両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第43回定例会
塔はなぜ高いのか
―五重塔の源流をさぐる―

Vol.181(14.2.7.発行)~Vol.184(14.3.21.発行)に掲載





【1】 (14.2.7.発行 Vol.181に掲載)     

 今号から始まる第43回定例会咲読の担当は、もも になります。よろしくお願いします。m(__)m

 第43回定例会は、京都府立大学の向井佑介先生をお招きして「塔はなぜ高いのか―五重塔の源流をさぐる―」と題した講演会を3月29日(土)に開催します。定例会の開催日が、前回に続いて第3土曜日を外れてしまいましたが、例年この時期の飛鳥は、桜が見ごろです。両槻会初の桜の季節の定例会。橘寺に飛鳥川、甘樫丘などをルートに組み込む事前散策を予定しています。事前散策には、講師の向井先生もご同行下さいますので、スタッフのみの事前散策とは、また違った視点のお話をお伺いできると思います。講演会は勿論のこと、是非、桜咲く飛鳥路からご一緒しましょう♪

 塔(仏塔)を見たことがないと言う方は、いないんじゃないでしょうか。これだけ様々な建物が立ち並んでいる現代でも、惹きつける力をもつ建築のひとつだと思います。なぜ惹きつけられるのか、色褪せないその魅力とは何なのでしょう。木造の高層建築だからと言う理由もあるでしょう。周囲に視界を遮る余計なものが少ないと言うのもあるかもしれません。もちろん、幾年もの風雪に耐えて建つその歴史的価値に魅力を見出す方も多いと思います。

 飛鳥遊訪マガジンをお読みの皆さんに「塔といえば?」とお尋ねしたら、大官大寺や吉備池廃寺の巨大な九重塔、もしくは今も見られる法隆寺の五重塔を含む斑鳩三塔や薬師寺の東塔を挙げられるかもしれません。薬師寺の東塔は、十年におよぶ解体修理の真っ最中で、昨年塔の水煙がおろされて特別公開がありましたので、見学された方も多いかもしれませんね。
 一方、歴史に興味のない方々にとっての塔は、東京タワーや通天閣、最近ではスカイツリーになるのかもしれません。塔は、タワーと訳されていたりします。でも、店舗や住居のある高層ビルに塔だという認識は持てないですよね。この辺りにも「塔」に対する日本人の感覚が関係してくるのかもしれませんね。

 「塔はなぜ高いのか」なんて、σ(^^)は考えたことがありませんでした。塔というものは高いもの、高いからこそ塔と言うんだと思っていました。この感覚は、向井先生のお書きくださった講演概要の「塔は高いものであることが人びとの間で常識」そのものですね。この常識の中にσ(^^)もしっかり入っているということになります。(^^ゞ

 以前、最上階まで登ることができるという言葉に釣られて四天王寺の塔に登ったことがあるんですが・・・行けども行けども終わりのない螺旋階段が怖かった記憶しか残っていません。景色が臨めたのかどうだったか、そこの記憶もトントありません。^^;
 
 「塔は高くて見上げるもの」であるから良いのもかもしれません。手が届かないものに憧れると言う感情に似ているのかも。ともかく、塔は、外から眺めるに限るというのが、この時σ(^^)の出した結論でした。(^^ゞ

 四天王寺のように、最上階まで登れるのは極々珍しい例で、内部の拝観もできない塔が殆どのようです。法隆寺では五重塔の初層が常時公開されているので、そういうこともあまり気にしたことがありませんでした。
 
 第43回定例会では、そんな塔の源流を探し、朝鮮半島、さらには中国へと遡ってみようというものです。皆さんよくご存じの「塔」をキーワードに、飛鳥から朝鮮半島、中国大陸へと思いを馳せ、歴史の繋がりを感じてみませんか?皆さんのご参加をおまちしています。





【2】 (14.2.21.発行 Vol.182に掲載)   

 日本での本格的な寺院造営は、崇峻天皇元年(588)の飛鳥寺に始まります。ということは、当然仏塔の歴史もこの飛鳥寺から始まるものだと、σ(^^)は思っていたんですが、『日本書紀』には、それより以前に、ひとつ塔の記録がありました。あらま・・(^^ゞ

