飛鳥咲読
第20回定例会
新緑の高取城址 -
日本一の山城から奥飛鳥への道 -
sachiさん
真神原風人
Vol.76(10.3.19.発行)~Vol.79(10.4.30.発行)に掲載
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【1】 (10.3.19.発行 Vol.76に掲載)
第20回定例会「新緑の高取城址」の咲読を始めたいと思います。今回も風人が担当させていただきますが、1回か2回、定例会の当日スタッフとしてご支援をいただいているsachiさんが、投稿として咲読を書いてくださることになっています。新しいタイプの咲読をご期待ください♪
次回定例会は、新緑に輝く「日本一の山城」を訪ねます。今に残る石垣の風情は、武者達の描いた夢の儚さに思い至らせ独特の雰囲気を醸し出しています。
あまり知られてはいませんが、高取城は、「備中松山城」・「美濃岩村城」と共に「日本三大山城」とされています。その根拠となるのは、城郭の周囲が30kmにも及ぶ広大さと共に、その比高にあります。高取城は海抜583mの高取山の頂に築かれており、麓との比高は390mもあります。城下町から城址への道は、七曲・一升坂などと呼ばれる所があり、攻め上るに難い不落の城であったことが伺えます。
今に残る城址は、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、本多氏が天正13(1583)年に入城し、堅固な城郭を造り上げたとされています。その後は、明治初年の廃城になるまで、譜代の大名の植村氏が居城としてきました。
コース概要
壺阪山駅前 → バス → 壺阪寺前バス停(拝観はありません) → 徒歩 → 五百羅漢 → 高取城址 → 昼食 → 国見櫓 → 二の門跡・猿石(明日香村栢森分岐) → 大根田分岐 → 大根田 → 檜隈寺跡 → 飛鳥駅 ウォーキング総距離 10km弱 山道有
全コースを徒歩でと思ったのですが、スタッフのブーイングの嵐にあい(笑)、当時の足軽の体力の欠片も無い現在人に適度なハイキングになるよう、壺阪寺(標高300m)まではバスで登ることにしました。残り約283mです。
お寺前のバス停から、壺阪寺の奥の院とも呼ばれる「五百羅漢」の石像仏群を経由して、ほぼ1時間で山頂高取城本丸址に到着することが出来ます。
本丸から見える吉野の山々は、重なり合い、連なりながら雲間に隠れるまで見晴るかすことができます。また、東に聳える高見山も心に残る山容を見せます。5月の定例会では、本丸で充分な時間を過ごしたいと思っています。
また、高取城は別の観点からも私達を楽しませてくれます。石垣の中には、明らかに転用石と思われるものがあり、飛鳥時代の古墳石室などから持ち出された石材が含まれています。そのような転用石材を探して歩くのも、両槻会としては面白いかも知れませんね。割られた酒船石の断片や破壊された石室の天井石や側壁を思い浮かべながら、石垣を探査してみましょう。ひょっとして大発見が待っているかも知れません。(笑)
今回の定例会では、高取の猿石から明日香村大根田に下るルートを採用しました。高取城址へ登られた方は多いと思うのですが、下山に大根田ルートを選ばれる方はほとんど無いと思います。地形図やネット地図には、この山道は描かれていないので、知らない方も多いのではないでしょうか。土佐街道へ下るルートが大手筋ですので、こちらを下る方が圧倒的に多いと思うのですが、大根田ルート良いですよ♪風人は、大根田の地図上に描かれた三連の池辺りが、とても気に入りました。
ここから二上山が遠望できます♪長閑な里の風景です。大根田から檜前へ、檜隈寺跡を過ぎて飛鳥駅前で解散を予定しています。
【2】 (10.4.2.発行 Vol.77に掲載)
このたび咲読を書かせていただくことになりました、sachiです。
両槻会のメルマガに投稿なんて、恐れ多い~とは思ったのですが、高取城に登りたい!と両槻会にリクエストした手前、理由を書いてほしいと言われると断るわけにもいかず、このような仕儀と相成りました(笑)。
ミーハーな中世ファンのたわ言にしか過ぎませんが、しばしの間お付き合いいただけると嬉しいです。
高取城といえば、難攻不落で立派な石垣の天守があったところ、というイメージが一般的ではないかと思います。でも、私が高取城について注目したのは、とにかく‘越智氏が造った城’という一点でした(笑)。
