両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第17回定例会
飛鳥の諸宮をめぐる

橿原考古学研究所付属博物館 主任学芸員 山田隆文先生

Vol.62(09.9.18.発行)~Vol.66(09.11.13.発行)に掲載





【1】 「飛鳥の諸宮をめぐる(第1回)」  (09.9.18.発行 Vol.62に掲載)

 11月の定例会では、「飛鳥の諸宮をめぐる」という企画をたてさせていただきました。
 読者の皆さん、参加者の皆さんは大の飛鳥好きですから、飛鳥に大変詳しいとは思うのですが、飛鳥を一日中歩き回って、今はただの田んぼや畦道にしか見えないところに隠れている飛鳥の宮の痕跡を見つけ出し、飛鳥の宮を「体感」していただければと願っております。そこで、これから数回にわけて、飛鳥の宮について簡単にご紹介したいと思います。

 さて、昨年の今頃、私は勤務している奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で『宮都 飛鳥』という特別展を担当して、もがき苦しんでおりました。この展覧会では、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研。)が中心に発掘調査を実施してきた「飛鳥京跡」の調査成果を柱として展示をおこないました。

 実はこの「飛鳥京跡」名称は文献史料などに見える歴史的な用語ではありません。「飛鳥京」の名称を最初に用いたのは喜田貞吉でした。(喜田貞吉1912「飛鳥の京」『歴史地理』第20巻1~3・5号、日本歴史地理学会)その範囲は藤原京とは別物であるとしつつも、耳成山や畝傍山を傍までとする広大なものを想定していました。橿考研が発掘調査をはじめた頃には、喜田が考えていたほど広範囲とは考えられなくなっていたものの、藤原宮における藤原京の条坊や、平城宮における平城京の条坊に相当する、いわゆる京域が飛鳥の宮の周辺にも存在すると想定されていたため、遺跡の名称として橿考研では「飛鳥京」の名称が使用されたのだと考えられます。(実は、なぜ「京」なのかは、私自身の学生時代からの謎でしたが、この疑問にちゃんと答えてくれた上司もOBも今のところ一人もいません・・・)

 その後の橿考研をはじめとする飛鳥地域での発掘調査の成果から、飛鳥盆地内に京域と認識しうる遺跡の存在の可能性はもはや低くなったといえますが、現在もそしてこれからも橿考研は調査名としては「飛鳥京跡」の名を使用していくでしょう。

 その飛鳥京跡ですが、これまでの164次におよぶ発掘調査の成果から、単一の宮跡ではなく、3層4時期の宮跡であることが判明しています。橿考研ではそれをⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ-A期、Ⅲ-B期と称しています。そして、これらの調査成果をもとに研究・検討が重ねられた結果、Ⅰ期が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期が皇極天皇の飛鳥板蓋宮Ⅲ-A期が斉明天皇の後飛鳥岡本宮、Ⅲ-B期が天武天皇の飛鳥浄御原宮であることがほぼ確実視されるようになっています。その具体的な内容については次回以降にお話ししたいと思います。

 最後に、飛鳥の宮の遷り変わりについてふれておこうと思います。このことについても飛鳥時代の4つの宮が同一の場所であることが確実になったことで、それまでの宮の変遷とはかなり様相が異なることがわかってきました。

 崇峻天皇が倉梯柴垣宮で暗殺されると、敏達天皇の后であった額田部王女が豊浦宮で即位します。推古天皇です。豊浦宮があったとされる地域は蘇我氏の本拠地のひとつで、豊浦宮はその邸宅を利用したとの説もあります。やがて、推古天皇は自らの正宮である小墾田宮を造営し、遷居しました。この小墾田宮以降も最初は天皇の代ごとに宮は遷されますが、それまでの暦代遷宮とは異なった様相をみせます。変化はふたつあります。

 最初の変化は、以前の宮が後の代にも再び利用されるようになることです。飛鳥時代、宮は幾度か難波や大津などへと遷ったが、その都度また飛鳥へと還ってきているのです。具体的には、舒明天皇は飛鳥岡本宮から飛鳥の外へと宮を遷しますが、次の皇極天皇は飛鳥へと戻り、飛鳥板蓋宮を飛鳥岡本宮があった場所へ造営するまでは小墾田宮を使用しています。孝徳天皇が難波へ遷った後は、皇極が重祚した斉明天皇が飛鳥板蓋宮へと還っています。そして、壬申の乱ののち飛鳥へ凱旋した天武天皇は、斉明天皇が造営した後飛鳥岡本宮へと入り、そこで一部の新たな造営や再整備をして飛鳥浄御原宮としています。

