飛鳥咲読
第37回定例会
謎の石切場を訪ねる
-石舞台古墳の採石場か?-
Vol.152(13.1.11.発行)~Vol.155(13.2.22.発行)に掲載
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【1】 (13.1.11.発行 Vol.152に掲載) 風人
今号から、第37回定例会「謎の石切場を訪ねる -石舞台古墳の採石場か?-」の咲読を始めます。担当は、風人が務めます。よろしくお願いします。
第37回は、総距離約13kmのウォーキングを予定しています。皆さんに参加していただきやすいように、コースを3つのパートに分けて実施することにしました。パート1は、多武峰談山神社から細川谷を石舞台公園まで下ります。パート2は、石舞台公園をスタートして、坂田寺跡からくつな石を訪ね、再び石舞台公園に戻ります。パート3は、石舞台公園から飛鳥駅までとしました。
パート1は、距離的には5km強になりますが、ほぼ下りの区間になります。急坂も有りますので、やや足に負担があるかも知れません。パート2は、アップダウンがあります。阪田集落の上方まで上り、石舞台公園に戻ります。パート1・2では、石舞台公園を基点としますので、バス停から途中リタイアしてお帰りいただくのもOKとしました。足の状態を見ながら、当日にお決めいただいても構いません。多少ロスのある、このルートに設定した理由は、それぞれの歩く力に合わせて参加していただけるようにしたことと共に、トイレの利用を考慮したからです。多武峰・石舞台間には利用できるトイレが有りませんので、石舞台公園を2度通過して、女性の方にも安心して参加いただけるようにしました。
さて、咲読1・2回目は、コース概要を書くことにしました。マップをリンクしましたので、参照しながらお読みください。
両槻会のウォーキングは、一人では行きにくい所、行っても場所の特定が難しい所を選んでコース設定をしています。そういった観点からも、今回は実に両槻会らしいコースになっていると思います。もし、後で紹介するポイントの全てを見学されたことがある方がいらっしゃれば、事務局から最高位の飛鳥人冠位を叙任したいと思います。(笑)
今回のウォーキングルートを紹介します。
談山神社バス停→多武峰西門跡→聖徳太子産湯の井戸「春井」跡→展望所1→上薬師堂→不動の滝→上2号墳移築移築石室→展望所2(昼食)→ 気都和既神社→もう一つの石舞台古墳?→古墳もどき2→上居の立石→石舞台公園南休憩所→坂田寺跡→阪田葛神社→ワンコダム→くつな石→展望所3→都塚古墳→石舞台公園南休憩所→橘寺→亀石→鬼俎板・雪隠古墳→カナヅカ古墳→欽明天皇陵→吉備姫王墓(猿石)→飛鳥駅前
集合時間は9時15分(25分発のバスに乗車)、集合場所は近鉄・JR桜井駅南口ロータリー奈良交通バス乗場です。解散予定時間は、16時50分を予定しています。
集合後、桜井駅からバスで談山神社に向かいます。これで、90%以上の標高を稼ぎますので、楽チンですね♪ ウォーキングは、談山神社バス停から始めます。なお、談山神社の拝観は予定しておりません。
数年前に開通した車道を、西門跡まで歩きます。冬野分岐点付近でウォーキングの体制を整えた後、いよいよ本格的に第37回定例会の出発となります。西門跡を後にして西口集落まで少しだけ上って、その後は下り坂が続きます。途中、旧道を通るところでは、短い区間ですが急坂が有ります。気をつけましょうね! ところで、今回は、細川谷を下るルートに出るまでにマニアックなポイントがあります。聖徳太子の産湯に使ったという井戸跡があるので、寄ってみることにしました。今は、石碑があるだけなのですが、江戸時代にはガイドブックにも紹介されており、多武峰周辺の観光ポイントの一つになっていたようです。 詳しくは、咲読3回目以降に紹介したいと思います。
旧道に戻り、少し先から一旦新道に出ます。張り出したアーチ状の場所では細川谷を見下ろしていただき、遠く葛城連山の遠望を楽しみたいと思います。
