両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第30回定例会
仏教伝来の頃の飛鳥

Vol.122(11.12.23.発行)・Vol.124(12.1.6.発行)に掲載





【1】 (11.12.23.発行 Vol.122に掲載)

 第30回定例会は、今年9月に奈良文化財研究所の所長を退任されたばかりの田辺征夫先生をお迎えし、「仏教伝来の頃の飛鳥」と題した講演をして頂くことになりました。第30回定例会に向けての咲読は今号をもも、次号は風人が担当します。

 講演概要を拝見して、今回は明日香村の中でも、σ(^^)の好きな坂田寺のお話が聞けるかも?ということで、ちょっと嬉しいももです。(^^)

 まず、誤字脱字の多いσ(^^)が言うのも何なんですが、最初に「サカタ」の漢字表記の違いを説明させて頂きます。(^^ゞ
 今回の話に出てくる「サカタ」は、寺名や史跡名では「坂田寺・坂田寺跡」とツチ偏になりますが、明日香村の現在の地名表記では「阪田」とコザト偏なります。今回の咲読では、「坂」と「阪」を書き分けています。

 坂田寺は、『扶桑略記』の継体16(522)年にある「大唐の漢人鞍部村主司馬達止。・・・草堂を大和國高市郡坂田原に結び、・・・」や、『日本書紀』の用明2(585)年「鞍部多須奈、・・・丈六仏と寺を造る。」、推古14(606)年「鞍作鳥、・・・金剛寺造営。」などの記事から、彼ら鞍作氏の氏寺だと考えられています。

 これらの記録を信じれば、崇峻元(588)年に造営が着手された飛鳥寺より60年以上も前に、仏教を信仰し礼拝するための建物が存在したことになります。
 
 この種の記録は、飛鳥寺造営以前では『日本書紀』欽明13(552)年の「向原の家を清めて寺とする」、敏達6(577)年の「大別王の寺」、敏達13(584)年の蘇我馬子の「邸宅東方に仏殿を建てる」「石川の家に仏殿を作る」など、その殆どが蘇我氏に絡んだ記事になり、これらの記事の傍らには、必ずと言っていいほど鞍作三代の名がみられます。(還俗僧を探し出す、舎利を譲る、娘を出家させる、飛鳥寺に金銅仏を無事納めることに成功する、など)

 鞍作氏は、その名前から馬具に関わる技術を持っていたと考えられるそうですから、その延長として造寺・造仏に必要な技術を得て、この時期の蘇我氏の傍に居続けることが可能となった結果、記録に残ることになったのかもしれません。また坂田寺は、奈良時代に信勝尼という尼さんが、経典を内裏に進上したり東大寺大仏殿の東脇侍を献納したりと、結構な活躍をしたようですから、伝承や記録が残りやすかったんでしょうね。

 鞍作氏が草庵を結び寺を建てるなど、阪田に縁を持つ切っ掛けとなったと思われる記事が『日本書紀』雄略7年にみえます。

 「東漢直掬に命じて、新漢である陶部高貴・鞍部堅貴(クラツクリケンキ)・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。」

 これは、百済から渡来してきた人々にそれぞれ移住する地域を振り分けた記事になります。彼らがあてがわれた移住先を現在の明日香村にあてはめると、「真神原」は現在の大字飛鳥周辺、「桃原」は現在の石舞台周辺で「上桃原・下桃原」は石舞台より広く南北の地をさしていると考えられます。そして、この記事に登場する「鞍部堅貴」なる人物は、鞍作三代(司馬達等・多須奈・止利)の縁者であったと思われ、鞍作氏は、雄略7年の鞍作堅貴来朝の際、「上桃原」を居住地に定められたと考えられるかもしれません。

 さて、今回はもも担当の咲読ということで、やっぱり少し瓦のお話を。(^^ゞ
坂田寺跡からは、飛鳥寺の花組によく似た瓦が出土しています。そして、飛鳥にある同じく渡来系の氏寺だとされている定林寺跡や檜隈寺跡などからも、これまた飛鳥寺の星組と酷似する瓦が出土しています。ところが残念なことに、これらの寺院跡からは、肝心のこの瓦が葺かれたと思われる時代の遺構が見つかっていません。(>_<)

