両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第45回定例会
さらば飛鳥
―平城京の宅地から見た氏族社会解体へのみちのり―

Vol.189(14.5.30.発行)~Vol.192(14.7.11.発行)に掲載





【1】 (14.5.30.発行 Vol.189に掲載)     風人

 今号から、第45回定例会の咲読を始めます。担当は、前回に引き続きまして風人が務めますが、ももが一回登場することになっています。よろしくお願いします。

 第45回定例会は、近江俊秀先生をお招きし「さらば飛鳥―平城京の宅地から見た氏族社会解体へのみちのり―」と題した講演会を開催します。

 近江先生には、2009年の1月に第12回定例会「飛鳥のみち 飛鳥へのみち-すべての道は飛鳥に通ず-」で講演を頂いておりますので、今回が5年半ぶり2回目のご登壇となります。

 近江先生のご講演を聴講された方は多いと思いますが、両槻会でのご講演は、また一味違ったお話しぶりになると思います。通常の講演会は、時間の制限が有りますので、濃密な講演内容に聴講者の頭の中は炎上しそうになるのですが、両槻会の講演は時間制限が有りません。まさに、両槻会式講演会にはピッタリな先生なのであります。(笑) 近江先生のお話は面白いことで知られていますので、未体験の方は是非この機会にお越しいただければと思います。明かすことは出来ませんが、とても面白いネタをお聞きしております。乞うご期待!(^^)

 今回は、開催時期が猛暑の頃となりますので、事前散策は有りません。その分も講演に集中して、先生には思いの丈を話し尽くしていただくようにお願いをしております。

 さて、今回のタイトルをご覧になって、「両槻会もいよいよ飛鳥に別れを告げるのか」と思われた方も少なからず居られるんじゃないでしょうか。「8年も続けたらネタも尽きるよなぁ~」とか、思われませんでした?(笑)大丈夫です!そんなことはありません!まずは、「ご安心ください」と申し上げておきましょう。(^^)

 先生からいただいた講演概要を、本号の「お知らせのコーナー」に掲載しております。どうぞ、咲読を一度中断して、お読みください。

 飛鳥時代は、変革の時代だと言われます。その変革は、明治維新と対比されて語られたりします。強大な豪族達が力を持つ古い政治体制から、律令制度を柱にした古代中央集権国家に大転換しようとしたのですから、その間には多くの葛藤や衝突が起こり、数多くのドラマが作られました。その数々が、今日、私達の興味を飛鳥に強く惹きつける要因になっているのでしょう。

 飛鳥時代を通して進められたのは、中央集権体制の確立です。東アジアの国際情勢は古い制度を脱して、強固な政治体制を築く必要を生じさせました。先生が概要で書かれた三つの変革期を経て、文武朝に律令制度が完成へと向かいます。

 『続日本紀』大宝元年(701)の条には、元日朝賀儀の様子が記されています。

 「春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢を立て、左には日像・青竜・朱雀を飾った幡、右側に月像・玄武・白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。」 

 この記事は、さながら律令制度に基づく新しい時代の幕開けを宣言したように思われます。

 そして大宝律令が制定され、咲読の後半でご紹介することになると思うのですが、その律令の事実上の制定者である藤原不比等が、巨大な権力を確立する第一歩が記されました。

 しかし、その大宝元年の政権を見ると、依然として古来の氏族が名を連ね、飛鳥時代以前から力を持ち続けた者たちが、その座を占めていることが分かります。また、彼らの血縁者は、スタート時点から特典を与えられ(蔭位<おんい>制など)、その権力を継続させることが可能になっていました。また、各宮門の警護は伝統的な氏族が当たっており、新しい制度の中に古い社会の在り方が混在していたことが分かります。

 平城遷都には様々な理由があったのかも知れませんが、新天地で過去から切り離された新しい政治体制を作り上げると言う理由が大きかったのかも知れません。

 「さらば飛鳥」というタイトルは、ただ単に古き都を離れるというだけでなく、伝統的な社会との決別という意味を持っているのです。

 平城京では、偉いさんは宮に近い場所に大きな面積の土地を有していたと考えられますが、講演では、具体的な例を挙げながら氏族社会の解体を見て行くことになります。長屋王邸や藤原氏、大伴氏などの邸宅を確認し、その繁栄と衰退を通してお話が進展して行くことになるだろうと思います。

