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飛鳥咲読




第18回定例会
石神遺跡について

真神原風人

Vol.68(09.12.11.発行)~Vol.71(10.1.8.発行)に掲載





【1】 (09.12.11.発行 Vol.68に掲載)

 第18回定例会(2010年1月9日)は、石神遺跡について、奈良文化財研究所青木敬先生にご講演をいただくことになっています。それに先立って、その石神遺跡の概要や如何に石神遺跡が興味溢れる遺跡であるかを皆さんにお伝えするべく、咲読を書かせていただくことになりました。3号連載になると思いますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 石神遺跡について、皆さんが思い出されるのは、まず飛鳥資料館で見ることが出来る「石人像」や「須弥山石」と呼ばれる噴水装置ではないかと思います。そして、それらが石神遺跡の石敷き広場に置かれ、異国の使者をもてなす施設として用いられたとされることでしょう。それはもちろん誤りではないのですが、それだけでは十分ではありません。石神遺跡は、もっともっと興味深い遺跡なのです。その面白さを、この咲読でお伝え出来れば良いのですが。

 石神遺跡をまとめて紹介するのは、「大変です!」。と言うのは、石神遺跡は素人が簡単に書けるような遺跡ではないからです。例えば、主な遺構だけを紹介するとしても、それは大まかに分けても3期に亘り、斉明天皇の時代の饗宴施設とされる建物群から藤原京期の官衙群に至るまで、時期区分された遺構図無しに説明出来るほど簡単なものではありません。また、青木先生が担当された21次調査では、瓦を使った建物が存在した可能性が新たに出てきました。現地説明会の時点では斉明期の門だと説明されましたが、その後の調査・検討で斉明期の饗宴施設に先行する仏教関連施設であった可能性が高いと改められました。
また、石像物に始まる石神遺跡全体からの出土遺物には、鉄製の鏃が大量に出土するかと思えば、新羅製の土器や東北地方独特の特徴を持つ土器も出土し、また極めて重要な木簡類が大量に出土しています。ノコギリや扇や定規も出てきます。さらに、21次調査でも話題になりましたが、3次・4次調査などでも出土例がある奧山廃寺式の瓦群があります。
このように深い魅力と豊富な遺物を持つ石神遺跡の面白さを、どこからお伝えすれば良いのでしょうか。困ってしまいます。

 「困った時は基本に戻れ!」ということで、まずは石神遺跡の概要を見ていくことにします。石神遺跡は、飛鳥寺の北西、水落遺跡の北に位置しています。とは言っても、現在は発掘調査も終了していますので、地上に見えるのはただの田んぼの連なりと元飛鳥小学校の校庭跡でしかありません。以前、遠くからお越しの方に石神遺跡はどこでしょうかと、石神遺跡の所在地で尋ねられたことがあります。(^^ゞ 標識も説明版も一見目に付かないので(あるのですが)、有名な遺跡なのに場所が特定出来ないので困られたのでしょうね。説明版は、元の飛鳥小学校・旧明日香村文化財展示室の東側の道脇にあります。草であまり見えないのですが、石敷きも一部見学出来るようになっています。(復元展示か?)
21次にわたる調査の結果、石神遺跡の規模は、南北180m、東西130mに及ぶことが分かりました。しかし、これを実際の場所に立って再現出来る方はほとんどいらっしゃらないと思います。参考図をご覧下さい。(概略図なので、建物遺構などは正確ではありません。)



石神遺跡参考図

 おおよそこのような感じになります。西の限りは、飛鳥川の右岸に沿う道路から一段高くなっているところだと推定されています。南側は、飛鳥寺の北限遺構に沿う道路があり、その北に藤原宮大垣に匹敵する大きさの柱掘形や柱痕跡を有する基壇上に建つ東西掘立柱塀遺構が検出されています。それが南限だと考えられています。この南限に沿う道路は、メルマガでもお馴染みの近江俊秀先生が推古天皇の頃の山田道だと推定されている道にあたります。東限は、20次、21次調査において門と塀の遺構が検出され、その東に道路と思われる遺構も検出されたことから推定されました。北限は、第13次調査で二本の東西溝に挟まれた塀遺構が検出されていることと、その場所で地形が北に向かって一段落ち、その北側では沼沢地となることから判断されています。
 この範囲の中に、斉明天皇の時代に造営された饗宴施設だと思われる遺構群が収まる事になります。ただし、他の時期の遺構は、度重なる造成を繰り返し、東や北にその範囲を超えて造営されている物もあります。

