両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第27回定例会
嶋宮をめぐる諸問題

Vol.108(11.5.27.発行)~Vol.111(11.7.8.発行)に掲載





【1】 (11.5.27.発行 Vol.18に掲載)

 今号から第27回定例会に向けての咲読を始めます。担当は風人と“もも”が2回ずつ視点を変えて書く予定をしています。
 第27回定例会は、両槻会主催講演会を開催します。明日香村教育委員会文化財課調整員 相原嘉之先生をお迎えして、「嶋宮をめぐる諸問題」と題してご講演をいただくことになっています。予定に関しましては、お知らせのコーナーや両槻会サイトの予定ページをご覧ください。

 さて、飛鳥遊訪マガジンを購読してくださっている皆さんなら、説明の必要も無いかもしれませんが、まず1回目と言うことで基本的なことを押さえておきたいと思います。

 嶋宮というと、何を思い出されるでしょうか。万葉集の歌から、草壁皇子の宮としてご存知の方も多いのではないでしょうか。また、それ以前には、蘇我馬子の邸宅だった「嶋家」が在ったこともご存知かも知れませんね。そこには、「勾池」があり、池には嶋が造られていた事から、馬子を「嶋大臣」と呼んだこともよく知られています。では、これらは何処に在ったのでしょうか。

 現在では、明日香村大字島庄の島庄遺跡が候補地とされています。蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳を東の端に置く一帯、と言えば分かりやすいかも知れませんね。リンク先の写真をご覧下さい。

島庄パノラマ
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 もちろん遠景は島庄ではありませんが、おおよそ飛鳥川の東(対岸「東橘地域」を含む)、唯称寺川の南が今回取り上げる地域になります。
 唯称寺川は小さな溝川ですが、講演では何度か登場する名称ですので名前を覚えていただければと思います。実は、飛鳥京の南限を区切る事にもなるかも知れない注目の川ですので、リンク先の写真にも書き込んでおきました。

 日本書紀推古34年5月条に、蘇我馬子が亡くなったことを記した文章があります。「大臣が薨じ、桃原墓に葬った。・・中略・・飛鳥川のほとりに家をつくり、庭に小さな池を開き、小島を池の中にきずいた。・・・後略。」

 馬子が邸宅の池に嶋を造ったから「嶋」という地名が出来たのでしょう。それが現在の「島庄」に引き継がれているあたりが飛鳥の凄いところですし、また面白さの一つだと思います。
 飛鳥京苑池遺構の南池にも中嶋が造られていたのを思い出される方も居られると思います。嶋は観賞用というだけではなく、神仙思想に基づくものだとも言われますが、詳しいことは定例会でお聞きしましょう。書紀からは、「嶋」と呼ばれる以前には「桃原」と言う地名であったことが分かります。書紀雄略天皇7年の記事には、「上桃原・下桃原・真神原」の地名が書かれていますので、古くから渡来系の人々が住み着き開かれた土地であったのでしょう。

 皆さんは、ご存知でしょうか。島庄に今も残る当時の痕跡を。勾池(まがりのいけ)とも言われる方形池の堤の跡が、1400年の時を超えて今もくっきりと見えるのです。
 2枚の写真をご覧下さい。1は、2005年に行なわれた発掘調査現地説明会時に説明板に貼られた航空写真です。方形池の形が分かります。また、2は、2005年9月に撮った写真で、他の田んぼと方位の違う畦の存在が分かります。このような当時の痕跡を発見すると、より飛鳥時代が身近に感じられるのではないでしょうか。方形池が勾池かどうかは、講演会で相原先生からお聞きしたいと思います。

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 馬子によって造られた「嶋家」は、馬子の没後はどうなって行くのでしょうか。具体的な記述は、書紀にもありません。ただ、乙巳の変(大化改新)の前年のこととして、皇極3年6月の記事に「遥々に、言そ聞ゆる 嶋の薮原」など3つの謡歌(わざうた)を掲載しており、同4年6月の巳の変の直後に「その歌にいうのは、宮殿を嶋大臣の家と隣合せに建てて、中大兄と中臣鎌足連とがひそかに重大な計画をねり、入鹿を殺そうと謀ったことの前兆だ」という解釈の記事を載せています。つまり、馬子の没後も「嶋家」は蘇我氏の所有の下で維持されていたことが分かります。また、中大兄皇子が嶋の地域に邸宅を構えたことが分かります。