 咲読では、大伴氏、藤原氏の歴史を取り上げて、近江先生のお話の理解を深めることに繋がればと思っています。次号では、ももが大伴氏を紹介する予定です。





【2】 (14.6.13.発行 Vol.190に掲載)   もも

 第45回定例会の咲読2回目は、ももが担当させていただきます。今回σ(^^)に与えられたテーマは「大伴氏」。一癖も二癖もありそうな氏族ですが、なんとか頑張ろうと思います。よろしくお願いします。m(__)m

 大伴氏は、天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖とし武をもって天皇(大王)に仕えた氏族であったとされ、宮城の門を警護する任務(門部)を持ち、名負氏(なおいのうじ)として氏族の名が冠された門(大伴門)は、宮の真南の門(朱雀門)だったとも言われています。

 大伴氏と言えば、古代史好きの方は、継体天皇擁立に動いた金村や、孝徳朝で右大臣となった長徳、壬申の乱での馬来田・吹負兄弟の活躍などが思い浮かぶのではないでしょうか。

 そんな大伴氏、竹取物語の「大伴の大納言」のモデルになったとされる御行が、8世紀初め大宝元年(701)に死去し、右大臣を追贈されます。御行は馬来田・吹負の甥にあたり、その死後は、弟の安麻呂(旅人の父)が氏族の筆頭となったようです。安麻呂は不破宮の大海人皇子に使者として派遣された記事が『日本書紀』にありますので、叔父の馬来田・吹負や兄の御行とともに壬申の乱に参加していたようです。

 安麻呂の次に登場するのは、万葉集好きの方にはお馴染みの旅人になります。歌人のイメージが濃い旅人ですが、彼もまた太宰帥を拝命するなど「武の大伴」を背負って生きた人ではあったようです。山上憶良などと歌をかわし筑紫歌壇を形成したとされるのも、太宰帥として九州への赴任があったからこそ。

大伴氏系図

 さて、大伴一族のお話ということですので、ここで家持が大伴一族に向けて詠んだメッセージソング「族(やから・うがら)を喩(さと)す歌(20-4465)」をご紹介することにします。

 族を喩す歌

 「久方の」で始まるこの長歌は、「天孫降臨から始まり、代々の天皇に付き従い忠誠を尽くしてきた清い名をおろそかにして、その名を絶ってはいけない。大伴の名を負う者よ」と言うような感じの歌になり、まさしく一族を諭す内容となっています。浅はかな考えで祖先からの名を絶つなと声高に言わなければならないような事態が大伴氏に起きたようです。

 この歌が詠まれたのは、天平勝宝8年(756)。この年、一族の最年長者であった大伴古慈斐が讒言により左遷され、翌年には橘奈良麻呂の乱に連座し流罪となっています。橘奈良麻呂の乱では、遣唐副使として入唐し、鑑真を伴って帰朝した大伴古麻呂が、橘奈良麻呂らとともに乱の首謀者として拷問を受け獄死しています。

 旅人の死から25年余り。家持も壮年に達していたと考えられますが、最年長者を含む一族の乱への連座は、大伴氏にとって大きな痛手となったと考えられます。

 さて、大伴といえば、万葉歌人として有名な坂上郎女の存在を忘れてはいけませんよね。この「坂上郎女」と言う名は、坂上の里に住んでいたことによる通称で(4-528左注)、彼女の詠んだ歌の左注や題詞には、他にも「佐保」「田村」「竹田」「跡見」などの地名が度々登場します。そして、これらの地名からは、大伴氏の邸宅や所領の場所が推定できるようです。一体、幾つあるんでしょうね?大伴さんのおうち。(^^)

 万葉集の題詞と左注にみえる大伴氏の居宅と所領

 坂上郎女は、異母兄の旅人亡き後、大伴の刀自(家政全般を担う女性の戸主)として一族を支えたことが残された歌から読み取ることが出来るようです。

 最後に、飛鳥好きの誰もが知っている歌をひとつ。

  大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(19-4260)

