飛鳥咲読
第44回定例会
薫風そよぐ宮都・飛鳥
Vol.185(14.4.4.発行)~Vol.188(14.5.16.発行)に掲載
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【1】 (14.4.4.発行 Vol.185に掲載) 風人
今号から、第44回定例会(5月17日実施)の咲読を始めます。今回は4回の予定で、イベントの紹介や訪れるポイントの案内を綴っていきたいと思っています。よろしくお願いします。
今回の咲読は風人が担当しますが、私だけではなく、お二人のゲストに登場していただく予定です。
さて、まず第44回定例会の説明からさせていただきます。この定例会は、帝塚山大学考古学研究所との共催になります。
8年目を迎えました両槻会では、過去に飛鳥資料館との共催講演会を開催したことがありますが、単発のイベントとして実施したものでした。専属の事務局員も居ないサークルが、大きな組織と肩を並べて共催させていただくのは決して容易なことではありません。しかし、今回、帝塚山大学考古学研究所の温かいご理解とご支援により、共催イベントの開催に漕ぎつけることが出来ました。第44回定例会は、継続的な共催イベントの開催を視野に入れた試みの第一歩となります。
イベントの概要をお知らせします。
イベントは、「薫風そよぐ宮都・飛鳥」と題したトーク&ウォーク方式で実施することになりました。トークでは、飛鳥資料館の講堂での帝塚山大学考古学研究所 清水昭博所長のミニ講座と、春期特別展「いにしえの匠たち―ものづくりからみた飛鳥時代―」のギャラリートークを飛鳥資料館学芸員 丹羽崇史先生が務めてくださいます。これだけでも価値のあるイベントなのですが、新緑の候ですので約8kmのウォーキングを実施いたします。その各ポイントでは、帝塚山大学の大学院生や学生、また両槻会事務局のスタッフによる説明をさせていただきます。
まだ、飛鳥について勉強を始めたばかりの学生さんが担当するポイントもありますが、飛鳥常連の皆さんにも返って新鮮な切り口の解説を聞いていただけるのではないかと思っています。ご参加の皆さんには、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんのような優しい気持になって(笑)、ハラハラドキドキしながら聞いていただくのも一興かと思います。彼らには、この咲読や資料作りから参加してもらうことになっています。どうぞ、エールを送ってやってください。ついでに、両槻会スタッフにもエールをお願いします。(笑)
ウォーキングコースを、ご紹介します。(マップ参照 http://goo.gl/maps/y12ke)
橿原神宮前駅東口ロータリーを起点に、飛鳥資料館を経由して川原寺跡
までの約8kmのコースを予定しています。
スタート地点からは、山田道を東進して剣池・和田池畔を通り、甘樫丘豊浦展望所を目指します。展望所からは、歩いてきた道やこれから歩く各ポイントを見ていただき、また奈良盆地における飛鳥の位置関係などを把握していただければと思います。丘から下った後は、水落遺跡に向かいます。第42回、第43回に続けての訪問になりますが、もちろん新しい切り口での説明が行われることでしょう。と、担当者にプレッシャーを掛けておきます。(笑)
次は、入鹿首塚です。ここは私の担当なのですが、時間の許す範囲で、皆さんのあまりご存じでない話をさせていただこうかと思っています。飛鳥寺跡では、大仏様の拝観を自由見学として、休憩も兼ねたいと思います。ここでは、フレッシュな説明を聞いてただきます。現役大学生が、たぶん必死で大役を務めてくれることでしょう。ご期待ください!
