飛鳥咲読
第33回定例会
相撲と槻(つきのき)にみる祓いと政
Vol.133(12.5.11.発行)~Vol.138(12.7.20.発行)に掲載
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【1】 (12.5.11.発行 Vol.133に掲載) 風人
第33回定例会に向けての咲読の1回目です。
次回定例会は、帝塚山大学考古学研究所 特別研究員の甲斐弓子先生をお迎えして、「相撲と槻(つきのき)にみる祓いと政」と題して、ご講演をいただきます。
タイトルをいただいた時に、飛鳥と相撲がどう結び付くのかと戸惑いもあったのですが、予定ページ等で発表しています先生からいただいた講演概要を読んでみますと、なるほどと合点した次第です。このテーマを考えてくださったのには、理由がありました。講演会当日の7月7日は、七夕さんというだけではなくて「相撲節会(すまいのせちえ)」が行われた日でもあります。また、「槻」は両槻会の「槻」でもありますので、先生はそこに着目されて、このタイトルを決めてくださいました。幅広い知識持たれている甲斐先生ならではのテーマです♪
面白いテーマなので、先生がどのようなお話を展開されるか楽しみなのですが、スタッフは、はたと困ってしまいました。(^^ゞ 相撲はもちろん、相撲の歴史となると、當麻蹶速と野見宿禰の伝承くらいしか思い浮かびません。しかも、発行日の関係で、メルマガ発行回数が5回あります。風人だけでは、とても知識が足りませんので、今回の咲読は、4人のライターで、それぞれに相撲の歴史に迫ってみようと思います。どのような話が綴られるか、私にも分かりませんが、ご期待ください。
さて、1回目ですから、まずは相撲が登場する『日本書紀』の記事を、飛鳥時代に限定して紹介してみようと思います。
『日本書紀』の皇極天皇元(642)年7月22日「乙亥 饗百済使人大佐平智積等於朝 或本云 百済使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善 乃命健兒相撲於翹岐前」とあります。百済の使者と、先に亡命していた王族の翹岐をもてなすため、健児に相撲を取らせたことが書かれています。
健児(こんでい)は、訓練を受けた兵士や衛兵と考えれば良いでしょうか。力の強い男子なのでしょう。饗応の余興のひとつとして、屈強な兵士の取り組みが行われたのかも知れません。また、飛鳥時代には、これ以前に饗応のための相撲の記事は有りませんので、何か特別な意味があったのかも知れませんね。
相撲は次第にルールが整備され、現在の大相撲に繋がって行くのでしょうが、飛鳥時代にはどのようなルールの下で行われていたのでしょう。土俵はもちろん無かったと思いますが、先に書きました當麻蹶速と野見宿禰の一戦などは、なんでも有りの総合格闘技のように書かれています。確か決まり技は、蹴りだったように思いました。まさか、飛鳥時代にも一方が死ぬまでやるといったことは無いでしょうが、勝敗のつけどころはどうだったのでしょう。古墳時代には、褌姿の力士埴輪もありますので、あまり変わらないルールが出来ていたのかも知れませんね。
『日本書紀』の天武天皇11 (682)年7月3日の記事には、「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭大隅隼人勝之」とあります。「大隅の隼人と阿多の隼人とが朝廷で相撲をとり、大隅の隼人が勝った。」という内容です。朝廷で相撲がとられたこと、隼人の2地域の者が取り組みを行ったことなどが注目されます。また、同日の記事として「隼人が数多く来て、方物(くにつもの)をたてまつった。」とあるので、朝貢だと考え、相撲も隼人の朝廷への服属儀礼として行われたと考える説もあるようです。
飛鳥時代には、もう一つ相撲に関連する記事があります。持統天皇9(695)年5月21日に、「丁卯、観隼人相撲於西槻下」がそれに当たり、「隼人の相撲を西の槻の下でご覧になった。」と読めば良いのだろうと思います。やっと、講演会のタイトルの「槻」が出てきました。(笑)
