両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第12回定例会
飛鳥のみち 飛鳥へのみち
-すべての道は飛鳥に通ず-

真神原風人
Vol.36(08.11.21.)~Vol.40(09.1.4.)に掲載



【1】  (08.11.21.発行 Vol.36に掲載)

 第12回の定例会は、飛鳥時代の道路がメインテーマになります。皆さんは、古代の道路というとどのようなイメージを持たれるでしょうか。

 風人が古道に興味を持ったのは、その道路が巨大な直線道路であった事を知ったからでした。今から数十年前の歴史をまったく知らない頃のお話です。(^^ゞ
 小さな曲りくねった道が、田の畦のように続いているようなイメージしか持ち合わせていなかった私には、奈良盆地を貫くような立派な道路が何本も存在していたとは全くの予想外のことでした。それが分かった当時、風人は自転車乗りでしたので、安易な気持ちで辿ってみたいと思ったのです。古道の痕跡が今も尚続いているのかどうかも知らなかったのですが、カンを頼りに走り回り始めました。下ツ道を北上して、平城京から中ツ道や上ツ道を南下して帰るような週末を何度も繰り返しました。それが、初期の風人と古道の関わり方でした。

 知識が伴わないので、その熱もいつしか冷めたのですが、とある書籍が風人の古道熱を呼び起こすことになりました。偶然に一冊の本と巡り合ったのです。「万葉びとの生活空間」上野誠著。本には下記の木簡の話が紹介されていました。

 耳梨御田司進上 /芹二束 智佐二把/古自二把 河夫毘一把 右四種進上婢
 間佐女 今月五日太津嶋

 この木簡は、長屋王邸から発見された、いわゆる長屋王の木簡です。長屋王が所有していた農園からの送り状と考えられます。大和三山の一つである耳成山の麓に長屋王の農園があり、その「耳梨御田」から芹やチシャといった野菜が、平城京内の邸宅に運び込まれていたことを木簡は示しています。木簡には、野菜を持ち運んだ女性の名前まで記してありました。「間佐女」という女性です。「間佐女」は、これらの野菜を持って、耳成山の麓から平城京内の長屋王の邸宅まで歩いたのです。彼女に直接命令を下したのは「太津嶋」という御田の管理人のようです。

 長屋王という数奇な運命を辿る人物にも興味はありますが、風人は「間佐女」という女性により興味を引かれました。それはまさに、私が耳成の御田であったかもしれない場所に住んでいるからでもあるのですが。

 間佐女は、早朝、耳成山の麓から「中ツ道」を北上したのでしょうか、また「下ツ道」に出たのでしょうか。どちらの道をとっても、約20数キロの行程です。古代人にとっては、さほどの距離でもなかったのでしょうか。同じ日の内に帰ったのでしょうか。長屋王邸には、間佐女のような者の宿泊施設があったのでしょうか。好奇心の翼は何処までも風人を運んで行きました。

 そして、風人の古道歩きが始まりました。これは、私の個人サイト「飛鳥三昧」のコンテンツ「飛鳥へ続く道」が誕生したきっかけにもなりました。コンテンツやブログ「風の書」の記事を通して、講演会講師の近江俊秀先生との交流も生まれることとなりました。風人の古道への熱い想いは、近江先生によって三度燃え上がらされることとなりました。

 皆さんも、古道を歩いてみませんか。道には、通った人たちの想いが残っています。古代と変わらぬ景色を見ることも出来ます。運ばれて行った物資に想像をめぐらせることも出来ます。そして、その道が造られた背景もきっと見えてくるに違いありません。それは、我国の国家としての誕生にも大きく関わっているのではないでしょうか。風人は今、それに心をときめかせています。

 第12回定例会の講演会では、風人の師匠でもある近江先生が、考古学という手法を用いて古道を分かりやすく説き聞かせてくださいます。どうぞ奮ってご参加ください。お待ちしております。