飛鳥寺からは東垣内遺跡・宮ノ下遺跡を通り、飛鳥城址から飛鳥資料館に向かいます。この間のポイントは風人が担当します。今まで、紹介してこなかったポイントを取り上げてみたいと思っています。
飛鳥資料館では充分な時間を取りたいと思っています。先に紹介しましたミニ講座やギャラリートークなど盛りだくさんの予定を過ごすことにします。
午後からは山田道を西に戻り、石神遺跡の北側から南に向かいます。飛鳥寺西方遺跡の西を通り、弥勒石から飛鳥京跡苑池に進みます。苑池では10分の時間をとりまして、説明を聞いていただきます。担当は、若い共催スタッフが行います。
飛鳥宮跡では、正殿跡付近と井戸遺構で説明を予定しています。両槻会イベントで初登場の若いスタッフが担当しますが、どのような切り口で語ってくれるのか私も楽しみにしています。
エビノコ郭から橘寺(拝観)へと歩き(両槻会のスタッフが担当)、最終地点である川原寺跡へと向かいます。トリは、今回のスタッフの中で最年少の学生さんが担当してくれます。彼の緊張が今から感じられるのですが、きっと本人は寝られない日々を送ることでしょう。(笑) 是非、温かく見守ってやってください。m(__)m
このように、第44回定例会は若い方々の力を借りて実施します。世代を超えた飛鳥好きの皆さんが、薫風に吹かれながら楽しく歩けるようなイベントにしたいと思っています。どうぞ、読者の皆さんも、その仲間に加わってください。お申し込みをお待ちしています。
次回は、参加してくれる若い力の一人が咲読を担当してくれます。ご期待ください。
【2】 (14.4.18.発行 Vol.186に掲載) ガッキーさん
初めて咲読を書かせていただくガッキーです。第44回定例会の2回目の咲読を担当させていただきます。ガッキーを知っている人も知らない人もよろしくお願いします。今回の咲読では、水落遺跡と飛鳥京苑池について見ていきたいと思います。
さて、まずは水落遺跡から見ていきたいと思います。水落遺跡の調査は、1972年に行われました。その調査では、定例会でもご講演されたことのある、帝塚山大学考古学研究所前所長 故森郁夫先生が最初に調査のメスを入れられました。1972年に大型基壇建物が発見され、1976年には国指定史跡として登録されました。その後、1981年から史跡整備にともなう発掘調査により、第1次調査で出土した建物が掘込事業をともなう正方形の基壇の中央に堅固な地下構造をもつ総柱建物ということが判明しました。また、基壇内部に漆塗木箱や木樋暗渠、銅管があったことが確認されました。今回の咲読では銅管について、個人的に気になったことをご紹介したいと思います。
銅管は水落遺跡の北側にある石神遺跡へ向かっても延びており、石神遺跡で出土した石人像や須弥山石といった噴水施設への給水管の役割も兼ねていたとする説もあります。最近では第5次調査で確認された小銅管内(基壇北側の銅管)の堆積物分析が行われました。その結果、最初は密閉環境にある中で地下水から水を引いていたが、後々にその密閉環境が破られる事態が発生したことが推察されています。『日本書紀』によると天智天皇が即位後の671年に大津宮に漏刻をつくったという記述があります。また、天武期の頃には水落遺跡周辺が異なる性格の建物群に造りかえられていると考えられています。そういったことから銅管内の堆積物は660年の漏刻の造営から671年の大津宮に移されるまでの10年ちょっとの間におきた出来事を反映している可能性があるとされています。あまり知られていないかもしれませんが、少し違った角度からも水落遺跡は検討されているようです。
水落遺跡と言えば、先ほどの銅管にも代表されるように時計台を思い浮かべる方が多いかと思います。しかし、その前後の土地利用について、これまであまり多く語られることは少なかったかと思います。水落遺跡に漏刻のあった少し前の時代、皇極・孝徳朝や漏刻のない天智・天武朝には、格式高い建物である四面庇建物が確認されています。これらの建物は、一体何なのか。現地では、「実は水落遺跡が飛鳥京苑池遺構だと思って発掘調査が行われていた」といった森先生から冗談話のように窺った話も踏まえてご説明したいと思います。
飛鳥京苑池遺構は、史蹟整備化に向けた第8次調査が終了し、昨年度の11月24日には現地説明会が行われたばかりです。実際に見に行かれたことがある皆さんの記憶には新しいのではないでしょうか。