もちろん、周囲を一望した絶景とか、石垣の中に飛鳥の遺跡の石が混じってるとか、興味がないわけではありません。特に景色を見たいというのは、登りたいと思った大きな理由のひとつではあるのですけど。
飛鳥といえば古代史のイメージが強く、飛鳥ファンといえばやはり古代史に興味を持っている人がほとんどではないでしょうか。実際に私が飛鳥に興味を持ったのも、蘇我入鹿をきっかけとした古代史からでした。
それが飛鳥に通ううち、私がもともと大好きだった中世、特に南北朝時代の飛鳥はどうだったんだろう?ということに興味が出てきました。
飛鳥で南北朝??と疑問に思われる方が大半であろう、超マニアックな視点ではあるのですが(笑)、調べてみるとこれが意外に奥深く、かつ面白いんですね。
中世の飛鳥は、ほぼ興福寺の勢力下。とはいえ、吉野に近いという土地柄、南北朝動乱の時代には、南朝に味方する豪族もたくさんいました。そしてその中で一番大きく注目されるのが、高取の越智氏でした。
越智氏はもともと、興福寺と一体とも言える春日大社の荘園を管理する神人(じにん)に任じられ、国民(くにたみ)として勢力を伸ばしていった在地豪族でした。本拠は、現在の高取町越智。貝吹山を合戦の場合の詰めの城として、平時の居館はその西側の丘陵に囲まれた地にあったとされています。すぐ南側には現在、光雲寺というお寺がありますが、このお寺を建立した越智邦澄という人物が、1332年に高取城を最初に築城したと言われています。
さてこの1332年とは、いったいどういう年だったのか。
1331年は、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵した、元弘の変の起こった年です。間もなく、後醍醐天皇は敗れて幕府の手に捕らわれ、翌1332年に隠岐へ配流となってしまいます。
しかし、鎌倉幕府に対する反感が高まっていたこの時期、後醍醐天皇に同調して挙兵する豪族が次々に現れます。天皇の皇子、大塔宮護良親王がまず、潜伏先の吉野で挙兵し、前年の元弘の変でも奮戦した楠木正成が、再び兵を挙げました。
そして越智邦澄もおそらく、吉野にある大塔宮に呼応して高取城を築いたのでしょう。
高取城の位置を地図上で見ると、北は多武峰、南は吉野へと山が続いています。河内の楠木氏が、金剛山に千早城を築いて立てこもったように、高取城もまた、籠城可能な砦として、また吉野へ続く交通の拠点として、越智氏が築いたと考えられるのではないでしょうか。
実際には、千早城の楠木正成が鎌倉幕府軍のほとんどを引き付けて籠城作戦を展開するうちに、各地で反幕府の火の手が上がり、後醍醐天皇も隠岐を脱出して、翌1333年に鎌倉幕府は滅亡してしまったので、高取城での籠城戦は行われなかったのでしょうが、金剛山の背後の防波堤として、やはり越智氏の存在は大きかったと思います。 (つづく)
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国人(こくじん)・国民(くにたみ)・衆徒(しゅと・しゅうと)の概要
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国人とは南北朝時代から室町時代にかけての諸国の在地勢力や地侍などを言いますが、大和では興福寺の影響下、国民や衆徒といった二つの勢力(大和武士)が形成されて行くことになります。在地領主は、所有地を守るために有力な社寺に荘園を寄進して、自らは荘官となり収益権を確保しました。大和では、興福寺に組み入れられた者を「衆徒」といい、神仏習合によって興福寺と一体化していた春日社の神人(じにん・下級神職や寄人)に組み込まれた者を「国民」と呼びました。衆徒は主に北大和を、国民は主に南大和を中心にした勢力であったようです。しかし、それらは単純に二つの勢力としてではなく、興福寺は一乗院と大乗院という二大勢力があり、国民・衆徒を形成するそれぞれも、どちらかに属することになり更に複雑な勢力図を展開していました。
おおざっぱな説明ですので、充分かつ適切ではないかもしれません。ご了承下さい。(事務局)
【3】 (10.4.16.発行 Vol.78に掲載)
鎌倉幕府滅亡(1333年)後、建武の新政が始まったものの、後醍醐天皇と足利尊氏の対立により、南北朝時代に突入したことはご存知の方も多いと思います。そのあと、室町幕府の三代将軍足利義満の時代に南北合一が果たされ、めでたしめでたしと思っておられる方も多いのではないでしょうか。
ところが違うんです!