 追記:近江先生の著書「道路誕生-考古学からみた道づくり-(青木書店 2800円)」は、古道を知るための最高の書籍です。平易な文章で書かれていますので、皆さんも是非一度手にとってご覧下さい。              (風人)



【2】  (08.12.5.発行 Vol.37に掲載)

 飛鳥咲読の二回目です。今回も古道にまつわるお話を書こうと思います。

 奈良盆地には、真直ぐに走る計画道路が在ったことは前回書きました。約2.1kmの等間隔で東から「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の南北道があり、それと南部で直角に交差する東西道の「横大路」、さらに斑鳩と飛鳥を結ぶことから「太子道」とも呼ばれる「筋違道=斜行道」などがありました。これらの道は、後には藤原京や平城京造営プランの基準道路となり、また下ツ道や横大路は条里制敷設の基準線にもなっているようです。


古道と京の関係地図

 難しいことは近江先生にお任せするとして、風人が古道を歩く時の散策ルートの設定方法から話を始めたいと思います。
 風人の場合は、まず出来るだけ大きな地形図を用意します。実際には、パソコンからプリントアウトした地図を繋げるのですが。そして、地図上に確定しているポイントを押さえて直線で結びます。例えば、平城宮大極殿跡と下ツ道の南の基準点とされる五条野(見瀬)丸山古墳です。その線にもっとも近い現在の道路をマーキングします。それが下ツ道の踏破コースということになります。

 しかし、多くの古道は、このように基準点が明確ではありません。風人がどうしていたかというと、じっと地図を見るのです。(^^ゞ そうすると、途切れながらも直線が見えてくるようなところが現われます。実際には道路だけではなく、水路や市町村境界線や土地区分として描かれた線が相まって、一本の直線として見えてくる場合があるのです。このようにして、地図上の途切れた道路を補完して行きます。大きな道路によって仕切られた土地は、千数百年の後にも、やはり何らかの区切りとして存在することが多くあります。田んぼの畦であったりするのですが、それが古道の痕跡である場合があります。それを結び、その線上でチェックポイント(社寺や遺跡)を探します。中ツ道では、日本書紀に壬申の乱に関わって書かれる村屋神社などがそれに該当します。上手く線上に乗ってくれれば、ルートはほぼ正しいということになります。
 嘘のような話ですが、実際に中ツ道の探訪ルートは、このようにして決定しました。今なら別の方法も思い浮かぶのですが、すべてを手探りで自分なりにやってみようと思ったので、このような方法を考え出しました。それがとても楽しい作業でもあったのです。(^^ゞ

 さて、最初に歩いたのは、下ツ道でした。「中街道」として中世以降もその痕跡を良く留めており、地図上でもほぼ現在の道路と重なっています。また近鉄橿原線が直ぐ西側を、国道24号線が直ぐ東側を、沿うように走っているという安心感もありました。今では、長距離ウォークにも慣れたのですが、当時はやはり未知の距離に不安も大きかったのです。

 下ツ道ウォークでは、藤原宮大極殿から平城宮大極殿までを歩くことにしました。おおよそ25kmになります。藤原宮大極殿跡から横大路に出て、下ツ道との交差点である「札の辻」に向かいました。そこからは、ひたすら北上します。皆さんは、どこまでも真直ぐな道を歩かれたことがありますでしょうか。なかなか言葉に出来ない得がたい体験です。川の蛇行や郡山城の城下町造営などで、正確には真直ぐではない部分もあるのですが、それでも大和郡山市まではほぼ真直ぐに歩けます。北上する場合、郡山市を過ぎる頃からルートの選択が難しくなります。地図上の推定下ツ道に重なる道路が途切れてしまい、最も近い道路を辿ることになりました。地図と見比べながらのウォーキングになったのですが、ふと視線を上げると復元朱雀門の屋根が見えました。奈良市内の三条大路を越えた辺りだったでしょうか。真直ぐに下ツ道を歩いてきた感動が一気に溢れました。実は後年この地点が、古道を考える上で重要な地点となるとは、まったく知る由も無かったのですが。