 つぎの変化は、天皇の代が変わっても宮が遷らずに引き継がれるようになることです。具体的には、斉明天皇の後飛鳥岡本宮を次の天智天皇は大津宮への遷宮まで使用し、天武天皇の飛鳥浄御原宮には持統天皇も藤原宮への遷宮まで住み続けています。

 飛鳥時代のみならず、それまでの大王(天皇)が住まいし、政治をおこなった場所は「宮」でした。飛鳥時代までは大王の代替わりごとに宮を遷す「歴代遷宮」がおこなわれ、またその在位中にも遷居を繰り返す大王もいました。前々代の宮の再利用や同一場所への新たな宮の造成など飛鳥にこだわる姿勢への変化は、飛鳥に単なる天皇の「宮」を造るのではなく、飛鳥を日本の「都」として認識していたからにほかならないからと私は考えています。

 1回目は少し長くなってしまいましたが、このくらいにして、次回からは飛鳥京跡の調査成果について、ごく簡単にですが、紹介していきたいと思います。



【2】  「飛鳥の諸宮をめぐる(第2回 飛鳥岡本宮と飛鳥板蓋宮)」
            (09.10.2.発行 Vol.63に掲載)

 今回は舒明天皇の飛鳥岡本宮とその后であった皇極天皇の飛鳥板蓋宮についてお話ししたいと思います。前回にも述べましたが、飛鳥岡本宮は奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)が調査をしている飛鳥京跡の最古段階であるⅠ期遺構、飛鳥板蓋宮は飛鳥京跡のⅡ期遺構であることが確実視されるようになっています。
 ただ、これらの遺構は、少ししか確認されていません。というのは、これらの上層にⅢ期遺構があるからです。少し説明をしますと、飛鳥京跡では調査した場所によって異なりますが、地表下およそ1メートルあまりで(もちろん、もっと深い所もありますが)、飛鳥時代の遺構面に達します。当たり前ですが、一番上にⅢ期遺構があります。そして、場所にもよりますが、このⅢ期の遺構面の下層にⅡ期やⅠ期の遺構が存在しています。つまりⅡ期やⅠ期の遺構を検出するためには、Ⅲ期遺構の下を掘削し、調査しなくてはなりません。これは、発掘調査という手法をとる以上Ⅲ期遺構を破壊しなくてはいけないことを意味しています。でも、実際は確認したⅢ期遺構を保存するためにそんな破壊行為はしていません。Ⅱ期やⅠ期の遺構は、Ⅲ期遺構が後世の作用により残っていなかった場所を下層まで掘り下げて調査するか、発掘調査区の排水などのための側溝や断割などの断面などで確認するか、と限られた範囲での確認にとどまっています。それでも、これまでの調査成果と研究の積み重ねで多くのことがわかってきています。その成果について紹介したいと思います。

 このふたつの宮跡は同じ遺跡ですが、その様相には決定的な違いがあります。キーワードにするとすれば「斜方位から、正方位へ」というべきでしょうか。では、順にみていきたいと思います。

 Ⅰ期遺構は、これまでの発掘調査で、掘立柱建物をはじめ、掘立柱塀、石敷、石組溝などが確認されています。これらの遺構に共通する特徴は、いずれも中軸線が北から西へ約20度振れているということです。これはそういう方向の統一地割があったのではなくて、飛鳥地域の自然地形、すなわち飛鳥川の流れる方向に即した結果だと考えられます。
 Ⅰ期の遺構は、現状では限られた範囲で、しかも断片的なことしかわかっていませんが、第155次調査で一辺1.2mを超える大きな柱穴をもつ柱列が検出されていることから、宮跡である可能性が高いと考えられています。
 また、その柱穴の抜き取り穴の埋土に焼土や炭が混入しており、これらの遺構が火災にあったとみられています。出土遺物の年代観などの検討から、『日本書紀』にみえる舒明天皇8年(636)の飛鳥岡本宮焼失の記事に合致することから、Ⅰ期遺構は舒明天皇の飛鳥岡本宮である可能性が高いといえます。