南朝絡みの争乱は、戦国時代の始まりを告げる応仁の乱まで続いています。そしてその陰に、実は越智氏が深く関係していたりするから、びっくりします。
1336年、湊川の戦で楠木正成が討死し、後醍醐天皇は吉野へと逃れます。越智氏をはじめとした吉野に近い南大和の豪族たちは、ほとんどが南朝に味方していました。1348年、四条畷の戦で楠木正行が幕府方の高師直に敗れ、師直軍はその勢いで吉野へと攻め入りました。飛鳥地域を通り、芋峠から吉野へ向かったと考えられます。その際、吉野は焼き討ちに遭い、後村上天皇も賀名生(あのう)に逃れましたが、師直は深追いすることなく退却しています。吉野へ入った師直軍を苦しめたのは、越智氏などの南朝方豪族によるゲリラ戦だったといいます。大軍ではあっても、細い山道で延々と行軍する師直軍にとって、地理に詳しく、あちこちに砦を築いて抵抗する大和の豪族たちは、さぞ手強い相手だったことでしょう。
その後、足利尊氏と弟の直義の兄弟喧嘩による観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では、直義が南朝に降伏するという事態まで起こります。その時に直義が南朝への仲介を頼んだのが、越智邦澄でした。
結局、直義は尊氏に敗れてしまいましたが、南朝において越智氏がそれなりの勢力を持っていないければ、わざわざ敵方から仲介を頼まれたりはしないでしょう。
南北朝は、1392年に合一されます。しかしその時の条件が、北朝と南朝の天皇が交互に即位する、というものであり、のちにそれが守られなかったために、再び争乱が起こることになるのです。
越智氏が再び南朝方として活動を始めるのは、1429年に起こった大和永享の乱でした。これはそもそも、興福寺の被官である大和豪族の派閥抗争から起こった乱です。そこに、もとは北朝方だった筒井氏と、南朝方だった越智氏が介入し、大和の豪族たちが真っ二つに分かれて争うことになってしまいます。背景には、北朝方である後花園天皇の即位と、六代将軍足利義教の興福寺への介入がありました。北朝の天皇のあとに南朝の天皇が就く、という約束が破られた上に、専制将軍である足利義教が、興福寺領として幕府の支配が及びにくい地域であった大和に、直接支配の手を伸ばしてきたのです。幕府は南朝系の宮家を次々に取り潰しただけでなく、筒井氏と手を結び、越智氏討伐に乗り出します。この時の当主、越智維通は多武峰と連携して高取城に立てこもり、数年にわたって抵抗を続けましたが、1438年ついに高取は落城。維通は落ち延びたものの、翌年追い詰められて討死してしまいました。
維通の死によって大和永享の乱は終結しますが、2年後の1441年、幕府をひっくり返す大事件が起きます。将軍義教が大名の赤松氏に殺された、嘉吉の乱です。南朝を弾圧し、力による恐怖政治を行った義教が暗殺され、幕府内の勢力図も大きく変わったことで、越智氏も再び息を吹き返しました。維通の遺児が、越智家栄として当主の座に就き、高取城を本拠として、今度は筒井氏を抑えて大和における勢力を盛り返していきます。
南朝の生き残りによる争乱は、その後もたびたびありました。1443年には、内裏が襲われ、皇位継承のシンボル・三種の神器が強奪されるという禁闕(きんけつ)の変が起き、1457年には、吉野で兵を集め活動していた南朝の皇子が、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣たちによって殺害されるという、長禄の変も起きています。
それらの事件に、越智氏がどこまで関わっていたかは定かではありませんが、越智氏の勢力回復の時期と一致するだけに、背後で何かつながりがあったのではないか?とつい考えたくなります。
1467年、応仁の乱が始まると、将軍の後継者争いに有力大名たちの内紛が絡んで、全国の大名たちが二つに分かれて激しい戦いを繰り広げます。越智氏は、山名宗全を盟主とする西軍に味方していました。その戦の中で、東軍が将軍と朝廷を味方につけてしまい、西軍が不利な立場になった時、山名宗全が取った行動は、南朝の血を引く皇子を擁立することでした。西陣南帝と呼ばれるこの皇子を迎えるにあたって、大きな役割を果したのが越智氏であることは、容易に想像できます。
それ以降、西陣南帝の消息は不明となり、南朝も歴史の闇に消えてしまいます。越智氏は、その後も筒井氏と大和の覇権をめぐって争い続けましたが、戦国時代の終わりに筒井氏によって滅ぼされてしまいました。
越智氏が後醍醐天皇の時代から約140年にわたって南朝に肩入れし続けた理由は一体なんだったのか、そんな風に考えてみると、中世大和の抗争史も、また別の視点から眺められるのではないでしょうか。
【4】 (10.4.30.発行 Vol.79に掲載)
「新緑の高取城址を訪ねて」の咲読も、いよいよ最終回です。今号は、風人に担当が戻ってきました。すみません。(笑)
さて、2回にわたって書いていただいたsachiさんの「越智氏高取城」は、今に石垣を残す高取城ではありません。と書くと語弊もあるのですけど、越智氏の築いた高取城は、「かき揚げ城」と言われる様式のお城でした。このかき揚げ城と言うのは、辞書で引くと「簡単な堀を掘り土塁を盛った程度の小規模な城郭。」を意味するようです。つまり、越智氏の高取城は、本格的な石垣をめぐらせた巨城ではなかったということになります。では、今に残る高取城の石垣はどのような経緯で誕生したのでしょうか。今回は、それを簡単に紹介してみます。