ここで、ふと気づいたのですが、持統天皇は、前年12月に藤原宮に既に遷都されています。新装の藤原宮朝廷ではなくて、飛鳥寺の西の槻の樹の下へお出ましになったことになりますが、どうしてそのようなことをされたのでしょうね。「槻」という神聖な木の下、「槻の樹の広場」という神聖な場所で行うことに意味があったのでしょうか。
このあたりが、講演会の要点になりそうです。講演会で甲斐先生に、じっくり聞かせていただきたいところですね。
奈良時代になると、「抜出司(ぬきでのつかさ)」や後には「相撲司(すまいのつかさ)」などの役所も置かれるようになり、相撲節会へと進展していくようです。
ふと思ったのですけど、相撲の起源というのは、どうなのでしょう。モンゴルの辺りから東西に分かれて、東が相撲、西がレスリングなどに発展したという人もいるようですが、どの地域でも自然発生した「組み合って行う格闘技」があったのではないかと、風人は思いました。それが入り混じり、また独自化していったとも考えられるように思います。とりわけ、日本では様式化が行われ、神事としての要素も加わり、独特の大相撲へと繋がって行ったのではないでしょうか。
原稿の最後になって、風人が住む近隣地域には、田の神を喜ばせるための「泥んこ相撲」が行われるのを思い出しましたが、今回はこれにて。
さて、1回目は、これで終了です。2回目は、もも の登場です。お楽しみに♪
【2】 (12.5.25.発行 Vol.134に掲載) もも
第33回定例会の咲読2回目は、もも
が書かせて頂きます。
「相撲と槻にみる祓いと政」というタイトルは、講師の甲斐先生が、定例会開催日の7月7日にちなんで考えてくださったものです。が、申し訳ないことに、この7月7日と言う日付で私に浮かんでくるのは、やはり七夕で、本当に古代史好きなのかσ(^^)?と、自分を疑った次第です。・・・甲斐先生、すみません。m(__)m
きっと、私のような方もいらっしゃるかと・・・ほら、そこの貴方♪7月7日は七夕だって思いましたよねっ?ねっ?(^^ゞ
講演概要に出てくる「相撲節会」ですが、まずは「節会」ってなんでしょう?と。私は、節会というのは「天皇が行うメデタイ時の行事」と物凄くアバウトに捉えていました。ま、いつもこんな感じなんですが、そん曖昧な説明をここに書くわけにはいきませんので、ちょこっと調べてみました。はい♪検索ですぐに分かりました。(笑)
節会は、天皇の御前で行われた公式の行事で饗宴を伴うとされるようです。主なものには、元日(正月一日)・白馬(正月七日)・踏歌(正月十六日)・上巳(三月三日)・端午(五月五日)・相撲・七夕(七月七日)・重陽(九月九日)・豊明(十一月新嘗祭翌日の辰の日)などがあるとされていました。節会の成立は、奈良時代後期から平安時代頃だそうですから、宮廷文化が花開く頃になるのでしょうか。
これらのうち、1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日が江戸時代に五節句とされ、式日(祝祭日のようなもの)に制定されたのだそうです。今の七草粥、雛祭り、こどもの日、七夕などは、その頃からの風習が生き続けていることの証かもしれません。
今年の両槻会主催定例会は第31回を3月3日、第32回を5月5日、そして第33回は7月7日と、ゾロ目の開催日が続いています。日程が確定した時に「あらぁ~♪何だかおめでたい♪」と、私が思ったのも、江戸時代の五節句やその起源となった節会の影響でこの日付に祝いの意識をつからこそなのかもしれませんね。・・・って、江戸時代にはさすがに生まれていませんが。(^^ゞ
風習・風俗って言うのは、意識せずにこういう風に連綿と続いていくものなのかなぁ~と思ったりする もも でした。
話が、逸れました。m(__)m
