飛鳥咲読
第32回定例会
小山廃寺(紀寺跡)を考える
Vol.129(12.3.16.発行)~Vol.132(12.4.27.発行)に掲載
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【1】 (12.3.16.発行 Vol.129に掲載)
第32回定例会は、帝塚山大学の森郁夫先生に「小山廃寺(紀寺跡)を考える」と題して、ご講演いただけることになりました。「森先生に両槻会主催講演会の講師に来て頂けたらいいなぁ~」とは思っていたものの、まさかこんなに早く実現するとは思っていませんでした。森先生の書かれたご本に、とてもお世話になっている者としては、もう嬉しいやら緊張するやらで大変です。(笑)こんな状態のσ(^^)が、どこまでキチンと書けるか分かりませんが、お付き合い下されば嬉しいです。m(__)m
まず今回のテーマとなる小山廃寺を実際にご存知の方は、どれぐらいいらっしゃるでしょうか。
ここは「紀寺跡」の名で、奈良県の史跡指定を受けています。本薬師寺のようにレンゲやホテイアオイなど季節ごとの花が咲くわけでも、山田寺跡のように整備されているわけでもありませんが、寺院跡地に相応しい趣です。・・・と言えば聞こえはいいですが、本当に何もない原っぱです。あ、土壇の高まりはあります。(^^ゞ
橿原市木ノ本町と明日香村小山にまたがる小山廃寺は、本薬師寺からだと東へ飛鳥川越えたさらに先にあり、その距離は約1km。また、明日香村の雷丘からでも、これまた北に1kmと少し歩かないといけません。どちらも普通の住宅街を抜けていくことになりますので、観光や散策の折りにわざわざ足を伸ばそうと思われることは、少ないんじゃないでしょうか。
両槻会では、一昨年行いました第22回定例会の事前散策で一度だけ訪れています。理由は滅多に一人では行かないだろうから、という両槻会らしいものでした。(笑)
ここが寺跡であることはかなり古くから知られていたようです。
江戸時代(文政12〈1829〉年)、津川長道が『卯花日記』に、「田の中に大きなる礎石あり。此も塔の礎と見ゆ。」と書き残していますし、江戸末期から明治初期の画家・岡本桃里は、心礎と思われる絵を残しています。明治の初めのころまでは、礎石と思われる大きな石が転がっていたんだそうですが、そんな石たちも、庭石や石垣に転用でもされたのかいつの間にか無くなってしまったようです。哀しい礎石の運命なんでしょうね。
岡本桃里が描いた絵の横には小さく「字木寺大塔ノアト」との文字も書きこまれ、跡地付近の字名「キテラ」には「木寺」の文字があてられています。先にあげた『卯花日記』もそうですが、これらの資料には、特定の寺院の名前が書かれているわけではないようです。
さて、字名「キテラ」と寺名「紀寺」とが結びついた理由のひとつと思われる記事が、『続日本紀」の天平宝字8(764)年にあります。この記事には、紀寺の奴婢だとされていた人たちが身分の訂正を願い出たことに始まる事の顛末が細かく書かれています。お役人の言い訳やら天皇の言い分やら長々と書かれてあって、真剣に読めばそれなりに面白い記事ですが、肝心なのは、訴えの内容やそれぞれの言い分ではなくて、彼らの身分確認のために参照されたのが、天智9年に作製された庚午年籍であったこと。庚午年籍は、天智9(670)年作製ですから、ここに記録があるということは、「紀寺」を名乗る寺が、すでに飛鳥時代にはあったことになります。そして、『続日本紀』を見る限りでは、紀寺は紀氏の氏寺であったと考えられますが、その所在地を特定できるような記載はありません。
つまり、この飛鳥時代の紀寺が、飛鳥から程近い「キテラ」という小字と結びつき、その跡地と考えられるようになったのかもしれません。
でも、「キテラ」に漢字を当てはめるなら、「紀寺」ではなく、岡本桃里の書いた「木寺」でも、いっそのこと「貴寺」でも良いんじゃないかと思えます。σ(^^)には、貴い寺の方が場所的にもしっくり来るように思えるんですが。(笑)
庚午年籍には、「寺の工人」という言葉も出てきますので、まだ寺の造作の途中だったと考えられる気もします。天智9年にまだ造営途中なら、場所は飛鳥じゃなくて近江?とも思ったりするのですが、これはσ(^^)がアマノジャクなだけかもしれませんね。(^^ゞ
そうそう、小字「キテラ」は、跡地の講堂跡や金堂跡に沿うように南北に細長い場所をさすようです。付近には、「カナヤケ」「北金焼」などの小字もあって、この小字も飛鳥の寺院跡近くにはよく見られ、寺の焼亡や金属工房などがあった痕跡が字名として残ったとも考えられているようです。
