皇嵯峨上皇が、川原寺を弘法大師に賜与された、と『水鏡』は伝えています。中世頃は、弘法大師ゆかりの寺としても川原寺は人気をあつめた、といいます。

 あまり有名ではないかもしれませんが、吉野町も弘法大師と所縁があったりします。飛鳥時代だけでなく平安時代にも、こうして歴史上の有名人を介して飛鳥と吉野が結びつというのは面白いものですね。ちなみに、その吉野町と弘法大師の御縁というのは、空海の弟子がまとめた詩文集『性霊集』にみることができます。これによると空海は、吉野山から1日南行し、さらに西に2日間歩いて高野山に至ったと書かれているのです。整備もされていない山々を3日も歩き続けたなんて、弘法大師の苦労はいかばかりのものだったのでしょう・・・。

 なぜ、このような話をするのかと言いますと・・、実は来年、平成27年は高野山開創1200年にあたるという事で、今、弘法大師が徐々に注目されてきているという情報をキャッチしたからなんです!実際、奈良県では「NARA弘法大師の道」というHPを作成様々なイベントを実施されてきております。

 かく言う吉野町でも、奈良県立橿原考古学研究所所長 菅谷文則氏をお招きして、「吉野山と弘法大師 空海少年の日の修行の道」という演題で、11月9日に講演をお願いしているところです。これを機に、飛鳥時代から少しはなれた飛鳥に、思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。













 吉野をぶらっと歩いてみれば 吉野山編

吉野歴史資料館 中東洋行先生
(15.2.20.発行 Vol.209に掲載)


 どうもどうも、吉野歴史資料館の中東でございます。この度は吉野にお越しいただけるとのことで!せっかくの機会でございます。不肖ワタクシ、吉野の見どころなどについて、紹介方々語らせていただきます。

●実はお城の吉野山
 吉野山と言えば桜の名所!実際、国指定の名勝となっています。が、しかし!吉野山は吉野城跡という遺跡にも指定されていることはご存知ですか?


史跡・名勝吉野山

 吉野城は全長およそ6kmにおよぶ巨大なお城。今からおよそ700年前、南北朝時代に活躍しました。「え?吉野山のどこにそんな大きなお城があるの?」という声が聞こえてきそうですが・・・、実は吉野山すべてがお城として利用されていたのです。
 
 吉野城の発想はとんでもないものでした。吉野川をお城のお堀に、山へ登る急な斜面をお城の石垣に、金峯山寺などの寺々を城の建物に、とそれぞれ見立てたのです。700年も前に、なんて大きなスケールで吉野山をとらえていたのかと、ただただ驚かされます。

 吉野山がお城として用いられた結果は、皆様ご存知の通りです。「歌書よりも軍書に悲し吉野山」とは松尾芭蕉の弟子、各務支考の歌ですが、この歌がすべてを物語っているといえるでしょう。

●聖地×修験道=不思議?
 お城として使われた歴史はあるものの、やはり吉野山といえば修験道の聖地。かつては金が眠る不思議な山、あるいは弥勒菩薩が生れる地としても信仰をあつめました。

 金峯山という言葉をご存知ですか?金峯山とは、吉野山から大峯山上ヶ嶽までの峰々の総称です。かつては、この金峯山全体がひとつの信仰対象でした。金峯山の山上(=大峯山寺)で蔵王権現を感得した役行者が、その姿を桜の木に写し取り、山下(=吉野山)に祀ったことが吉野山のはじまりです。ちなみに、これが吉野山の桜の縁起にもなります。

 修験道は仏教でも神道でもない宗教で、仏教と神道のエッセンスが混ざった部分があります。このことは、吉野山の建造物にも影響がみられます。例えば、銅(かね)の鳥居。この鳥居は別名発心門ともいい、修験者たちが修業への意気込みを新たにする門でもあります。鳥居は本来、神道のもの。しかし、その鳥居の下を見てみると、仏教の要素である蓮の花が表現されています。まさに神道と仏教のハイブリッドといえるでしょう。