先の節会の種類を見ると、7月7日のこの日だけ「相撲」と「七夕」二つの項目があります。他は全て「上巳」「端午」など一つしか書かれていません。確かに『続日本紀』天平6(735)年7月7日の記録には「秋七月丙寅 天皇観相撲戯 是夕徒御南苑命文人賦七夕之 賜禄有差」とあり、相撲を見たあと、文人たちに命じて七夕の漢詩などを作らせたことが分かりますから、同じ日に続けて行われていたことは間違いないようです。「相撲」の方は、日程が変動しその後開催されなくなるようですが、七夕は形を変えつつも7月7日のまま伝統行事として生き残ることになります。
それぞれの起源を探して簡単に遡ってみると、前回の咲読でも紹介された『日本書紀』の皇極天皇元(642)年に、健児(こんでい)が相撲を取った記録があり、相撲を取る力士を集めるための役所「抜出司(ぬきでのつかさ)」が養老3(719)年に置かれています。また遺物では、「相撲所」「左相撲」と読める奈良時代前半から中頃にかけてのものと思われる墨書土器も、平城京左京二条二坊十二坪から出土しています。これが「抜出司」に関わるものかどうかは分かりませんが、朝廷主導による相撲は、天平6年以前から行われていたと考えていいように思います。相撲節会の日程は、『日本書紀』の垂仁天皇7年にある野見宿禰と当麻蹴速との角力(すまひ)の記事に因るところが大きいようです。
一方の七夕はというと、奈良時代に遣唐使によってもたらされ、古来日本にあった様々な風習・風俗と結びつき、万葉集に130首以上ある七夕の歌もその影響を受けて詠まれたものが殆どのようですから、やはり歴史としては七夕の方が浅いといえそうです。旧暦の7月は、収穫期に備えての大事な準備の時期であったそうですから、地の神に感謝し豊作を祈願する行事(唐からの七夕信仰と結びつく以前のどちらかと言えば神事・神祭り的な日本古来の風習)があったと考えるのが自然じゃないでしょうか。
今回は、飛鳥時代以降の話、それも7月7日に相撲節会があったことを確認しただけの咲読になりましたが、「7月7日は七夕だけじゃなかったんだよ♪」ということで、良しとしてください。(^^ゞ
飛鳥時代以前の相撲に纏わるお話は、次回3回目の咲読で、サポートスタッフのらいちさんが書いてくださる予定です。楽しみにお待ち下さい、(^^)
【3】 (12.6.8.発行 Vol.135に掲載) らいちさん
せんえつながら私ごときが第33回定例会の咲読みを書かせていただきます。今回の講演会は両槻会では珍しく「相撲」をテーマにしています。私の住んでいる桜井市には古代の相撲に関する伝承がいくつかあって「相撲発祥の地」を名のっています。この機会に桜井市の相撲伝承地を大きくアッピールさせていただきたいと思います。
相撲といえば何かとお騒がせの多かった大相撲ですが、自粛されていた地方巡業が1年半ぶりとかで、奈良の「葛城場所」で開かれました。会場となった葛城市立体育館に横綱白鵬や新大関鶴龍など有名なお相撲さんたちがたくさんやってきて、大いに盛り上がった様子がテレビや新聞で報じられました。葛城市の當麻町は、相撲の開祖といわれる當麻蹴速の出身地ということで、こちらも「相撲発祥の地」を名のっておられます。「けはや座」という相撲資料を集めた博物館には本物の土俵まで作ってあって、おおいに顕彰に務めておられます。そういう場所で地方巡業がはじまったということは意味のあるいいことだと喜んでいます。でも、「発祥地」として「當麻」さんにずいぶん遅れを取ってしまっているなぁと少し残念でもあります。桜井市の相撲伝承もこういう機会に広く紹介できたらと思います。といっても、難しい文献資料の記述ではどうとか、といった専門的なことは書けませんので、あくまでも地元につたわるお話の紹介として読んで頂けたらと思います。
相撲神社鳥居 |
山の辺の道を歩かれたことはありますでしょうか。渋谷向山古墳(景行天皇陵)から南に行くと穴師という集落があります。少し広い車道を東へとなだらかな坂を登っていくと穴師坐兵主神社への参道で、兵主神社の鳥居の南に相撲神社があり、野見宿禰を祀る小祠があります。