小山廃寺付近の小字名 |
【2】 (12.3.30.発行 Vol.130に掲載)
小山廃寺は、跡地の南側にある奈良県立明日香庭球場建設の事前調査のために、昭和48年から数度に亘って発掘されています(発掘調査が行われた時点では、紀寺跡)。藤原京内では、朱雀大路を挟んで本薬師寺とほぼ対称となる位置にあり、寺域は、藤原京の左京八条二坊のほぼ全域・およそ240m四方であったと推定されています。
ところで、左京八条ニ坊なんて言われて、ピンと来ないのはσ(^^)ぐらいでしょうか。古代の住所だと思って覚えれば良いのでしょうが、σ(^^)にはさっぱり分かりません。できることなら、今の道路上に古代の条坊を線で引いて色分けをして欲しいぐらいです。観光の一環としてあっても良いように思うのですが、駄目ですかね。(笑)ですので、八条ニ坊全域とか240m四方って言われても、σ(^^)にはその広さを実感するのはかなり難しいです。実際、跡地も南と西、北半分を樹木に遮られていますので、その広さを目の当たりにすることもできません。
ということで、分かりやすい場所と大きさの比較をしてみようと思います。全体が見渡せる寺跡と言えば、σ(^^)にとってはやはり山田寺跡。
山田寺の寺域は約120m×約210mとされていて、史跡・山田寺跡の南の丘から見渡せる平らな範囲は、寺域の数値と大差ないと思います。小山廃寺が240m四方ですから、東西が山田寺の二倍以上の広さになり、小山廃寺の回廊は南北82m東西76mの単廊だそうですから、山田寺の復元回廊跡(84m×87m)を少し細長くした感じになります。山田寺の東西倍の寺域内に、ほぼ同じ大きさの回廊。これで少しは小山廃寺の広さをお分かりいただけると嬉しいんですが。(山田寺跡をご存じない方は、是非一度訪れてみてください。 (^^))
小山廃寺の主な遺構は、南から南門とそれに取り付く南面大垣・中門・金堂・講堂、回廊は中門と講堂を結び、東面大垣の丁度真ん中に東門かと思われる柱列が検出されています。金堂と講堂が一直線に並ぶため、四天王寺式伽藍配置のようにも思えますが、伽藍中軸線上から塔の遺構は検出されていません。こんな文字の羅列より、下の推定伽藍図を見ていただいた方が分かり易いかもしれませんね。(^^ゞ
小山廃寺推定伽藍図 |
こんな風に、小山廃寺はちょっと変わった伽藍配置になっています。一塔一金堂と言えなくもないですが、金堂の前面東側だけに塔がある偏った伽藍配置を持つ寺院は、未完成に終わった文武朝の大官大寺跡が思い出されるぐらいです。もし、推定塔跡の対称位置にも建物の痕跡があれば、薬師寺式などほかの伽藍配置だった可能性も考えられそうなんですけど、該当の場所からは、二本の柱根が検出されていて、幡を立てるための支柱があったと推定されています。
寺域を限る大垣が完成していて、回廊内の建物が造営途中なんてことは有り得ませんから、西側には、当初から建物の予定はなかったと考えるべきなのかもしれません。でも、幡竿支柱跡があったと聞いてσ(^^)が真っ先に思ったのは、もしかしたら、途中で資金難に陥ったなんていうことは考えられないのかな?と。下世話な感覚で申し訳ないですが。(^^ゞ
近江俊秀先生は、なんらかの事情(平城遷都など)で、西塔の造営を断念した可能性も想定できるとされていましたので、もものこの見当違いの資金難説も何らかの事情ってことで有り得るかも?(笑)
小山廃寺では、この他に藤原京の条坊側溝を兼ねた大垣の雨落溝、南門の西南や東面南大垣の西側には、フイゴの羽口や漆の入った壷などが出土していることから、造営時の工房跡の可能性が考えられています。さらに寺域南東部では、それら工房で働いていた工人達の居住区と推定される遺構も検出されているようです。
小山廃寺遺構概要図 |
小山廃寺には、恒例の事前散策で訪れる予定にしています。
藤原京八条大路跡に沿うようにして東西に延びている道を歩きますので、それぞれの遺構跡の位置なども実感していただけると思います。
【3】 (12.4.13.発行 Vol.131に掲載)
もも担当の咲読ということで、いよいよ?やっぱり?の瓦のお話です。(^^ゞ
今回のテーマである小山廃寺の軒丸瓦は、「雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦」といい、名前から「雷文」と「複弁」とで瓦当文様が構成されていることがわかります。
小山廃寺式軒丸瓦(飛鳥資料館倶楽部内画像)