 書紀によると、嶋宮の住人として二人の嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)が挙げられます。一方は、舒明天皇の母である糠手姫(あらてひめ)皇女、もう一方は、皇極天皇の母である吉備姫王(きびひめのおおきみ)です。舒明・皇極天皇ご夫婦の両母親に当たる方が、嶋皇祖母命と呼称されることから、嶋宮に住んでいたと思われます。乙巳の変によって蘇我本宗家が滅亡した後、皇室がその所領を接収したのでしょう。

関連系図

 記録としては、草壁皇子が住まうまで確実な住人としての記録は見えませんが、天武天皇が壬申の乱の前後に嶋宮に入っています。この事にも大きな意味合いがあるのではないかと思うのですが、このあたりも先生からお聞き出来ればと思っています。
 風人は、この当時既に、嶋宮は東宮の意味を持っていたのではないかと考えました。天武天皇は壬申の乱に勝利し飛鳥に戻りますが、後飛鳥岡本宮には直ぐには入らず、嶋宮を経ることによって自らが正統後継者であることを示そうと考えたのではないでしょうか。筆頭後継者(皇太子)の宮としての嶋宮から、正宮である後岡本宮へ移る手順が意味を持っていたように思うのです。

 草壁皇子は、天武天皇10年に皇太子になっています。持統天皇の意思も有ったのかもしれませんが、皇太子として嶋宮に住まいし筆頭皇位継承者としての存在を示したのでしょう。東宮の東と言う文字は、咲読のキーワードになるかも知れません。次号まで覚えておいてくださいね。

 今回は、嶋宮を地理的な見方と住人について書いてみました。登場人物などを頭に入れていただければ、講演をより身近に感じていただけるかも知れません。
 次号は、ももが担当します。お楽しみにお待ちください。



【2】 (11.6.10.発行 Vol.109に掲載)

 今号と次号は、ももが担当させて頂きます。よろしくお願いします。

 さて、前回の咲読で嶋に居住していた可能性のある人物が挙げられていました。馬子と二人の嶋皇祖母命、中大兄皇子と草壁皇子、そして大海人皇子も壬申の乱後に嶋宮に入っています。これらの人物の中で、唯一草壁皇子の嶋宮の様子だけが万葉集から窺えます。

 題詞に「日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」とある柿本人麻呂の長歌(2-167)に始まる27首の歌群があります。「嶋」はこの中の10首に登場し、その中でも「嶋の宮」と詠われているものは4首あります。

  嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず (170)
  高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし嶋の宮はも (171)
  嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも (172)
  橘の嶋の宮には飽かぬかも佐田の岡辺に侍宿しに行く (179)

 その他にも、嶋の文字こそないものの嶋の様子が詠われたものが、この歌群には多く含まれています。草壁皇子が嶋宮に居住していたと言われる根拠は、歌に出てくる「嶋の宮」の言葉による部分が多いと思われます。そしてやはり、「嶋」と言えば、忘れてはならないのは、「池」ですよね。一連の挽歌からは、わずかですが池の様子を窺うことも出来ます。

  嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず (170)
  嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも (172)
  み立たしの嶋をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで (180)
  み立たしの嶋の荒磯を今見れば生ひずありし草生ひにけるかも (181)
  東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし(184)

 「まがりの池」の歌は、皆さんもよくご存知だと思います。これらの歌から、嶋宮には「まがり池」や「上の池」と呼ばれる池があったこと、鳥が放たれていたこと、水際には荒磯と呼ばれる部分があったこと、植物も植えられていたことなどが読み取れます。また「東のたぎの御門」の「たぎ」は、「滾・滝・瀧」とも書かれ、「水が荒々しく流れる=たぎつ」の意味も持ちますので、水が激しく流れ落ちる滝のようなものか取水・排水などに利用された水口など、水に関係する設備があったとも考えられるようです。嶋宮には池ばかりでなく滝、もしくは水が激しく流れるような設備までもがあったとしたら…と想像するのも素敵です。