斉明天皇(7世紀中頃)の頃に造られ、天武天皇(7世紀後半)の頃には完成したと考えられる苑池。饗宴施設といわれますが、もっと噛み砕いて言うと古代の庭園といわれています。『日本書紀』の天武紀には「白錦後苑」(しらにしきのみその)といわれ、飛鳥地域における本格的な苑池(庭園)と考えられています。「白錦後苑」(しらにしきのみその)といわれるのも飛鳥京苑池の場所も関係しています。といいますのも、飛鳥京苑池は、飛鳥京跡内郭の北西すぐ50mのところに位置します。飛鳥宮の内郭は南を正面にしていたと考えられることから、北は「後ろ」になり、この後ろにある苑池が「白錦後苑」(しらにしきのみその)といわれています。
飛鳥京苑池遺構には、南池と北池がありますが、今回は池の周辺に注目してみたいと思います。
まずは、南池の周辺から見ていきたいと思います。遠地南東の高台からは鑑賞施設と考えられる、苑池を望むような場所に掘立柱建物が検出されています。なぜ、そう考えられるかといいますと、飛鳥の建物は基本的には正方位、つまり南北を揃えて建物を建てています。しかし、苑池南東の建物は正方位をとらずに、建物の方位が苑池の方向を向いています。そのため、高台から苑池を望むような施設と考えられています。また、南池の出土遺物も、その多くが坏や皿などの供膳具が多いことからも南池の機能としては鑑賞などの機能であったことが考えられています。
次に北池についてみていきます。北池北東には、石敷遺構が確認されています。石敷きのところには建物などの施設がなく、広場的な空閑地が広がっていました。北池ではこれまで貯水池の可能性が考えられていましたが、発掘調査の成果から貯水池の機能を有しながらも宴遊用としても周囲が整備されていた可能性が考えられています。
苑池には、果物だけでなく、海で捕れる魚の骨がまとまってみることができます。ブリやスズキなどの魚があり、これらの骨には、解体・調理痕、被熱痕が認められることから、調理後に食べたあと周辺に捨てられたようです。捨てられたといっても、より多くみることができるのは北池につながる水路からです。そのため、苑池としての空間はキレイに保つようにしていたようです。
これまで、文面のみで苑池をザッと見ていきましたが、現地では、実際に苑池を見学しながら、ご説明をしたいと思います。
では、私の咲読は、ここで終わりです。読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。今回の定例会では、水落遺跡、飛鳥京苑池の説明を担当します。是非、定例会に足を運んでくいだだき、皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。
【3】 (14.5.2.発行 Vol.187に掲載) 帝塚山大学考古学研究所 清水昭博所長 「午後4時47分の幸運」
奈良交通バスの停留場「飛鳥」で時計をみると、時間は午後4時47分。バスは2分前に出てしまったところであった。土産を買おうと明日香村の直売店に立ち寄り、ついでに埋蔵文化財展示室に入ったのがまずかった。歩きすぎて足は棒のようになっていた。心底、バスに乗りたかった。でも、その後、幸運はおとずれた。
この原稿を書いている今日は4月27日の日曜日(この原稿の締切日でもある)。昨日は主催する帝塚山大学考古学研究所の市民大学講座で「瓦の来た道-中国、韓国、そして日本へ」のテーマで講演をおこなった。講演の内容は展示品を通じて東アジアの瓦の歴史を概観するものであったが、最後に最新の寄贈品の話を加えた。
一週間前にご寄贈いただいたその資料は、江戸時代の瓦当笵であった。なぜかこの笵に強い興味を覚えた。笵に刻まれた瓦当文様は桔梗文で、その外側には勾玉のような形の環が5個ならんでいた。裏面には笵の作者による銘文が刻まれていた。銘文は四行「常門新兵衛 作之 天保九年戌三月吉(日か) 奥瓦嘉」。
瓦当笵 帝塚山大学付属博物館収蔵品 転用転載禁止 |
裏面の銘文 帝塚山大学付属博物館収蔵品 転用転載禁止 |
昨日の講座ではその内容を、今からおよそ180年前、常門(じょうど)村(現在の橿原市一町)に住み、明日香村奥山付近にあった瓦屋・奥瓦嘉で働く瓦職人の新兵衛さんが天保9年(1838)3月某日に作った瓦の笵であると説明した。新兵衛さんがいた瓦屋を明日香村奥山とみたのは、新兵衛さんの作品がほかにも明日香村内にあったからである。
その所在は偶然にみつかった。インターネットで検索をかけていると、鬼瓦の写真が出てきた。そして、そこにはなんと瓦笵と同じ字体で書かれた、ほぼ同じ内容の銘文があるではないか。鬼瓦は新兵衛さんが作ったものに違いないと確信した。しかし、残念ながら、そのサイトには鬼瓦とそのお宅の写真があるのみで、詳しい地名は書かれていなかった。
そこでふと思いついた。あのお方に聞いてみようと。あのお方とは、風のごとく飛鳥を歩く某人である。メールでお尋ねしたが、すぐにみつかったとのお返事。さすがである!