野見宿禰を祀る相撲神社 |
「カタヤケシ」という小字名を持つここが、垂仁天皇七年七月七日に、いわゆる日本で最初の天覧相撲が行われた場所と伝えられています。わずかに四角く盛られた土俵様のものがあり、四隅には木が植えられています。ここが「宿祢蹴速角力之跡」ということです。
カタヤケシ |
日本書紀によれば、垂仁天皇の七年七月七日、當麻蹴速という大変な力持ちが居て、動物の角を引き欠いたり、鉄の鉤を引き延ばすほどの怪力で、いつも「自分ほどの力持ちはいない、なんとか力の強い者に会って命がけで力比べをしたいものだ」と豪語している、と天皇は臣下から聞かされます。天皇は「この男にかなうような強い者が誰かいないのか」と仰せられました。そのとき、一人の臣下が進み出て「出雲の国に野見宿禰という力の強い人がいます」と言ったので、その二人を戦わせてみようということになり、その日すぐに長尾市(倭直の祖)という人が使者として出雲に行きます。やってきた野見宿禰と當麻蹴速にさっそく角力を取らせます。天皇の前で取られた角力なので、これが最初の「天覧相撲」と解釈されています。でも、今の大相撲の取り組みとはだいぶ様子が違います。二人は互いに向いあって立ち上がり、おのおの足を高くあげて蹴り合い、とうとう野見宿禰は當麻蹴速のあばら骨を踏み折り、腰も踏み折って最後は殺してしまうのです。蹴速は「命がけで力比べをしたい」と言ってますから、最初から命がけの戦いだったのでしょうか。足を高くあげて振り下ろすさまは、土俵入りの時の「しこ」を連想させます。天皇は負けた當麻蹴速の土地を没収して野見宿禰に与えました。その土地に「腰折田」が残っている由縁だと記されています。(現香芝市良福寺には「腰折田」という場所があるそうです)そして、野見宿禰はそのままこの地に留まって天皇にお仕えしたとあります。後に野見宿禰は殉死の風習を埴輪をもって代えるなどの功績から土師臣の名を与えられ、代々殯葬儀礼を司る土師部の祖となります。
垂仁天皇纒向珠城宮跡の碑 |
日本書紀の記述からは相撲が取られた場所がどこかは明確にできませんが、垂仁天皇の纒向珠城宮(紀)のあった場所は相撲神社から西へ1㎞と離れていない桜井市穴師の珠城山付近ではと言われています。野見宿禰を出雲の国へ呼びに行った長尾市は大市(現在の桜井市箸中)に住んでいました。「カタヤケシ」という名前ですが、「カタヤ(方屋)」というのは相撲に関わる名前で、東西に分かれたおすもうさんの控えの場所とも、土俵そのものを指すとも言われています。垂仁天皇の宮近くで、相撲に関わる名前が残っている。そんな場所なら日本で最初に天覧相撲が取られたという伝承があってもなるほどと思われます。おまけに、葛城山や二上山を向こうに大和平野が眼下に広がる大変眺めの良い場所です。
カタヤケシから西の眺め |
「カタヤケシ」のある場所は穴師坐兵主神社の境内地になります。この兵主神社、延喜式では名神大社に列せられ大和でも最高の社格を授けられています。今は大兵主神社・兵主神社・若御魂神社の三神が祀られていますが、戦いの神である兵主神は、元は後ろにある穴師山の山頂にあって上社と呼ばれていたものが、下社の大兵主神社のあった現在の場所に合祀されたそうです。穴師山は三輪山の真北、竜王山とのあいだにある400m程の山で、柿本人麻呂が歌に詠んだ「弓月が岳」ではないかといわれています。(巻向山や竜王山を比定する説もあり)弓月は弓槻、斎槻とも書かれ、槻は神木であり弓の良い材料にもなったことから、山頂にはたくさんの槻が植わっていたのではといわれています。
穴師坐兵主神社 |
垂仁天皇より後の時代になりますが、景行天皇の纒向日代宮(紀)伝承地もカタヤケシのすぐ近くにあります。雄略紀に書かれている百枝槻(ももえつき)の下での豊楽(とよのあかり)の祭りで、三重の采女がその槻の葉が順に上から落ちることを歌に詠み上げて、槻の葉が入ったまま天皇に杯を差し出した失敗を赦される場面があります。歌の最初には纒向の日代宮が登場します。日代宮の近くには大きな槻があった、もしくは弓月が岳(斎槻岳)のことを表現しているのでしょうか。