 飛鳥寺の塔を遡ること3年、敏達天皇14年(585)に蘇我馬子が建てた大野丘の塔のことが書かれてあります。

 蘇我氏は、稲目や馬子が仏像を貰い受けたり、邸を寺としたり、司馬達等の娘らを出家させて初の尼僧を誕生させたりと、積極的に仏教を受容しようとしていました。司馬達等のように私的に仏教を信仰していた渡来人との接触も多かったでしょうから、飛鳥寺造営前に、蘇我氏側に仏教に関する様々な知識があったと考える方が自然だと思います。

 敏達天皇6年(577)には、崇峻元年の造寺に関する工人の渡来と同じような記事もあります。これは、大野丘の塔が建立される8年も前のことですが、この時の工人と蘇我氏が接触を持ったと考えるのも面白いと思いませんか。(この時の僧や工人らは、難波の大別王の寺に配置されたと記されていますので、大和へ入ることは叶わなかったのかもしれません。大別王の詳細は不明らしいので、留め置かれた人たちがその後どうなったのかもわからないようなんですが。)

 ただ、大野丘の塔は『日本書紀』などの記録にみえるだけで、考古学的な物証があるわけではないようです。一時期、橿原市和田町の和田廃寺の土壇がその跡地だといわれたこともあったようですが、周辺の調査から寺院遺構の時期は7世紀後半頃と推定され、ここを馬子が建てた大野丘の塔だとする根拠には乏しいとされています。また、大野丘の塔は、翌月に物部守屋によって「切り倒された(原文では“斫倒其塔”)」とあることから、三重や五重などの建築物ではなく、刹柱(さっちゅう)と呼ばれる柱だけだったとする説もあるようです。

 飛鳥寺は、崇峻天皇元年(588)、百済から寺院建築工・露盤博士・瓦博士・画工などが渡来し、造営が開始されます。同5年(592)の仏堂と歩廊の造営に続き、推古天皇元年(593)には塔が建立されました。一塔三金堂形式の飛鳥寺では、回廊内のほぼ中央に塔が置かれ、北には中金堂、その左右に東西金堂が置かれていました。

 飛鳥寺に続き、飛鳥の豊浦寺、斑鳩の斑鳩寺(若草伽藍)、難波の四天王寺と蘇我氏に関わる寺院が建立されていきます。一塔三金堂式、一塔一金堂式と金堂の数に違いはありますが、発掘調査でそれぞれ金堂と共に一基の塔を有していたことがほぼ分かっています。推古天皇2年(594)には仏教興隆の詔が出され、30年後の推古天皇32年(624)には、寺院の数は46か寺となっていたそうですから、各地で天に向かって聳える塔の姿が見られたのかもしれません。

 さて少し余談になりますが、私たちは、「寺」と言えば、普通に仏教施設を思い描きますが、中国では元々「寺」は「役所」を意味する言葉だったようです。中国に仏教が伝来したのは1世紀の後漢の時代だといわれています。この時、西域から中国を訪れた僧は、最初に外交関係の役所である鴻臚寺に入れられ、その後建立された白馬寺を与えられて布教活動をしたとされています。寺は、その後の仏教の盛行とともに、本来の「役所」よりも「僧の要る場所・仏教施設」として広く知られるようになっていったと考えられるようです。

 ちなみに、この外交関係の役所である鴻臚寺は、日本にもあった「鴻臚館」の名の由来にもなっているそうです。推古天皇16年(608)に小野妹子の帰国に伴って隋からやってきた裴世清の肩書は、「鴻臚寺の掌客」という賓客の接待係だったそうです。今の外交官になるんでしょうね。

 屋根には瓦が葺かれ、境内には高くそびえる塔があり、お堂の中には仏像が安置され、お坊さんが居る。当たり前だと思っていたこれらの寺の姿は、仏教の歴史の中では案外新しいものなのかもしれません。






