両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第11回定例会
天空の里を訪ねる
―秋の多武峰談山神社から天空の里「尾曽」を巡る―

真神原風人
(Vol.32~Vol.35に掲載)
桜井から尾曽へ
尾曽から石舞台へ
談山神社
冬野
良助法親王冬野墓
藤花山威徳院
気都倭既神社
細川谷古墳群
上居立石



【1】 「桜井から尾曽へ」  (08.10.3.発行 Vol.32に掲載)

 第11回定例会「天空の里を訪ねる」のコース概要をお知らせいたします。

 桜井駅より奈良交通バスで、談山神社バス停に向かいます。バス停から談山神社に歩き、ゆっくりと神社を拝観します。紅葉には少し早いと思われますが、秋の談山神社の風情を楽しんでいただきます。拝観は自由見学といたします。
 (注)西入山受付付近で、コース最後のトイレをお使いください。

 西入山受付付近で、再集合後に西門跡へと急坂を登ります。短い距離ですのでご安心ください。おおよそ200mで、西門跡に着きます。ここからは、金剛・葛城の連山を背景に遠望が利き、ここで景色を眺めながらの昼食といたします。
 食後、冬野への山道にかかります。おおよそ750mで、150mを登ることになります。ただ、地面が落ち葉の柔らかな山道ですので、思うほどの辛い行程ではありません。ゆっくり上がって行きます。

 冬野集落の手前に、冬野川水源があります。お不動さんが祀られており、水源が大事にされていることが分かります。この名水は、夏場にこの地を訪れる者に、その冷たさと清涼感で生き返る思いをさせてくれます。水源を過ぎると、冬野の集落は目前です。現在お住まいの方は数軒になっていますが、往時は吉野へ向かう人たちの宿や茶店で賑わったと聞きます。松尾芭蕉や本居宣長もこの道を吉野へと向かいました。冬野集落が、今回のコースの最高地点となります。


冬野から竜在峠への道

 竜在峠への道と別れ、私達は上畑の集落を目指します。広いゆったりとした下り坂が続きます。冬野を出るとすぐに、鎌倉時代の第90代亀山天皇の皇子である良助法親王冬野墓があります。良助法親王は、幼少から仏門に入り京都青蓮院尊助法親王の弟子となった後、天台宗延暦寺第百世の座主になった方です。後に多武峰清浄院に住され、文保2年(1318)、親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられています。

 上畑の集落に出ると牛舎があり、愛嬌のある牛や奥飛鳥マニアには知られた山羊などがウォーキングの疲れを癒してくれます。分教場跡近くから、尾曽への古道に下ります。ここからは再び山道を歩くことになります。750mで150mを一気に下ります。下り着いた平らな空間が、今回の目的地「尾曽」の集落になります。山肌の僅かな平地に出来た集落です。数軒の民家と威徳院という真言宗のお寺があるばかりの、静かな空間です。万葉展望台付近からこの尾曽の集落を見ると、まことに天空の里と呼びたくなる風情を示しており、数年前から「天空の里」と事務局では呼び習わすようになりました。


尾曽の集落

 尾曽の集落に入ると立派なお寺があります。真言宗豊山派のお寺で、藤花山威徳院と言います。真言宗豊山派と言う事ですので、長谷寺の末寺ということになりますが、江戸時代の末より毘沙門天を祀り、毘沙門信仰で知られているようです。また、古くは飛鳥時代に、聖徳太子の師僧としても知られる日羅上人が、紫の雲をまとった毘沙門天を本尊として建立されたお寺がその始まりだとする伝えもあるようですが、未詳の伝説であるようです。


尾曽からの展望1(クリックでで拡大)

尾曽からの展望2(クリックでで拡大)
 集落の外れからは、畝傍山や葛城の連山を遠望することが出来ます。足を休めながら、景観を楽しみましょう。 




【2】 「尾曽から石舞台へ」  (08.10.17.発行 Vol.33に掲載)

 引き続き、第11回定例会のルート概要を綴ります。今号は、尾曽の集落からの下りを書いて行きます。

 尾曽の集落からは、狭い森の中の車道を下ります。静かな山中の道です。下りきった所が、「上(かむら)」の集落にある「気都倭既(きつわき)神社」になります。鬱蒼と茂る森は、「茂古森(もうこのもり)」と呼ばれ、乙巳の変に関わる伝承を秘めています。この当たりは、難読地名が続きます。