 おおよその範囲はお分かりいただけたと思いますので、次は、石神遺跡の時期区分を見て行きましょう。石神遺跡からは、古墳時代から平安時代までの遺構が検出されていますが、その中心は7世紀を通しての飛鳥時代になります。遺構の重複などから、飛鳥時代に何度も造成・造り替えを行いながら、土地利用が続けられたと考えられています。ここでは、飛鳥時代に絞ってお話を続けたいと思います。

 まずは、おおまかに3期に分けて話を進めます。それらは更に細分化されるのですが、あまりに詳細すぎますので、ここでは3期として始めたいと思います。発掘調査をされた奈良文化財研究所では、A・B・Cと時期区分を書き表されているので、それに従うことにします。

 A期は、7世紀前半~中頃に相当する時期区分です。斉明天皇の饗宴施設だとされる時代を含んでいます。これまで、その斉明期である7世紀中頃に石神遺跡の活発な土地利用が始まったと考えられてきましたが、21次調査によって、それに先行する瓦葺の建物があった可能性が高まりました。これによって未解明のA期前半の様相にも新たな興味が持たれます。

 B期は、7世紀後半です。天武天皇の時代になり、A期の建物は撤去され造成がなされた後、飛鳥浄御原宮の官衙的な性格を帯びた南北棟建物群が遺構全体に亘って造られたと考えられているようです。北に広がる沼沢地は埋められ、南北溝・東西溝が造られました。この時期に大きな土地利用の変革があったようです。

 C期は、7世紀末~8世紀初頭の藤原京が存在した時期区分になります。B期の建物を解体した後、塀で区画された藤原宮の官衙群と同じ建物配置を持つ建物群が造られます。藤原宮の役所の一部がこの地に置かれたと推定されているようです。

 石神遺跡から出土する大量の木簡や様々な木製品などは、B・C期の物が多く、これらの時期の建物遺構が官衙的な性格のものであったことを裏付けられているように思います。

 次号では、遺物などの話を含めて、もう少し詳しく見て行きたいと思います。



【2】 (09.12.25.発行 Vol.69に掲載)

 第18回定例会のお誘いと、少しばかりの予習になればと書いています飛鳥咲読の第2回目です。1回目では、石神遺跡の概要を書かせていただきました。今回は、A期(7世紀前半~中頃)を中心に、遺物を含めて、少し詳しくご紹介したいと思います。

 A期は、もっとも石神遺跡で知られている斉明天皇の饗宴施設ではないかとされる時期を含んでいます。須弥山石や石人像は、飛鳥遊訪マガジンの読者であれば、少なくとも写真ではご覧になったことがあると思います。須弥山石は、飛鳥の謎の石像物と呼ばれる物の中で、唯一日本書紀に記載のある石像物です。

 最初の記録は、推古20年(612)5月の条に、百済から渡来してきた路子工(みちこのたくみ)と後に呼ばれる者に造らせた記事があります。
 「・・・須弥山のかたちと、呉橋とを御所の南庭に築けと、お命じになった。」。ここでいう御所は、小墾田宮になります。
 次に記事として須弥山石が登場するのは、斉明天皇の時代です。
「3年秋7月15日、須弥山の像を、飛鳥寺の西に作った。また、盂蘭盆会を行い、日暮にトカラの人に饗応した。」
 「5年3月17日、甘樫丘の東の川上(かわら)に須弥山を造り、陸奥と越との蝦夷に饗応した。」
 「6年5月、また、石上池のほとりに須弥山を作った。その高さは廟塔ほどもあり、それによって粛慎(みしはせ)四十七人に饗応した。」

 須弥山石が記載された記事は以上四つの記事ですが、置かれた場所が微妙に違うように読み取れます。斉明6年の記事は、石神遺跡であるように思われますが、斉明3年の記事は飛鳥寺の西と書かれていますので、槻の木の広場を示しているように思われます。また、斉明5年の記事は、甘樫丘の東の川上(かわら)と書かれていますので、石神は川原だとは言えませんので、別の場所であったよう思われます。飛鳥時代には、4つの須弥山石が造られたのでしょうか。

 推古天皇の時代のものは、宮の南庭と書かれており、そのような場所に恒久的な石像物を造るとは考え難いように思います。儀式の時だけに仮設されたのかもしれません。そうすると、須弥山石が4段(出土した物は3段)に造られている理由の一つは、組み立て式として必要になった時にだけ移動されて仮設出来ることだったのかも知れませんね。