 この歌は、天平勝宝4年(752)に家持によって記録されたそうです。先にあげた「族を喩す歌」もこの歌も、大伴氏は武門の一族であるというのを前面に押し出したような歌ですよね。σ(^^)には、家持が大伯父である御行の功績(大伴氏の功績)を歌の中にも残しておきたかったように思えてなりません。

 次号では、風人が藤原氏を紹介する予定になっています。お楽しみに。(^^)







【3】 (14.6.27.発行 Vol.191に掲載)   風人

 早いもので、第45回定例会まで1ヶ月を切りました。それにつれて、咲読も3回目になりました。前回は、大伴氏を もも が紹介しましたので、今回は、その対極になる藤原氏について見ておきたいと思います。

 藤原氏というと、中臣鎌足がその死に際して、天智天皇から藤原の姓を賜ったことに始まるとされます。鎌足から始まる氏の歴史は、近代にまで引き継がれ、連綿と我が国の貴族として歴史に関わってきました。今回のテーマに繋がる飛鳥時代・奈良時代においても、鎌足・不比等・四兄弟(武智麻呂:南家、房前:北家、宇合:式家、麻呂:京家)、仲麻呂などなど多くの人材を輩出し、平安時代に頂点を極める藤原一族の基礎が築かれました。

 では、まず始祖である鎌足を見てみましょう。父は中臣御食子、母は大伴智仙娘です。彼に大伴氏の血が流れることは、今回の定例会テーマからすると何やら皮肉なようにも感じます。

 鎌足の生誕地は、後の藤原宮付近にあたる地や明日香村大原、あるいは茨城県鹿嶋市とする説もあるようですが、飛鳥近郊に求めるのが有力なようです。不比等の藤原京内の邸宅が、宮の北東門(山部門)付近に在ったのではないかと推測されることも、何らかの傍証になるのかも知れませんね。この付近の現地名が、法花寺町というのも面白いと思います。平城京の不比等邸は、後に法華寺になった事は、皆さんもご存じのとおりです。

 乙巳の変や大化改新の推進役として活躍した鎌足は、内臣に任じられます。内臣は、令外の役職です。いわば臨時職の様なもので、豪族への配慮から左右大臣に就ける事が出来なかった鎌足のために設けられた役職であったようです。しかし、鎌足のその後は、『日本書紀』にはほとんど記されることは無く、具体的な活躍を知るすべは有りません。ただ、647年に大錦(冠位十三階の上から7番目)、654年に大紫(冠位十九階の上から5番目)に昇進しており、天智政権の中枢で活躍していたことは間違いがないようです。

 次は、不比等を見てみましょう。斉明天皇5年(659)、鎌足と車持与志古娘(鏡王女とする説も有ります。)を父母として誕生しています。11歳で父鎌足を亡くし、その2年後に壬申の乱を迎えます。幼少のために参戦はしませんでしたが、一族の中臣金は近江朝廷側の要人となっており、また養育者である田辺史一族は近江朝廷側について戦闘にも加わったようです。中臣金は戦死、一族は流罪となりました。これを機に、中臣氏は政治中央から排除された形になったようです。

 後ろ盾を失った不比等が『日本書紀』に登場するのは、31歳になった持統3年(689)2月26日、直広肆(従五位下相当)判事に任命すると言う記事で、昇進の記録でしょうから、それ以下の下級官人からのスタートを余儀なくされたのかも知れません。

 不比等は、田辺史大隅に養育されたようで、不比等の名も「史=ふひと」に由来するものだとされます。「史」とは、古くから文筆を掌る官の事で、この職に就いた渡来系の氏族に対して史の姓が授けられました。

 『続日本紀』文武天皇4年(701)6月17日の条に、「藤原不比等ら(大宝律令)撰定者に録を賜う」とあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名が記載されています。不比等を養育した文筆のスペシャリスト、田辺史の存在が注目されます。不比等は、早くから養育者に英才教育を受け、有能な官吏であったのではないでしょうか。また、この記事からは、不比等と田辺氏の密接な関連が伺えます。