翌日、大学院生K君をその場所に派遣。鬼瓦はあった。しかし、そのお宅に瓦笵に刻まれた桔梗文の軒丸瓦はなかった。
桔梗文の軒丸瓦はどこにあるのか。講演を終えたあとも、その問いが脳裏から離れなかった。そして、結局、今日、自分自身でその宅を訪ねることにした。今日は幸運にも御主人にお会いすることができ、お茶をご馳走になり、瓦についても色々と話をお聞きすることができた。しかし、残念ながら桔梗文の瓦はなかった。
お宅からの帰り道も瓦屋根を凝視して歩いたが、それらしきものは見当たらなかった。飛鳥寺にも立ち寄った。古そうな鬼瓦はたくさんあり、一部は銘文も読めたが、新兵衛さんの作品ではなかった。また、新兵衛さんは飛鳥寺が日本で最初に瓦が葺かれた場所であることを知っていたのだろうかなどと考えつつ甍を眺めたが、桔梗文の瓦はなかった。この時、時計は午後4時半をまわっていた。家に帰らねば・・・。飛鳥寺で調査を終えることにした。
飛鳥寺までの歩行で身体はかなり疲れていたので、橿原神宮前駅までバスで帰るために飛鳥のバス停に向かった。途中、土産を買うために明日香村の直売所に立ち寄り、閉館前の展示室に入った。冒頭に述べたように、その間にバスは行ってしまったらしい。やれやれである。
バスをあきらめ、仕方なしに飛鳥川を渡り、橿原神宮前駅へと向かった。歩くことすぐ、幸運はおとずれた。ふと見上げたお宅の鬼瓦が目にとまった。そこにはなんと、瓦笵とよく似た桔梗文が表されているではないか。型そのものは違うが、文様はよく似ている。
少し迷ったが、家のチャイムを押し、住人にその家紋についてお聞きした。村内には同じ一族のお宅が何軒かあるとのこと。今日は調査できなかったが、また、新しい糸口がみつかった。午後4時47分。バスにはふられたが、駅に向かう足取りはとても軽かった。
飛鳥の歴史を語る重要な遺跡は土の下に埋もれている。飛鳥を歩きながら、古き歴史を想像するのは楽しい。しかし、今日はいつもより少し目線を上にして飛鳥を歩いた。すると、そこにはいつもとは少しちがう飛鳥の姿があった。そう、そこには少し昔の歴史が隠されていたのである。飛鳥を歩く楽しみがまた増えたように感じた。
5月の定例会は飛鳥の有名どころの遺跡を歩きます。飛鳥好きのみなさんには見慣れた遺跡、歩きなれた道かもしれませんが、少し目線を変えて歩かれてはいかがでしょうか。新しい飛鳥がみつかるかもしれませんよ。
【4】 (14.5.16.発行 Vol.188に掲載) 風人
第44回定例会が、明日に迫りました。事務局では、準備万端整って開始時間を待つばかりです。今回は、初めての試みとして、帝塚山大学考古学研究所と共催で実施させていただきます。いつもの定例会とは、雰囲気の違うことも有ると思うのですが、事務局ではスムーズにイベントが進行できるように考古学研究所と打合せを重ねてきました。
両槻会事務局としましては、まず若い方々に飛鳥に興味を持っていただくことに主眼を置きました。ですから、学部生2人と院生の2人に協力をいただき、下見や資料作成から共催スタッフとして参加をしてもらっています。
彼らはとても頑張ってくれて、事務局の厳しいチェックを乗り越えた資料も出来上がっています。下見から凹まされた学部生さんには辛い勉強だったと思うのですが、この機会を彼らが飛鳥への関わりの第一歩にしてくれたらと願っています。
今回巡るコースは、参加の皆さんにはよく御存じのポイントが多いと思います。しかし、今までの風人流ではない新鮮な説明を聞いていただき、視点の違いによる楽しさを分かっていただければと思います。