 でも、「遺構が検出されなかった=古代に何も存在していなかった」には、ならないと思うんですよね。(^^ゞ 
 もしかしたら、これらの渡来系寺院跡から出土した飛鳥時代の瓦は、お堂のような掘立柱建物の一部にちょこっと使用された後、礎石建ち・瓦葺きの本格的な寺院建立の際の整地・造成で、建物自体の痕跡が消えてしまったという可能性はないのかな?と、瓦好きのももは思ったりします。檜隈寺も定林寺も、坂田寺と同じく小さなお堂から始まって、やがて寺としての体裁を整えた・・なんて考えるのも楽しい気がします。ま、伝承も記録も遺構もないとなると、手掛かりもないんですが。(^^ゞ


  坂田寺跡は、明日香村阪田。石舞台から直線距離にして南に200mほどにあります。里道沿いの民家の横で斜めに傾いた「坂田金剛寺址」の石碑と案内板や公園と呼ぶには小さすぎる敷地に桜と連翹に守られるかのように万葉歌碑がポツンと佇んでいるだけで、朱鳥元(686)年に、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺とともに五大寺と呼ばれた往年の姿は、もはや見る影もありません。ただ、春は桜・連翹・蒲公英の花の競演を見ることが出来ますし、葉桜越しの夏空や落ち葉散り敷く晩秋なども、趣があってσ(^^)は大好きです。皆さんも是非、一度は訪れてみてください。(^^)

 何だかまとまりのない話になってしまいました。m(__)m 次号の咲読は、風人がもうちょっときちんとした話を書いてくれると思います。(^^ゞお楽しみにお待ち下さい。






【2】 (12.1.6.発行 Vol.124に掲載)

 「春は桜・連翹・蒲公英の花の競演を見ることが出来ます。」咲読の2回目は、前号のその表現を借りて始めたいと思います。風人なら、まるで鞍作三代を見るように!と付け加えたかもしれません。妄想癖のなせる業です。(笑)仏師として現在にまで名を留める「止利」は、華やかな桜でしょうか。出家して天皇の病気平癒を祈願し、仏教推進の家柄を象徴するような存在だった「多須奈」は、衣の色を連想させるレンギョウ。鞍作家の土台作りをした「達等」は、タンポポを連想させます。皆さんも、春の坂田寺跡を訪ねて、そのような妄想に耽ってみては如何でしょう。(笑)

 石舞台から彼岸花や菜の花を見る目的で、稲渕の棚田へ歩かれた方は多いのではないでしょうか。その道路は、県道15号線と言いますが、坂田寺はその道路で中心伽藍を真っ二つに分断されています。ちょうど北東から南西に伽藍の対角線を引いたように道路が走っています。
 この辺りの地図をよく見ると、回廊で囲まれた中心伽藍が見えてきます。坂田寺中心伽藍推定域図を参照してください。

坂田寺中心伽藍推定域図

 あくまでも概略図ですので、正確ではありません。定例会当日には、より詳細な図を見ていただけるように準備しています。
 古代の痕跡というのは、このような形で残っているのですね。後の土地利用を考えると当然のことなのかもしれませんが、飛鳥ではしばしばこのような現在と古代を繋ぐ地形に驚かされることがあります。

 さて、ここまで書いてきた伽藍は、奈良時代後半のものです。鞍作三代が活躍した時代のものではありません。なぜ分かるかと言うと、検出されている仏堂の須弥壇の下や仏堂の東側の鎮壇具埋納土坑から奈良時代後半に鋳造した古銭などが出土していることによります。
 前号の咲読で紹介しました信勝尼という奈良時代に活躍した坂田寺の尼僧を覚えておられるでしょうか。東大寺大仏殿の東脇侍を献納するなど坂田寺の最盛期を思わせますが、この時期に伽藍も新調されたのかも知れませんね。

 しかし、なぜ奈良時代に飛鳥にお寺を建てたのでしょうね。都が移り、寂れて行く飛鳥の地にこだわった理由は何だったのでしょうか。雄略天皇の頃から定着したとされる故郷「坂田」に、愛着を持っていたのでしょうか。彼らは、官人のように都とともに移り住む者ではなかったのかも知れませんね。