 Ⅱ期遺構も検出された遺構はわずかしかありませんが、これまでに掘立柱塀や回廊状の施設、掘立柱建物、石組溝などが検出されています。
 Ⅰ期の遺構からの大きな変化は、宮全体におよぶであろう大規模な土地造成がおこなわれていることと、建物などの遺構の主軸方位が正方位を指向するということです。これは飛鳥を都として整備するために王権が発動されたことを意味していると考えられます。
 確認された遺構は、宮殿を区画する塀と溝がほとんどで内部の建物などはほとんど確認されておらず、不明な点がまだ多いのが現状です。今までの調査で確認された遺構からは、区画は東西約190m、南北約198m以上の範囲であったことがわかっています。その内側からも東西幅130mあまりの規模の大きな石組溝の区画が確認されており、板蓋宮が二重以上の重郭構造であった可能性が高いと考えられます。南北幅は検出された遺構からはおよそ200m程度ですが、現在も残る段地形などから類推すると、南北幅は400m程度あったものと、私は考えています。また、宮の東は東限区画のすぐそばに丘陵の裾が迫っていますが、西側は飛鳥川までに幅に余裕があり、北にも平地は広がっていることから、西と北にはもう一重区画が存在したかもしれません。ただ、区画の全域で宮の内部を構成する建物が、これまでひとつも確認されていないため、宮の建物配置などは全くわかっていません。
 しかしながら、わずかな成果や地形から宮の構造が推定できるのは、例えば区画の東辺がⅢ期遺構の外郭東辺の位置とほぼ一致すること、区画の西辺がⅢ期遺構の内郭の中軸線付近を通ることなど、土地利用のあり方が共通していることから、Ⅱ期遺構の建物や塀など施設そのものがそのまま引き継がれたことはないものの、地割はⅢ期に継承されたと考えられるからです。11月のウォーキングでは、この今もわずかに残る地形の痕跡をぜひ感じていただきたいと思っています。

 次回は、この飛鳥板蓋宮の上層に造営された後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮についてみてみたいと思います。



【3】 「飛鳥の諸宮をめぐる(第3回 後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮)」
             (09.10.16.発行 Vol.64に掲載)

 Ⅲ期遺構は前回も述べましたように、Ⅱ期遺構の地割を継承して正方位で造営されています。同一の層から確認されますが、AとBの前後半に分期し、Ⅲ-A期が斉明天皇の後飛鳥岡本宮、Ⅲ-B期が天武天皇の飛鳥浄御原宮と考えられています。

 Ⅲ-A期は、内郭と外郭の二重構造であることが確認されています。内郭は屋根を持つ一本柱塀によって区画され、南北約197m、東西は南辺が約152m、北辺が約158mの平面が逆台形をしています。 
 内郭は東西方向の掘立柱塀によって南北ふたつの区画にわけられていました。南区画の中軸線上には内郭の正門である内郭南門と内郭前殿があります。内郭前殿の東側には2列の掘立柱塀をはさんで、その東に南北に長い掘立柱建物が2棟並んでいました。これらの南北棟は中軸線を対称に西側にもあったと想定されており、朝堂であるとみる説もあります。
 北区画の中軸線上には桁行8間、梁間4間という大型の「南の正殿」と「北の正殿」が同一規格で並び立っていました。これらの正殿の東西には廊下でつながった桁行3間、梁間4間の脇殿がそれぞれにありました。
 北区画の2棟の正殿のさらに北側や東西は掘立柱塀によってさらに区画され、大小さまざまな建物が配置されていました。なかでも興味深いのは長廊状建物と称しているもので、桁行24間、梁間2間という東西に非常に長い建物です。橿考研の菅谷文則所長は舎人の宿営ではなかったかと推定されています。内郭の北東隅付近には、1960年度におこなわれた飛鳥京跡の第1次調査で確認された周囲に石敷をめぐらせた井戸があります。これは飛鳥京跡では唯一の井戸で、宮での飲食や催事に用いられたであろう重要なものであったと考えられます。今は、この周辺が数少ない整備されたところですので、皆さんもよくご存じの場所だと思います。
 外郭を区画する施設は現在のところ東辺の一本柱塀しか確認されておず、外郭の南、北、そして西の端はまだ、判明していません。外郭の内部は内郭ほど調査がすすんでいませんが、現在までに外郭の内部に張りめぐらされた石組溝や区画塀、総柱建物などの掘立柱建物が検出されています。
 また、内郭の北西、宮より一段低い部分には南北ふたつの池や中島・渡堤などで構成される広大な苑池が築造されていました。