旧道と新道を織り交ぜながら、今回のメインスポットとなる上(かむら)の薬師堂に下ります。薬師堂には、村の重要文化財である薬師如来や四天王像、また藤原鎌足像などが祀られているのですが、当日は見学することは出来ません。実は、翌週(3月10日:第2日曜日)にお祭りがあり、公開されるようです。日程が合わずに残念ですが、興味のある方は、是非、再訪してください。ここでは、薬師堂以外に見ていただくものがあります。確実な証拠はありませんが、石切場というか、採石場であったと思われる場所があります。周辺には人の手が加わったと思われる石が散見出来、それらの石を採ったと思われる岩肌が露出しています。細川谷の両側の尾根には約200基と言われる古墳群があり、それらの石材の一部が切り出された場所ではないかと思われます。しかし、調査などは行われておらず、石切場がいつの時代に活用されていたのかは明確ではありません。石舞台古墳の石材もここから採ったのだという話があるのですが、本当かどうかは歴史の謎に埋もれています。
薬師堂の近くにある不動の滝の不思議な空間を後に、再び新道を下ります。少し進んで、気都和既橋の付近で昼食を予定しています。ここからの早春の棚田風景は、きっと気に入っていただけるのではないでしょうか。
そして、上古墳群の内、移築されて保存されている上2号墳を見てみましょう。見学後再出発し、気都和既神社・もうこの森を訪ねます。森は小さくなっているのでしょうが、それでも薄暗い鬱蒼とした雰囲気は留めているように思います。鎌足が腰かけたという石に座ってみるのも一興かも知れませんね。(笑)
ここからは、上(かむら)・細川・上居(じょうご)と集落の中の旧道を通るのが一般的なハイキングコースですが、第37回では、あえて車道を選びました。集落を見下ろす景色も然ることながら、面白いものを見ていただきたいと思っています。田んぼの端に、突然、石舞台古墳様のものが現れます。種明かしは当日のお楽しみですが、まずは写真をご覧いただいてイメージを膨らませてください。なんやろなぁ~!(笑)
更に下ると、飛鳥でも有数の夕景スポットがあります。田植えの始まった棚田と二上山に沈む夕景の写真をご覧になった方も多いと思うのですが、その撮影ポイントを通ります。
上居まで下り、立石を見学後、石舞台公園の南休憩所でトイレ休憩にします。ここで、パート1が終了です。
再び出発して坂田寺跡から、いよいよ上りが始まります。登山ではありませんので、大丈夫ですよ♪ 阪田集落に上がると、一度平坦になります。葛神社を訪ね、再び上りにかかりますが、振り返ると飛鳥盆地が眼下に広がり始めます。息も切れかけた頃、面白いものが待っていてくれます。案内役の私も下見で初めて気づいたのですが、ワンちゃんが居るのです♪
どうでしょうか! 閉じた目と黒い鼻、耳も分かるでしょうか? 丸顔の輪郭も辿れます。鼻の周りには白い髭もあり、口も下の方に見て取れます。丸顔ですから、可愛い熊のようにも見えますが、犬好きの私にはワン公と見ておきたいと思います。自然の成せる業ですが、面白いものを作ってくれました。くつな石は、この奥約100mに在ります。石工が鑿を当てると、血を流したという伝説のある巨岩です。
初回から、長くなってしまいました。続きは、次号に掲載予定です。興味を持っていただいた方は、是非お申し込みください。お待ちしております。
【2】 (13.1.25.発行 Vol.153に掲載) 風人
第37回定例会咲読の2回目です。前号では、阪田集落の奥に在る「くつな石」までのコースを紹介しました。今回は、それ以降を紹介したいと思います。
「くつな石」からワンコダムまで戻り、少し脇道を上ります。石舞台古墳付近から南東方向を見ると、長い間山肌が剥き出しになっていたのに気付かれた方も多いと思います。ここでは、現在も圃場整備が続いています。一時的に景観が損なわれましたので残念に思っていたのですが、棚田として再生する日が、きっと来ることでしょう。そのおかげと言うと少し違う気もしますが、この棚田の上に出ると、とても見晴らしが良くなっています。
二上山や畝傍山はもちろん、信貴・生駒の山並みも見えていますし、飛鳥盆地が一望に出来ます。下見時には飛鳥寺跡安居院は確認できませんでしたが、甘樫丘が見えていましたので飛鳥北部も見えているかも知れません。これ以降、パート3終了まで、もう上り坂は有りませんので、ご安心ください。(笑)展望所からは再び石舞台公園の南にある休憩所を目指しますが、上りとはルートを変えて、都塚古墳を訪ねることにしました。