 皇子生存中の嶋宮は、立派な庭園として維持されていたようです。ただ、これらは歌に詠まれた事柄ですから、誇張が含まれているかもしれません。

 他にも「宮」の文字は見えないものの「嶋宮」をさすと考えられる歌もあります。

  高照らす我が日の御子のいましせば嶋の御門は荒れずあらましを (173)
  東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし (184)
  一日には千たび参りし東の大き御門も入りかてぬかも (186)
  朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも (189)

 これらの歌にある「御門」は、一般的には立派な構えの門のことで天皇や皇后などが住まう宮の門の事をさすのだそうですが、ここでの「御門」は、皇子の住まいであった宮全体をさすとする説もあるようです。また、「東のたぎの御門」や「東の大き御門」などから、「御門」は門のことをさしていいて、嶋宮には東に大きな門があったとみる説もあります。ですが、現在嶋宮だと考えられている島庄辺りの東には石舞台古墳がドンと構えていて東は主に丘陵地になっています。そんな方向に大きな門を設える意味があるとはσ(^^)には思えないんですよね。それとも、宮がかなり西よりにあって、東側には何か重要なものがあったんでしょうか。
 で、歌を眺めて固まること暫し…、もっと単純に考えてみるとどうなるだろうかと。「御門」を「宮」だと捉えると、「東の大き御門」→「東の大き宮」→「東宮」となります。あら♪草壁皇子は、即位せずに亡くなっていますが、皇太子位には就いています。東宮とは本来皇太子の宮のことを言い、唐の春坊(皇太子の家政機関?)に倣ったものなんだそうです。春坊は、宮廷の東に置かれていたそうです。我が国で東宮の呼称がいつの時代からあったのかはσ(^^)には分からないのですが、平城京跡からは、「東宮坊」と書かれた木簡も出土しているようです。蘇我氏本宗家滅亡後、飛鳥浄御原宮の東方向(正確には南東ですが(^_^;))にあった嶋を東宮としたのだと考えてみるのも面白いんじゃない?と、σ(^^)の妄想は只今継続中。(笑)

 次回は、草壁君から少し離れた嶋のお話をさせて頂こうと思います。



【3】 (11.6.24.発行 Vol.110に掲載)

 嶋(島)が詠み込まれた万葉歌は、前回ご紹介した草壁皇子の挽歌以外には3首しかありません。

   橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣 (7-1315)

 「橘の島」は、草壁皇子の挽歌群にもみられることから、飛鳥の嶋地域を詠ったものだとされています。ただ、3句目に「川遠み」とあるので、この歌の舞台を飛鳥の嶋だとするのはおかしいとする説もあります。確かに、橘と島(島庄)は現在も別の地域をさす大字名として残っていますから、正直なところ「橘の島」という表現にはちょっと違和感を覚えます。これをそのまま素直に受け取ると、島は橘の中にあったとも読み取れますし。ですが、これは歌の中のお話。この「川遠み」は、実際の川からの遠近はなく、詠み人の意識の中での距離感だとするのが先に挙げた説の根拠のようで、今はこちらが一般的とされているみたいです。σ(^^)もこの説に一票♪だって、古代の人々の遠近の感覚を正確に知ることなんて到底できませんし、現代でも遠いか近いかの感覚は、人によって様々ですよね。

 さて、ここでちょっと、一回目の咲読でご紹介した島庄の全景パノラマを思い出して頂けますか?飛鳥川を越えたところに「東橘遺跡」という文字がありましたが・・・なんていうのは、不親切ですので、もう一度リンクを貼っておきます♪

島庄パノラマ
クリックで拡大します。

 この東橘遺跡周辺が「橘の島」と呼ばれた!と、言い切れれば気持ちいいのですが。(笑)それは、このももには無理というものです。(^^ゞですが、やっぱりここはちょっと気になるんですよね。(笑)その気になる理由というのは、ここからは島庄遺跡と似た方位を持つ建物跡が検出されているということなんです。