雷文なんて言うよりも、ラーメンなどの中華系の器の縁取りに描かれている文様と言う方が、馴染みがあるかもしれませんね。両槻会の事務局では、親しみを込めて「ラーメン文」と呼んでおります。(笑)雷文で囲むことによって作られた空間は神聖なもので、その中に置かれたものの格を保証するという話を何かで読んだ記憶があります。が、もしかしたらどこかの中華屋さんの案内だったのかもしれません(^^ゞ。
どんな模様でもそうですが、稲光を図案化したとされる雷文にも実に様々なパターンがあり、鏡や装束などの意匠にも用いられています。雲が瑞雲と言われ吉祥文として好まれたように、雷文も同じく吉祥をあらわす文様として好まれたのかもしれません。ただ、小山廃寺の軒丸瓦の雷文に関しては、連続した小さな花弁文が変形したものだとする説もあるようです。どうなんでしょう?σ(^^)は、文字通り雷の文様化だという説に一票入れておきたいと思います。その方がわかりやすいですしね。
雷文に囲まれた中にある「複弁」は、幅が少し広めの花びらの中に二つの細長い花びらがある文様のことを言います。小山廃寺の他には本薬師寺や川原寺などが複弁を創建瓦としていますし、藤原宮にも採用されていますので見かける機会も多いと思います。ここで、少し複弁蓮華文のお話をさせていただこうと思います。ちょっと、お付き合い下さい。m(__)m
まず、複弁の最古とされているものは川原寺所用の瓦で、そのまま「川原寺式」と呼ばれているものになります。
川原寺式軒瓦(泉南・海会寺出土品) |
同型の瓦が近江や美濃・尾張などに顕著に見られ、近江は天智天皇の大津京との関連、美濃・尾張などは壬申の乱の功労者に対する褒賞だとして天武朝との関係をそれぞれ示しているとされています。
川原寺式軒丸瓦の出土地 |
川原寺を別にすると、大津京周辺で出土したものが比較的早い段階の川原寺式になることから、川原寺は大津京と前後して着手されたと考えるのが、今のところ一番妥当と言えるようです。
これは、川原寺が斉明天皇の菩提を弔う為に建立されたとすることや、『日本書紀』天武2(673)年「写経生を集めて、川原寺ではじめて一切経の写経を始められた」の記事から、天武初年にはある程度の伽藍が整っていたと考えられることとも矛盾せず、川原寺式軒瓦の成立は660年~670年頃と考えられるようです。
飛鳥寺の素弁に始まった瓦当文様の形態は、約80年を経て複弁にたどりつくことになります。
連弁の変遷 |
川原寺の所用瓦は、もうひとつ面白いことを教えてくれています。これは、重弧文軒平瓦と呼ばれるものになります。
川原寺式軒平瓦(天理参考館) |
重弧文軒平瓦は、川原寺所用の複弁蓮華文の一時代前の文様である単弁蓮華文とほぼ同時に出現します。(軒丸の文様が素弁の時代・飛鳥寺や豊浦寺の創建時には、軒平瓦はなかったとされています。軒先には、平瓦が数枚重ねて葺かれていたと考えられるそうです。)
単弁蓮華文と重弧文軒平瓦をセットとするものには、吉備池廃寺式と呼ばれるものがあり、文様の形態などから、同じ単弁を持つ山田寺式よりも若干先行するとされています。つまり、重弧文軒平瓦は、641年(山田寺発願)以前に登場していたことになります。
これは、川原寺所用のものが複弁では最も古く、川原寺式軒瓦の成立を7世紀後半とすることの傍証ともなるようです。
川原寺は、斉明天皇所縁の寺ということで、飛鳥の地を離れなかったのかもしれませんが、当事最新の複弁蓮華文を軒丸瓦に採用しながら、前代の重弧文を軒平瓦に採用している辺りなど、単なる文様の転換期・過渡期だったと言うだけでない微妙な感じがσ(^^)には、興味深くも思えてきます。
さて、肝心の小山廃寺の瓦ですが、藤原京内に造営された他の複弁を持つ寺院とは異なり重弧文軒平瓦を持つこと、中房内の連子が外周を伴うことに加えて、製作技術などにも川原寺との共通点が多く見出されることから、川原寺とほぼ同時か若干遅れて製作されたと考えられています。西暦にすると、670年代後半には、外区に雷文を持つ小山廃寺式が成立していただろうとされているようです。
【4】 (12.4.27.発行 Vol.132に掲載)
小山廃寺が紀寺跡と呼ばれていたように、跡地の呼び方では「廃寺」と「寺跡」の二通りを目にすることがあると思います。例えば、飛鳥で「寺跡」と呼ばれているところは、檜隈寺跡・坂田寺跡・山田寺跡など、一方「廃寺」と呼ばれているところには、和田廃寺・田中廃寺・奥山廃寺などがあります。
以前、「廃寺ってなんですか?」と尋ねられたことがありまして、咄嗟に「由緒の分からないお寺跡だと思います」とお返事した記憶があります。その節は、適当なお返事で失礼しました。今も大してσ(^^)の知識は変わっていませんが。(^^ゞ