飛鳥宮遺構関連図

 Ⅲ-B期は基本的には、内郭と外郭はⅢ-A期の施設をほぼそのまま踏襲しています。A期との最も大きな変化は内郭の東南側に新たな区画が造営されたことです。これが、橿考研で「エビノコ郭」と称しているもので、『日本書紀』天武紀にみえる岡本宮の南に造営した宮室にあたると考えられています。エビノコ郭は、周囲を内郭と同様の屋根付きの一本柱塀で区画した東西約94m、南北約55mで、区画の西側にのみ門を開いており、区画の中央にはこの郭の正殿である「エビノコ大殿」がありました。エビノコ大殿は桁行9間、梁間5間と飛鳥京跡のなかでも最も規模の大きいもので、『日本書紀』天武天皇10年(681)の記事にみえる「大極殿」の可能性が高いと考えられます。

 さて、飛鳥の宮跡の特徴のひとつに石を敷き詰めた空間が多いことが挙げられます。この石敷にも実は2種類あって、人頭大の「石敷」、こぶし大の「礫敷」に分けられます。石敷は、内郭北区画の多くの部分と、南区画の内郭前殿の建物の部分、エビノコ大殿の部分、外郭の一部に見られます。礫敷は内郭南区画の内郭前殿以外の空間、エビノコ郭の大殿以外の空間、外郭の一部に見られます。
 私見ですが、注目すべきは内郭前殿の背後に内郭北区画へと通路状に延びる石敷があることで、その分布範囲や位置から、石敷は天皇のいる空間にのみあり、礫敷は天皇が立たずに臣下だけがいる空間に設けられたと考えています。そして内郭前殿へは石敷の通路を天皇が自らの足で出御し、エビノコ大殿やその他の石敷の空間へは輿に乗って出御したのではないかと想像しています。

 飛鳥京跡Ⅲ-B期の遺構が天武朝の飛鳥浄御原宮であることがほぼ確実になった今、飛鳥京跡から検出された建物がそれぞれ文献史料にみえるどの殿舎に該当するのかが興味が持たれるところです。
 『日本書紀』には飛鳥浄御原宮に関するものとして、上述した「大極殿」をはじめ、「大安殿」や、「外安殿」、「内安殿」、「向小殿」、「前殿」、「大殿」、「朝堂」、「西門」、「南門」などの殿舎の名称が多数みられます。具体的には諸説ありますが、当研究所の見解としては、「大極殿」は繰り返しになりますが、エビノコ大殿が、「大安殿」は内郭前殿であると考えられ、「内安殿」は内郭北区画のふたつの正殿のどちらかに該当すると考えられます。また、「西門」はエビノコ郭西門で、「南門」は内郭南門と考えられます。これらの門の外側で弓を射る行事が行われたことが『日本書紀』に記されていますが、橿考研博物館の第3展示室の「飛鳥の宮」復元模型では、その場面も作っていますので、ぜひご覧になってください。
 個人的には、将来に内郭北の正殿と南の正殿の復元模型を作る時には、外からは見えませんけど、殿中で双六に興じる天武天皇たちの場面も作ってみたいなと考えています。

 では、次回は舒明天皇の諸宮についてみてみたいと思います。



【4】 「飛鳥の諸宮をめぐる (第4回 舒明天皇の宮)」
              (0..10.30.発行 Vol.65に掲載)

 舒明天皇は629年に即位して、飛鳥岡本宮を造営しますが、その8年(636)に飛鳥岡本宮が火事で焼失してしまいます。その痕跡が飛鳥京跡のⅠ期遺構に見られることは第2回でも紹介したとおりです。その後、舒明天皇は宮を飛鳥に再建せず、飛鳥の外へと遷しました。それも三たびも。今回は舒明天皇の宮である田中宮、厩坂宮、百済宮についてみていきたいと思います。