 須弥山石は、書紀の記事からトカラ人や蝦夷・粛慎などの人々を饗応する場にあったと考えられます。遠隔地から呼び寄せた人々を驚かせ、朝廷の権威を見せ付ける道具の一つに使われたのでしょう。「どや!すごいやろ~!」といった具合でしょうか。

 斉明期の遺構東側南端では、東西50m以上・南北40mに及ぶ石敷き広場がありました。この石敷き広場より北には、井戸と東西建物、そのまた北には「ロの字形」に配置された四棟の細長い建物とその中に正殿・前殿と考えられる建物が整然と配置されていたことが分かっています。また、遺構の西側では、長い廊状の建物で囲まれた区画があり、7間×3間の大きな4面庇建物などが整然と建てられています。北限施設付近では総柱建物跡が検出され、饗宴施設で用いる様々な物資を蓄え準備する倉庫群の可能性が指摘されています。


A期のこれらの遺構が、実際に饗宴施設かどうかを考える上で大事な遺物として、内面黒色土器があります。食器の内側だけに煤が塗り込められているという特徴を持ちますが、これらは東北地方で作られたものであるとされています。内面黒色土器は、近畿ではほぼ飛鳥だけで出土するそうですが、それも現状では石神遺跡だけと言えるようです。内面黒色土器を、風人はちゃんと見た記憶がありません。そこで、掲載可能な写真を捜してみました。別の物を撮った写真にたまたま写っていたものなので不鮮明ではありますが、石神遺跡20次調査の折に現場の説明板を写したものです。


内面黒色土器
 内面黒色土器は土師器ですので、水漏れ防止策に煤を塗り込んであるようです。これらは、献上品として持ち込まれた物ではなく、蝦夷達が道中の食器として持参した物を投棄したのではないかと考えられているようです。

 また、海外の使節が訪れたのではないかと思われる証に、4次調査区からはほぼ完形に近い新羅土器が出土している他、大陸や韓半島との繋がりを推測させる土器や硯なども多数出土しています。
 20次調査現地説明会の折に展示された新羅土器の写真がありますので、ご覧下さい。

新羅土器

 今回は、A期の饗宴施設だけを見てきましたが、A期は細分され3期に分けて考えられます。饗宴施設はA3期にあたり、21次調査で出土した瓦を使った仏教関連施設は、A1期(620年~630年)舒明天皇の頃だと推測されています。

 まだまだ謎を残す石神遺跡ですが、講演会でその謎にどこまで迫れるでしょうか。楽しみです♪



【3】 (10.1.8.発行 Vol.71に掲載)

  第18回定例会も、いよいよ明日になりました。ということで、「咲読石神遺跡」も最終回を迎えます。やはり、当初の予想どおり、石神遺跡は風人ごとき者では、とても書き切れるのもではないことを思い知らされました。予習のお役に立てず、申し訳ないです。m(__)m
  詳しいことは、講師の青木先生にお任せすることとして、今回も懲りずに石神遺跡のB期・C期をざっとですが見ておきたいと思います。お付き合いください。

 B期は、7世紀後半の天武天皇の時代になります。詳細には、さらに2時期に細分され、天武期と藤原京遷都直前の時期に分けられるようです。
 B期の主な建物は、A期の斉明天皇の頃の饗宴施設が完全に撤去され、再度整地された上に建設されています。主として南北塀に区画された南北棟の掘立柱建物や総柱建物が多数建ち並んでいました。遺跡の南側に建つものの中には、周囲に石敷を伴っている建物も存在します。石敷がある建物は、公的な施設である可能性が高いと思われますので、やはりこれらの建物は官衙と考えるのが良いのかも知れません。
 遺跡の北部では、A期の北限施設は壊され、また、その北側の沼沢地は埋め立てられて南北溝や東西溝が造られています。この溝からは、後で触れることにしますが、大量の木簡が発見されています。ただ、建物の北限は、A期と同位置に止まっていると推測されているようです。
C期は、7世紀末から8世紀初頭の藤原京期の遺構です。C期も2時期に細分されるようですが、ここでは触れないでおきます。

藤原宮官衙遺構図
 B期の施設は取り壊されており、新しい建物群が形成されています。C期で注目されるのは、一辺が約70m四方の掘立柱塀で区画された空間です。区画の中には、小規模な建物が複数建てられていました。
これらの区画は、藤原宮内裏東官衙の南北3区画と類似するとされています。やはり、藤原宮の官衙の一部が石神遺跡に置かれていたのでしょうか。官衙とすれば、わざわざ宮から離れて置かれた理由は何だったのでしょう。