【3】 (14.3.7.発行 Vol.183に掲載)    

  咲読3回目の今回は、講演をお聞きする時に役に立てばいいなぁ~というσ(^^)の願望を込めて、塔の起源と言われるストゥーパについて少し予習しておきたいと思います。

 仏塔の起源であるストゥーパは、釈迦の遺骨(仏舎利)を納めた塚に始まると言うことですから、この点は、日本の塔も受け継いでいることになります。一方で、外観は私たちが連想する塔とは、ちょっと違う形をしています。


 古代インドのストゥーパで、現存最古といわれるサーンチーのストゥーパを参考に、その外観を見ていきたいと思います。

 ストゥーパは、半球形をした塚の天辺に柵で囲われた部分があり、その中心には傘状のものが置かれています。半球体の部分は「覆鉢」、天辺の方形の囲いは「平頭(ひょうず・へいとう)」、傘状のものは「傘蓋(さんがい)」と呼ばれています。覆鉢の周囲には「欄楯 (らんじゅん) 」という垣で区切られた礼拝用の通路である「繞道 (にょうどう) 」が設けられ、繞道への入り口にはトラナと呼ばれる「記念門・塔門」があります。

 外部との仕切りである垣があって門があるところなどは、奈良時代以降に日本にも見られた塔院と似ている気がします。が、サーンチーのストゥーパが造営されたのは、紀元前3世紀。日本は、まだ弥生時代です。^^;;(イラストは、サーンチー第1塔を参考にしましたので、上の繞道へ続く階段がありますが、繞道が下にだけしかないもの、門が残っていないものなどあるようです。)

 また外観だけでなく、木造建築であった日本の塔とは異なり、サーンチーのストゥーパは焼成レンガや土、石などで造られています。

 塔はストゥーパを起源とすると言われているのですから、どこかに面影が残っているはずです。塔やストゥーパについて調べたことがある方はご存知だと思いますが、日本の塔の相輪部分にストゥーパの影響をみることができるとされています。細長い相輪と半球体のストゥーパのどこが似ているのか?と思われるかもしれませんが、相輪にはストゥーパと同じ「伏鉢(覆鉢)」「平頭」と呼ばれる部分があります。名前が一致するのは、この二か所だけですが、相輪の大部分を占めている九輪は、ストゥーパの傘蓋が変化したものだともされるようです。傘蓋は、貴人に翳される傘のことで、高松塚古墳の壁画などにも見られます。


相輪各部名称

 ストゥーパの傘蓋は、尊いものに翳されるものという考えから、信者などの寄進によって幾重にも重ねられることもあったようです。日本のものがなぜ九つなのかは謎ですが、9と言う数字になにか仏教的な意味があるのかもしれませんね。余談ですが、奈良県葛城市の當麻寺の東西塔の相輪には、8つしか輪がないんだそうです。でも、これもその理由はわかっていないそうです。
 塔の相輪は、建物全体のバランスを取るために覆鉢を基準に上に伸びたと考えられるかもしれません。

 紀元前5世紀頃にインドに発祥した仏教は、ガンダーラなどの西域を経て、1世紀頃の後漢代に中国へと伝わり、朝鮮半島の高句麗・百済には4世紀、新羅は日本と同じく6世紀頃に受容したとされています。

 
仏教の伝播

 このように、仏教が古代インドから日本に伝わってくるまでには、長い年月を経ています。今回例にあげたサーンチーの仏教遺跡からは数えて約800年、中国に仏教が伝来してからでも約600年近くあります。ストゥーパから塔への変容は、その外観だけではないはずです。この辺りのお話は、第43回定例会で向井先生がたっぷり聞かせて下さると思います。今はもう飛鳥の地で見ることが叶わなくなった古代の塔へ思いを馳せるために、是非、桜咲く飛鳥路からご一緒しませんか。^^









【4】 (14.3.21.発行 Vol.184に掲載)    