●山の上でどうやって?
 吉野山は細い尾根筋の上にあります。だから、建物を建てるには場所が狭いのです。吉野山の全景を見ていただくと、この様子を見て取ることができると思います。

 その吉野山で、広大な平坦地をもつ寺院があります。金峯山寺です。発掘調査により、この平坦地はあちこち盛り土をして、少しずつ確保されてきたことが分かってきました。あれほどの平坦地を確保するまで、一体、どのくらいの費用や労力がかかったのでしょう。そのうえ、その平坦地にあの巨大な蔵王堂を建てているのですから、修験道総本山である金峯山寺の凄さが伺われます。


国宝金峯山寺本堂

 では、他の寺院ではどうでしょうか。吉水神社を拝観されるとき、外の景色だけじゃなくて建物の下を覗いてみてください。まるで京都にある清水寺のような、足場状のものが見えると思います。実は、吉野山の建物の多くは斜面地を利用した建てられ方をしていて、3階建ての2階部分が道に面していたり、1階部分が大きく崖にせり出したりしているのです。この建て方は、俗に“吉野建て”と呼ばれています。

 狭い土地でいかにして住むか。吉野山の人々の知恵は、実は足元に潜んでいたのです。

●義経と静の悲喜こもごも
 吉水神社をでて五郎兵衛茶屋へ向かう途中、勝手神社跡地の横を通ります。勝手神社については、以前、大海人皇子の伝説があることを紹介しましたね(飛鳥遊訪マガジンVol.194)。この神社は大海人皇子以外にも、源義経にまつわる逸話が残されています。

 平家との戦いが終わった後、兄頼朝に追われることになった義経一行。逃避行の最中、彼らは吉野山を訪れ、静御前と別れることになります。別れた後、静は勝手神社で舞を舞ったと伝えられています。

 吉野山 峯の白雪踏みわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 話は前後しますが、義経一行は如意輪寺~喜佐谷の山道を歩いた、ともいいます。この山道には途中、鏡岩・化粧岩と呼ばれる岩があります。その名前は、静が化粧をし、その姿を写したことに由来する、とか。

 山を下って喜佐谷を抜け、吉野川沿いにまで出てくると、うたた寝橋という橋の跡があります。ここには屋形橋という、屋根付きの立派な橋がかかっていました。この橋の由来は、義経がうたた寝をしたから、と伝えます。義経にまつわる悲喜こもごもの伝承が、皆様の歩かれるそこかしこに眠っているのです。

 そろそろ文章が長くなってきました。今回はこの辺で一息いれましょう。お話の舞台も宮滝付近までやってきました。次回は宮滝周辺について語りたいと思います。














 吉野をぶらっと歩いてみれば 宮滝周辺編

吉野歴史資料館 中東洋行先生
(15.3.6.発行 Vol.210に掲載)


 史実と伝承が入り乱れる吉野の世界へようこそ。前回に引き続き、不肖ワタクシ、吉野の見どころなど語らせていただきます。

●360度『万葉集』の世界!?
 吉野山から宮滝に向かって山道を下りてくると、杉並木が途絶え、谷筋の集落にでます。ここは、喜佐谷。ここを流れる川は象(きさ)の小川といいます。この小川、実は『万葉集』にうたわれております。山道を抜けるとそこは万葉の世界だったなんて、なんだかオシャレですよね。


象の小川

 さて、象の小川に沿って足をすすめましょう。喜佐谷を抜けると、眼前に吉野川が広がります。川の向こうはもう宮滝。吉野宮があった場所になります。この辺りでは、吉野川の両岸から岩がせり出していて、ちょっとした渓谷状の景色を堪能できます。川幅が狭まり、岩や石がゴロゴロしている中を川が流れるので、水がバシャバシャとたぎります。水がたぎる場所、そう、これが吉野宮の異称、“滝(たぎ)つ宮処”の“滝”の景色になります。余談ですが、私たちがふつう想像する滝は、“瀑”といったようです。