 これらB期・C期の建物群は、飛鳥浄御原宮から始まる我国の律令制度の進展と期を一にしており、それに伴う官僚機構の拡充増大が石神遺跡を饗宴施設から官衙群へと変貌させたのかも知れません。B期に相当する天武天皇の時代には、飛鳥浄御原宮の東から北にかけて、官衙群が形成されたのではないかとの見方が有力になっています。昨年発掘調査により検出された飛鳥寺南の掘立柱建物と石敷遺構も、その一つの事例なのかも知れません。現在(2010年1月)、昨年の調査区の南で発掘調査が行われています。成果が報告されるのを楽しみに待ちたいと思います。

 B・ C期の石神遺跡が官衙だったのではないかする証拠として、大量の木簡や木製品の出土があります。出土地点は、先ほど書きました北方の沼沢地を埋め立てた後に造られた溝からの物が主となります。第15次・第16次調査での出土合計は、3,503点(削屑2,836点)を数えます。その内、紀年銘のある木簡が20点含まれていました。最も古い乙丑年(天智4年・665年)の物を除けば、乙亥年(天武4年・678年)から壬辰年(持統6年・692年)の範囲に入り、木簡が天武・持統朝を中心とすることが分かります。
 重要な物では、仕丁関連の木簡が上げられます。また有名な物では、16次調査出土の元嘉暦による持統3年(689年)3月と4月の暦日を記した最古の「具注暦木簡」とよばれるもの、また18次調査出土の「己卯年八月十七日」(天武8年・679年)と記載のある観音経木簡、さらに「評五十戸」木簡を始め、全国からもたらされる様々な「貢進木簡」、行政の場であったことを示す「文書木簡」や「記録木簡」、万葉歌や難波津の歌・論語・九九などを練習した「習書木簡」が出土している他、木製品では文書を書く際に行間を揃えるために使われたと思われる定規や封緘なども出土しています。

 さて、上記の木簡を少しですが具体的に見ておきましょう。
 仕丁というのは、地方から労役を徴用する税制度ですが、大化改新後の律令制下では、1里50戸につき2人が中央に貢進され、諸官司で雑役に使役されました。第15次調査では、「物部五十戸人口口 大家五十戸人 口口 日下五十戸人 口口」と書かれた木簡が出土しています。これらは、後の尾張国愛智郡の里名を示すものだと考えられています。飛鳥時代の仕丁制度を具体的に示す貴重な資料となります。仕丁に給付される米に関する「養」と書かれた木簡も出土しています。

 また、藤原京期の大宝律令の下では、中央集権体制の確立をめざして地方行政の整備が進められました。地名表記も「評」から「郡」へ、「五十戸(さと)」から「里」へと変わり、全国は国-郡-里の3段階に区分されました。これらの整備事業は、大化の詔によって行われたように書紀には記載されていますが、木簡からその実施が大宝律令下で行われたことがわかりました。
 例として、第15次調査で出土した木簡をご紹介します。 

(表) 乙丑年十二月三野国ム下評
(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ (改行) 口人田部児安

 乙丑(きのとうし)年は天智4年(665)。「国-評-五十戸」を示す木簡としては最古の年紀を持つ木簡だとされているようです。「三野国ム下(むげ)評大山五十戸(後の美濃国武芸郡大山郷、岐阜県富加町付近)」からの荷札に付けられていた木簡です。

 第16次調査で出土した元嘉暦というのは、中国の宗の時代に採用された暦です。(445年施行) 我国には、百済を経由して伝わったとされていますが、この暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料です。石神遺跡から出土した暦は、元嘉暦を基にした具注暦と呼ばれるもので、吉凶判断のための様々な注釈が記載されています。
出土した部分は、板状の物を円形に切り取り、壺の蓋などに二次利用していた物と考えられています。暦の部分には、持統天皇3年3月8日~14日、裏面に同年 4月13日~19日の暦が書かれていました。暦が出土したと言うことは、暦が必要な場所であったことを裏付けるように思います。それは、やはり役所ではないでしょうか。

 まだまだ書けなかった事があります。字数に制限のある中でご紹介出来ることは僅かでしかありませんでしたが、これにて、第18回定例会用の咲読を終了いたします。

 長い咲読にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。石神遺跡について、多少でも面白いやん!って思っていただければ、頑張って書いた労も報われます。
 明日は、青木先生の講演です。楽しみにご参加ください。
 また、今回はご参加いただけなかった皆さんも、是非一度、両槻会定例会にお越しください。お待ちしております♪(第18回定例会は終了しています。)





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