 皆さんは、乙巳の変で蘇我入鹿が首を切られ、その首が宙を飛んだという話をご存知だと思います。この話には様々なバリエーションがあります。最短の飛翔距離が600mで、落ちた所が「入鹿首塚」へ直接飛んできたというお話です。首塚の場所に落ちるより前に、中臣鎌足をこの上の気都倭既社付近まで追い掛け回したとする話があります。鎌足はこの地まで逃げてくると、「もう来ぬだろう」と石に腰を下ろして休んだとされます。ですから、この森を「もうこの森」と名付けて、境内には鎌足の腰掛石が残ると伝えられます。茂古森には、蔦が不気味に這い伝い、あたかも入鹿の怨念が今も渦巻いているかのごとくです。
 「もうこの森」や「気都倭既神社」のお話は、号を改めてもう少し詳しくご紹介します。

 神社からは、上・細川・上居と石舞台に向かって下って行きます。段々畑を左右に見ながら、冬野川に沿って緩やかな下り坂が続きます。この細川谷には、約200基の古墳が分布しています。ほとんどの古墳が未調査のため、詳細はほとんど分かっていないようですが、多くのものが直径8~15m程度の小円墳であるとされます。ごく一部の調査された古墳は、6世紀末から7世紀初頭の築造と推定されているようで、古墳群もそれに前後する時代のものであろうと推測されています。

 気都倭既神社から僅かに下った辺りに、石室が剥き出しになった古墳が一基見えます。もう一つの石舞台などと言われることもあるのですが、棚田の最上部に見えるその姿もまた飛鳥ならではの景観の一つなのかも知れません。若干コースを外れますが、ご案内したいと思っています。


細川の石舞台

 また、細川の集落に向かう最中にも、石室が露出している古墳が見えます。細川の集落で、新しく広い車道と合流するのですが、その北側の斜面に細川谷古墳群最大の石室を持つ打上古墳があります。7世紀初頭の築造で、南に開口しています。急斜面を登らねばなりませんので今回は見学しませんが、古墳に興味をお持ちの方は、一度訪ねてみてください。

 車道を石舞台に向かいます。南(左)に阪田の棚田が見えてくる頃、明日香循環バス(金かめバス)の停留所があります。上居という集落の麓になるのですが、集落への登り口に飛鳥の謎の石造物の一つ「上居の立石」があります。この立石は自然石のように見えますし、条理境界や寺院の結界などと言われる他の立石とは性格の違う物のように感じます。

 立石を過ぎると、石舞台公園は目と鼻の先です。皆さん、お疲れ様でした。当日は、短時間でも参加の皆さんとの懇親会も持てればと思っております。

 次からは、ルート上のポイントについて、もう少し詳しくご案内して行く予定です。                                                   (風人)


 ルート上のポイントについて、少し詳しくご案内します。

【3】  「談山神社」  (08.10.31.発行 Vol.34に掲載)

 談山神社は、藤原鎌足の死後、長男の定恵が唐より帰国した後に、父の墓を摂津の安威山から移し、十三重塔を建立したのが創建由来とされます。
 談山神社は、藤原鎌足を祭神としています。645年5月、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足は、多武峰の山中に入って「大化改新」の相談をしたと伝えられます。神社名は、その故事に由来する「談山(かたらいやま)」から名づけられたとされてます。しかし、創建には異伝・異説も多く、このままの歴史が展開されたと鵜呑みにすることは出来ないように思われます。

 境内には、本殿・拝殿・十三重塔を初めとする重要文化財に指定された朱塗りの社殿が配されています。本殿には祭神の鎌足像が祀られており、建物は日光東照宮の手本になったとも言われるそうです。
 当初は妙楽寺と称しました。平安時代には、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げますが、天台僧である増賀上人を迎えたことから、同じ藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争乱が絶えず引き起こされました。豊臣秀吉により本尊が移される危機もありましたが、帰山が許され、後に徳川家康により復興されます。近世の朱印領は3000石余であったそうです。

 明治2年(1869)廃仏毀釈により多武峰寺は廃され、談山神社と改称されました。現境内は、仏教寺院としての伽藍が残り、建物も寺院建築がそのまま使われていることから、一種独特の雰囲気を醸し出しているように思えます。

 拝殿内では、藤原鎌足の伝記を主体として描かれた「多武峰縁起絵巻」が展示されています。乙巳の変の折、蘇我入鹿の首が切られて宙を飛ぶ様が描かれている絵として知る方も多いと思います。入鹿の首飛翔伝説は、様々なバリエーションを持って語り継がれることになります。