都塚古墳(別名:金鶏塚)は、現在に残る墳丘から円墳のように見えますが、発掘調査の結果、一辺約28mの方墳だと考えられています。両袖
式の石室を持ち、刳り抜き式家形石棺が納められています。現在も石棺を含めた石室を見学できますが、柵越しになってしまうのが残念です。都塚古墳は、明日香村で唯一石棺を収めた状態で見学できる石室だと紹介されていますが、間違いではないのですが、同一地域としては橿原市に属す菖蒲池古墳(村境界から西に数十メートル)もありますので、あまり意味の有る表現だとは思えません。訪れる人には、現在の市町村境界なんて、大した意味は無いように思いますので、かえって間違った知識になってしまうかも知れませんね。
都塚古墳の築造時期は、6世紀後半と考えられています。石舞台古墳の周辺に立地することなどから、被葬者は蘇我一族に所縁の者と考えることも出来るようです。また坂田寺が近くに在ったわけですから、鞍作氏などの渡来系の人物を被葬者候補に挙げることも出来るように思います。
石舞台公園の南側休憩所まで戻り、トイレ休憩の後、パート2は終了です。お疲れの方は、ここで離脱していただいても構いません。
パート3は、だらだらと飛鳥駅まで下るコースになります。事務局では、王道ルートと呼んでいる観光コースになりますが、皆さんにもお馴染みの史跡を見ながら、両槻会らしい切口のガイドを楽しんでいただければと思っています。
石舞台公園の南口を出て、玉藻橋を渡ります。橘寺東門に向かって飛鳥川沿いを歩き、東橘遺跡を過ぎた所から、普段と違って南側を回り込んで橘寺西門に出るコースを採ります。ここからは、明日香村中央公民館を経て亀石に向かうことになります。
亀石を過ぎた所に、新しい道路が完成しています。長い間工事中でしたが、漸く開通しました。しかし、ウォーキングには都合が悪く、短い地下道を潜るようになりました。面倒ですね! まっ、ルールは守らねばなりませんので、定例会では地下道を通ることにしましょう。あっ!定例会でなければ、車道を渡って良いということではないですよ!(笑) 元々、このルートはめったに通らないのです。
さらに、西に進みます。川原下ノ茶屋遺跡の案内をして、鬼の俎板・雪隠古墳へと向かいますが、この辺りは、皆さんも良くご存じだと思いますので、時間調整の必要があれば、カットしたいと考えています。ご了承ください。
カナヅカ古墳、欽明天皇陵を巡り、最後の見学ポイントは、吉備姫王墓と猿石になります。解散地点の飛鳥駅は、もう少しです。飛鳥駅には、16時50分の到着予定で進めたいと思っていますが、参加人数にもよりますが、若干の誤差はご了解ください。
全長約13kmの行程でした。最初にも書きましたが、とても展望の良いコースでもあります。歴史的な事にはあまり興味が無い方でも、楽しく歩いていただけるのではないでしょうか。また、この機会に風景の中に溶け込んだ飛鳥時代を感じていただければ、このコースを設定しました意義もさらに深まるだろうと思います。皆さんの参加申し込みを、お待ちしております。
次回からは、見学ポイントの幾つかをクローズアップして、より詳しくご案内したいと思います。
【3】 (13.2.8.発行 Vol.154に掲載) 風人
第37回定例会に向けて、3回目の咲読です。前号まではウォーキングコースの概要を紹介してきましたが、今回からは幾つかのポイントについて、もう少し詳しく見ていくことにします。
多武峰の西門を飛鳥方面に出ると、桜井市西口という数軒の民家が点在する集落があります。その西口に、聖徳太子の産湯に使ったという「春井(はるのい)」跡を示す石碑と、井戸跡と思われる水が湧き出る地点があります。ここに至る明確な道は無く、案内標識も有りませんので、おそらくご存じの方は少ないのではないかと思います。私も存在は知っていたのですが、下見に行くまでは実際に行ったことが有りませんでした。
さて、その「春井」ですが、安政4(1857)年に刊行された『多武山二十六勝志』という書物に紹介されています。社寺縁起・名所旧跡などを紹介する言わばガイドブックなのですが、これには「聖徳太子誕生のときこれを汲みて灌ぐという。橘寺の東に当たる。故に名づくるに春をもってするか。」と書かれています。安政4年というと、江戸時代も終焉を迎えようとする時期ですね。「春井」は、この頃には知られた存在であったようです。