 参考ページ:飛鳥へ続く道~古の道を訪ねて~下つ道1

 風人は、直線道は推古天皇の頃に建設されたのだと思ってきました。少なくともその頃に計画されたものであると思っています。根拠を文字にするほど勉強は出来ていませんが、それでも頑なにそう思っています。(笑)

 2008年7月末日、この地点から大きな発掘の成果が報じられました。それは次回定例会の講師である近江俊秀先生と奥井智子先生が担当された発掘調査でした。朱雀大路下から下ツ道東側溝が検出され、その最下層から7世紀初頭前後の須恵器の杯蓋が出土したのです。7世紀初頭といえば、まさに推古天皇の時代です。土器の出土状況から、後世に混入した様子は無く、下ツ道側溝が推古天皇の頃に造られた可能性が大きくなりました。

 参考ページ:
   平城京左京三条一坊四坪(朱雀大路・三条大路・下ツ道)記者発表資料

 下ツ道をはじめとする古道は、7世紀中頃の斉明天皇の頃に造られたとする説があります。書記の白雉4年(653)6月、「処々の大道を修治む」という記事を、直線道の整備建設と捉える説です。
 須恵器の杯蓋一個が年代決定の根拠になりえるのかという疑問が、ニュースの興奮が冷めると浮かんできました。その疑問を素直に書いたブログ「風の書」の記事を近江先生が読んでくださって、丁寧に教えてくださいました。それが契機となって、先生と知り合うこととなったのです。なにか運命的な出会いであるように思いました。先生には、甚だ迷惑だったでしょうが。(笑)

 この遺構の詳細なお話は、講演会で先生から直接お聞きください♪ 少し意地悪な風人です。(^^ゞ                        (風人)



【3】  (08.12.19.発行 Vol.38に掲載)

 第12回定例会へのお誘いとして掲載しています咲読も、三回目となりました。今回は、飛鳥時代の古道の建設時期について話を進めたいと思います。

 飛鳥時代には、計画的な道路建設が行われました。特徴的なのは、それらが直線道であったことです。直線道路建設は、巨大な権力の背景が無ければ成し得ない大事業であると言えるでしょう。それは、地形を無視し、田畑を潰し、あるいは村落を解体させて造られたかも知れないからです。
 背景となる巨大な権力とは、その規模から国家以外に考えられません。計画的な道路網が造られるということは、それだけの権力を持つ国家が存在したことを意味します。このような状況の下に造られた道路を、官道という言い方をすることもあります。今でいうところの国道と思えばよいでしょう。


飛鳥時代の古道 参考地図
(クリックで拡大します。)

 では、これらの官道は、具体的に飛鳥時代のどの時期に建設されたのでしょうか。

 日本書紀推古21年(613)11月の条に、「自難波至京置大道」という記事があります。難波から京までの間に大道を設けたということだと思います。難波は瀬戸内海から京に入ってくる海路の玄関口「難波津」を指し、京は小墾田宮をさすものだと思われます。「京」という文字に拘れば、話は難しくなってしまいますが、飛鳥地域を指すと考えても良いかも知れません。道路敷設の記事は、日本書紀には明確に書かれるものが少ないのですが、この記事をもって、この道路を最古の官道だとする説があり、この大道の部分的な呼び名である「難波大道・竹内街道(丹比道)・横大路」を「古代の国道1号線」などと書いた書物や案内をしばしば目にします。

 また日本書紀には、孝徳天皇白雉4年(653)6月に「修治処々大道」という記事があります。処々(ところどころ)の大道を修治(つく)るという意味になります。この処々が、どの道を指すかは分からないのですが、今までこの咲読で紹介してきた道路の建設時期を示すものだとする説もあります。