 さて、持統3年の頃の事です。『東大寺献納帳』の天平勝宝8年(756)の記事には、黒作懸珮刀(くろづくりかけはきのかたな)の記載が有ります。黒作懸珮刀は草壁皇子が日ごろ身に付けていた刀で、不比等に賜り、軽皇子(文武天皇)即位のおりに、藤原不比等が文武天皇に献じ、文武天皇が崩じた時に再び不比等に賜り、不比等が亡くなった日に首皇太子(聖武天皇)に献じたものであると記述されています。

 草壁皇子が亡くなったのは、持統3年(689)ですから、不比等昇進の記載の頃にあたります。直広肆(従五位下相当)判事が、なぜそのような刀を手にすることになるのでしょう。不比等が、位階以上に持統天皇や皇族に信頼を得ていたということなのでしょうか。

 県犬養三千代という女性が居ます。彼女に、何かのヒントが有るのではないかと思われるので、少し見てみましょう。

 彼女は、最初美努王に嫁いでおり、天武天皇13年(684)に第一子葛城王(後の橘諸兄)を出生していることもあり、ほぼ同時期に生まれた軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めていたと考えられています。後に、彼女は不比等の後妻となり、光明子を儲けました。

 不比等は、彼女を通じて、皇室との繋がりを強いものにしていったのではないでしょうか。有能な官僚である不比等と、強かな後宮の実力者の最強コンビが出来上がったのかも知れませんね。

 藤原氏と大伴氏に関わる面白い考え方に気付きました。
 ほぼ同じ頃(8世紀中頃)に作られた『懐風藻』と『万葉集』なのですが、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない不比等の漢詩が収められています。一方、大伴家持は『万葉集』に歌を多数残すものの、『懐風藻』には作品がありません。

 『懐風藻』は、我が国最古の漢詩集とされるものです。漢詩は、もちろん中国大陸に繋がり、律令国家へ向かう歩みと共にあったように思えます。漢詩の藤原氏、万葉の大伴氏。私には、彼らの心情を象徴し、未来を暗示しているように思えてなりません。

 次回は、奈良時代の藤原氏を、幾つかの事変と合わせて見て行こうと思います。


















【4】 (14.7.11.発行 Vol.192に掲載)    風人

 第45回定例会に向けての咲読最終回をお届けします。今号では、奈良時代の藤原氏を幾つかの政変と共に見て行きたいと思います。

 まず、長屋王の変を見てみましょう。
 神亀6年(729)2月、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告し、それを受けて藤原宇合らの率いる軍勢が長屋王邸を包囲しました。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王は服毒自殺に追い込まれ、妃である吉備内親王も3人の息子達(膳夫王・葛木王・鉤取王)と共に縊死して果てます。


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 長屋王は、慶雲元年(704)正四位上に直叙され、和銅2年(709)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716)には正三位に叙せられ位階を駆け上って行きました。霊亀3年(717)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占めることになりました。

 藤原不比等が養老4年(720)に亡くなると、長屋王が政界の主導者になりました。その後長屋王は養老5年(721)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進みました。

 不比等と長屋王の関係は、不比等の娘である長娥子を妃とすることなどから、悪いとする兆候は見えないように思われます。しかし、四兄弟にとっては、聖武天皇の第二皇子安積親王に次ぐ皇位継承者として、王と吉備内親王の間に生まれた男子が目に映っていたのかも知れません。それには、王の特殊性も加わっていたように思われます。平城遷都時に従三位であった王の邸宅が、京の一等地であり広大であること、親王と呼ばれていたことなど、高市皇子の子供として特別な配慮があったのではないかと思われる点です。

 このことは、藤原氏にとって血筋の通わない天皇が誕生するという穏やかならざる事態と受け止められたのでしょう。
 不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号(皇太夫人=オオミオヤ)を巡って長屋王と四兄弟が衝突(辛巳事件)するのを契機に対立が際立ち、「長屋王の変」へと向かっていきました。

 「長屋王の変」後、藤原氏は、武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿の4人を兄弟が占めることになりました。変の直後、四兄弟は不比等の娘光明子を臣下で最初の皇后に立てることに成功しています。729年から737年までの間は、この勢力が維持されましたが、四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、四兄弟の政権は終焉を迎えることになりました。四兄弟の子の系統は、それぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれます。