「廃寺」で検索してみると、「廃止された仏教寺院」とありましたので、寺として機能していないところはすべて廃寺で良いのかもしれませんが、遺跡の場合は、呼び分けられているように思います。小山廃寺のように、現状や遺構からは寺跡だと思われるけれど、該当する寺名が見当たらないというところは、付近の地名などを冠して「△△廃寺」と仮の名が付けられるようです。
小山廃寺と同じく、調査・研究の成果によって呼び名が変わったところが他にもあります。明日香村奥山にある奥山廃寺は、奥山久米寺跡と呼ばれていました。奥山廃寺は、現在の寺・奥山久米寺と重複するように遺構が存在することから、その前身寺院だと考えられていた時期がありました。また、名前が似ていることから橿原市久米町の久米寺の奥院だとも考えられていたようです。
このように、「寺跡」とされていたところが、「廃寺」と呼ばれるようになるのは、それだけ調査研究が進んだ証なのかもしれません。
反対に「廃寺」から「寺跡」へと呼び方が変わった例は、あるのかな?すいません、σ(^^)は知りません。m(__)m 最近では、桜井市の吉備池廃寺が百済大寺であった可能性が高いとは言われていますが、「百済大寺跡」と呼ばれているとは、まだ聞かないような・・。
さて、紀寺だった可能性が否定されて「廃寺」の仲間入りをしてしまった小山廃寺ですが、失った名前を取り戻すためには、何があれば良いんでしょう?寺名の書かれた木簡などが出土すれば、一番手っ取り早いんでしょうが、そんなことは滅多にないようです。
とりあえず、前回までの咲読に書いた調査成果などから創建された時期を推定することは可能です。
瓦の年代観から、小山廃寺の創建は7世紀後半、それも670年以降だと考えられます。ちょうど天智朝から壬申の乱を経て天武朝へと進んでいく頃。遺構が藤原京の条坊に合致しているので、天智朝に当てはめるわけにはいかないようです。とすると、その時期は天武朝に入ってからということになります。
天武朝以降の寺院を調べていると、『日本書紀』天武9(680)年に「京内の24寺に絁・綿・糸・布を施入」という記事を見つけました。
この頃の寺と言えば、飛鳥寺や豊浦寺、大官大寺や本薬師寺と川原寺に橘寺もこの中に数えられると思います。またこの頃までには、豪族たちも挙って氏寺を建立したはずです。24寺には、それら氏寺も含まれるとされています。
つまりは、この24の寺の中から、小山廃寺の正体を探せば良いんじゃないかと思ったのですが、やはり安易すぎました。(>_<) そもそもこの24寺すべての名前が明らかになっているわけでもないようですし、肝心なのは、藤原京の八条ニ坊に寺域を占めても良さそうな現在も所在不明の寺院でないといけません。そうすると、σ(^^)に思いつくところは、先にあげたような所在地(跡地)が判明しているお寺ばかりです。所在不明の古代寺院といってσ(^^)に思い浮かぶのは、大官大寺の前身寺院だとされる天武朝の高市大寺か興福寺の前身寺院だとされる厩坂寺ぐらいです。こんなのじゃ、全く話にもなりません。(>_<)
ただ、紀寺説が否定されたのと同じくこの場所に氏寺が建立されたとは、σ(^^)には思えないんですよね。記録に残っていない寺だった可能性も無きにしも非ずなんだそうですが、こんな場所に建っていた寺院の名前が記録にないということも、これまた理由を探すのが難しい気がします。もし、記録から故意に抹消されたのだとしたら、背後にドロドロしたものが潜んでそうで怖いです。(^_^;)
いっそ、歴史から消えた寺院、消えた氏族を探しますか? でも、どうやって?(^_^;)
色んな可能性を秘めた謎だらけの廃寺・小山廃寺の正体には、やはりそう簡単にたどり着けるようなものではありませんね。皆さんには、第32回定例会で、講師の森先生のお話をしっかり聞いて貰うのが一番のようです。
第32回定例会では、「小山廃寺を考える」と題して、森先生にお話いただく予定になっています。ももの咲読に、「あれ?」「うそっ!」と引っ掛かりを感じた方、色々と疑問が湧いた方は、是非定例会に参加して、森先生のお話を聞いてすっきりして下さい。(^^)
第32回定例会は、只今参加者募集中です♪
以上で、第32回に向けての咲読を終わらせていただきます。4回もお付き合い下さりありがとうございました。m(__)m簡単に小山廃寺を紹介させていただいたつもりですが、どれだけ伝えられたかと思うと、不安と後悔が背後からどっと押し寄せてきます・・・。
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