 最も確実な資料としては、日本書紀天武元年(672)7月の壬申の乱に関わる記述の中に、たくさんの道路名が出てきます。大和古京の戦いだけを見ても、高安山からの西方の状況として「臨見西方、自大津・丹比両道、軍集多至。」とあり、河内方向に「大津道・丹比道」の二つの道があったことが分かります。これは、それぞれ長尾街道・竹内街道のことであるとされています。また、二上山の北麓から高安山の南麓までの付近かと思われる「懼坂道(かしこざかのみち)」「大阪の道」という道路名も出てきます。また、「則分軍、各当上中下道而屯之。」(軍を分け、それぞれ上ツ道・中ツ道・下ツ道の各道に配置した。)など、幾つかの記事に南北三道の名が書かれており、三道がこの時点ですでに存在したことが分かります。

 話を少し戻して、「古代の国道1号線」について、もう少し詳しく見ておきたいと思います。

 推古21年に造られた大道は、大きく分けて三つの道路として呼ばれています。奈良盆地では「横大路」と呼ばれる東西直線道になります。近世にも伊勢街道として使われていたため、その痕跡は今もはっきりと残っています。東端は桜井市外山の宇陀ヶ辻までが直線道となり、西端は葛城市長尾の長尾神社付近となり、奈良盆地を東西に結びます。その間は、おおよそ15kmです。

 長尾神社付近からは、二上山の南で竹内峠を越えることになり、「竹内街道」と呼ばれる道路となります。峠の西麓は大阪府南河内郡太子町になります。近つ飛鳥の里から石川を渡るまでは、北西・南東方向の斜向道となり、応神天皇陵付近で再び東西の直線道となります。先に見たように、この道路は日本書紀では「丹比道」として書かれている道路だと思われます。西端は、仁徳天皇陵からやや北西に振って堺市堺区で南に向かう道路と交差すると思われます。ただ、「自難波至京置大道」としては、堺市北区の金岡神社付近で南北道の「難波大道」に直角に交わることになります。 この間おおよそ21kmです。

 難波大道は、難波津付近(後の難波宮中心線=朱雀大路に該当)から、正南北の道路として造られました。南端ははっきりしませんが、最短でも丹治道(竹内街道)と呼ばれる東西道に接続していたと思われます。この間おおよそ13kmです。

  2008年5月、この難波大道の一部が堺市北区と松原市の境付近で発掘調査により発見されました。道幅は約17mを測りました。これは、奈良盆地での他の官道とほぼ同じ道幅(後の京域内や一部の道路では異なる)になり、一定の規格を基に建設されたもののように思われます。
 難波大道が難波宮長柄豊碕宮の中心線に合致することから、道路建設を孝徳天皇白雉4年の書紀の記事が一見有力なようにも思われるのですが、道路を基準として宮を造ったとも考えられますから、これも絶対的な道路建設の時期だと断定出来そうにもありません。

 日本書紀ではありませんが、道路敷設に関連する資料がありますので、ご紹介しておきます。「随書 倭国伝」に次のような文章があります。「今故清道飾館以待大使」、これは「今故(ことさ)らに道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と読めば良いでしょう。推古16年(607)4月に隋使裴世清が、我国を訪れた時の記録とされています。「道を清め」は、何を意味しているのでしょうか。(第12回定例会講師 近江先生は、安倍寺跡付近で検出された遺構について、飛鳥遊訪マガジン31号「阿倍・山田道(6)」で、7世紀前半に路面を小礫や土器片で舗装し、石組の側溝を伴う山田道の一部だとされ、それが「道を清め」に該当する整備ではないかと推定されています。)

 今号では、官道の建設時期に関連する書紀の記述を中心に紹介しました。次号では、その中で起こった疑問点や風人の考えなどをご紹介したいと思っています。  (つづく)                                 (風人)