景行天皇纒向日代宮跡の碑 |
相撲は神事であるというのはよくいわれることですが、垂仁紀の野見宿禰と當麻蹴速の相撲もやはり、ただ単なる力比べではなく(槻の下での)神事だったと考えると面白いですね。よく言われる、「東のヤマト政権と西の葛城に住む豪族の勢力争いだった」でもいいですが、植物や人に病気を流行らせる悪霊を追い祓う「祓い」や、その土地を活性化させる「魂振り」、あるいは自害した皇后狭穂姫の葬送に関わる神事だったとしたら、野見宿禰が後に土師氏の祖となることにも繋がるなと、私の妄想もふくらみます。甲斐先生の講演でそんなお話も聞けたらいいなぁと思っています。
三輪山の南麓には出雲という集落があって、一般には宿禰が島根の出雲から呼び寄せた土師部が住み着いた場所と解釈されていますが、大和の出雲は島根の出雲より古いという説もあるようです。十二柱神社にはもと野見宿禰墓の上にあったという五輪塔が建っています。境内の狛犬の台座を支えている力士像も人気です。出雲の集落から巻向山へ登る中腹には大和出雲族の聖地(ダンノダイラ)があって、巨大な磐座があります。いずれ機会があればその話も詳しく書きたいなと思います。
狛犬の台座 |
野見宿禰の五輪塔は高さ285㎝とたいへんりっぱなものです。
野見宿禰五輪塔 |
當麻の相撲館の近くには當麻蹴速の五輪塔もちゃんとありました。どちらも鎌倉時代に作られたもののようですが、相撲の開祖といわれる二人は、相撲人気と共にどの時代にも大切にされてきたのですね。
當麻蹴速五輪塔 |
次回4回目の咲読みはyukaさんの登場です。もっと咲読みらしい文章を読んでもらえると思いますのでお楽しみに。
【4】 (12.6.22.発行 Vol.136に掲載) yukaさん
長い日本の歴史の中で、相撲は、宮中儀礼や武士の鍛錬、神事や勧進として行われ、次第に意義が加わり様式化され、国技として親しまれるまでに発展してきました。
相撲が日本の国技と認識されるようになったのは、明治時代に国技館ができた時だといわれており、その源流は日本だけに求められるわけではありません。世界には、相撲やレスリングの原型とされる様々な力比べや闘技の痕跡が残っています。
メソポタミアのBC3000年頃の遺跡から出土した、右四つに取り組む二人の男性の姿が描かれた青銅製の壷。エジプトのBC2100年頃の古墳壁画に描かれた何種類ものレスリング技。ヘブライ人の族長ヤコブが、神の使いである天使と組討をしたという『旧約聖書』創世記の記述。このとき勝利したヤコブはイスラエル(神と戦う人)という名を授けられたとあり、イスラエル民族の確立との関連を示唆しています。
東洋に目を向けると、『法華経』の「安楽行品」には、菩薩が近づいてはならないとされる人の中に「相撲」の文字が見えます。また、太子だったころの釈迦が力比べによって美しい妃を得たという『本行経』のエピソードをサンスクリット語から漢訳する際に、「相撲」の字が当てられています。
それまで中国では、力芸・技芸や力比べを「角抵」「角力」と表していたようで、河南省にある漢代の墓の壁画には、百戯図や宴飲図などとともに角抵図が描かれているそうです。
高句麗時代の「角抵塚」と呼ばれる古墳が、中国吉林省集安県に残っています。その名が示すとおり、壁画には、まわしを締めた二人の男性が取り組んでいる様子が描かれています。左端には、斜め右上に向かって伸びた大樹があり、これを槻とする説もあります。高句麗において槻がどのような位置付けにあったのかは分かりませんが、天井画には日月・星座・四神・鳳凰・麒麟などが描かれていることを考えると、この大樹もおそらく神性を帯びたものと理解して差し支えないでしょう。
槻は欅の古名ですが、樹勢が強く生命力の盛んな槻が神聖視されていたことは、古代日本の文献史料に示されています。
