飛鳥咲読
第13回定例会
天空の里を訪ねる
―早春の多武峰談山神社から天空の里「尾曽」を巡る―
TOM・真神原風人
Vol.41(09.1.16.)~Vol.45(09.3.6.)に掲載
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【1】 「談山神社」 (09.1.16.発行 Vol.41に掲載)
今度の第13回定例会「天空の里を訪ねる」は、談山神社から始まります。談山神社は藤原鎌足を祀ってある神社です。「そんなこと知ってるわい」と思われる方も今しばしお待ちください。
山門を見上げると長い石段が見えます。その石段の丁度真ん中過ぎ辺りの右手に「恋神社」と書かれた幟があります。そこに「鏡女王」と言う文字が一緒に見えます。このメルマガ読者の中に「鏡女王のファンだ」と言われる方がおられれば、かなりの飛鳥通だと言えると思います。
恋神社への道 |
「鏡女王」は、天智天皇から鎌足が賜った天智天皇の嬪の一人です。額田女王の姉ではなかったかとか、いろいろ言われますが、その出自は明らかになっていません。しかし、書紀に彼女が病に倒れ亡くなる前に、天武天皇の見舞いを受けており、亡くなったときは「薨じる」と言う字を用いられていることから、皇族であったことは確かなようです。いくら鎌足が彼女のことを好きであったとしても、恐れ多くも相手は時の天皇の嬪です。好きだからと言って横取りできる相手ではありません。そこは流石、天智天皇、鎌足が彼女に気があることを見抜いていたのでしょう。天智天皇は、鎌足の功に報いてか、彼女を鎌足に授けることとなります。随分勝手な話だと思われるかもしれませんが、彼女にとっては、むしろ良かったのではないかとも思われます。そして一説には、彼女の子供が不比等ではなかったかとも言われています。更に彼女を授かった時には、彼女は既に懐妊していたのではないかとの説もあります。すると不比等は、天智天皇の子となります。まあ、ややこしくなりますので、彼女の経歴はさておき、鎌足の正妻となるわけです。
この鏡女王を祀ってあるのが東殿と言われる「恋神社」で、縁結びの神様として慕われています。その神社の左手に盤座があり、注連縄がしてあります。「結びの盤座」と呼ばれるもので縁結びの盤座で、能書きに「この岩をなでて、むすびの願い事(恋愛、人間関係、事業等)を祈念してください。」とあります。すると「ここの縁結びは人だけじゃなく何でもいいんだ、お金との縁でも願おうか」と不届きにも思ってしまうのは私目だけでしょうか。
さて、鏡女王は鎌足と仲睦しく過ごし、鎌足が病気になったときはその平癒を祈願して、京都の山科に山階寺を建てます。それが、飛鳥に移され厩坂寺となり、更に、平城京へ移され今の興福寺となっています。そんなことに思いを馳せながら、この「恋神社」を訪れるのも良いかもしれません。因みに祭神は、鏡女王と不比等と定恵となっています。
本殿には、乙巳の変に至る様子が絵巻物にて飾られています。 中大兄皇子と鎌足の密談の様子や、変にあたり入鹿の首が飛んでいる様は、何ともリアリスティックで書紀では得られない感動を与えてくれます。
本殿を出て直ぐに、定恵が唐から持ち帰った霊木で作ったとされる桧皮葺の十三重の塔が見えます。この塔は、定恵が中国の清涼山宝池院にあった十三重塔を模写したものと言われています。現在あるものは室町時代(1532年)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。神社に十三重塔という組み合わせは神仏混淆の名残でしょう。
十三重塔を過ぎて、階段を下りると右手に祠のようなものがあります。閼伽井屋(あかいや)と呼ばれる井戸です。定恵が法華経を講読したとき、善女龍王が現れ、そこから泉が湧き出したと言う、言い伝えのあるもので摩尼泉と呼ばれています。中を外から覗くと、今でも使われていることが分かります。神社の公式HPでは「(井戸水を)希望の方は申し出てください」とありますから、所望の方は頂けると思います。御礼は必要かもしれませんが。