宮滝と吉野川

 そんな水がたぎる吉野川で、一か所、水が静まる場所があります。ちょうど象の小川が吉野川に注ぎ込むあたり。ここを万葉人は、“夢のわだ”とよび、『万葉集』に詠みました。ここで、少し後ろを振り返ってみましょう。当然ですが、目の前には喜佐谷からおりて来た道があります。そして、その両脇に二つの大きな山がそびえていることに気づくでしょう。喜佐谷に向かって右の山を象山、左の山を三船山といいます。これらの山々も『万葉集』に詠まれた場所。まさに、360度すべてが『万葉集』の世界になるのです。

●ふたつの宮
 360度万葉の世界から、橋を渡るとそこが宮滝。宮滝は集落の一部が宮滝遺跡に指定されています。宮滝遺跡では、2時期の宮の跡が確認されています。一つは奈良時代の宮跡。そして、もう一つが飛鳥時代の宮跡です。

 奈良時代の宮跡は、奈良の大仏をつくったことで有名な聖武天皇が訪れた、吉野離宮の跡に比定されています。宮滝の集落の西(下流側)半分ほどの範囲一帯に広がっていたことが分かってきています。興味深いことに、ここでは川原石を使った舗装の跡や溝が発掘調査で確認されています。平城京跡では、このような川原石を使った舗装の跡などはほとんど確認されていません。でも、なぜかここには導入されています。あたかも、伝飛鳥板葺宮跡で復元されているような風景が、奈良時代の宮滝にあったのです。

 もう一つの飛鳥時代の宮跡については、壬申の乱はじまりの地、吉野宮になります。ここでは、深さ60cm程の人工の池や建物の跡が見つかっています。残念ながら、宮の本体の場所は確認されていないのですが、現在醤油さんがある場所の下あたりではないかとみられています。

 宮の本体が見つかっていないのになぜ宮跡と分かるのでしょうか。それは、先ほど述べた池こそが最大の証拠です。この池、構造が少し特殊で、わざわざ一角にミニ池がつくられています。その構造は、古墳時代から続く“水の祭祀”場所に共通性がみられる、特殊なものとなっています。このことから、この池はただの池でなく、苑池だったことが分かります。

 しかもこの苑池では、水の管理用に長さ1mほどもある土管が使われていました。飛鳥時代の土管としては最大級のものです。しかもこの土管、非常に硬く焼しめられていて、窯で焼かれたことが疑いありません。この山奥で、わざわざそのようなものを使い、苑池がつくられている。お上の関与がないなんて、考えられません。まさにこの池が、宮滝=吉野宮の最大の証拠なのです。

●神代の言い伝え
 最後に一つ、面白い話をしましょう。大海人皇子にまつわる伝説と、神さまのお話です。
 
 喜佐谷から吉野川に出る途中、桜木神社という神社の前を通ります。この桜木神社にはかつて、大海人皇子が吉野に逃げてこられたとき、追手をやり過ごした桜があったといいます。今、そのような桜の木はありませんが、そういわれるとそうなのかな、と思うような雰囲気がそこはかとなく感じられます。


桜木神社

 桜木神社の神さまは、疱瘡(ほうそう:天然痘)の神さま。江戸時代頃は広い範囲から信仰をあつめたといいます。ところでこの神様、吉野山の女神コノハナサクヤヒメが大好きで、夜な夜な吉野山に通っているそうです。皆様が吉野山から喜佐谷へ降りてきた山道は、この神様にとってはまさに恋の道。今夜もいそいそと山へ登られることでしょう。

 そう思って、資料館から象山と三船山の間(喜佐谷)を眺めると、皆さんが歩いてこられた場所が、不思議な景色にみえてくるのではないでしょうか。

 さて、2回にわたり皆さんが歩かれるコースに沿って、吉野の見どころを語ってまいりました。これ以上喋ると、ワタクシのもちネタが・・・。ゴホンゴホン。この辺りでワタクシからのお話は終わらせていただいて、皆さんが来られる時の楽しみを残しておきたいと思います。3月、皆様とお会いできる日をお待ち申し上げております。