【4】  (09.1.4.発行 Vol.40に掲載)

 飛鳥咲読の第4回目です。第12回定例会のご案内としては、今回が最終回となりました。今号では、飛鳥時代の直線道路について、風人なりに思うことを綴ってみたいと思います。また、疑問に思う点も書き連ねたいと思っています。

 風人は、正方位を向く直線道路が造られたのは、推古天皇の時代だと思っています。それも、建設が計画されたのは、かなり早い時期であるように考えます。小墾田宮の建設とも無関係ではないように思うのですが、そのあたりは妄想でしかありません。

 少し難解な話になってしまい、歴史にご興味の無い方には退屈な話となってしまいますが、飛鳥の自然地形は南東に高く北西に低くなっています。飛鳥時代の初めには、その地形に沿うように地割がされ、建物が造られました。現地説明会などでよく耳にする、北で西に20度ほど振る方位ということになります。簡単な理解として、西に20度振る建物は飛鳥時代の前半のものだと考えても、大きな間違いではありません。当然ですが、例外もあります。飛鳥時代の建物や地割が正方位を向くのは、7世紀半ばではないかと思います。

 しかし、そうすると疑問が起こります。飛鳥寺は正方位を向いています。小墾田宮も日本書紀の記述を見ると、正方位を向いていたように思われます。これはどうしたことなのでしょうか。ここに、直線道路の敷設に関する謎を解明するヒントの一つが有るのではないかと、風人は想像しています。
 推古朝の初期かその直前に、飛鳥を中心にした奈良盆地の大規模開発構想が練り上げられたのではないと思うのです。実際に、推古天皇の時代には、しばしば灌漑用の池の建設や屯倉の設置などの話が日本書紀には記載されています。屯倉(ミヤケ)とは、朝廷が直轄している田畑やその稲穀を納める官営倉庫と理解すれば良いと思います。また、蘇我氏が大規模に田畑の開発を行い、橿原市曽我町から飛鳥へと進出してきたことを思えば、この時代が開発の大きな流れの中にあったと考えるのはたやすい事であると思います。石神遺跡の北端で行われた第18・19次調査では、推古天皇の時代の遺構が検出され、沼沢地を大規模に造成した様子が分かっています。
 これらの大規模開発構想の一つとして、直線道路網の建設があったのではないかと、風人は空想を膨らませます。小墾田宮は、あるいはこれらの計画に左右された立地に造られたのかも知れません。だから新しい宮は、象徴としても正方位を向いているのではないかと。

 もう一度考えてみましょう。推古天皇の頃に、奈良盆地の南に「飛鳥」という拠点が出来ました。その地域から、盆地の北端に在る丘陵地帯麓まで、長いもので約30kmに及ぶ南北三道を造る必然性が本当にあったのでしょうか。もちろん、北に平城京が無い時代にです。横大路など東西道路は、磯城・磐余・飛鳥と葛城・河内あるいは東国を結ぶ幹線道路として、飛鳥時代以前にも必要があったようにも思うのですが。 南北道路は、二点間の移動という意味だけでは、理解出来ないように思います。また物資の運搬だけを考えると、何を何処から何処まで運ぶためだったのかが想定出来ません。租税の物資搬入のための道路であれば、一本あれば足りるはずです。 何か合理的な理由が無ければ、直線道路を2.1km等間隔で三本も造ることは有り得ないと思われます。

 推古天皇の頃には、遣隋使の派遣を始めとして、外交活動が盛んに行われたようです。海外の都市整備などを目の当たりにした報告がなされ、あるいは海外からの使者の口からそれが語られることもあったのでしょう。そして使者を国家の賓客として迎えるための整備が、急ピッチに進められたことは容易に理解出来ることです。しかし、それでも南北三道の必要性は充分に説明されません。実際に推古16年(608)の隋使裴世清の来訪では、南北三道や横大路を通らず、海石榴市から阿倍・山田道を通って飛鳥に入っています。