 飛鳥岡本宮から遷った田中宮は、現在の橿原市田中町あたりと考えられています。ただ、これまでに田中町内で奈良文化財研究所や橿考研、橿原市教育委員会が多くの発掘調査を実施してきましたが、田中宮と確実に言えそうな遺構はまだ確認されていません。
 田中町は現在、中世以降の条里水田の景観の中にありますが、丹念に地形を観察してみると、周辺よりもやや高い微高地であることがわかります。この微高地の北西端に田中廃寺があります。田中廃寺と田中宮が同時に存在したかはわかりません。ただ、田中廃寺の発掘調査では寺に先行する遺構が検出されていないことから、田中廃寺とは別の場所に宮が造営されていたようです。田中廃寺の東には、実は中世の城館の中心部ですが、「天皇の森」と呼ばれる場所があります。田中町の微高地の東半部に宮が存在していたのかもしれません。
 もうひとつ、田中町では興味深い発掘調査の成果があります。それは、集落の南側で、東西に建造予定の県道の事前発掘調査の成果です。この発掘調査では、藤原京の遺構が多数検出されましたが、それに先行する飛鳥時代の遺構もたくさん発見されています。これらの遺構は藤原京の遺構がすべて正方位を指向しているのに対して、飛鳥田中宮のものと同様に北でやや西に傾いているのが特徴です。今までの調査報告を見る限りでは、これらの遺構の評価は調査地の南に隣接する和田廃寺との関係を指摘するものばかりです。しかし、検出された遺構も田中宮推定地もすべて甘樫丘方面から延びる同じ微高地の上に立地しています。さらに同じ微高地の丘陵麓には豊浦宮や以前は小墾田宮の最有力地であった古宮遺跡が存在しています。上記の遺構群はこれらの遺跡の中間点あたりに位置しており、和田廃寺に限定せず、議論しなければならないのではないかと私は考えています。

 厩坂宮は、田中宮の南西に位置する橿原市石川町のあたりと推定されています。近鉄の橿原神宮前駅の東改札を出て東に向かうと、南北に走る国道165号線の「丈六」という交差点にあたりますが、その交差点は古代の下ツ道と阿倍山田道の交差点で、「軽の衢」と考えられています。この交差点の北東側に厩坂寺跡とされる土壇状の高まりがあります。ここに厩坂宮も築かれたと考えられています。
 しかし、厩坂宮の記録が『日本書紀』には次の百済宮の造営記事よりも後に出てくること、田中宮からの遷宮ではなく、伊予国への行幸の帰りに入っていることから、舒明天皇にとって正宮ではなく、仮宮や行宮のような性格のものだったのではないかと考えます。
 厩坂宮の推定地周辺では橿原市教育委員会が発掘調査を実施していますが、これまでのところ厩坂宮や厩坂寺に関わるような遺構、遺物は確認されていないようです。土壇状の高まりも自然地形の可能性が高いと私は考えており、厩坂宮の位置はこの周辺の別の場所の可能性もあります。

 百済宮の位置は、諸説あります。それは百済大寺がどこにあったかによります。というのは、『日本書紀』舒明天皇11年秋7月条に百済川のほとりに大宮と大寺の造営を始めたという記述があるためです。百済大寺は、以前は北葛城郡広陵町百済にあったとするのが主流でしたが、近年、桜井市吉備で発見された吉備池廃寺が百済大寺との説が有力なものとなり、百済宮もその付近にあったものと推定されるようになりました。ただ、百済宮の存在を示すような遺構は、今のところ全く発見されていません。
 吉備池廃寺の周辺地形もよく観察すると、北へ延びる微高地上に立地していることがわかりますが、百済宮もこの微高地の範囲にあったのではないかと私は考えています。
 さて、舒明天皇がその11年(639)に造営を始めた百済宮には伊予への行幸、厩坂宮への遷宮を経て、12年(640)10月に遷宮します。一見、舒明天皇は飛鳥岡本宮の焼失後、複数の宮を迷走しているような雰囲気もありますが、『日本書紀』に造営開始の記述がわざわざあることや、吉備池廃寺の規模などを考え合わせると、百済宮はかなり計画的に、舒明天皇の新たな正宮として造営しようとしたのではないかと考えています。ただ残念ながら、百済宮への遷宮のちょうど1年後に舒明天皇は崩御し、皇極天皇となる后は舒明が最初に宮を築いた地、飛鳥へと戻ったのです。

 次回、最後の咲読は「飛鳥」を冠する宮が登場する直前、推古天皇の豊浦宮と小墾田宮についてみてみたいと思います。



【5】  「飛鳥の諸宮をめぐる (第5回 推古天皇の宮-豊浦宮と小墾田宮-)」
              (09.11.13.発行 Vol.66に掲載)

 第17回定例会の咲読も最終回、ウォーキングもいよいよ明日となりました。
 今回は、宮が飛鳥に築かれるようになる直前、とはいえ時代としては飛鳥時代の開始とされる推古天皇の宮についてみてみたいと思います。