閼伽井屋 |
左手には神廟拝所があり、中には中央に鎌足神像が、左手に不比等像、右手に勝軍地蔵像が鎮座しています。また運慶作の狛犬も対で置かれています。後ろの壁には『十六羅漢図』が、天井には一寸見にくいですが『天女奏楽図』が描かれています。勝軍地蔵とは説明によりますと「鎌倉時代に亀山天皇の皇子、良助法親王が冬野で感得した我が国独自の神仏混合の神であり、目は三眼、甲冑を身にまとう他では例を見ない神」だそうで、「鎌足の同体神」だそうです。良助法親王は天台宗100代目の座主で、晩年には冬野で過ごし冬野に葬られています。これから、談山神社を出て冬野を通り尾曽へ向かいますが、その途中、良助法親王の墓を見ることが出来ます。
さて、神廟拝所を見て、最後の西門に向かう右手に木製の大きな福禄寿を祀ってある総社拝殿があります。談山神社は、大和七福八宝巡り霊場の一つとしても有名です。この福禄寿は、高さ3mもあるもので、昨年2月17日に開眼供養がなされたものです。像は、多武峰に自生する神木のケヤキの一本作りです。一見の価値はあります。
次回、咲読は良助法親王のこよなく愛された冬野へと向かいます。 (TOM)
【2】 「冬野」 (09.1.30.発行 Vol.42に掲載)
談山神社を出て昼食をとります。昼食をとる場所は、西門跡と呼ばれる平らな場所です。
そこには高さ1.5mほどの石の弥勒仏(弥勒菩薩)があります。もとは、飛鳥寺にあったものを持ってきたとされていますが、文永三年(1266)八月の刻銘がありますので、この弥勒仏は後から作ったか、手を入れたかしたものということになります。実は談山神社は、創建当初は見栄えもよかったのですが、暫くして廃れてしまいます。その有様に心を打たれ、再興しようと志した平安初期の賢基(後の延安)と言う僧がいます。初代の検校・座主となった人物です。彼の墓がこの弥勒仏と向き合った位置にあったとされ、その墓を弥勒仏は夜な夜な光を放って照らし、逆に彼の墓も光を放って弥勒仏を照らしたと言われています。
石の弥勒仏 |
さて、昼食を終えていよいよ冬野への約1kmの道を登ります。この道は奈良から吉野への最短コースとなる為、昔は賑わったコースです。冬野は、多武峯の最高峰と言ってもよく、4軒茶屋があったことでも知られる吉野への重要な通過点であったわけです。今ではその面影を偲ぶことも出来なくなってしまいましたが、冬野の名水はいまだにそこを通る人々を潤してくれます。ここを通った松雄芭蕉もこの水でのどを潤したに違いありません。冬野の名水を過ぎると小さな集落に出ます。僅か5軒ほどの民家しか残っていませんが、この冬野の集落は中世には冬野城があったところと言われています。
「雲雀より雲にやすらう峠かな」 芭蕉
冬野の集落の一番高いところに波多神社があります。渡来人の「秦氏」を連想させます。渡来系の人々が多く住んでいたのかもしれません。
波多神社 |
冬野の集落を過ぎてからは石舞台へと下りのコースになります。下りのコースに入ってすぐに右手に、前号でご紹介しました「良助法親王」の墓があります。1229年延暦寺の第100代座主となった亀山天皇の第7皇子(明日香村史)(但し第8皇子との説もあり)です。談山神社で鎌足像の右隣にあった勝軍地蔵像の基となった人物です。還俗してからはこの冬野を愛し、冬野に住み、冬野で生涯を終え、遺訓に従い冬野に埋葬された人です。
ここを過ぎると左手に放牧されている山羊やら、牛のいる小屋を見ながら尾曽へと向かいます。 (TOM)
【3】 「尾曽」 (09.2.6.発行 Vol.43に掲載)
「尾曽」と書いて「おおそ」と読みます。郵便でもこのように表記していますが、元来は「をそ」と発音していたようです。現代では「おそ」も「をそ」も発音する者には同じになっていますが、従来の「を」と「お」の発音の違いを生かせて読み方も「おおそ」としたものと考えられます。