談所ヶ森 ご相談所の碑

 権殿横から山道を登ると、「談所ヶ森 ご相談所の碑」があります。大化改新の密談をした場所だとされ、さらに山道を登ると、御破裂山頂の鎌足公墓所にたどり着きます。607mの高さにあり、墓所の裏からは大和盆地を一望にすることが出来ます。御破裂山の鎌足公の墓所は、阿武山古墳から長男の定恵が分骨して納めたものだとされています。見た感じでは、小ぶりな円墳のように見えます。

 日本書紀によると、天智8年(669)10月、藤原鎌足は病に倒れ、天皇自らの見舞いを受けています。その5日後、東宮大皇弟(大海人皇子)の訪問を受け、大織冠と大臣の位を授けられます。その翌日、鎌足は薨去しました。
 「多武峰略記」によると、鎌足は摂津国安威山に埋葬したと伝えられ、それが高槻市と茨木市の境付近にある阿武山古墳だとするのが有力となっています。

 参考ページ:談い山
 奈良女子大付属図書館サイト内 絹本 多武峯縁起絵巻 (上下巻 4巻)


【4】 「冬野」  (08.10.31.発行 Vol.34に掲載)

 いわゆる冬野越として、明治末期までは多武峰から吉野への最短ルートとして知られていたようです。大峰山に向かう参詣人や修験者の往還が絶えず、4軒の旅館と伊勢屋という屋号の茶屋があったそうですが、現在は数軒の民家が在るだけの静かな山村となっています。

 江戸時代の明和9年(1772)、本居宣長は吉野・飛鳥を旅しており、その見聞を「菅笠日記」に記録しています。宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下ります。


談山神社西門付近より

 『吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの國中見えわたる所也。なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのの山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつかづみつけたる。いとうれし。』
 「菅笠日記」の多武峰西門から竜在峠下の雲井茶屋付近までの描写です。
  (現在は植林された樹木のために、ほとんど遠望は利きません。)
 
 松尾芭蕉も「笈の小文」の旅の中で、多武峰から細峠をへて竜門滝へと向かいますが、芭蕉が冬野を通るルートを採ったかどうかは確証がありません。

 冬野集落の一番高い所に、「波多神社」という延喜式内社が鎮座しています。祭神は事代主命、あるいは波多祝の祖神・高皇産霊神、または波多臣の祖・八多八代宿禰との伝えもありますが、西方の畑集落の名からも、波多・秦氏との関連に興味深いものがあります。高取町にも波多庄があり、現在も大字羽内に「波多ミカ井神社」があります。日本書紀推古20年(622)5月5日、「薬猟をもよおした。人々は羽田に集まり、列をなして天皇のもとに参上した。」との記事があります。これは高取町の波多庄のことであろうとされますが、冬野の「波多神社」にも、詳細は不明ですが、薬の製法に関わる伝があるとも聞きます。また、明日香村の畑集落は、当帰・地黄が産物であるようなので、あながち薬と関係が無いとも言えないかも知れません。

 冬野には、この他に多武峰の別院である「冬野寺」や中世越智氏の築いた山城があったとされています。


【5】 「良助法親王冬野墓」  (08.10.31.発行 Vol.34に掲載)


 鎌倉時代の第90代亀山天皇の第七皇子(続明日香村史による)である良助法親王の冬野墓があります。良助法親王は、幼少から仏門に入り、京都青蓮院尊助法親王の弟子となった後、天台宗延暦寺第百世の座主になった方です。後に多武峰清浄院に住され、文保2年(1318)親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられています。
 墓域には、五輪塔が残されており、様式から親王没後の南北朝末期に作られたものだとされています。



【6】 「藤花山威徳院」  (08.10.31.発行 Vol.34に掲載)


威徳院の四国八十八所お砂踏み道場から見下ろす飛鳥

 尾曽の集落に入ると立派なお寺があります。真言宗豊山派のお寺で、藤花山威徳院と言います。真言宗豊山派と言う事ですので、長谷寺の末寺ということになりますが、江戸時代の末より毘沙門天を祀り、毘沙門信仰で知られているようです。また、古くは飛鳥時代に聖徳太子の師僧としても知られる日羅上人が、紫の雲をまとった毘沙門天を本尊として建立されたお寺がその始まりだとする伝えもあるようですが、未詳の伝説であるようです。