 さて、ここでももの疑問。島庄遺跡は川向こうに広がる遺跡です。似た方位を持つということは、この辺り一帯が川を越えて同時期に開発されたと考えればいいんでしょうか?で、方位が最も似ているのが、島庄遺跡の中でも7世紀中頃の遺構というじゃないですか!7世紀中頃といえば、東橘遺跡の北西にある橘寺が、既に金堂や塔などの造営が開始されていたと考えられている時期にあたります。とすれば、方位は地続きである橘寺と似ているのが普通だと思うのですが。東橘遺跡と橘寺は、直線距離だと200mも離れていません。すでに造営が開始されている地続きの寺は、眼中になかった?橘寺が細々と造営しているうちにササッと建物が建てられた?などと、色々考えてみるものの、何だか腑に落ちないももであったりします。
 万葉歌に出てくる「橘の島」とここ東橘遺跡は、なにか関係があったりするのかな?あれば楽しいのにな♪と、妄想だけはあれこれ暴走します。(^^ゞ

 話が万葉歌から逸れていってしまいました。m(__)m
 島と出てくる歌は、とうとう次の2首で終わりです。本当に草壁皇子の挽歌を除くと数がありません。^^;

   時ならぬ斑の衣着欲しきか嶋の榛原時にあらねども (7-1260)
   思ふ子が衣摺らむににほひこそ嶋の榛原秋立たずとも (10-1965)


 「榛原・ハリハラ」は地名ではなく、榛が沢山生えている場所(榛の原)をさすようです。
 この2首を含む万葉集に14首ある榛原の歌は、どれも地名とセットで詠われているので、この2首も、飛鳥の嶋が詠われたと考えられているようです。
 榛は、ハンノキ・ハシバミ・カバノキ等の説があって、特別手を加えなくてもよい落葉樹(主に自生?)で、樹皮や実が染料とされ、実は食用にもされたそうですから、古代の人々の生活には馴染みのある樹木だったと考えられます。

 現在の島庄は、南東から北西に向って傾斜し、東は主に丘陵地となっています。比較的平坦な石舞台より西側に建物などが築かれたのだとしたら、斜面や周囲には榛などの林が広がっていたと考えるのも面白いかもしれません。

 先月、事前散策の下見で現地に立ってみて思ったのですが、中枢部だと考えられている石舞台近辺は勿論、斜面も含めた周辺部や飛鳥川の西岸辺りの地形は、色々と面白そうです。果樹園や薬草園・菜園などが、宮の周囲に広がっていたとしたら・・・と、一人思い浮かべて喜んでいました。(笑)どうも建物跡や池より、そういう方向に頭がいってしまうのは、咲読に四苦八苦していた時期だったからでしょうね。四苦八苦の結果がこれで申し訳ありません。

 飛鳥の嶋が読み込まれたと思われる歌は、嶋(島)の文字が見えないものも後3首ばかりあるようですが、今のσ(^^)の理解力を遥かに超えるうえに、咲読では文字数に限りがありますので、今回は取り上げていません。m(__)m

 2回に渡って、万葉歌を元に嶋のお話をさせて頂きました。拙いももの咲読にお付き合い下さりありがとうございました。m(__)m

 咲読は、次号が最終回になります。担当はまた風人に戻ります。お楽しみに♪



【4】 (11.7.8.発行 Vol.111に掲載)

 第27回定例会に向けての咲読も、4回目最終回になりました。いよいよ明日は定例会当日となります。参加の皆さんには、ぜひ振り返って再読いただければと思います。

 島庄遺跡は、縄文時代から中世まで続く複合遺跡ですが、今回は7世紀の飛鳥時代を中心にして考えることにしましょう。その時期区分を4期5区分して整理することが出来ることを、相原先生が書いてくださいました(飛鳥遊訪マガジン109号:特別寄稿)。そして、それぞれの時期の居住者が示されましたので、より分かりやすいイメージを持って考えることが出来るようになったと思います。