 では、もう少し伽藍を見てみましょう。変な伽藍です!特異な伽藍と言われますが、飛鳥時代には変な伽藍が結構ありますから、何が特異かと言うと分からなくなります。だいたいの意味で、後世に受け継がれることなく、あるいは他に発見されていない伽藍配置だということでしょうか。坂田寺は、北に中門があったようです。つまり、マラ石と呼ばれる謎の石造物の少し東辺りになります。行かれた方は、地形を思い出してください。東から西の飛鳥川に向かって、結構な傾斜面になっています。今は、小さな公園になっていますが、段々になっていて、上の段に民家があります。その段差の辺りから、石垣が検出されています。中心伽藍を平坦にするために約2mの盛土がされ、その上に2.5mの石垣が積み上げられ、そしてその上に北面回廊が建設されています。大変な労力ですね。石垣は回廊の中央付近で切れており、そこに中門に続く階段か坂道が存在したと考えられるようです。これらのことから、坂田寺は北向き(約15度西偏)の寺院だとされます。

 県道15号線の東側も、小さな公園になっています。南から公園に入ると、南面回廊の跡を辿ることになります。春は、桜とレンギョウの並木になるところで、本当に綺麗ですよ♪ 緩やかに左にカーブする辺りが東面回廊との角になり、回廊基壇が復元されているのを見ることができます。曲がったその先には、万葉歌碑のある小さなスペースがあります。レンギョウの垣根があるので、気づかない方も居られるのではないかと思うのですが、その垣根の内側にも遺構が復元されています。東面回廊に続く建物で、金堂もしくは講堂だと考えられるようですが、現状では特定されておらず、仏堂と呼ばれています。

 仏堂は、5間×2間の身舎の4面に廂がつく西向きの建物で、南北約25m、東西約13mの大きさになります。建物は、二重基壇(北面・西面は検出されていない)の礎石建ちです。しかし、付近からは同時代の瓦は少なく、檜皮が相当量出土することから、檜皮葺の建物であったと考えられるようです。回廊基壇上からも同様に檜皮が出土しており、回廊も檜皮葺であったと推定されています。

 中心伽藍内には、2棟の基壇建物が在ったようですが、現状では調査面積が狭いため、その建物が何であるかは分かっていません。伽藍の中央付近にある1棟は、仏堂が金堂だとすると、位置からみて塔かも知れなと風人は思うのですが、今後の発掘調査を待ちたいと思います。

 坂田寺の建物は、これだけではありません。回廊外の南では、丘陵上方に瓦葺の建物の存在が推定されており、また、西面回廊外には東西に廂を持つ掘立柱建物が検出されています。さらに、先ほども触れましたが、仏堂の東には鎮壇具を埋納した穴が検出されており、何らかの建物が在ったことが推測されます。仏堂が金堂だとすると、講堂の可能性もあると思われます。

 北面回廊外には、墨書土器(坂田寺・厨・南客)などが出土した奈良時代の井戸や回廊と方位を合わせた石組溝が検出されており、食堂や僧坊であるとされますが、お寺の入口付近に、普通なら裏手にある施設が置かれるというのも、不思議な気がします。地形の制約があるからなのでしょうが、なにか腑に落ちないものが残りますね。

 その東側には、塀と小池が見つかっています。この小池は、嶋宮の定例会の時に少し教えていただいたので覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、7世紀中頃に造られたもので、蓮池とも説明されるものです。やっと、飛鳥時代の遺構が出てきましたが、飛鳥時代の伽藍や建物は全く検出されておらず、鞍作三代の足跡を追うことは残念ながら出来ません。では、なぜ飛鳥時代の坂田寺が、この地に推定されているのかというと、それは出土する瓦の年代観によります。瓦については前号で触れていますので省きますが、瓦はいろんなことを教えてくれるようです。

 長くなってしまいましたが、もう一つだけ書かせてください。それは、昨年の飛鳥資料館秋期特別展「飛鳥の遺珍」で展示されたハート形の水晶です。あまりに小さいので、その存在に気付かなかった方も居られるかもしれませんね。このハート形の水晶は、坂田寺の仏堂須弥壇の下に埋納されていたものです。ハートは何を意味するのでしょうか。風人が、とても興味を引かれた飛鳥の至宝の一つでした。

 坂田寺には、まだまだ解き明かさなければならない謎が残っているようです。田辺先生が、どのような見解を示されるか、とても楽しみですね♪定例会当日には、咲読で書きましたことを、より詳細に現地で示していきたいと思います。実際に地形や位置関係を見ていただくことが、講演をより理解することに繋がればと考えています。長い咲読にお付き合いいただき、ありがとうございました。では、定例会でお会いしましょう。







遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る