さて今回の「天空の里を訪ねる」の目的地はこの「尾曽」の村です。ここも冬野と同じく数件の佇まいしかありませんが、ここには威徳院と言う真言宗豊山派(ぶざんは)の立派なお寺があります。真言宗豊山派は、長谷寺を総本山とする宗派なので、威徳院はその末寺ということになります。正式には「藤花山威徳院」と言います。何時行っても庭はきれいに掃き清められており、ご住職の人柄を偲ばされます。ここで一休みさせて貰うこととなります。
威徳院 |
お寺には祖霊を祀る観音像があり、裏庭には四国八十八箇所のお砂踏み道場があります。ここからの飛鳥を一望する眺めは絶景です。遠くに二上山を臨み、すぐ手前右に畝傍山が見えます。少し左手に貝吹山を見下ろすことが出来ます。わずか400mの標高ですが、貝吹山だけに登ると結構高い山のような感じがしますが、それを眼下に見下ろすと、いかに今いるところが高いところか実感できます。
威徳院からの展望 |
しかし、実はここが何故「天空の里」と両槻会で呼んでいるのかは、ここにいる限りでは実感できません。もう少し高い藤本山からこの尾曽集落が見下ろせるところがあるのですが、そこからの尾曽集落の光景は山の中にぽつんと開いた集落だけが浮かび上がっているように見えるので、まさに「天空の里」に相応しくそう名づけられたものです。
天空の里・尾曽 |
話は戻って「威徳院」ですが、ここには毘沙門天が祀ってあります。飛鳥時代に日羅上人が毘沙門天を祀ったのが最初だとされていますが、毘沙門天は北方を守る守護神です。飛鳥からは南東の方角にあります。ここが北に位置する場所とは吉野になります。吉野からは真北の方角です。ひょっとすると吉野の宮の守りにあったのかも知りません。そんなことを考えながら尾曽の集落を後にし、今度は更に下って上(かむら)の方へと足を進めます。 (TOM)
【4】 「上」 (09.2.20.発行 Vol.44に掲載)
威徳院を後に山道を下っていくと、明日香村「上」という集落に出ます。「上」と書いて「かむら」と読みます。辞書を引いても「上」を「かむら」と言う読み方はありません。一字で「かむら」と読む字は他に甲賀市に「神」と書いて「かむら」と呼ぶところがあります。
実は日本書紀の応神天皇16年の条に「百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王を呼んで国に戻って位につくように言って東韓の地を賜った。東韓というのは、甘羅城、高難城、爾林城がそうである。」と言う文があります。この甘羅城は「かむらのさし」と読み当時の百済に「甘羅」(かむら)と言うところがあったことが分かります。 一方、矢作川の支流に「上村川」と言うのがあり、これを「かむらがわ」と呼びます。又、大宇陀に「神楽寺」と言うのがあり、これも「かむらじ」と言います。これらのことをあわせて考えると、百済の甘羅に住んでいた人たちが帰化したとき「甘羅」に「上川」「神楽」を当て、後に「川」や「楽」が略され「上」や「神」となり、音だけが「かむら」のまま残ったのかもしれません。「上」には細川谷古墳群と言うのがあって、そこから出てくる土器に渡来系を示すミニュチュア食器があります。渡来系の人々が住んでいたことは間違いなさそうです。
さて、「上」は石舞台の南で飛鳥川と合流する冬野川(古称、細川)の始まるところでもあります。その流れの傍に気都倭既(けつわけ又は、きつわけ)神社があります。御祭神は、物部系と考えられる気津別命と天津児屋根命が夫々の祠に祭られてあります。天津児屋根命の方は、冬野や細川に祀られていたものをこちらに移したそうです。けつわけの「け」は豊受の「け」と同義で食物を表し、豊作の為には水が不可欠なので冬野川の守り神となっているそうです。そしてこの神社を取り囲む森は「茂古森」(もうこのもり)と呼ばれているところで、乙巳の変で切られた入鹿の首が鎌足を追いかけ、鎌足はここまで逃げてきてようやく「もうこんだろう」と一安心したことから「もうこの森」と呼ばれるようになったというエピソードがあります。更に念入りなことに鎌足が一安心して座った石まで用意されています。本当に座ってみたくなるような石です。