飛鳥遊訪文庫
 嶋宮をめぐる諸問題- 第27回定例会に向けて - 相原嘉之先生 


 言い換えれば、おおよそⅠ期(A・B)は推古天皇の頃、Ⅱ期は舒明・皇極天皇の頃、Ⅲ期は斉明・天智天皇の頃、Ⅳ期は天武・持統天皇の頃と言えるように思います。
 各時期に存在した遺構の配置概略図を作成しましたので、リンクを飛んでご覧下さい。石舞台古墳の存在しないⅠ-A期の様子や建物・施設の変遷などを、少しはイメージしていただけるのではないかと思います。

島庄遺跡遺構配置概略図(各図はクリックで拡大します。)

 また、土地利用の形態から東西南北の四つの地域と東橘地域に分けて検討が加えられ、それぞれの性格が語られました。島庄遺跡は、広大な面積を有していますし、嶋宮は単に建物群が在るだけではなく、苑池や水田も存在していました。ブロック別の把握は、その理解を容易にしてくれたように思います。

 北部は方形池や苑池を中心とした地域、南部は邸宅や離宮などの地域、東部は古墳などの墓域、西部は水田などの経済を支える地域と考えられす。南部地域は現在の石舞台駐車場に相当し、西部は飛鳥川沿いの右岸と思っていただければ良いかと思います。

 明日の講演会前に行います散策では、このような事を念頭において、遺構の所在地や地形を実際に見ていただき把握していただければと思います。

 さて、嶋宮は、草壁皇子が亡くなった後は、どのようになっていくのでしょうか。今回は、その事にも少し触れてみたいと思います。

 『日本書紀』持統天皇4(690)年3月20日の条に、「京および畿内の年八十以上の者に、嶋宮の稲を一人二十束ずつ賜り・・・。」という記事があります。当時の税制によると、「租は田1段あたり稲2束2把」とされるようですので、一般男性に支給された2段の口分田に課せられる税額の5倍相当量になります。結構な量になるようですが、嶋宮の稲の生産量がかなりのものであったことを裏付けるように思います。

 また、遡りますが、大化2(646)年の『日本書紀』の記事には、「吉備嶋皇祖母命の貸稲を廃止」するという記事があります。貸稲とは、春に農民などに種稲を貸し与えて、秋の収穫時に一定の利子をつけて回収するもので、嶋宮の財源の一つとして大規模に水田が存在していたことが推測されます。

 時代は移って、天平5(733)年には、興福寺西金堂造営にあたり、嶋宮から藁630囲が車で運び出されており、また天平勝宝2(750)年には、奴婢83名が東大寺創建に際し金光明寺に献納されていることからも、当時まだ大規模な施設として嶋宮が存在したことが分かります。

 そして、天平勝宝8(756)年、光明皇后により、嶋宮の11町の御田が橘寺に寄進されたことが記録されています。11町というと、かなりの広さになります。おおよそ11ヘクタールですので、現在の大字島庄だけでは収まるのは難しいと思われます。一説によると、宮域は橘寺を含み治田神社も領域に入るとされるそうです。(『東大寺要録』巻一・本願章第一などに記載があるようですが、確認は出来ていません。)

 この寄進により、嶋宮は離宮としての役目を終えたのかもしれません続日本紀には、天平宝字4(760)年に淳仁天皇が「小治田宮」に行幸したことが書かれていますが、嶋宮の名は見えません。離宮としての役目を小治田宮に譲り、嶋宮が廃絶した可能性を示しているのではないかと思います。

 橘寺に吸収された嶋宮の御田は、橘寺が興福寺の傘下に編入されると荘園化が進み、島庄の地名で呼ばれるようになるようです。その後、幾多の変遷を経て江戸時代前半に橘から独立し島庄村となり、現在の明日香村大字島庄に続いていきます。

 島庄遺跡を見ているだけでも、飛鳥時代から現在にまで繋がる歴史を感じます。それは、興福寺や多武峰などの寺院に関連する大和特有の歴史の流れであることも興味深く思いました。

 明日は、より深く、楽しく、嶋宮の歴史を感じてみたいと思います。長い咲読にお付き合いくださって、ありがとうございました。次号より、第28回定例会に向けて新たな咲読を開始します。お楽しみに♪





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