 すいません。m(__)m 話がマニアックになってきました。少し軌道修正して話を続けます。

  個別な理由からは、直線道路の必要性は見えてこないように思います。あらゆる理由を検討しても、これほどの大規模な直線道路を複数本造る必要は見出せないからです。やはり、大きな視点での大規模開発構想の中で、様々な理由を含めた場合にのみ合理的な解釈が出来るのではないかと風人には思えてなりません。その様々な理由が推古天皇の頃に揃ったと考えます。

 これらの直線道路が、推古天皇の時代のものであると考える理由に、他にも根拠が在ることをご紹介します。

 南北三道は、2.1kmの等間隔で正方位に造られていることは、度々紹介してきました。だとしたら、どこかにその測量基準点となったものが無ければなりません。近江先生もご指摘されるように、五条野(見瀬)丸山古墳が、下ツ道の南端に存在しています。下ツ道は、そこから南では正方位直線道ではなくなります。五条野丸山古墳は、6世紀後半の大前方後円墳です。被葬者は確定しているわけではありませんが、欽明天皇と堅塩媛の陵墓、または蘇我稲目の墳墓とする説があります。どちらの被葬者をとっても、南北三道の基準点に相応しい被葬者のように思われます。

下ツ道(参考図)
 この古墳が6世紀後半の築造であれば、それを基準にした道路も6世紀後半を遡ることは無く、古墳が道路建設の基準にするだけの存在価値を有する期間に限定されると思われますので、推古天皇の時代の道路建設説には、丁度良い基準点として存在したことになります。
 また、日本書紀推古天皇条に、「軽衢(かるのちまた)」の記述があるのも、下ツ道の存在を思わせます。チマタとは、主要な道路が交差し賑わいのある場所を言います。軽(橿原市大軽町=国道169号線丈六交差付近)にチマタがあったとすれば、それは阿倍山田道と下ツ道の交差と考えられ、下ツ道の存在が伺えます。
 さらに、飛鳥咲読の第二回目で紹介しました、奈良市三条一坊朱雀大路下層より出土した7世紀初頭の須恵器も、推古天皇の頃の道路建設を支持する出土遺物だと思います。

 長くなりましたが、一つ疑問がありますので、書いておきたいと思います。

中ツ道(参考図)
 中ツ道が香具山の山頂を通ることです。下ツ道が基準であれば、中ツ道をわざわざ山頂を通るルートとして設定する必要は無いように思うのです。中ツ道は、実際に香具山の北までのようで、南側では検出されていません。西にずれて、木之本街道と呼ばれる道路になるようです。 2.1kmが当時の度量衡で、切の良い数字になるとは思うのですが、それに拘る必然性があったのでしょうか。
 中ツ道の推定延長線上には、橘寺の南にミハ山(神奈備山)があります。
 このことも何かを示唆しているのではないかと、風人は気になっています。下ツ道・中ツ道間を東に折り返したものが上ツ道なのだと思う方が、風人にはしっくりくるような気がします。
(天降り付く天香具山と飛鳥の神奈備。下ツ道の南端に在る丸山古墳。この二つを関連付けることで、丸山古墳の被葬者をより高次元の存在として象徴しようと考えた、とするのは穿ちすぎでしょうか。(^^ゞ 妄想でありすぎますね。(笑))

 本当に長くなってしまいました。駄文にお付き合いくださいましてありがとうございました。飛鳥咲読は、定例会のお誘いとして綴っているコーナーです。これをお読みくださって、定例会へ足を運んでくださる方がお一人でもいらっしゃれば、幸いに思います。

 咲読中には、間違った解釈や思い込みをそのまま書いたところも多くあります。その点は、どうぞご容赦ください。古道の正しい理解は、定例会で講師の近江先生のお話から、お聞き取りくださればと思います。ありがとうございました。  (風人)



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