宮の名前として残っているものに、用明天皇の「磐余池辺双槻宮」、それに、両槻会と名称の上で関わりの深い「両槻宮」があります。前者の名称が磐余池に槻があったことに拠るのかどうかは不明ですが、両槻宮に関しては、「両槻樹」の辺に「観」を建てたことに由来すると『日本書紀』に記されています。また、『古事記』には、雄略天皇が槻の下で酒宴を催したとき、槻の葉の入ってしまった杯を差し出した采女に天皇が立腹し斬ろうとしたところ、采女は槻に準えて天皇を賛美する歌を披露し、難を免れた伝承があります。その歌謡の内容から、当時の宮中に槻があったことが窺えます。『万葉集』にも、軽の衢の神社に槻が神木(斎槻)として祀られていたことを詠んだ歌が残っています。
槻の存在する施設は中央の宮や神社だけではありませんでした。
地方の役所の門前にも、しばしば槻があったようです。その下で饗宴を催したことや、中にはその木で太鼓を作ったため祟りがあったと伝える史料もあります。
また、大和の「額田寺伽藍並条里図」には、伽藍の南に「槻本田」の文字とともに槻らしき木が描かれています。
額田寺伽藍並条里図
(国立歴史民俗博物館HP内) (右上に「三」と書かれたマス目の中)
この場合、槻の存在が伽藍造営の基準になったのかもしれません。
同様に、両槻宮が槻のある場所に営まれたことからも、槻は宮地の選定にも影響を与えたと想像できます。
そして、寺院と槻の関係で忘れてはならないのが、飛鳥寺西の「槻の木の広場」です。「飛鳥寺西方遺跡」として発掘調査が進められ、書紀に度々登場する「飛鳥寺西槻」に相当する可能性が高いとされています。
『日本書紀』によれば、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの契機となった蹴鞠、孝徳天皇と群臣の盟約、壬申の乱における軍営、辺境民への饗応など、公的な集会場として様々に利用されていました。中でも注目すべきは、そこで相撲が行われたことを示す次の記事です。
・持統9(695)年5月条 「丁未朔己未饗隼人大隅丁卯観隼人相撲於西槻下」
これより前、天武天皇11(682)年7月にも、大和に朝貢してきた大隅の隼人と阿多(薩摩)の隼人による相撲が宮殿の庭で行われました。異族である隼人が朝廷で相撲を取るということは、朝廷に対する服属を誓う一種の儀式でした。つまり、舞台こそ「槻下」ではなかったものの、天皇に対する恭順の意を身体をもって演劇的に表現させ、国家との支配・服属の関係を再確認する場だったといえるでしょう。また、このような意を持つ儀式は、文武朝には大極殿(=天空の中心)で執り行われていましたから、その点では、後の律令制下で大極殿が果たした機能と、槻の下を聖域とする意識は、無関係ではないように思えます。律令制・都城制成立の過渡期である持統朝には、まだ槻の広場がその役割を担っていたのかもしれません。そこに、藤原宮からわざわざ飛鳥の地へやってきて相撲を観覧した理由があるのではないかと私は思います。
このように考えてくると、やはり飛鳥寺西の広場の槻は、同寺建立以前から存在し、それを重視してこの地に飛鳥寺が造営された―あるいは逆に、槻という在来の信仰に対する優位性の象徴としてここに寺を建て釈迦如来像を安置したとも考えられそうです。同様に、地方の郡衙などの槻にしても、移植したのではなく本来そこに生えているものだったのではないでしょうか。
ところで、正倉院宝物の中に、槻木を素材とした製品があるようです。 「赤漆文槻木厨子」は天武系の皇統に伝領され、「赤漆槻木胡坐」という椅子は、聖武天皇の日用品だったとされています。(この場合“祟り”はなかったのか?という疑問もありますが〈笑〉)
このように、槻は古来、樹木そのものはもちろん、素材としても神聖視され、さらには樹下空間全体までもが聖域とされてきました。王陵の壁画に描かれる聖なる空間を具現化した場所が槻の聳える広場であり、そこで「力」を顕示する「相撲」を行ったことは、古代王権にとって国家支配の表象となる重要な儀式であったのではないかと感じました。