 吉野と飛鳥のご縁 その2
~郷土史家・中岡清一~


吉野歴史資料館 中東洋行先生
(15.12.25.発行 Vol.231に掲載)


 飛鳥時代や奈良時代やと話をしていると、昭和なんてつい最近!「そんなこともありましたねぇ」なんて感じで、知らないことなど無いような気持ちになりますが・・・。

 ところがどっこい!意外に知らない事ってあるものですねぇ。今回ご紹介するのは、吉野でも飛鳥でも発掘調査を行った、とある郷土史家のお話です。お名前を、中岡清一さん、といいます。

 今からおよそ85年前の昭和4年、旧・飛鳥村で中岡清一さんが発掘調査を行いました。場所は、旧・飛鳥小学校付近・雷丘東方付近の3カ所。調査の目的は、「飛鳥の地下に石が敷き詰められた場所(石敷き遺構)がある」という情報の事実確認でした。そして、発掘調査によって飛鳥の地下に石敷き遺構が眠っていることを確認し、報告されたのです。

  さて、ではなぜ中岡清一さんは飛鳥の地下にある石敷き遺構を確認する
 ために、発掘調査をしようと思ったのでしょうか。

 実は、その背景には宮滝遺跡の存在がありました。当時、『日本書記』にでてくる「吉野宮」がどこにあったのか、研究者の間で大きな論争がおこっていました。有力な候補地は二つ。一つは、森口奈良吉さんが主張された現・東吉野村小川説(丹生川上神社(中社)付近)。もう一つが、中岡清一さんが主張した宮滝説でした。

 両者とも、自身の説が正しいことを証明するため、努力を惜しみませんでした。昭和2年頃から、森口奈良吉さんは文献資料などの精査を、中岡清一さんは宮滝遺跡の発掘調査を、それぞれ始めていきます。その結果、中岡さんは宮滝の地下に石敷き遺構が眠っていることを確認し、宮滝こそ「吉野宮」の跡だと、さらに認識を深めていったのです。

 しかし、中岡さんの方法には欠点がありました。石敷き遺構が宮に関わるものといえるのかどうか、当時は判断できる根拠が何もなかったのです。今日ではあちこちで発掘調査が進んでいるので、宮の構造などが分かってきています。石敷き遺構の類例についても、多くの情報が蓄積されています。ですが、当時はまだ宮の構造などはほとんど分かっていませんでした。

 そこで中岡さんが目を付けたのが、「飛鳥の地下に石敷き遺構がある」という情報でした。かつて都があった飛鳥で石敷き遺構があるのなら、石敷き遺構というのは当時の宮殿建築の特徴とみていいのではないか・・・。(ということは、宮滝の石敷き遺構は宮殿建築に伴うものとみてよいのではないか・・・。)こうして、一人の行動力ある郷土史家によって、昭和4年に飛鳥の発掘調査がはじめられたのです。

 ちなみに、中岡さんが飛鳥で発掘調査を行った場所は、今日では“石神遺跡”とされている範囲にあたります。石神遺跡といえば、飛鳥時代の迎賓館跡といわれている遺跡。須弥山石が出土した遺跡として、有名ですよね。だから、当時よりもいろんな事が明らかになってきている今の目からすれば、中岡さんの行動・考察は「う~ん、おしい!」なんて気持ちがしないでもないですが・・・。

 と、ともあれ、85年も昔、自分で歴史の1ページを明らかにするのだと、私費を投げ打って発掘調査を行い、自費出版で報告書の刊行までされた郷土史家がおられた。そして、その方が調査をされた場所というのが、飛鳥と宮滝であった。・・・なんとなく感慨深いものがありますね。いやぁ、昔の人はすごいなぁ!

 ※ここでご紹介したことは、中岡さんが1929年に刊行された著書(自費出版)『飛鳥浄御原宮跡一部発掘二就テ』という本によっています。
 ※吉野宮所在地論争については、紙面の都合上、書ききれなかったことがたくさんあります。悪しからずご了承ください。



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