飛鳥は、一度行ったことがある! また、石舞台を見たことあるよ! だけで終わる場所ではありません。知れば知るほど、通えば通うほど面白くなってくる場所です。飛鳥には、幾らでも面白いことがあります。一例は、前号の清水昭博先生の記事です。ご存じの通り、先生は専門家の中でも特に詳しく知っておられ、実際に飛鳥の地で発掘調査に携わっておられました。その先生が、新しい瓦に魅了されて、何十度目かの飛鳥巡りにときめいておられます。事務局にも、吉野川分水路や地形に興味を持ち、ウォーキングを続けている人がいますよね。(笑) 今回の定例会でも、このような新しい魅力を掘り起こしていただけるのではないかと思っています。学生さんたちの若々しい説明を、是非楽しみにご参加ください。そこからは、また新たな着想や視点が見えて来るに違いありません。
さて、この定例会、風人は何をするのでしょうか。(笑) 説明担当箇所は、甘樫丘だけという楽チンな定例会を迎えます。(^^ゞ 資料作成担当は、飛鳥寺西方遺跡、東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡、入鹿首塚、弥勒石・木の葉井堰の4箇所、6ポイントになります。普段に比べると、半分にも満たない量になりました。後は、開始時と解散時のご挨拶とか、ウォーキングの注意事項をお話する程度になりました。そうそう! タイムキーパーも有りました。
飛鳥寺西方遺跡は、昨年からずっと引き続きσ(^^)が説明をしていたのですが、今回はスペシャルゲストが解説をしてくださいます。泉南市の岡一彦先生です♪ 岡先生の説明は、とても聞きやすく、楽しいお話されることで定評が有ります。σ(^^)もどのような説明になるのか、とても楽しみにしています。
弥勒石・木の葉井堰は、前回でネタを話してしまったのですが、資料では、コンパクトにまとめた感じにしました。
入鹿首塚について書いたのは、久しぶりです。「入鹿の首塚考」を書いてから、ほとんど説明をすることもなかったのですが、今回は、入鹿の首の飛翔伝説についても簡単ですが書いてみました。
参照 「入鹿の首塚考」
皆さんは、ご存じでしょうか? 入鹿の首は斬られてから飛び回ったとされるのです。飛鳥寺西の首塚までは、600m。(距離は全て直線距離です)多武峰の西麓「もうこの森」までは、2.7km。ここまでは、飛鳥ファンならご存知の方も多いと思います。さて、後2ヶ所あるのですが、分かるでしょうか。
3つ目の落下地点は、入鹿の生誕の地とも言われる橿原市小綱町です。ここまでは、約5.5kmになります。もう一つが、最長不倒になるのです が、三重県との県境になる高見山山頂、あるいは三重県松阪市側の麓にある舟戸という集落に飛翔伝説が伝わっています。25kmを超える距離が有るのですが、ここには飛鳥にあるものより大きな入鹿首塚と称される五輪塔も存在します。
参照「もう一つの入鹿の首塚考」
入鹿の首は、どうして、いつ頃から飛ぶという話になったのでしょうか。伝承の初めは江戸時代頃と思うのですが、調べてみると面白いのではないでしょうか。
東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡は、狂心渠だと考えられる運河の跡です。斉明天皇が造らせたとされる大運河で、集められた工人は3万人に及んだと『日本書紀』に記されるものです。資料では両遺跡を結び、さらに北方に繋がる大運河をイメージして貰えるようにしました。
さて、明日は、参加の皆さんと楽しんできます。新緑が山に笑いを誘い、薫風が林をそよがせます。高く舞い上げる雲雀を見上げながら、ゆっくりと飛鳥を歩きましょう。次回は、皆さんも是非ご参加ください。
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