【7】 「気都倭既神社」  (08.10.31.発行 Vol.34に掲載)


気都倭既神社

 気都和既神社と通常書いていますが、明日香村教委によれば「気都倭既神社」と表記するのが正式名称だそうです。

 明日香村大字上字茂古森(大字かむら字もうこの森)にあります。祭神は気津別命で、延喜式内社に比定されています。現在は、尾曽・細川の春日神社を合祀していることから、天児屋根命を合わせてお祀りしています。

 この茂古森(もうこの森)には、乙巳の変に関わる伝承が伝えられています。飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首に追われ、藤原鎌足がこの森まで逃げてきたと言うのです。ここまで逃げれば「もう来ぬだろう」と言ったとか。境内には、鎌足が腰掛けたという石があります。
 また、この話のバリエーションとして、このような話も伝わります。ずっと昔、蘇我入鹿と藤原鎌足が喧嘩をし、入鹿は、かむら(明日香村上)のもうこの森と呼ばれるところまで逃げてきた。そして大きな石に腰を掛けて、「もうここまできたら鎌足もよう追いかけては来ないだろう」と言って休んだ。と言うものです。入鹿と鎌足の立場が入れ替わっています。
 さらにもう一つは、全く違った伝承が残っています。「飛鳥古跡考」には、「鎮守。モウコノ森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ」。ここでは、入鹿と鎌足の関係が、物部守屋と聖徳太子に置き換えられています。
 権力闘争に敗れた者の妄執が、この細川の谷奥に吹き溜まるのでしょうか。茂古森の藤蔦は、その怨念を象徴するかのごとく、不気味にのた打ち回っているかのように見えます。


鎌足の腰掛石と藤蔦

 気都倭既神社は、実は物部氏に関連があります。祭神の気津別命は、饒速日命から派生する物部氏の祖先の系統に入る神様だとされているからです。つまり、物部氏の祖先神をお祀りしているのです。伝承とは異なって、聖徳太子は「もう来ぬだろう」などと悠長なことは言っておれないのです。敵の本拠地のようなところに来てしまったのですから。(笑)  ・・・つづく 
                                                (風人)



【8】 「細川谷古墳群」  (08.11.7.発行 Vol.35に掲載)

 冬野川を挟む両岸の尾根上には、総数約200基と言われる古墳が存在しています。その多くは直径8~15m程度の円墳で、横穴式石室を持っているようです。東は、大字上・尾曽から始まり、西の石舞台によって破壊された古墳までをその範囲とします。分布を見てみると、冬野川右岸尾根上に最も密度が濃く築造されています。ほとんどの古墳は発掘調査が行われておらず詳細は分かりませんが、6世紀後半から7世紀初頭にかけての古墳群であるようです。

  細川谷古墳群の特徴は、窮窿状の横穴式石室を持つことや、ミニチュア土器が出土することなど、渡来系の氏族の墳墓を示しているように思われます。日本書紀雄略7年(463)、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語など「新漢人」の技術者集団(今来才伎=いまきのてひと)を、飛鳥の上桃原、下桃原、真神原に移住させたとの記事が思い起こされます。古墳群の築造は、この時代では在りませんが、彼等の子孫である渡来系の人々の墳墓であることは、想像出来るのではないかと思われます。

  また、石舞台古墳築造に際し、細川谷古墳群の西端に位置する幾つかの古墳が破壊されていることや、渡来系の人々を支配していたのが蘇我氏であることを考え合わせると、石舞台の被葬者が蘇我馬子であり、細川谷古墳群の全てではないかも知れませんが、それが渡来系の人々の墳墓であることは、ほぼ間違いがないように思われます。


【9】 「上居立石」  (08.11.7.発行 Vol.35に掲載)


上居立石

  飛鳥には、たくさんの石造物があります。使用目的や製作の意図が分からない謎の石です。上居の立石もその一つに数えられます。条理境界の標柱や寺院の結界または飛鳥京の結界などと言われますが、決定的な解釈とは言えず、今尚謎のままとなっています。立石は、岡・豊浦・立部・川原にもあり、またマラ石などを含める説などもあります。小原にも存在すると案内板には書かれていますが、所在は不明です。

  連載してきました第11回定例会の案内記事も最終回となりました。最後までお付き合いくださりありがとうございました。m(__)m
                                                (風人)


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