戦国時代に入ると、一向一揆勢を迎え撃つ興福寺の勢力の一つとして、高取城でも攻城戦が展開されるなど激戦の地となりました。しかし、高取城は落城することは無かったようです。標高差350mという天険に守られていることと、筒井勢が背後を突くという大和連合軍の連係プレイがあったからだそうです。
その後、高取城は、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められたため、天正8(1580)年に廃城となります。しかし、郡山城主筒井順慶は、信長が本能寺の変で亡くなると、天正12(1584)年、支城の一つとして本格的な城塞へと復興を開始します。次に豊臣秀吉が関白になると、筒井順慶の後を継いだ定次は伊賀へと転封され、大和には豊臣秀長(秀吉の異父弟)が入ってきます。この間に、筒井順慶の配下となっていた越智頼秀が殺害され、越智氏は滅亡してしまいます(天正11年)。
さて、高取城には秀長の命を受けた重臣脇坂安治が入りますが、後に同じく重臣の本多利久に与えられることになりました。天正17(1589)年、利久は新しい縄張り(曲輪の設置などの基本設計)により本格的な築城を始めました。ここに、現在に石垣を残す日本三大山城の一つとされる高取城(別名、芙蓉城)が誕生することになります。本丸には、多聞櫓(櫓の間を繋ぐように建てられた長屋状の渡櫓を持つ櫓。)で連結された三重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んでいたそうです。白亜の天守は遠く城下からも見えたそうで、「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と称えられたそうです。(土佐は城下町の名)
高取城の様子はCG画像によって復元されており、日本一の山城とされるその雄姿は、現在の私達の目をも驚かせるに充分な威容を誇ります。
奈良産業大学高取城CG再現プロジェクト
山の頂にとてつもないものを造り上げたものです。このような執念とさえ思える建設意欲を支えたものは何だったのでしょう。
その後、本多利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石を与えられるのですが、秀吉の没後には徳川家康方に加担したようで、関ヶ原の戦いの後、功を認められ1万石の加増を受け、高取藩2万5千石の初代藩主となりました。やがて、嗣子が無く本多氏が廃絶の後は、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波国園部藩主)が城番となりますが、寛永17(1640)年、旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ、新たな城主となりました。最後の家壷まで植村氏が14代にわたって城主となります。明治2(1869)年版籍奉還となり、明治6(1873)年廃城となりました。城の建物は大半が解体されたようですが、それでも明治20年頃までは天守なども残っていたようです。
南北朝の越智氏に始まる高取城の歴史を見てきたわけですが、そこに一味の興味を加えたいと思います。それは、高取城の石垣に見られる転用石についてのお話です。
転用石とは他の用途のために加工された石材が、異なった目的に使用されているものを言います。高取城に限ったわけではなく、他のお城にも見受けられます。例えばお地蔵様や平城京の礎石が埋め込まれた郡山城、極端な例としては石段に地蔵様が埋め込まれた安土城などが知られます。他 にも古墳の石棺を使った姫路城などの例が知られますが、高取城の本丸や新櫓付近には、大量の転用石が使われています。転用石は、一目瞭然です。高取城の場合、本丸石垣の角の積み石は、ほとんどが転用石と言っても過言ではないと思います。なぜ転用石と見分けがつくのかというと、石垣の石には不必要な加工が施されているからです。石と石の接点だけではなく綺麗に面が作られた石、意味も無く表面を綺麗に磨かれた石、無用な鉤型の切れ込みのある石、面取りされた石まであります。これらは、切石造りの古墳石室から持ち出され側壁や天井石が割られて使われたものだと考えられています。
場所柄、これらの石材は飛鳥地域にあった古墳の石室に用いられていた物ではないかと考えられました。転用石には同じ様な幅の矢跡(石を割るときに用いる「セリ矢」という道具を差し込んだ跡)が残っています。石材を割る時に付くものですが、皆さんもきっと思い出だされることだろうと思います。鬼の俎板や酒船石の矢跡を。そこから先は、妄想でしかありませんが、これらも石垣の石材として持ち出されようとしたのかも知れませんね。石垣を見ながら、今に知られること無く破壊された飛鳥の古墳を想像するのも面白いのではないでしょうか。
いつもながらに長い咲読にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
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