また、それより以前の延宝9(1681)年刊行の『大和名所記 和州旧跡幽考』には、「多武峯の西のふもとにあり。高市郡のうちにて侍るべけれども、しばらく多武峯によりて爰にあらわす。聖徳太子、御産湯にとて、東井、千歳井、赤染井の三つの井を掘らせたり。二つの井はかくれて、春井のみ残れり。人、春井の霊水という、これなり。」とあります。
資料を当たっていて、思い出したことがあります。やはり太子所縁の地、斑鳩の「三井」の伝承です。法輪寺の近くには、井戸が残っていたように記憶しています。それで、若干調べてみました。この井戸は、法輪寺旧境内に在ります。聖徳太子が掘った三基の内の一つだと伝えられ、法輪寺の別名である「三井寺」や「御井寺」についても、この井戸に由来しているようです。また、現在の地名も「斑鳩町三井」になっています。
この井戸は、明治年間には埋没していましたが、昭和7年に発掘調査が行われ、深さ約4.25m、上部直径約91cmであることがわかり、古代の様式を留めることから国の史跡に指定されています。
鎌倉時代に記された『聖徳太子伝私記』には、「聖徳太子、此処に三井を掘り給ひ、山背大兄・由義王子・三島王女御誕生の時、産湯を汲み給ひ、東井・前栽・赤染三井、此の地に写し給ふ」とあるようです。
多武峰の井戸の名前と同じですね。それと「此の地に写し給ふ」と書かれているのが気にかかるところです。どこからでしょう?実際には、父用明天皇の宮が在った磐余周辺なのでしょうが、太子伝が書かれた頃に誕生地とされたのは何処だとされていたのでしょうか。不勉強でσ(^^)には分かりませんが、橘寺もその大きな候補地になることでしょう。三井の伝承が出来た頃、逆に元の三井の場所を探し求め、その結果、清浄な湧水のある多武峰の地に伝承が生まれたのかも知れませんね。「春井」は、そのようなことを妄想させる場所です。
春井からは、一旦車道に出るのですが、ここからは冬野川の谷筋が眼下に見通せます。その谷の両側には多武峰(御破裂山)から派生する尾根がほぼ東西に連なっています。この両尾根(主に北側の尾根)には、200基を超える古墳が存在すると言われています。西の端は石舞台古墳周辺まで含め、東の端は上(かむら)薬師堂周辺にまで及ぶとされています。実際に調査された古墳は僅かですので実態は未だ謎のままになっていますが、自然崩壊や石採りによる破壊も有ったことでしょう。また、逆に未発見の古墳も存在するかも知れません。
今回のウォーキングで次のポイントとなる薬師堂付近では、橿原市見瀬町と多武峰を繋ぐ県道・見瀬-多武峰線の工事に先立って行われた発掘調査により、数基の古墳が調査されました。これらの古墳には、所在地名を採って「上1号墳~上5号墳」という一連の番号が振られています。(消滅・半壊状態の物を含む)
これらの古墳について事前に調べている時に、上2号墳の石室が移築保存されているらしいとの情報を得ました。それを確認しようと注意していたのですが、下見時には全く分からず困っていたところ、飛鳥遊訪マガジンでお馴染みの“あい坊先生”が探し出して情報提供をしてくださいました。再び現地に行ったのですが、これは分からないです! 笹薮に埋もれるように説明板と開口した石室がありました。これで移築保存と言えるのかどうか、甚だ疑問に思った次第です。
さて、上に所在する古墳を幾つか紹介します。
まず、石室が移築されている上2号墳を見てみましょう。気都和既橋の北詰を西に入った所に在りますが、笹薮が茂っているので発見を難しくしています。2号墳は径約15mの円墳と考えられ、右片袖式の横穴式石室を主体部としています。石室全長は6.8m、玄室長3.4m、玄室幅2.3mを測ります。玄室床面は、比較的大ぶりで平坦な石を据え、その上に礫を敷き詰めています。出土遺物には、須恵器5点(内1点に漆の残留物)、土師器1点がありました。また、鉄釘2本が発見されていることから、木棺が納められていたと推測することが出来るようです。築造年代は、6世紀末から7世紀初頭と考えられています。