 日本の仏塔で現存する最古のものは、法起寺の三重塔になるんだそうです。法起寺は、鎌倉時代の記録『聖徳太子伝私記』の中に『法起寺三重塔露盤銘』が残されています。それによると、塔は天武天皇13年(684)に造営が始められ、慶雲3年(706)に完成したと記されているようです。法隆寺の五重塔は、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に、五重塔初層に安置されている塑造群の製作が和銅4年(711)とあることから、法起寺に続いて古いと考えられるようです。ちなみに、現在解体修理中の平城・薬師寺の東塔は、『扶桑略記』に天平2年(730)に、「始薬師寺東塔立」との記録が残っています。

 飛鳥の地に、古代の塔は現存していませんので、これら現存する塔からその様子を想像するよりほかありません。多少の意匠の違いはあるかもしれませんが、同じ木造建築ですから、さして変わらない外観をしていたと考えてもいいんではないでしょうか。

 では、堂内の様子はどうだったのでしょう。
 現存最古の法起寺の塔は、堂内に創建時の面影を残していないようですが、法隆寺の五重塔の初層の四面には、見事な塑像群が残されているのを皆さんもご覧になったことがあると思います。東面は「文殊菩薩と維摩居士の問答」、北面は「釈迦の入滅」、西面は「分舎利」、南面は「弥勒の説法」の場面を表わし、「塑像塔本四面具」と呼ばれ国宝に指定されています。また、塔内の壁面にも金堂と同様に壁画があったんだそうです。
 法隆寺の塔内と同じような壁画や塑像は、飛鳥の塔にもあったのでしょうか。

 寺跡の発掘調査では、塑像の破片や塼仏や塼、壁画など、堂内に安置されていた仏像や装飾に用いられたと考えられるものが出土することがあります。これらが、寺院のどの建物に使用されていたのかは、なかなか断定は難しいようですが、山田寺や橘寺では、塔内で塼仏が使用されたと推定されています。川原寺の場合、出土した塼仏などは、堂宇の焼亡後に集め埋められた状態で川原寺裏山遺跡から出土していますので、使用された堂宇の特定は更に難しいようです。しかし、同様の文様を持つ橘寺の塼仏が塔での使用を推定されていますので、川原寺も同様だと考えてもいいかもしれません。また、斑鳩の若草伽藍から出土した沢山の壁画片は、高熱を受けたことが判明し、落雷により炎上したと推定される塔内で使用されたとする説があります。

 さらに、鎌倉時代の『上宮太子拾遺記』には、「豊浦寺の四方四仏を橘寺に移入」したという記録があります。四方四仏は、四方向(東西南北)の方角に縁のある仏のことで、塔内に安置もしくは壁画として描かれたりしたようです。豊浦寺から橘寺に移された「四方四仏」が、どのようなものであったのかはわかりません。ですが、移動可能であったことを考えると、壁材に直接描かれた壁画ではなく、塑像などの立体造形であった可能性が高いように思えます。

 「堂中以奇偉荘厳。言語云黙、心眼不及」
 平安時代に藤原道長が山田寺を訪れた時に残した言葉として『扶桑略記』に記されている言葉です。言葉には表せないほど堂内が荘厳されていたと言うような意味に解されています。そして、堂とは金堂のことだというのが暗黙の了解のようになっています。塔を堂と表わすことはないのかもしれませんが、創建間もない頃、塔も金堂と同じく「奇偉」に「荘厳」されていたのではないでしょうか。そしてそれは、古代日本で寺院造営が開始された当初から。豊浦寺の四方四仏や若草伽藍の壁画片は、それら荘厳の証だと言えるように思います。

 百聞は一見にしかず。・・・とは言え、私たちは飛鳥時代の飛鳥を訪れることは叶いません。ならばせめて、今この目に出来るものに想像力をプラスして、心中に映像を結ぶことは可能だと思います。お話を聞くこと、お話の中の聞き覚えのある単語を拾っていくことで、新たな興味がさらに広がっていくと思います。

 塔はなぜ高いのか・・・。素朴なこの疑問に貴方なりの答えを見つけてみませんか。本定例会では、そのお手伝いがきっと出来ると思います。皆さんのご参加お待ちしております。(^^)







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