 592年に崇峻天皇が倉梯宮で暗殺されると、推古天皇が日本史上初の女帝として即位します。その場所が豊浦宮です。その後、推古11年(603)まで宮として存続しました。豊浦宮の遺跡は明日香村大字豊浦にあったと考えられています。実際、豊浦宮の跡地に建立されたと伝わる豊浦寺跡の発掘調査では、検出された寺跡の遺構の下層から推古天皇の時代に相当する遺構が検出されています。
 具体的には、講堂跡の下層では周囲に石敷をめぐらせた掘立柱建物や礫敷が、金堂跡の下層でも礫敷が、回廊跡の下層では石組溝が確認されています。これらの遺構からここが豊浦宮であったことを示すものは出ていませんが、石敷をめぐらせるという構造からすると、宮に関連する可能性は高いといえるでしょう。しかし、豊浦宮の推定地が位置する範囲は飛鳥川西岸の非常に狭い平地であることや、先代天皇の暗殺という非常事態での即位という状況などから、本格的に造営した宮ではなく、蘇我氏の本拠地の一部を利用した可能性も指摘されています。

 小墾田宮は、推古天皇がその11年(603)に、みずからの正宮として造営したものです。小墾田宮の位置はまだ判明していませんが、有力な候補地があります。以前は、明日香村大字豊浦の集落の北にある「古宮土壇」と呼ばれる高まりの周辺が有力な候補地でした。1970年の発掘調査で石積みの池や蛇行する石組溝が検出され、出土した土器の型式の検討などから、遺跡の年代は推古朝に合致することが明らかとなりました。しかし、周辺でおこなわれた発掘調査でも宮を構成する遺構は確認されず、小墾田宮の宮殿基壇と目された「古宮土壇」も12世紀の塚であることが判明し、本当に小墾田宮であるのか疑問視する向きもでてきました。
 それに替わって有力な候補地に浮上したのが、雷丘東方遺跡です。そのきっかけは1987年に実施された第3次調査です。この時に検出された井戸から「小治田宮」や「小治宮」などと書かれた墨書土器が出土しました。詳しく紹介する字数の余裕がありませんが、これらは、『続日本紀』にみられる淳仁天皇や称徳天皇の「小治田岡本宮」や「小治田宮」に関連するものと考えられます。よって、奈良時代の淳仁・称徳朝の小治田宮の地に推古朝の小墾田宮が存在したと考えるのは自然な流れだと思います。実際、あまり知られてはいませんが、雷丘東方遺跡の第2次調査では、7世紀前半の石積み方形池の護岸の一部が検出されています。また、雷丘の西麓にあたる雷内畑遺跡でも7世紀前半の方形池とみられる石敷が検出されており、雷丘の周辺に推古朝の重要な施設があったことは確かなようです。


小墾田宮構造図
 さて、小墾田宮の構造については、岸俊男による『日本書紀』の記述の研究から、南から「宮門」「朝庭」「庁(朝堂)」「大門(閤門)」「大殿」が建ち並ぶ、後の日本の宮室の構造の基本形態がすでに成立していた可能性が明らかにされています。
 しかし、これまでの遺構・遺物から推定される雷丘周辺の範囲は広いと
 はとても言えません。淳仁・称徳朝の小治田宮が完全に推古朝の小墾田宮
 の範囲を踏襲したとも考えられないと私は思います。

 では、そもそも小墾田の範囲とはどこまでなのでしょうか。飛鳥川の東岸のみなのか、それとも西岸にまで及ぶのでしょうか。『日本書紀』壬申の乱の記述にみえる「小墾田兵庫」が石神遺跡ではないかという見解もありますし、明日香村大字奥山の集落内にある奥山廃寺も「小治田寺」であるとの説もあります。「小墾田」とは、古代に「飛鳥」と呼ばれた地の北隣りの飛鳥川から奥山の丘陵までの比較的広い範囲を指していたかもしれません。
 私個人はどう考えているか?それは明日、現地でお話しさせていただこうと思います。

 では、天気予報は良くないようですが、がんばって参りたいと思います。

 追記  最後に宣伝をひとつ。現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館では11月23日(月)まで秋季特別展『銅鐸-弥生時代の青銅器生産-』を開催しております。
 飛鳥とは関係ないって?

 いや、実は明日香村桧前から出土したと伝わる銅戈があるのです。しかも中広形銅戈といってほぼ北部九州でしか発見されていないものです。謎の多いこの遺物、ぜひご覧ください。





遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る