上5号墳は、2号墳から車道と集落を挟んだ東の尾根上に在ります。墳丘の盛土は全て無くなっているのですが、尾根の地形や残存する石室の規模から約17m程度の円墳だと考えられています。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で、天井石は無くなっていますが、他の石材は落下している石があるものの比較的良好に残っていたようです。現存する石室は、石室長7.41m、玄室長4.29m、玄室幅(中央部)1.59m、高さ2.80mの規模だとされており、急な持ち送りを成していたと考えられます。羨道長は3.12m、羨道幅1.41mから1.59m、高さ1.41mを測ります。
上5号墳は、盗掘を受けていますが、副葬品などが多数残っていたようです。主なものとしては、馬具(鉄地金銅張の花弁形杏葉、鞍金具、鐙、吊金具、辻金具など)、玉類(ガラス小玉、ガラス丸玉、琥珀棗玉、銀製空丸玉など)、須恵器、ミニチュア炊飯具、耳環、指輪、鉄釘などが有りました。
玄室内で発見された鉄釘の出土状況などから、3基の木棺が埋葬されていたのではないかと考えられるようです。
古墳の内容は、渡来系の被葬者を考えさせます。蘇我氏との関連も考慮に入れれば、蘇我氏に深い関わりを持った渡来系の者を考えることが出来るかも知れません。
次号では、くつな石やカナヅカ古墳について触れたいと思います。
【4】 (13.2.22.発行 Vol.155に掲載) 風人
第37回定例会の咲読も、最終回になりました。少しでも興味を持っていただき定例会に参加していただけるように、また予習になればと綴っている咲読ですが、皆さんのお役にたっているかどうか甚だ不安な今回です。しかし、気を取り直して先に進むことにします。
4回目は、飛鳥通を自認されている方でも馴染みが薄いと思われる「くつな石」と「カナヅカ古墳」について、ご案内したいと思います。
定例会では、パート2の目標地点となる「くつな石」ですが、明日香村阪田の集落の南東奥にあります。渓流が流れ出る山間を上って行きますと、高さ約180cm、幅50cmほどの岩が突き出ており、現在は鳥居が設けられ注連縄が巻かれています。
「くつな石」には、以下のような伝承があります。「その昔、ある山に巨大な石があったそうな。これに目をつけた石屋がこの石を切り出そうとして、鑿でコーンと一打すると、不思議に石の割れ目から赤い血が流れ出し、傷ついた白い蛇が現れた。それを見た石屋はびっくり仰天。「これは大変。」と驚き恐れ、鑿や道具も捨てて逃げ帰ったそうな。しかし、その夜から高熱にうなされ、とうとう亡くなってしもうたそうな。このことを聞いた村人達は、これは「くつな」の祟りと恐れ、それ以来、神の宿る石として祀っている。」
面白い話ですね。薄暗い森の中の巨岩には、畏怖を抱かせるような雰囲気が漂っているのを感じることがあります。磐座信仰や巨石伝承は、そのような気配を感じることから生まれるのかも知れません。「くつな石」を陰陽石だと考える方も居られるようですが、「くつな」は「くちなわ」の転訛したもので、つまり伝承にも登場するように「蛇」のことだとされています。「口の付いた縄」と想像すると気持ち悪くなりますが、そこからは水神信仰が連想されます。阪田集落では「くつな石」を「雨の神」として、お祀りしてきたのだそうです。以前は、7月21日に御供餅をついて神酒を供えていたようですが、現在は阪田集落の会所で執り行われているそうです。また、「くつな石」の下方には葛神社があるのですが、ここでは藁で蛇の形を作って、飛鳥川の淵につけて雨乞いの祈願をしたと伝えられています。大和盆地には、秋の豊作を祈願する農耕儀礼「野神さん」(藁で蛇体を作り、神木などに巻きつける。)が多くみられますが、葛神社のものも類似した民間信仰だと思われます。
奥飛鳥栢森に在る加夜奈留美命神社には、「九頭神」と書かれた石碑があることは定例会で訪ねる度に案内してきましたが、阪田の葛神社もまた「九頭龍神」を祀る水神信仰ではないかと考えられます。(葛=九頭)
飛鳥には、皇極天皇の雨乞いを初めとして数多くの雨乞いや水神信仰の痕跡が伺えます。これらもまた私たちが大事にしなくてはいけない遺産なのかも知れませんね。自然に頼る比重が今よりも遥かに大きい時代の人々の祈りを、少しでも実感することが出来ればと思います。