7月7日の講演で、甲斐先生はどのような見解を示されるのでしょうか?その点にも注目して聴講したいと思います。
【5】 (12.7.6.発行 Vol.137に掲載) 風人
5回にわたって綴ってきました第33回定例会の咲読も、今回が最終回になりました。いよいよ明日は、講演会当日です。ご参加の皆さん!一緒に楽しみましょうね♪
これまでの咲読では、相撲の歴史や相撲節会について、あるいは槻の樹の神聖性について、1話ごとに事務局スタッフが順次担当してきました。今回は、飛鳥時代の相撲に関連する話を書いてみたいと思います。
講師の甲斐弓子先生から定例会のテーマをいただいた時に、最初は飛鳥と相撲というと『日本書紀』の記述以外に確たる繋がりを思いつけなかったのですが、しばらく考えていく内に今号の内容に行き当たりました。
それは、飛鳥の謎の石造物である猿石のことでした。現在、欽明天皇陵の近くにある吉備姫王墓陵内に並べられている4体の石造物のことです。向かって左から「女」、「山王権現」、「僧」、「男」、と呼ばれています。しかし、この呼び名は江戸時代からのようで、作られた時代の名称ではありません。つまり、これらの石造物は、どのような目的で、何を表現したものなのかは分かっていないのです。
これらの猿石は、江戸時代に欽明天皇陵の南にある小字イケダという田んぼから掘り出され、最終的に現在の場所に置かれるようになったようです。
猿石がどのような物であるのかについては様々な説が有りますが、河上邦彦先生が著書『飛鳥発掘物語』の中で、猿石の「僧」は、実は「力士」ではないかと書かれています。石像は短髪で、筋肉を表すような皺が刻まれていること。また、褌をつけている点を指摘されています。
吉備姫王墓の「僧」 |
飛鳥資料館前庭の「僧」の背面 |
この「僧」だけが二面石になっておらず、背面は背骨が彫り出されており、また筋肉質であるように見えます。腕も太く表現されているように思うのですが、どうでしょうか。
4体の石造物の1つには、乳房が作られていますので「女」は女性であることは間違いないところだと思います。また、2体の石造物には男性器が刻まれていますので、「男」、「山王権現」は男性を表現した物であるのは確かです。「僧」には、男性器は彫られていません。体形からすると厳つい男性だと思われ、上半身は裸のようですが、下半身には褌かどうかは分かりませんが、それに近い衣類を着用していると考えられます。石像をよく見ると下腹部に縦の線が有り、褌に見えないこともありませんね。指摘されるように、「力士」なのでしょうか。
また、亀田博先生は、伎楽との関連を指摘されています。伎楽というのは、推古20(612)年に百済人の味摩之によって呉の国から伝えられたとされ、豊浦付近の地名と考えられる桜井において、聖徳太子が少年を集めて学ばせたのを最初とします。
伎楽の登場人物の中には「力士」も含まれていますので、伎楽との関連においても「力士」説は矛盾を生じないかも知れません。伎楽のユーモラスな表現や仮面の表情なども、猿石と共通したものがあると言えるかもしれませんね。
猿石が出土した小字イケダの直ぐ南からは、平田キタガワ遺跡という飛鳥時代後半の庭園遺跡が見つかっています。その平田キタガワ遺跡について、少し触れておきます。ここからは、石組護岸・敷石・石列などが検出されています。石敷遺構は、人頭大の川原石を敷き詰めたもので、遺構面は北から南にかけて緩やかに傾斜をもっています。また特徴的なのは、敷石に模様を作っていることです。目地のように5mにわたって直線状に並ぶ部分や、大振りな石の周辺を同心円状に廻る部分がありました。
また、石積護岸が検出されていますが、護岸は東西方向の直線になっており、検出されたのは12mですが、地中探査の結果、150m以上に及ぶことが確認されています。
平田キタガワ遺跡の位置は、紀路を通って飛鳥中心部に入ってくる入口になります。ここに、石神遺跡A期のような迎賓館的な施設が建設されていた可能性があるのではないでしょうか。そうすると猿石は、須弥山石や石人像と同じように、その庭園に置かれた石造物であったと考えられます。