 では、次に藤原広嗣の乱を見てみましょう。
 四兄弟が没すると、その子供たちはまだ若かったこともあり、橘諸兄が勢力を持つようになります。橘諸兄は、前回紹介しました県犬養三千代と美努王との間に生まれた子供(葛城王)で、諸王に列するのですが臣籍降下して母の橘姓を名乗るようになります。

 天平15年(743)5月5日、従一位左大臣となり、天平感宝元年(749)、正一位に昇進しています。
 橘諸兄の政権では、唐から帰国した吉備真備と玄ボウが重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退しました。(ボウ=日篇に方)

 そのような状況下で大宰少弐(大宰府の次官)に配属された藤原広嗣(式家 宇合の子)は、これを左遷と受け止めて不服とし、天地の災厄や疫病は吉備真備と玄ボウに起因するとの上奏文を朝廷に送るのですが、左大臣橘諸兄はこれを謀反と捉え、戦乱が起こりました。天平12年(740)、広嗣は弟の綱手と共に大宰府の軍勢や隼人などを加えた1万人を超える兵力を率いて臨みましたが、朝廷軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ唐津にて処刑されました。また、藤原式家の者の多くが流罪に処せられたようです。

 この間、聖武天皇は戦乱を恐れたのか遷都を繰り返すことになりました。相次ぐ遷都による造営工事に人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災による社会不安はいっそう高まることになりました。聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺を鎮めようと考え、天平13年(741)国分寺建立の詔、天平15年(743)盧舎那大仏造立の詔を発しています。

 次いで、橘奈良麻呂の乱を見ることにしましょう。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位すると(孝謙天皇)、光明皇后の信任が厚く、また孝謙天皇に寵愛されていた藤原仲麻呂(南家 武智麻呂の子)が急速に台頭して橘諸兄と対立するようになりました。この年、橘諸兄の子奈良麻呂は従四位上となり、参議になっています。

 天平勝宝7年(755)、橘諸兄は朝廷を誹謗したという嫌疑で職を辞し、2年後、失意のうちに死去しています。
 翌8年(756)、聖武太上天皇の遺言により道祖王が立太子されますが、翌年孝謙天皇は道祖王に不行跡があるとして皇太子を廃し、仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子されました。

 奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと密かに同志を募ったのですが、仲麻呂に密告する者が現れました。結果として、彼らは獄死することになり、返って仲麻呂の専横を助長することになりました。

 では、藤原仲麻呂の乱を見てみることにしましょう。
 「橘奈良麻呂の乱」後、仲麻呂は太政官の首席となり、名実ともに最高権力者となりました。先ほども触れましたが、天平宝字元年(757)、道祖王は聖武天皇の喪中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃され、仲麻呂の強い推薦で大炊王(淳仁天皇)が立太子されました。大炊王は、仲麻呂の長男・真従の未亡人を妃としていたようで、かねてより仲麻呂の私邸である田村第に身を寄せていたようです。この年、祖父の不比等が着手した養老律令を施行しています。

 その後、急速に孝謙上皇に接近し台頭した道鏡と、淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は軍事力の掌握を企てるのですが、謀反との密告があり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を取られてしまいます。仲麻呂は平城京を脱出することになり、越前国に入り再起を図るのですが官軍に阻まれて失敗し、近江国高島郡で斬首されました。

 その道鏡も神護景雲3年(769)、「宇佐八幡宮神託事件」により、中央から追われる身となっています。

 奈良時代の政変を、ざっと見てきました。藤原氏と他氏の政権争いの歴史と言えそうです。藤原氏はしぶとく生き延びていますが、他氏は権力の持続が出来ずに官人化していくように思えます。

 以上のことを基本として頭に入れて、近江先生のお話を聞いてみようと思っています。平城京の宅地から、何が分かってくるのでしょうか。楽しみです♪

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 注:参議について
 参議は、律令制度最高の決定機関である太政官の官職の一つです。四等官(長官・次官・判官・主典)の中の次官に相当する令外官(律令の規定に無く、常設の官職ではない。)で、納言に次ぐ職責を持ちます。
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 長い咲読にお付き合いいただき、ありがとうございました。次号からは、9月定例会に向けて、風人が引き続き担当いたします。よろしくお願いします。







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