まだ、ウォーキングコースの半分も来ていません。大変です!(笑) 石舞台公園から飛鳥駅までの間には、たくさんの見所がありますが、とても紹介しきれません。しかし、皆さんもご存じのメジャーな遺跡や史跡ですので、咲読では割愛させていただきたいと思います。ただ一箇所、注目をあまり集めない古墳を紹介しようと思います。それは、カナヅカ古墳です。
鬼の俎・雪隠古墳と欽明天皇陵の間に在るのですが、そこでレンタサイクルを止めている方を、私はあまり見かけた記憶が有りません。
畑地の間に細い農道のような通路があり、柵で囲われた所に宮内庁と書かれた立ち入り禁止を示す看板が立てられているのですが、気づかない方も多いでしょうね。カナヅカ古墳(平田岩屋古墳)は、宮内庁の看板が示すように欽明天皇檜隈坂合陵陪冢に治定されています。
カナヅカ古墳の所在する地点は、西に欽明天皇陵・東に天武・持統天皇陵がある東西に延びる尾根上に在り、東隣には鬼の俎・雪隠1号・2号墳が存在していました。飛鳥時代の王統の始まりである欽明天皇から、飛鳥に都を置いた最後の天武・持統天皇まで、何か飛鳥時代の始まりと終わりを暗示している墳墓の並びのようにも見受けられるのですが、その尾根の一角を占めるカナヅカ古墳もまた、重要な人物が埋葬されているのではないかと考えられます。
そのカナヅカ古墳ですが、古くから一部が崩れていたのか石室に用いられた石材の一部が露出していたようです。その石材が石採りなどにより、さらに破壊されようとしたところを差し止めることが出来、明治25年に陪冢に治定され保護されました。この経緯の中で、石室の様子などが記録されることになったようです。
その記録(平成11年に発見)を元に、明日香村教委の西光慎治先生が墳丘や石室の復元案を示されています。それによると、カナヅカ古墳は、墳丘前面に東西60m、南北25mの大規模なテラスを持っており、その上に築かれた一辺約35mの二段築成の方墳であると考えられるようです。
石室は、南に開口しており、石英閃緑岩(飛鳥石)の切石を用いた両袖式の横穴式石室で、全長は約16mと考えられるようです。玄室は長さ約5.45m、幅約3.64m、高さ約2.7mで、羨道規模は、長さ約10m、幅約1.8m、高さ約1.8mを測ります。
詳細は省きますが、埋葬施設はいわゆる「岩屋山式」と呼ばれる石室の系統に属するものと考えられるようです。これらの復元案から、カナヅカ古墳の築造時期は7世紀中頃とされています。
カナヅカ古墳の存在は古くから知られており、江戸時代の幾つかの書籍には「金塚」などとして現位置に記された絵図も残っています。それらの史料には、吉備姫王の墓であると記されているようです。吉備姫王墓として現在宮内庁が治定している場所は、欽明天皇陵の南西に在り猿石が置かれていることでも知られる場所です。
吉備姫王は、桜井皇子(欽明天皇の皇子)の娘で、茅渟王の妃となり、皇極天皇(斉明天皇)・孝徳天皇の母親であり、天智天皇・天武天皇の祖母に当たる方です。延喜式には、その墓について以下の記事があります。
「檜隈墓 吉備姫王。在大和国高市郡檜隈陵域内。無守戸。」
つまり、欽明天皇陵の域内に在ると書かれています。『日本書紀』によれば、皇極2(643)年に亡くなっており「檀弓岡」に葬られたと書かれているのですが、付近には「真弓田」や「真弓○○」などの小字名が複数あるそうですので、築造時期、所在地、古墳の規模、埋葬施設の状況などから考えて、現状では吉備姫王を被葬者に考えても矛盾が無いように思えます。
今回の定例会は、盛りだくさんの見所があります。咲読の初回に書きましたように、小難しいことは別にしても、景色の良いところが前半には集中してあります。また、ミステリースポットとも言えるかも知れない所も有ります。参加の皆さんには、それぞれに楽しんでいただけるコースになっているのではないかと思っています。まだ若干名の受付が出来ますので、皆さんのお申込みをお待ちしております。
長い咲読を最後まで読んでいただきました皆さん、ありがとうございました。次号からは、第38回定例会に向けて新しい咲読をスタートしたいと思います。
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