遠来の客人をもてなすために相撲が行われることもあったのでしょうか、また、庭園には伎楽をテーマにした様々な石造物がレイアウトされていたのかも知れませんね。
猿石の「力士」を見ながら、飛鳥時代の相撲を想像してみるのも面白いかも知れません。
【6】 (12.7.20.発行 Vol.138に掲載) 風人
本来なら第34回定例会の咲読を始めなければならないのですが、今号では、第33回で書き残してしまった話を書かせていただきます。
第33回定例会に向けた咲読の1回目に「原稿の最後になって、風人が住む近隣地域には、田の神を喜ばせるための「泥んこ相撲」が行われるのを思い出しました。」と書いてしまいました。実は定例会前日発行分の5回目にその続きを書く予定だったのですが、5回目は猿石について書いてしまいました。謎のコメントを残したままではいけませんので、定例会は終わったのですが、話を完結させておこうと思います。
さて、私が住む橿原市のお隣の桜井市江包と大西には、奇祭として知られる「綱掛祭」があります。「綱掛」は、飛鳥でも男綱・女綱の勧請綱掛として知られるように、奈良県の各所で様々な形で行われています。邪悪なものが入ってこないようにする結界だとか、豊作を祈願するものだとか、綱を蛇に見立てた水神信仰だとされるようですが、ともかく元は「五穀豊穣」と「子孫繁栄」を願う神事なのだろうと考えられます。
桜井市江包と大西で行われるこの綱掛神事は、「お綱はんの嫁入り」とも呼ばれ、奈良県の無形民俗文化財に指定されています。伝承によると、昔、大洪水があって二柱の神様が上流から流れて来られたのを、大西では稲田姫、江包では素盞鳴命をお助けして祀ったのが始まりだとされます。二柱の神様は結婚され、毎年妻問をされるようになったのだそうです。
神事は2月11日に行われ、初瀬川を挟んで二つの地域では、それぞれに準備が進められます。(江包地区では9日から春日神社で「男綱」が作られ、大西地区では10日に市杵島神社で「女綱」が作られます。)
綱掛けは、素盞鳴尊と稲田姫命の結婚式の形を借りて行われ、江包から男綱、大西から女綱を運び、素盞鳴神社前でそれぞれの大注連縄を結合する「入舟の儀式」を行います。綱は、二つとも600kg以上もあるそうで、大変大きな物です。
写真をご覧ください。担ぎ手がなぜ泥だらけになっているか分かりますか?それは、綱を神社に運び込むまでの間に、田で相撲を取っているからなんです。
確か江包の泥んこ相撲では、綱の尾で土俵を作っていたように記憶をしています。泥だらけになればなるほど田の神様が喜ばれるとされているので、手抜きは有りません。2月半ばの凍てた田んぼに水を撒いての相撲ですから、見ているだけでもなかなか壮絶なものです。相撲は、しばらく続けられます。今は、すっかり奇祭として知られていますので、周囲にはカメラの砲列が取り囲みます。
詳しくは知らないのですが、その年に結婚された新郎は、特に泥んこにされて祝福?を受けるとも聞きました。
神様に「こんなに楽しませてあげたのだから、秋には豊作にしてください!」と言うことなのでしょうか。言葉を替えると「豊作を予祝するための儀式」となります。
先日の第33回定例会で甲斐先生にお話しいただいたことを思い出してみると、やはり、この相撲も「祓い」であるのでしょう。祓いによって田を清め、それから一年の農作業のスケジュールが始まると考えることが出来ます。おそらく、このような儀式は日本各地に見られたでしょう。「田遊び」とも呼ばれるそうですが、そのようなことも追及して行けば興味深いテーマになるように思います。
さて、再び担がれた縄は素盞鳴神社に持ち込まれ、二つの巨大な縄を合体させる結婚式が執り行われます。
めでたく式を挙げた神様たちは、きっと豊かな実りを約束してくださるのでしょう。
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