鎌足の腰掛石 |
神社の前には巨大な蔦の木が絡まって伸びており、入鹿の怨念を感じさせるようで必見の光景です。
気都倭既神社を過ぎると、先程の細川谷古墳群のいくつかが見えてきます。冬野川のせせらぎを聞きながら、のどかな風景を楽しみ今回の最終目的地石舞台へと向かいます。途中「上居の立石」と呼ばれるものもありますのでゆっくり楽しめます。(TOM)
【5】 「天空の里」 (09.3.6.発行 Vol.45に掲載)
明日香村尾曽を「天空の里」と名付けたのは、もう5年以上前のことになります。実際に飛鳥を隅々まで歩いていないと、気づかない景色があります。天空の里もその一つでした。それも特定の場所で見なければ、気づかなかった光景であったと思います。集落の中に入れば静かな山里なのですが、その里の佇まいを俯瞰する時、まさに天空の里と呼ぶに相応しい景観を見せます。天空の里などと言うと、アルプスやチベットの奥地が相応しいような名前ですが、この景観はその名に恥じるものではないと思います。
たまたま雪景色の多武峰の写真を撮りたくて出向いた時のことです。当時行き始めていた藤本山に足を伸ばそうと、凍てついた雪道に難渋しながらも尾根筋を藤本山ピークに近づいたその時、一羽の山鳥が飛び立ったのです。その羽音に驚いて振り返った時、山の中腹に浮かぶ小さな集落が在るのに気づきました。降り積もった雪が集落の台地を緑の山肌にくっきりと際立たせていました。印象深い景観でした。その景色が忘れられず何度か通い、また尾曽の集落も数度訪ねることとなりました。
天空の里・尾曽の雪景色 |
一方、多武峰から冬野へ出て、石舞台へ降りるコースがあります。以前は金かめバスが走っていたこともあるのですが、このルートも数度歩いたことがありました。上畑の集落外れに、分教場跡が在ります。その脇に、数年前に「古道」と書かれた立札が立てられました。地図を見ると、尾曽の集落に下る山道があるようです。2006年の2月でした。太古さんをお誘いして、石舞台から畑に登り、古道を尾曽に下るハイキングを計画しました。
古道は良く整備され、何の不安も無く尾曽の集落に続いていました。季節を変えて、また訪れたいものだと言うのが、二人の一致した感想でした。そして、時が流れ、両槻会としてこのコースを歩くことを計画しました。あまり知られることのない、奥飛鳥のハイキングコースです。奥飛鳥というと、栢森辺りを連想しがちですが、また違った奥飛鳥の景観も心を打つものがあるように思います。
今回の定例会では、多武峰を出発点として、冬野を経て、畑の集落外れから旧道を尾曽に降りるコースを選びました。3ヶ所ばかり急坂があります。その最後の坂道を駆け下れば、小さな台地が開けています。そこが天空の里です。僅かに6軒ばかりの集落で、小さな耕作地の向こうに、葛城の連山や大阪方面の景色が広がります。真下の明日香村はさほど見えませんが、畝傍山や橿原・御所・高田の町並みを眼下にすることが出来ます。田植えの頃には、水田に二上山落日を映して見ることも出来ます。
尾曽へは、石舞台から金かめバスを「上」まで乗り、多武峰とは別の道路を登れば、比較的楽に行き着くことが出来ます。尾曽は、静かな集落です。行かれる方は、マナーを守ってくださいね。昨年、彼岸花をむしり取っていた写真グループがいました。この記事をお読みになって行かれる方は、決してそのようなことをしないで下さい。お願いします。 (風人)
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